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"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。
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領主は、貢租の他にも慣習的貢租も受け取り、地域の治安維持や軍事的保護の責任者として裁判権や警察権を行使したのです。慣習的貢租とは、農民個人では所有できないような高級施設であり、かつ当時の農民の生活には欠かせなかったパン焼き窯・粉引き所・葡萄圧搾機などの使用を領民に強制した際の使用料のことです。これらの農村の主要施設は領主の所有物だったのです。また、支配領域の裁判権を持つ者として、共同体内での暴力を独占しました。裁判領主制の浸透度も、古典荘園制と同じく地域差があり、王や皇帝、上級貴族の力が強い地域ではあまり発達しませんでした。
この城を中心にした支配形態ができることには、ノルマン人の侵攻が大きく影響しました。フランク時代の比較的平穏な時代を過ぎた農民たちに、突如として襲い掛かった嵐がヴァイキングの進出だったのです。当時の中央権力は、フランク王国が分裂して間もなくであったため、力が弱まっていました。そこで、地方の貴族たちが台頭し始めたのです。彼らは、ノルマン人と対等に戦える唯一の存在でした。貴族たちは、領民の保護と引き換えに、農民からの貢租や服従を約束させたのです。
裁判領主制発達の他の理由には、集村化があげられます。フランク王国時代には、確固とした村落共同体は少なく、あったとしての、農民の耕地は独立して経営されていました。集村化は、たんに農民の家屋が密集したということだけではなく、耕地の共同保有・運用という側面もありました。要するに、古典荘園制を構成していた、個人の農民保有地が消滅していったのです。これにより、農村は、以前より効率的に耕地を運用し、城主は、その権力を拡大させていったのでした。
また、「古典荘園制」で述べたように、賦役は減少していく傾向にありました。では、領主直営地は誰が耕作するようになったのでしょうか。領主直営地が消失してしまう場合もありましたが、残った場合は労働と引き換えに賃金や食料を提供される、直営地専門の小作人に任されるようになりました。
▼「裁判領主制」 画像をクリックすると大きく表示されます。
今回からは、中世ヨーロッパの支配形態について紹介していきます。中性ヨーロッパの支配体制といえば封建制が真っ先に浮かぶのではないでしょうか。しかし、今回は、領主と領主における関係ではなく、領主と農民における関係の、それの中世初期のものについて紹介していきます。
<古典荘園制>
中世初期、フランク王国時代に始まった、領主による農民への支配制度を古典荘園制といいます。古典荘園は、領主私有の直営地と、農民保有地で構成されていました。農民保有地は、農民一世帯の家の敷地、野菜畑、耕地などのことで、これらは世帯ごとに独立して保有・経営されていました。この制度は、メロヴィング朝期のように、王権がいまだ確立していなかった不安定な時代、中小自営農民が庇護を求めて有力者に自らの土地をいったん譲渡し、貢租の支払い義務を付加され再授与されるようになったことに端を発します。この支配制度が、カロリング朝に入ってから強化され、古典荘園制となったのです。
領主の支配下に入らず、自営農民として生活することも可能で、そうすれば貢租を納める必要はありませんでしたが、乱世の世で、一人で生きていかなければなりませんでした。領主の庇護下に入った農民は、強力な権力に守ってもらい、まさかの時の危機に備えようとしたのです。領主の支配下に入ったものは、前記のように自営農民から発したものと、元は領主個人の耕地で働いていた奴隷に、土地が付与されたものがありました。
古典荘園は、農民の生活集団を単位につくられたものではありませんでした。というより、フランク王国時代初期には、村落共同体と呼べるようなものはなかったのです。後期になってできた共同体も、いくつかの家屋が散らばって建てられているような小規模なものでした。村は農民個人の経営の集合体でしかなかったのです。領主は、こうした村の中の、一部の農民を支配下に置いただけなのでした。そのような部分的支配を複数の村で集めたものが、古典荘園の実態でした。逆に言えば、ひとつの村に何人もの領主の支配が及ぶということもあったということです。この時代の領主は、村全体に対しての支配権は、もっていなかったです。このような支配制度は、土地を基本とした「土地領主制」に対し人格的支配ということで「体僕領主制」とも呼ばれます。
領民は、領主に対して大きく分けてふたつの義務を持っていました。ひとつは貢租で、これは保有地での生産物の一部を納めることでした。もうひとつの義務は、週に2~3日間ほどの賦役労働でした。賦役労働は、領主の直営地を、農民が無償で耕作するのが主な仕事でした。まだ農業生産率も低かったため、貴重な労働力を奪われる賦役は、農民にとっては大きな負担でした。これには、生産した作物の運搬なども含まれることもありました。領主側はこれらの義務に対し、権力をもって、危機に瀕した農民を救済するというものでした。
また、全ての農民が保有地を所有できたわけではなく、保有地を持っていたのはある程度の財力を持った農民たちでした。村落の農民の半数は、小作農として、雇われ仕事を行ていました。彼らのような貧しい農民が、領主直営地の耕作の中心を担った地域もありました。
▼「古典荘園制」 画像をクリックすると大きく表示されます。
城は主塔以外にも多くの塔を備えて防衛力を強化していましら。それらの塔は城の防衛上の要所に、城壁などの他の建造物に付随して設けられることが多くありました。城壁の角の部分には側塔・隅塔が設けられ、一定間隔を置いて城壁塔も設けられました。また高台に城があったり、城壁の内側が最後の中庭の場合など、内側からの攻撃を考慮しない際、あるいは、費用の節約の必要がある場合、外殻塔という内側へ開いている塔が設置されました。
<堀>
切り立った崖や、半島部の先端のような、天然の要害となる恵まれなかった城は、堀を周囲に巡らすことで城の防衛力を高めました。堀にはいくつかの種類があります。門前堀は門の前のみを横断する堀で最小限の大きさの堀はこの形であした。環状堀は城を全てを囲んでしまう形の堀です。この形の堀には付近を流れる河川などから水を引いてきて水堀になるものが多くありました。また城の内部を区分する遮断堀も、城の前衛部に侵入した敵から、主塔など城の中心部を守るために設けられました。
▼「外郭塔・狭間・狭間窓」 画像をクリックすると大きく表示されます。
▼「門前堀・環状堀・遮断堀」
今回は城門です。これも、城壁や塔と並び、城の基本的防衛施設のひとつです。
<城門>
城壁で主意を囲んだ城の、外部との数少ない連絡口が城門です。人間の出入りがあることから、門は城の弱点であったため、他の施設に増して堅固に造られました。門前掘、あるいは環状堀を備えた城の城門には跳ね橋が掛けられました。これは城門の中に取り付けられた錘で跳ね橋を作動させるものでした。跳ね橋の隣に小型の橋が掛けられていて、来訪のあるたびに大型の橋をいちいち動かさなくともよいようにしたものもあります。
また、城門には出窓が設置されることもありました。この出窓には三つの働きがあります。第一に来訪があったとき、門番が門を開かずに相手と連絡を取るため。第二は門に火が放たれたときに水をそこから撒いて消火するため。第三に敵が城門に迫った際に、熱く滾った油や焼いた石を、敵の上に降らすためです。この出窓は城壁や塔にも備えられていることもありました。
門を特別強固にして守る必要のある場合には、門の両脇に門塔が設けられたり、狭間や狭間窓が大量に設置されました。落とし格子が取り付けられている門もありましたが、このような門は稀だったようです。この落とし格子は敵襲を受けた際に素早く門を閉じることができ、格子が溝に落ちて固定されると簡単には門は突破されませんでした。また、門の落とし格子が二重に設けられていることもありました。これは、ふたつの格子の中に敵兵を誘い込み、閉じ込めてから、頭上に攻撃を仕掛けるためのものでした。
▼「側塔・城門・出窓・跳ね橋・堀」 画像をクリックすると大きく表示されます。
▲回廊・張り出し陣
防御用の壁は、城がまだ木と土だけでできた砦だった頃から存在する城砦の最も基本的な施設です。材料は時が経つに連れて木から石へと変化していきました。城壁の規模は地域や時代によって多様でしたが、厚さ2~3メートル、高さ3~4メートル程が一般的でしたが、もっと低いものや高いものもありました。断崖絶壁の上の城壁であれば、高さはそれほど必要とされなかったので1メートルたらずのものまでありました。また、都市の壁ですが、コンスタンティノープルの内壁は厚さ約5メートル、高さが約17メートルもある巨大なものでした。
城壁の内側には通路として回廊が設けられました。回廊により、城内の人々は、いちいち地面に降りることなく、城の施設間 を移動することができました。これらの回廊は平時には連絡橋として、戦時には防衛設備のひとつとして利用されました。
城壁には、ほとんどの場合に守備兵がそこでの戦闘を有利に進められるように仕掛けが施されています。その中でも代表的なものが凹凸の形を持つ狭間でしょう。これにより、守備兵の射手は狭間の陰に隠れながら敵兵への攻撃が与えられるようになります。また、より安全な射撃用防御の仕掛けとして狭間窓(射眼とも呼ばれます)がありました。これにより射手は相当安全な状態での攻撃が可能になったのです。これは一本の細い垂直の裂け目で、射程範囲を広げるために、その裂け目の一部分が横に広げられていることもありました。
また、回廊には出窓のような張り出しを設けることもありまし た。張り出し陣と呼ばれるこの仕組みのおかげで、城兵は城壁の真下にいる敵を攻撃することが可能となりました。08.2.2加筆修正
<居館>
城主やその家族が暮らす住居建築は居館と呼ばれます。初期の「城壁と塔」の城では、主塔が居館を兼ねました。しかし、城壁の防衛力が高くなり、城の敷地が広くなるに連れて、主塔とは独立した領主の館が造られるようになったのです。居館の規模はその城の城主の地位や財力によって異なり、それが王侯などであった場合は、居館は宮廷の中心となり、その建物は大規模なものになりました。居館は、居間や寝室などの個室、炊事場などからなり、これも城主の力の大きさによって豪華にも質素にもなりえました。
<井戸>
現在の生活と同じように、中世の生活でも水は欠かせない大切なものでした。特に、篭城をしているときなどは井戸の有無によってその城の運命が定まることさえありえたのです。普通井戸は、その重要性から主塔の付近や内部に設けられました。当時は井戸の工事には莫大な費用と労力がかかりました。井戸を掘るためだけにかかった費用が、城のその他の部分全体の建築に要した費用に匹敵するとことさえあったと言われます。そのため、井戸を掘るのが経済的に困難な城には水槽が設けられました。これは雨水を貯めるためのもので、井戸を掘るよりも、はるかに簡単で安価な水源を城にもたらしました。
<礼拝堂>
城には小型大型に関わらず礼拝堂が設けられ、城の精神的な柱となりました。大きな城には専属の僧侶が存在し、城住民の宗教上の世話を担当しました。小さな城には礼拝堂の代わりに簡単な祭壇などが設けられることもありました。
<倉庫>
倉庫は、城での生活に欠かせない施設でした。城に住む人々の食事を初めとした大量の貯蓄物の数々は、倉庫にしまわれるのでした。葡萄酒や樽に詰めた水なども、貴重な貯蓄物でした。また、篭城に備えての大量の矢や武器甲冑も、倉庫に置かれました。
ほとんどの主塔は矩形から、円形かそれに近い多角形に変化していきました。これは攻撃を受けた際に角の部分が破壊されやすいことへの対処でした。また、他の塔にもいえることでしたが、塔の最上部は少し出っ張った形になっており、塔の真下に迫った敵兵に煮えたタールや熱した石を落とすなどして、身を乗り出して攻撃するより遥かに簡単に敵を撃退できるようになっていました。
この塔は、平時は見張り台の役目を果たし、戦時となればその高さを利用して城の守備兵は有利に戦いを進める助けをしました。また、城門が破られ敵兵が城内に侵入しても主塔は簡単に攻略されないため、この塔は守備兵の最後の砦となることも多くありました。
この塔は城壁から離れたところに建てられることも、城壁やその他の建物と合体して立てられていることもありました。離れて建てられているものの場合、それらの塔の入り口が回廊や他の建造物に接していることはもありましたが、そうでない場合も多くありました。そのような塔の入り口は、地上から数メートル上がったところにあることが普通で、梯子で行き来をしました。この構造では直接塔内部に侵入できないため、主塔の防衛力が格段に上がったのです。
主塔の内部では、外への直接の出入口を持たない1階部分は捕虜を入れておくための牢獄か、金や貴重品、武器などを保管しておく倉庫として使われるか、あるいは篭城の際に最も重要となる井戸を設けていました。塔の上層部は数階の構造になっており、2階が居間、3階が城主とその家族の私室、4階は居候騎士の部屋などといったように分けられていました。そして、最上階は見張りの番兵の詰め所などが置かれました。塔内部の階段は人一人が通れるくらいの狭い螺旋階段で、攻め手が一斉に突入できないようになっていました。また、数メートルもあった厚い壁を利用してL字型の空間を設け、個室のようにして使う場合もありました。
火災の危険を避けるために、台所は別棟に設けられるのが普通でした。台所で作られた料理は、狭い階段を通って離れたホールまで運ばれましたので、城主一家はなかなか熱々の晩餐にはありつけなかったかもしれません。このように、主塔は城主一家の生活空間という面を持ちつつも、多分に防衛が優先されていたために、主塔での生活はあまり快適なものではなかったことでしょう。そのため、平時の城主の館として居館が別に建てられるようになっていきます。
中世の軍事史に大きな影響を及ぼした城も、とうとう終焉の時を迎えます。城の衰退を決定付けたものとはいったいなんだったのでしょうか。
15世紀以降、城は徐々にその軍事的役割を小さくしていきました。大砲を始めとした大型火器の登場は、城の衰退と関連付けられることが多いですが、城の時代が終わりをつげたのは火器の出現だけが理由ではありませんでした。もちろん、火器は投石器などに比べて攻撃力は高かったのですが、連射の難しさや高いコストなどの問題も抱えていたため、登場後も依然として投石器など従来の攻城兵器は併用されていたのです。また、攻撃に使えるということは、防衛にも使えるということであり、実際に砲門が設置されている城も存在しました。城から砲撃を行えば安定した足場で高度を利用し、射程を長くすることも可能であったのです。
城の衰退を決定付けた最大の理由は、中世末期に見られる中央集権の動きでした。王は強大な権力の下、発展していた都市に、その政治基盤を置くようになりました。裕福な商人たちから徴集した多額の税を使えば、銃器や大砲を装備した大規模な傭兵団が組織できたのできたのです。雇われ騎士を使うより、歩兵の傭兵を使う方が安上がりで力も上でした。城に関しても同じことが言えたのです。大掛かりな築城を続けるより、安上がりな傭兵に頼った方が攻撃・防衛の両面で有利でした。
また、城の時代の終焉は次のことも要因となりました。中世以降に破壊された城は徹底的に破壊されているものが少なくありません。これは城を攻撃した王権側が、再度敵に使用されることを恐れてのことでした。国家の反乱分子や大貴族が保持する城は、中央集権の王権を揺るがしかねない存在だったのです。イギリスでは包囲戦を終えた城を破壊する動きが議会で始まり、フランスでも塔の上部を取り壊すなどの城の無力化が進められました。
また、城は要塞としてだけでなく、住居としても時代にそぐわなくなっていました。貴族は自分たちの住居がより快適で優雅であることをの望んだのです。そして貴族の館は、ごっつい石の砦から、雅なものへと変わっていきました。破壊はされなかったにしろ時代にそぐわなくなった各地の城は、以後特別な役割を持たされることになりました。これらの城は主に牢獄として、特に政治犯の牢として使われるようになっていきました。こうして、領主の館としての城の時代は終わりを迎えます。そのような中世の城に取って代わった要塞は、ずんぐりした低い防壁を持つものでした。これは大砲の威力を半減させる新しい要塞建築として発達していくことになります。
城の発生から衰退までの歴史を、駆け足でですが紹介していきました。ぼんやりとでも、感覚が掴めていただけたら幸いです。次回からは、「中期」から「最盛期」までの城の構造について、各施設ごとに紹介していきます。
2007.1.19 加筆修正
木造から石造に変化し、自身の防衛力を高めつつ成長した城。その重要性が最高潮に達したのは、中世後期のことでした。この時代以降、領主の館としての城は衰退の時代を迎えることになります。
13世紀から14世紀にかけて、城はその発展の最終段階を迎えました。この時代に新設された城になると、主塔はもはや姿を消します。以前からあった城を拡張した場合のものでも、主塔の持つ役割は徐々に小さくなっていきました。理由は、築城技術の発達により増して堅固になった門や塔などの防衛施設が、敵が城内に侵入したときでも単体で敵の攻撃に耐えることができるようになったためです。主塔は、城の最後の砦という役割を失ったのでした。
城の主人たちがより住み心地のよい住環境の居館を求めたことも、主塔の重要性低下の一因でした。城は幾重にも張り巡らされた分厚い城壁と、要所を固めた塔によってますます難攻になっていきました。敵兵が城の中央にある居館にたどり着くのためには、いくつもの門、塔、城壁を攻略しなければならなかったのです。
2007.1.19 加筆修正