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"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。
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▲ノルマン・コンクエスト(バイユーのタペストリー)
中世都市の成立と題された本の多くは、中世ヨーロッパの中心であったフランスとドイツを舞台としたものが多く、イングランドにおける中世都市の成立について語ってくれるものは多くありません。今回は、触れられることの比較的少ないイングランドの都市に焦点を絞って、その成立事情を簡単に紹介しようと思います。今回は特に、ノルマン・コンクエストまでに発達した、イングランドの古い都市に的を絞ります。
英語の辞書で、都市や都市行政に関わる単語を探すと、いくつかの種類があります。これらの語は、中世都市やその前身の都市を指すのに使われていていた言葉を由来としています。例えば、英語の都市や市当局をそれぞれ意味する「city」や「municipality」といった語は、ローマ支配下のブリテン島に建設された都市であるキウィタス(civitas)やムニキピウム(municipium)を語源としています。これらのローマ都市は、ローマ人によって新たに建設、植民されたものもあれば、既存の部族集落を都市化しただけのものもあり、与えられていた権利の大きさも異なっていました。イングランドには、ランカスタ、マンチレスタ、グロスタなど「チェスタ」「カスタ」「(セ)スタ」などを語尾に持つものが多いですが、これらはラテン語で砦、兵営を意味する「カストルム」(castrum)に由来しており、これらの都市が元々はローマ軍団の駐屯地であったことを示しています。
中世都市の起源はローマ都市だけではありません。英語で行政区や市を意味する「borough」は、アングロ・サクソン語の城塞、すなわちブルフ(burh)に由来しています。5世紀初頭のローマ撤退後のブリテン島は、土着のブリトン人と来航してきたアングロ・サクソン人との支配権争いを経て、アングロ・サクソン人の支配する小王国が割拠しました。その後、新たなる侵入者デーン人との戦いの際、アングロ・サクソンの一王国ウェセックスの君主たちは、いまやデーン人の支配領域となったブリテン島東部に接する前線に城塞を築いていきます。これがブルフで、これらのうちのいくつかは、中世にバラ(borough)と呼ばれる都市として発展していきます。
しかし、全てのローマ都市やブルフが都市に成長したわけではなく、今では場所も定かでないものや、中世盛期に至っても商業的な発展がなされなかったものもありました。つまり、都市が発展するかは、その土地が交易に適している、商工業の焦点と成り得るかどうかで決まったのです。ローマ都市やブルフは戦略上の要地に建てられましたが、そこが幸運にも交易に最適な場所であれば、防壁が提供する防衛力の魅力も手伝って、そこに多くの商人や職人が集まり、都市を形成したのです。都市は、一般的に市場と造幣所を持ち、地域商業の結び目となりました。さらに、ブルフなどの核を持たなくとも、交通の要所である街道の交差点や、渡河可能な橋などに市場が形成されることで、多くの都市が誕生しました。ロンドンの前身はロンディニウムと呼ばれるローマ都市でしたが、さらにそのまた前身はテムズ川に架かる橋を中心としたブリトン人の集落でした。
注意しておくべきことは、これらの都市成立の要素は、きれいに分類できるものというよりは、重複することのある曖昧なものだったという点です。ローマ都市にいくつかはブリトン人集落を由来とするものがあり、複数のブルフが鉄器時代の集落跡や、ローマ都市などを拠点にして建設されることもあったのです。核が、ブルフと橋、修道院とブルフなど複数あるものも存在するため、都市成立の要素は柔軟に考える必要がありそうです。
11世紀を通じて石造の城は増加してゆき、12~13世紀になると城は石造のものが一般的となります。石造の城は新たに建造される事もあれば、元々あった木造の城を改築して石造にすることもありました。フランスのロッシュ城は11世紀に石造の城として新設され、イングランドのヨーク城は11世紀の建設当時は木造でしたが、13世紀に石造に立て替えられました。12世紀に一般化した石造の城は、石造の矩形塔(キープ)を外壁で囲む形を基本にしており、イングランドでは「シェル・キープ」様式と呼ばれました。
城の石造化の背景にはヨーロッパ世界全体での経済発展がありました。農業の躍進は人口の増加を招き、人口が増加したことによって開墾や農地の拡大が活発化するという相乗効果は、余剰作物と非農業人口の増大を可能にし、各地には余剰産物を売買するための市場を中心として都市が勃興します。農民の収穫や、商人たちの支払う通行税によって生計を立てていた領主たちは、この経済発展の恩恵を存分に受け、石造の城建築という莫大な費用のかかる事業にも着手できるようになったのです。
11世紀末以降の城の発展には、十字軍を媒介にしたイスラム文化の流入の影響もありました。第一回十字軍へ参加した農民や騎士たちは、エルサレム奪還後にそのほとんどが故国に帰ってしまったため、残された聖地の防衛はエルサレム王国などの十字軍国家と少数の騎士修道会に託されました。僅かな騎士だけで広大な聖地を防衛する必要があったヨーロッパ人は、城を用いることで兵数の少なさを補ったのです。騎士たちは現地のギリシア人やアラブ人、トルコ人などの築城技術を学び取り、自分たちの戦闘経験も活かして城を改築・建造していきました。その築城技術の一部は十字軍帰還者らによって輸入され、多角形や円形の塔やキープがヨーロッパの城塞に導入されていくようになったのです。角の部分が脆い矩形の塔に対し、多角形や円形の塔には死角がなく、丈夫であるという利点がありました。1215年にジョン王に包囲されたロチェスター城は、陥落後にキープが円形に再建されました。
キープを囲む防護壁が木製の柵から石造の城壁に代わり、城壁自体の防衛力が増していくに連れて、城内には城主の居館をキープとは別に建てることも可能になっていきました。城壁内にある程度の空間を備えた城には、城主一家の住処である居館や炊事場、厩、武器庫など数種の建造物がキープとは独立して建てられました。居館が独立したことにより、城主の住環境は飛躍的に改善しました。もう、キープ独特の狭い窓や冷たい石壁に悩まされることなく、広い食堂でゆったりと食事できるようになったのです。
11世紀以降、フランスではシャテルニーと呼ばれる、城を中心として一円的に広がる領地が形成されるようになります。この時代に、城はそれまでの辺境の防衛、民衆の避難所としての性格を薄め、一定の領域を統治するための支配の道具としての意味を強めていったのです。