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"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。
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さて、今度は視線を地中海に戻してみます。
<ユスティニアヌスの再征服>
西帝国が滅亡し唯一のローマ帝国となった東帝国は、古の西帝国領の回復を目論みます。西方ではフランク王国が中心的役割を担っていた頃、東方では皇帝ユスティニアヌスが古のローマ領の回復に動き出します。ユスティニアヌスの再征服と呼ばれる軍事行動によって、534年にはヴァンダル王国のアフリカを、555年には東ゴート王国のイタリアを奪取することに成功します。また、シチリア、サルディニアなどの東地中海の島々や、イベリア半島の沿岸地域を奪還しました。地中海は再びローマの水に戻ったのです。しかしローマの支配はもはや以前の栄光を止めてはおらず、後の異民族の侵入時には簡単にこれらの領土を失うことになります。ローマは衰退していました。帝国の中心地も例外ではありません。東ゴート戦役さなかのイタリアの人口減は100万人に上ったとされています。
更新がなかなかできずにかなりの時間が経ってしまいました。学生の基本は勉学です。が、趣味も大切です。ということで、更新を再開します。今回は、ローマが滅んだ後のガリア情勢についてです。
<ポスト・ローマの時代>
西ローマ帝国滅亡後、ガリアは複数の政権によって統治されていました。東部にはアラマンやランゴバルドなど諸部族が侵入し、ブルターニュにはブリテンから来たケルト人が住み着きました。南部では西ゴート王国の支配権が広がり、北西部にはローマの軍事政権、シアグリウスの王国が鎮座していました。
このような情勢を、北東部のフランク人を率いる任をシルデリックより継いだクローヴィスが変化させていきます。クローヴィスは486年、ソワソンの戦いでローマ人シアグリウスを追い落とします。フランク王国はロワール川まで勢力を拡大し北ガリアを支配しました。
クローヴィスの軍勢は留まることを知らず、496年にはアラマン族に、500年にはブルグンド族に対して勝利を治めます。そして、ついにガリアの支配をめぐって西ゴート王国と衝突するに至りました。507年、ヴイエの戦いでまたしても勝利したフランク人はガリアの覇者となります。西ゴート王国は戦場で王を失い、トレドを首都としてイベリア半島に引き上げたのでした。
さて、今まで触れてこなかったフランク族。彼らは、他のゲルマン部族に抜きん出た王国を築き上げ、歴史にその名を強く残しました。しかし、もとのフランク族は他の部族とほとんど変わるところがない部族でした。
<フランク族>
3世紀になって初めて歴史の舞台に登場するフランク族は、ふたつの大きな支族と他の小部族から成っていました。ふたつの氏族とはライン川中流のリブアリ支族と、マース川下流域のサリ支族です。時の皇帝ユリアヌスは358年、ライン川に程近い帝国領トクサンドリアをサリ・フランク族に提供します。他の部族もライン川周辺の帝国領内に根を下ろしますが、ここではサリ・フランク族の方が問題となります。
サリ・フランク族は帝国に対し協力体制をとり、部族内の多くの指導層は帝国の官位を得ました。彼らは首長クロディオの代にトゥールネを首都とします。クロディオの子、メロヴィクスはアエティウス帝に、対フン族のカタラウヌムの戦いにおいて兵力を提供しました。フランク王国のメロヴィング朝は彼の名に由来します。メロヴィックの子シルデリックの代には、当時のガリア長官アエギディウスに協力し、ロワール一帯に展開してきた西ゴート族やサクソン族に攻撃を加えます。トゥールネでは王シルデリックの印が押された貨幣が鋳造されます。
東ゴート族の項で簡単に述べてしまった西帝国の崩壊を、今度は帝国の視点からみていきます。
<西ローマ帝国の滅亡>
ゲルマン民族が領内定住進めてからというもの、西ローマ帝国とは名ばかりで、西帝国の実態はラヴェンナの一政権に過ぎなくなっていました。アエティウスの暗殺以降、帝国の滅亡までの歴史は、暗殺と帝位簒奪の歴史でした。ウァレンティニアヌス帝は簒奪者ペトロニウスに殺され、ペトロニウス帝は近衛兵に殺されます。この後も帝位は入れ替わりますが、ペトロニウスより後の皇帝は東帝国には認められていないものでした。
473年、東帝レオは西帝としてネポスを送り込みます。しかし、ネポスも例によって部下オレステスの裏切りにあい、ダルマティアに引き返します。オレステスはゲルマン人であったため、ローマ人との間の息子、ロムルスを帝位につけます。
476年、そのオレステスは、ゲルマン人で構成されたローマ軍の反乱によって殺害され、ロムルスは帝位を失います。その反乱の首謀者が、小部族スキラエ出身のオドアケルでした。彼は帝位を東帝ゼノンに返上する代わりりに、皇帝の代理人としての総督「パトリキウス」としてイタリアを統治する方法を取りました。こうして、西ローマ帝国は滅亡します。しかし、実質上なんの権力も持たなかった帝国の滅亡は、周辺に大きな影響を与える大事件ではありえず、歴史上の区分としての意味を強くもつものです。
アエティウスの政策は、フン族との戦いであったカタラウヌムの戦いにおいて発揮されます。
<カタラウヌムの戦い>
アエティウスとアッティラは当初、同盟を組んでいたので、フン族の攻撃目標は専ら東ローマ帝国でした。しかし、東帝国の使節がアッティラのもとに出向いた後、フン族の王は政策を変更します。フン族の攻撃は矛先はガリアに向けらます。
この時になって、アエティウスのゲルマン人との同盟政策が実を結ぶのです。451年、カタラウヌムの戦いで西ローマ帝国軍には、サリ・フランク族、アラン族、西ゴート族、ブルグンド族の軍が共闘します。対するフン族側には、東ゴート族、リブアリ・フランク族が兵を提供しました。この戦いはフン族に大きな打撃を与え、アッティラのガリア進出は阻止されました。戦いの2年後、アッティラの死と共にフン族は壊滅します。その1年後、アエティウスも主人である西の皇帝ウァレンティニアヌスによって暗殺されました。
崩れつつあったローマを支えようとした人物は、スティリコだけではありませんでした。
<アエティウスの政策>
アエティウスはドナウ軍団の騎兵隊長の息子で、幼少の頃は西ゴート族、次いでフン族の人質として過ごしました。その際の経験から、彼は宮廷で頭角を現し、執政官へと上り詰め、事実上の西帝国の指導者になりました。同じ頃、ゲルマン民族の大移動を引き起こす直接の引き金となったフン族は、アッティラを王に選びました。アエティウスはスティリコの後継者として積極的にゲルマン人に働きかけます。436年、アエティウスの依頼で、フン族はブルグンド族に戦いを仕掛けます。この戦いの後、アエティウスはブルグンド族を壊滅させるのではなく、その残党をジュネーヴを中心とするサヴォアに移住させ盟約族としました。彼はイベリア半島へ向かわなかったアラン族にも同盟路線を敷きます。アラン族の主力はロワール川中流に定着し、ローマの盟約族となりました。
前回までは、ローマ末期の時代をゲルマン人の視点で書いてきました。今回は、西ローマ帝国を中心に、帝国の滅亡までを紹介します。
<スティリコの努力>
395年、ローマは西と東に分裂します。この分裂はいきなり起こったわけではありません。286年に帝国は一度東西で分割統治されており、その後は統一と分裂を繰り返していました。しかし、テオドシウス帝の死んだこの年以降、実質的にローマは統一されることはありませんでした。さて、西皇帝の座についたホノリウス帝、彼は後見人としてヴァンダル族出身の軍人であったスティリコを立てます。彼は優れた外交手腕を持って帝国の難局を支えました。
先に述べた西ゴート族は、バルカン半島を通過し401年にはイタリアに入りました。ヴァンダル族やアラン族の侵攻の中、スティリコは国境守備の軍を引き返させ、ミラノを包囲していた西ゴート族に勝利します。間をおかず、迫ってきた東ゴート族一派のフィレンツェ包囲軍も、かき集めたゲルマン人傭兵で打ち倒します。こうしてゴート戦争に勝ったスティリコはローマ帝国の寿命を延ばすことになりました。しかし、スティリコの展開したゲルマン人に対する同盟政策は受け入れられず、しまいには西ゴート族との共謀などが疑われ、ホノリウス帝によって殺害されました。
410年、ホノリウス帝の決定により、帝国は属州ブリタニアから完全に撤退します。この後、ブリテンは現地人であるケルト人の諸部族によって支配されました。ブリテン島は帝国の外縁部に位置しており、支配が始まったのも遅かったため、この時代はケルトを中心とした文化が栄えました。5世紀半ばになるとブリテンには新たな来寇者が現れます。ゲルマン人です。彼らはユトランド半島(現在のデンマーク)からやってきた、サクソン、アングル、ジュート人たちでした。
アングロ・サクソンの総称で呼ばれる彼らは、ブリテン島南東を中心にエセックス、サセックス、ウェセックス、ケント、イーストアングリア、マーシア、ノーサンブリアの七つの王国を築きました。当然土着のケルト人も彼らの王国を島の北西に築いていました。ゲルマン人の侵入が激しかった七王国を総称してイングランド(アングル人の国)と呼びます。このような小国割拠は当然のように戦乱を招き、イングランドは初期中世における奴隷の一大産地でした。
イングランドではしだいに周辺諸国を従属させて、七王国全体に渡る支配権を持つ王が現れるようになります。このような大権を持つ王は、いくつかの王国で交代(もちろん平和的にではありません!)していましたが、9世紀初頭からウェセックスのアルフレッド王が、デーン人による一時の支配を除き、アングロ・サクソンの連合王国を支配しました。
08.2.6加筆修正
ヴァンダリズムの語源となったこの部族。彼らはゴートとは違った道を歩みます。
<ヴァンダル族>
406年にはフン族進撃の波を受け、ヴァンダル族がスエビ族やアラン族を伴ってラインを渡川しました。彼らはガリアを蹂躙しながら西へ向かい、409年にはピレネー山脈を越え、イベリア半島に入ります。その後、西ゴート王国との戦争で部族を構成する一支族が殲滅されるという被害を受けます。429年、王ガイセリックはヴァンダル族とアラン族を率いてジブラルタル海峡を渡ります。古都カルタゴに王国を建設するのはその10年後のことでした。
もうひとつのゴート族は、どのような進路をとるのでしょうか。
<東ゴート族>
突然の進撃によって、一時はフン族に支配された東ゴート族でしたが、453年に王アッティラの死と共にあっけなく崩れたフン族から独立し、ローマ領内に同盟軍「フォエデラーティ」として移住しました。しかし移住地パンノニアはとても豊かとはいえず、必要となった略奪遠征などのため、ローマとは同盟と離反とを繰り返していました。
このような中、部族の王で東ローマ帝国執政官にも任命されたテオドリックが、皇帝よりイタリア進軍を命じられます。476年に西帝国は傭兵隊長オドアケルによって滅亡していました。東の皇帝ゼノンは、イタリアの地を統治下に入れるためにテオドリックを差し向けたのです。489年、テオドリックは東ゴート族や他の部族の軍率いて、オドアケルの王国に侵攻しました。しかし、テオドリックはオドアケルの王国を滅ぼした後も東へは帰らず、493年にその地でラヴェンナを中心とした東ゴート王国を立ち上げました。