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"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。
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通史を追ってきましたが…グレゴリウスもボニファティウスも出てきていません…。教会や、修道院については、総合HP開設に際し、加筆したいと思っています。
<教皇領寄進>
ローマ教皇座とフランク王国との関係は、教皇がステファヌス2世に代替わりし、新王朝が成立した後も密接に続きます。754年、ステファヌス2世は敵対していたランゴバルド王国への攻撃をピピンに要請しました。ピピンは、反対する諸侯を抑えて教皇の求めに応じることを決め、同時に「教皇領寄進の約束」を交わしました。755年に、フランク軍はランゴバルド王国に侵入、勝利を収めます。この際に教皇に譲渡された土地が、物質的なものとしての教皇領の始まりでした。
試験が終わりました。もう忘れることにします。さて、今回はピピンによってカロリング朝が開かれる流れを追っていきます。
<ピピン3世>
741年、カール・マルテルが死去した後には彼の息子カールマンとピピン3世が王国を分割統治していました。747年にカールマンが修道院へ隠居すると、ピピンは王国最高の権力者となりました。
そしてついに、ピピンは王権交替にむけて活動を始めます。ソワソンでの諸侯会議に先駆けて、ピピンは教皇ザカリアスに王朝交替への同意を求めました。ランゴバルドなど外敵の存在を気にかけており、西ヨーロッパに同盟政権を求めていた教皇はこれに応じました。これにより、ピピン一族の権力は宗教的な支援のもと権威へと昇華したのです。751年、諸侯会議でピピン3世は、メロヴィング朝最後の王シルデリック3世を廃位し、カロリング朝を打ち立てました。
カールの治世に、封建制の萌芽が見られます。
<トゥール・ポワティエの戦い>
カール・マルテルはイスラム教徒とも戦いました。西ゴート王国を滅ぼしイベリア半島を手中にした、アブドゥル・ラフマン率いるイスラム軍は、732年にピレネーを越え、フランク王国に侵入しました。カールは全土から兵士を招集します。両軍はトゥール・ポワティエの戦いで激突し、フランク軍が勝利します。この戦いでアブドゥル・ラフマンを失ったイスラム軍は、ピレネーの此方から一掃されました。
トゥール・ポワティエの戦いでは、フランクの歩兵がイスラムの騎兵を破りましたが、これにはかなりの苦戦を強いられました。この経験を生かし、カールは騎兵の大幅な増員を目指しました。しかし、騎兵隊を構成する家臣団を、王自ら雇うのには経済的に無理があります。
そこで、家臣に土地を与え、自前で騎兵を用意させようとしました。カールは家臣に与えるために、王国領の大きな部分を占めていた教会や修道院の領地を没収し、教会に対しては、土地を与えられた家臣が税を、土地の平民が十分の一税を支払うことでこれを承諾させました。
え~、数日後に試験なので、また更新がストップします。
<カール・マルテル>
ピピン2世の後を継ぎ、フランク王国の実権を手にしたのがカール・マルテルでした。彼はピピン2世と側室の間の子であったため、宮宰職の継承が円滑には進みませんでした。このために発生した中央権力低下の時期を利用して、ネウストラリアが新たに宮宰を立てて反旗を翻し、アキテーヌの統治者もこの動きに同調しました。アラマン族などの従属部族も王国の統治から脱し、東部辺境ではフリーセン族やザクセン族が反フランクの動きを展開します。
カール・マルテルの最初の仕事は、王国の支配権を確実なものにすることでした。カールの軍団は各地を転戦し、多くの勝利を治めました。この結果、ネウストリアやアキテーヌ、アラマン族などは再び王国に服従することになり、王国外の部族も、従属部族国家として服属させられました。
メロヴィング朝終期、王国の実権は宮宰が握るようになります。その中でも偉大な宮宰がピピンでした。
<ピピン2世>
7世紀に入り三分王国制が定着した頃、メロヴィング朝の王の力はしだいに弱まり、それに替わって宮宰「マヨール・ドムス」が政治の実験を握り始めました。クロタール2世が採用した宮宰は各分王国で権力を強め、分王国同士の争いは宮宰間の争いに他ならないのでした。
こうした中、宮宰ピピン1世の娘と、メッツ司教アルヌルフの息子アンセギサルの間にピピン2世が誕生します。彼は父と同じように宮宰となり、アウストラシアを中心に自らの勢力を拡大させていきました。687年、テルトリの戦いを経て、ネウストリアの全権を掌握したピピン2世は、王を凌ぐ国家一の有力者となりました。
しかし、このことはすぐさま王権の交代という事件を起こすことはありませんでした。権力を失ったメロヴィング朝の王たちには、まだ国王としての権威が、王族としてのカリスマが残されていたのです。それは王国一の有力者でさえも、簡単に崩すのは難しかったのです。
さて、話はフランク王国にもどります。メロヴィング朝時代には分王国と呼ばれる小王国が集まってフランク王国を成していました。では、分王国の形成について紹介します。
<分王国時代>
511年にクローヴィスがパリで亡くなった後、王国は彼の息子に分割継承され、パリ、ランス、オルレアン、ソワソンをそれぞれ首都とする分王国に分けられました。558年にクロタール一世によって王国が再統一されるまでの間も王国は領土拡大を続け、534年にはブルグンド王国を完全に征服しました。クロタール一世の死後は、またも王国は分裂し、6世紀末までには3つの分王国が生まれます。大雑把に書くと、王国西部にはパリを首都とするネウストリア分王国が、東部にはメッツを首都とするアウストラシアが、そして中部にはオルレアンを首都としてブルグンド分王国が建ちました。経済力に恵まれたガリア南部は、分王国の王たちが共同管理することになりました。
レコンキスタ、十字軍等イスラム教徒との交流は、ヨーロッパの形成に際し大きな意味を持ちます。彼らは、どのように勢力を拡大させていったのでしょうか。
<ムスリムの西進>
預言者ムハンマドの登場によって啓かれたイスラム教は、散らばっていた遊牧部族をひとつの帝国にまとめ上げました。ウマイア朝サラセン帝国と呼ばれるムスリムの国家は、ローマの領地を次々と奪っていきました。
635年のダマスカスの占領に始まり642年にはアレキサンドリアを、678年には小アジアを経由したサラセン軍が、失敗に終わったというものの、帝都コンスタンティノープルまで攻め上ります。695年にはカルタゴを落とし、アフリカを支配下に組み入れ大西洋を望むまでになった帝国はなおも拡大を続け、711年には西ゴート王国を滅ぼします。地中海はムスリムの海になろうとしていました。
フランク族がなにも最後の移動したゲルマン民族というわけではありませんでした。彼らの後にも、ゲルマン人は侵入を続けます。
<ランゴバルド族>
568年、新たなゲルマン部族が侵入します。王アルボインに率いられたランゴバルド族は、東ローマ帝国により再征服されていたイタリアに侵攻しました。パヴィアを首都に定めスイス周辺に住み着いた彼らは、それまでの多くのゲルマン人と異なり、皇帝に仕える形をとるのではなく対等な関係を築こうとしました。西帝国が滅亡した今、遠くはなれた東の帝国など無力だったのです。
東ローマ帝国は総督府ラヴェンナ、ヴェネツィア、ローマなどの主要都市と半島南部を除いてイタリアの支配権を失いました。北イタリアにはランゴバルド王国が成立し、南イタリアにはランゴバルド系の氏族がヴェネベント、スポレートの二公国を建設しました。