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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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水車 「垂直型と水平型」

11世紀頃からヨーロッパで普及し始めた水車は、すでに紀元前1世紀には地中海世界においてその存在が確認されています。(もっと過去のものもあります)古代ローマで造られていたこの水車はイギリス産業発明の初期に使われていたものとほとんど変わらない機構なのだそうです。この水車は、主に製粉のために使われました。しかし、奴隷という労働力が豊富にあった古代ローマ世界にあっては、水車は中世にくらべるとかなり限定的にしか使われていませんでした。それでも、軍団駐屯地や帝都ローマなど、穀物需要が高い拠点にパンを供給するために、水車は重要なものでした。

さて、そんな水車は大きく分けると二種類に分類されます。水平型と垂直型です。水平型は車輪が横回転をして、水の流れをそのまま臼に伝えるものです。垂直型は、私たちが普通に水車といわれて想像する車輪が水の流れによって縦回転するものです。この型の水車には河川などの上部に置かれて下から水を通す下掛け式と、上から水路を使って水を流す上掛け式がありました。特に河川の流れが弱いところでは後者が使われました。これらの垂直型水車は歯車を通して回転が水平方向へ変えられて、臼を動かすようになっていました。

▼垂直型水車

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▼水平型水車

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09.2.27 加筆修正

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「女教皇ヨハンナ」 ドナ・W・クロス

うう…今日も商品紹介とは情けない。まぁ、もうちょっとで書き始められるかと思いますが…。たぶん次の記事は水車とか風車、パン屋や肉屋などの記事になると思います。





ルイ敬虔王の御世、とある寒村で少女が誕生します。名前はヨハンナ、彼女は教皇になったただ一人のの女性でした。教皇庁が隠し続けてきた真実が今、明かされる!…という話です。歴史に抹殺された女教皇とは、なんともそそられる話ですが、史実的に見ていくと、これはヨーロッパに数ある伝説・伝承のひとつです。

で、それはさておきこの本のおすすめポイントなのですが…。まずもって哀しい。全体的に哀しい。この哀しさは作品の中で描かれる、時代の雰囲気がつくりだすのでしょう。中世ヨーロッパは何かと美化されがちですが、その裏で確実に存在した神明裁判、男尊女卑、ヴァイキングの襲撃、身分差別等、この時代の厳しさをしっかりと描きこんであります。

ヨハンナと騎士とのロマンスや、彼女の活躍なども見所のひとつではありますが、何よりもこの本の魅力は中世の残酷さや、いまだ帝国の面影を残すローマの様子など、時代が感じられる点だと思います。中世初期と後期はまるで別物であることを痛感させられる、そんな本です。訳本ですので、多少読みにくいところはありますが…僕は一気に読んでしまいました。テンポはいい本じゃないかなぁ。

 


「ドラキュラ公」 篠田真由美

商品紹介第二弾。今回も時代小説です。…はい、お察しのとおり勉強中です。




東欧の小国、ワラキア公国を知らない人でもドラキュラを知らない人はいないでしょう。この本は、かの有名なブラム・ストーカーの小説「ドラキュラ」の主人公のモデルとなった、ワラキア公ヴラドの生き様を描いた小説です。

彼は串刺し公とあだ名されるように、何万もの反逆者やトルコ兵を杭で串刺しにして殺したと言われています。その恐怖がドラキュラのモデルとされるに至った所以であるのですが、彼は別に狂人だったのではなく、チェーザレ・ボルジアや織田信長のような現実主義者であったがゆえに残虐行為にも手を染めたのだというように描かれています。

後半は少しファンタジー色も入って、個人的にはなんだかなぁ、と思うところはありますが、東欧の歴史に親近感を抱ける数少ない小説ではないでしょうか。ちなみに…「コンスタンティノープルの陥落」塩野七生著を既に読んだ人は、内容が少しリンクしますのでより楽しめると思います。

交通の要-中世の街道

中世の社会を流通面で支えたのは、しばしば王や、その他の領邦君主の支配下に置かれた街道でした。いくつかの街道はローマ時代に築かれたものが再利用されました。ローマ街道は軍団居留地を真っ直ぐに繋いでいるために村や都市を経由する際に不便で、商人が顧客を得ようと思っても不利だったので、廃れていくものもありました。そうした場合に出来た道は、カーブは多く、しかし起伏は少ないように作られました。

領主たちは街道を支配することで、街道における平和維持の役目を負い、対価として利用者から関税・通行税を取り立てました。運搬手段として街道とともに使われた河川でも状況は同じです。しかしながら、君主が平和領域を簡単に確立できるのなら苦労はなく、平和領域としての街道の確保は法理念上のこと、ありていに言えば通行料目当ての建前であり、実際の街道には盗賊や野党化した傭兵隊など多くの危険が付きまといました。

これらの人的な厄難のほかにも、倒木や土砂崩れが起き、雨が降れば道はどろどろになって荷車での走行はほぼ不可能になるという状態を考えれば、中世の旅がどれほど困難だったかが想像できます。そんな街道ですが、多種多様な人々がこれを使用したというのも事実です。軍隊、商人は当然として、聖地へと向かう巡礼者、早足に過ぎ去る飛脚、都市を転々とする遍歴職人、施しを求めてさ迷い歩く乞食、そして道を住処とするジプシーなどがこの時代の街道を歩んでいたのです。

08.2.4加筆修正

ロベール・ル・フォール

870年、メルセン条約によりフランク王国は分割され、中世国家の境界線の大枠が定められました。禿頭王シャルルが王位を継承した西フランク王国では、カロリング朝の血筋は100年程続いた後に断絶します。その後、フランスの王にパリ伯ユーグ・カペーが選ばれ、彼の時代から300年以上の長きにわたって続くカペー朝が始まります。

今回はいったんカペー朝の幕開けから遡り、ユーグ・カペーの属すロベール家のそれまでの歴史をみていきます。ロベール家はロベール・ル・フォ-ルの時代に歴史の表舞台へと出てきます。彼はロワール沿岸地方の諸地域、アンジューやトゥーレーヌなどの伯爵を兼任し、さらにサン・マルタン修道院領もその影響下に置いていました。

そして、彼の息子ウードの時代に、ロベール家は初めて一族から王を出します。885年当時、王都パリはヨーロッパ侵攻を盛んに行っていたヴァイキングによる包囲の憂き目にあっていました。その時に、パリの指導者として名を上げたのがウードでした。当時の国王カール肥満王(彼は同時に一時的に統一された全フランクの王だった――包囲軍を追い払うために金でけりをつけた――)が死ぬと、ウードは新国王として戴冠されたのです。

▼ロベール・ル・フォールの主な支配地域

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あんまりにも放置しすぎたのでカテゴリ移動 07.12.27


フランク貴族

トゥール・ポワティエの戦いの後、カール・マルテルの政策で教会・修道院の領地を吸収したのは彼の封臣である騎兵集団でした。では、カールのような一国のボスではない、一領地のボスと彼らの封臣はどのように形成されていったのか、そこを書いていきます。



<フランク貴族>

ゲルマン民族国家を構成する人民は大きく自由民と不自由民に分かれていました。自由民は諸所の権利を持ち、軍役や地域裁判への出席などの義務を課せられました。6世紀までには、多くの土地と隷属民を抱える有力者が出現していました。

しかし、サリカ法典には自由民と不自由民以上の明細な区分けはなされておらず、自由民の中に法律で定められるような特権階級はできあがっていませんでした。また、クローヴィスなどの王によって多数の有力者が殺害された事実からも、6世紀の有力者が貴族とは言い難いものであったことがわかります。しかし、7世紀に入ると史料に貴族出身者という言葉が見つかるようになります。フランク貴族が形成され、彼らは荘園を生産の基盤とし、従士制に基づく戦士集団を封臣として抱えていました。


「オクシタニア」 佐藤賢一

はい、時間がとれないときはこうやってどうにか記事を増やそうとしている紗瑠々です。おすすめは基本的に小説とかになると思います。まぁ、ときには異分子も混じるかもしれませんが…





今回のおすすめは佐藤賢一さんの「オクシタニア」です。舞台は13世紀の南仏。いまだ王権の弱かった頃、ここに異端の王国があった…。というお話です。

この異端とはカタリ派(アルビジョワ派)という東欧流れの教派です。特徴としては二元論を唱えていたことがあげられます。簡単に言うと、この世界をつくったのは悪魔で、天の世界を作ったのが神であるという考えです。そして、この悪魔の物質世界から抜け出して神の国にいくために、徹底的な物質の排除、すなわち禁欲主義が求められました。これは万物を神がつくりたもうたとする正統教会に受け入れられるはずもなく、ローマ教皇は異端撲滅のためにアルビジョワ十字軍を送り込みます。その戦乱に様々な登場人物が巻き込まれていく、といった内容です。

語り手が代わっていくのが特徴で、最初は北仏の騎士シモンが、中盤~終盤はトゥールーズ市民のエドモン、トゥールーズ伯レイモン7世が主人公となります。また、もうひとつ特徴として、フランスの北の言葉(オイル語)を標準語、南の言葉(オック語)を関西弁で書いてあるのがとても面白い。登場人物にメリハリがついて、話がぐっと読みやすく魅力的になっています。


食と行政

他の諸々の商品と同じく、都市で売られる食料品には厳重な監視の目が光っていました。これは、食料品が日々の生活に欠かせない重要なものであり、かつ大きな税収を都市にもたらすためであり、不衛生になりがちな都市において人々の安全を守るためでもありました。

居酒屋では最高級ワインの値で安いワインが売られ、肉屋は豚のひづめをつけた足を売って目方をごまかそうと企みます。こうした商人に対抗するため、当局は部門ごとの監査官を使って摘発に努めました。また、衛生面での対応として、祝祭日でも魚や野菜、果実など保存の利かない食料を売る許可を与えたり、腐りやすい内臓などを陳列棚に置くことを禁止したりしました。

また、当局は都市の食料供給が滞りなく進んでいるかをチェックする必要がありました。穀物の、パンの供給が少なくなり値段が上がると、買占めを防ぐために当局は個々の貯蓄を監査し、穀物の輸出も禁止しました。さらに状況が悪化すると当局が直接穀物を買い上げました。1411年のフィレンツェは近くの農村から遠方の大都市に至るまで様々なところから穀物を輸入しようとしました。そのような試みが実を結び、中世後期のイタリアの大都市では餓死者はほとんどでなくなったのです。そして、緊急事態に陥る前にも、パンや小麦の値段は公権力によって制限されていたのです。

パンの消費と麦粥

肉と並んで、中世人の食生活の中心となったのはパンでした。肉と同じく一日の消費量は500~1000gで、それ以上のこともあったそうです。例えばクリュニー修道院では貧者へのほどこしとして1日にパン500gとワインが与えられ、14世紀のジェノヴァの船乗りは毎日800gのビスケットを受け取ることができました。

貴族も農民も、食事の大部分はパンだったので栄養バランスはあまりよろしくなく、ビタミン不足が原因の様々な病気を引き起こしました。15世紀のオーヴェルニュの貴族たちは年間に500㎏ものパンを消費できましたが、このような食べるのにはいささか多い量のパンの一部はトランショワールと呼ばれる皿として使われ、食後、貧者に与えられました。

穀物は普通のパンとしてだけ消費されるわけではありませんでした。バルカン半島には中東から伝わったピタが広まっており、ウェールズやブルターニュでは燕麦や蕎麦でガレットが作られました。また、ヨーロッパの北部や北西部では挽き割りした穀物で作られる簡単な粥、ブイイが作られました。ブイイには野菜や乳製品を加えることもありました。

中世人と菜食

豆類が中世人にとって重要な食物だったことは述べましたが、彼らはもちろん豆ばかり食べていたわけではありません。中世初期のフランスには50種以上の食用植物があったことが考古学者によって明らかになっています。その中には、穀物や豆類の他、キャベツやパースニップ(ニンジンのような肉質の白い根)、イチゴやサクランボなどの果実がありました。

中世人の食生活の中心としてはパンと肉があげられますが、野菜も彼らにとって重要な食物でした。プロヴァンスはトレのある教育機関では一年の3分の1にのぼる日々の食事にキャベツのポタージュが出され、他にホウレンソウやハーブや豆、かぶなど野菜を使ったスープが食卓に並びました。農民は家の近くに菜園を持ってそこから野菜を得ましたが、しばしば都市の中にも菜園が築かれました。中世の食生活への季節の影響は非常に大きな者で、王侯であろうが貴族であろうが旬のものでないと食べるのは困難でした。



佐藤賢一さん、塩野七生さんの本などいくらか持っているのですがなかなか西洋歴史小説ってないですよね。面白いの、ないかなぁ・・・。