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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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西ゴート族

さて、ふたつに分かれたゴート族。彼らはローマとどのような関係を続けるのでしょうか。


<西ゴート族>

375年に怒涛の勢いで現れたフン族の侵攻により、西ゴート族は帝国の保護を求めてドナウ川を渡りました。皇帝は彼らをにトラキアの地に居住させることを許可しました。しかし、ローマとの協調関係は長くは続かず、帝国との間に軍事衝突が起こります。378年、アドリアノープルの戦いにおいて西ゴート族は大勝利を収め、帝国に対する優位を得ます。

その後、彼らはより恵まれた土地を目指して移動を開始しました。アタナリック、アラリック、アタウルフの三代の王に率いられ、バルカン半島やイタリアを巡り渡った長い移動の末、最終的にはガリア南部のトゥールーズを首都とした西ゴート王国を建設するに到ります。418年に誕生したこの王国は、ローマ領内での初めてのゲルマン人国家となりました。

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ゴート族の分裂

 ゲルマン民族の大移動前夜、ゴート族は南下を始めます。

 


 

<ゴート族の分裂>

2世紀後半に、オーデル川、ヴィスワ川流域の土地からゴート族が南方に移動を開始しました。彼らは様々な部族を吸収しながら南下し、2つに分かれていきます。ひとつはアマル家を首領とするアマル系ゴート族で、彼らは黒海の北側の沿岸部に住み、スキタイ人やスラヴ人を取り込みました。これが後の東ゴート族です。もうひとつは、バルト家に率いられたバルト系ゴート族で、彼らはドナウ川下流域に展開しました。こちらは後の西ゴート族となります。


ゲルマン社会の再編

今回は、民族大移動前のローマとゲルマン社会についてです。


<ゲルマン社会の再編>

ゲルマン民族は、4世紀後半に始まった大規模な移動の前から、リーメスを介し、ローマと交流を持っていました。略奪遠征などで、帝国と対立することも多々ありましたが、交易なども行われ、平和的な交流も盛んでした。ゲルマン人は、前6世紀頃からスカンディナビア南部、中央アジア北部に、インド=ヨーロッパ語族のうち、ゲルマン語を話す人間集団として生まれました。

彼らは小規模な部族「ゲンス」を形成していました。この部族は、血縁関係に結ばれたような堅固なものではなく、分裂と融合を繰り返す、極めて流動性の高い集団でした。初期のゲルマン部族は、族長が血統原理によって支配の正当性を主張し、祭司を兼ねる神聖王でした。

しかし、ローマとの交流によって生じた貧富の差の拡大、ローマ製品への強い嗜好は、ゲルマン社会を変化させていきます。族長の性格は、戦闘における軍隊指揮能力に重きを置いた軍隊王へと変わっていきます。こうした社会変化に影響され、ゲルマン人の間ではマルコマンニ戦争が起ます。この戦争により複数の新たな部族が誕生しました。これらの新生部族は、より良い土地を求めて、帝国内へ侵入していったのです。


帝政末期の都市と農村

今回はローマ帝国が衰え行く中での、都市と農村の変化についてです。


<帝政末期の都市と農村>

帝国行政の、末端の単位は都市「キウィタス」でした。キウィタスは、都市とその周辺領域までを含む大きなものでした。キウィタスを支配したのは、都市の参事会員「クリアーレス」たちでした。参事会員になるためには大きな財力が求められました。5世紀に入ると、それまで異民族を帝国外部に止めていたリーメスの維持が困難になり、帝国は対蛮族の防衛政策を転換します。防衛拠点は各都市が担うものとされました。そのため、キウィタスには城壁が築かれ、城壁のコストを下げるため市域は縮小されました。

都市の周囲には大規模な農業拠点「ヴィラ」が設けられていました。ヴィラの所有者はセナトール貴族や都市参事会員でした。さらにその外周には、土着民の経営する農村地域が広がっていました。


城の果たした役割

度重なるゲルマン民族の侵入とそれに続いた混乱により、西ローマ帝国は紀元476年に滅亡しました。世界帝国であっ たローマの崩壊は、ヨーロッパ全土を後に暗黒時代と呼ばれる時代に突入させる要因となります。暗黒時代の混乱を恐れたヨーロッパ各地の領主たちは、地盤を 固めるため、自分たちの居館の防御を固めていきました。これがヨーロッパで誕生した最初の城です。フランク王国時代には、城はヴァイキングやマジャール人 などの異民族の侵攻を受けることの多かった地域や、当時のフランク王国の辺境であったドイツ東部や、ピレネー周辺、ブルターニュの付根などに多く造られま した。

城は領主の家という機能意外にも様々な役割を果たしました。領主の城は、常時は領主の私兵を収容し、周辺住民の監視 や搾取の拠点となりました。そのため、城は搾取した産物の集計地であり、流通の基点としても機能しました。城が商業的な重要性をより増加させ、城下に領民 が住み着き、城市の形をとることもありました。城は領主の領域支配の象徴だったのです。城を中心とした領域支配の体制は裁判領主制(またはバン領主制)と 呼ばれます。有事の際、城は主に防衛面で絶大な威力を発揮しました。また、戦略的機能も持ち合わせており、遠征の際などには補給や駐屯のための基地として 利用されました。


帝国統治の担い手とその変容

共和制ローマにおいての、国家運営の担い手の中心は元老院議員「セナトール」でした。帝政ローマが発足し、国家統治における皇帝の権力が増したとはいえ、いまだセナトールは権力の中枢にいました。4世紀前半の皇帝の組織改革によって、従来のセナトールに加え、新しく抜粋された人材がセナトールの肩書きを得、その肩書きは世襲のものとされるようになります。こうしてできた、帝国の新しい指導層はセナトール貴族と呼ばれます。彼らは、高級官僚として、広大な土地の所有者として帝国を支配しました。また、セナトール貴族は互いの婚姻関係により社会的に結ばれた身分を形成していました。

都市部でキリスト教が広まると、セナトール貴族の司教への転進が頻繁に見られるようになります。キリスト教会は、信者の増加と共にその影響力を大きくし、 行政権などの俗界における権利もっていました。そのため、教会の重要ポストである司教の位は、セナトール貴族にとって魅力的な地位でした。また、帝政末期 になると、解体しつつあった帝国の業務を引き継ぐ形となった、キリスト教での要職への転進は、変わりつつある世界のなかで、常に影響力を持ち続けるために は重要なことだったのです。


キリスト教の拡大

現在進行中のHP作成に伴って更新が時間・内容的に不安定になっています。今回は、中世史を流れの中で紹介していこうと思います。まずは、帝政ローマ末期の地中海世界からです。

 


 

<キリスト教の拡大>

中世ヨーロッパという時代の形成において、ローマ帝国という物質的母体と、キリスト教という精神的母体を欠かすことはできません。キリスト教が広まる以前は、ギリシア由来で、さらに征服した土地の土着の神々を融合させた多神教が、帝国の宗教の中心でした。しかし、中近東に興ったキリスト教は、その独自の特徴である慈愛の精神を発揮しながら、帝国各地に広まっていきました。3世紀になると、カルタゴ、アンティオキア、アレクサンドリアなどの大都市で、神学が発達し、キリスト教の教義の母体を形成していきます。そうした状況の中、311年にはガレリウス帝により、キリスト教が初めて公式に認可されます。313年にはコンスタンティヌス帝がミラノ勅令により、キリスト教を完全に公認しました。そして、キリスト教認可から1世紀もたたないうちに、テオドシウス帝の勅令により、キリスト教はローマ唯一の国教に定められ、他の宗教は異教とされるに至りました。


フランク王国の軍組織

再編です。以前「カロリング朝の軍隊」カテゴリに2つしか記事がなかったので。ここでは王の重装騎兵と、補助軍としての徴収兵について紹介します。この時代には、まだゲルマン由来の「自由民の男子たるもの戦士」という考えが定着しており。「戦う人」=騎士という概念が普及するには、もうしばらく待たなくてはなりません。



【スカラ】

カロリング朝初期の王や貴族たちは、私兵であるスカラをかかえていました。スカラは、主に騎兵であり、王国の数少ない常備軍でした。彼らは、徴集兵 などの兵卒を率いる指揮官となったり、50~100人程で構成される密集陣形「クネイ」を組み、完全武装の重騎兵として戦闘に参加しました。また、戦闘の 絶えなかった辺境領に駐屯することもありました。

【パルタン】

罰令権「バンヌム」とよばれる一般的な徴集令、あるいは国土防衛「ラントヴェール」という緊急動員発動の際、実際に戦場で戦った徴集兵がパルタンです。彼らは、地方の聖俗領主により召集されました。彼らが出征している最中の、残された妻子や農地は「エダン」と呼ばれる後方要員が支援することになっていました。ラントヴェールに応じなかった者は、死をもって罰せられ、バンヌムに逆らった者にも、体の一部を失うというような重い刑罰が下されました。

一般民には、エダンの他にも実際には戦いに参加しない軍事的義務がありました。「ホスティレンセ」は兵站確保のため荷馬車と牡牛の提供。「カルナティクス」は食料用の家畜を差し出すものでした。


「社会背景」

アングロ・サクソンの軍隊。背景についての第二段です。どのような階級の中で、軍隊が形成されていったかを紹介します。


<社会背景>

王国での社会の頂点には、王家とその血族である王族「エセリング」がいました。彼らに臣従したのが、太守「エアルドマン」と呼ばれた貴族たちでした。彼らは元は小国の国王たちでした。エアルドマンという言葉は11世紀の頭に伯「アール」に置き換えられました。これはデーンの貴族の意である「ヤール」に影響されたものであると考えられています。王の世襲は一般的でしたが、完全に認められているのではなく、エセリング、エアルドマン、高位聖職者などで構成される指導者会議「ウィタン」が、後継者選出の権利を持っていました。

これら貴族階級の下には、貴族の護衛や小領主としてのセインがおり、さらにその下には自由民であるチェオルルがいました。社会の最下層に位置していたのは、奴隷や農奴たちでした。


「時代背景」

ローマがブリタニアより撤退した5世紀から、11世紀のノルマン・コンクエストまでの約600年。ブリテン島を支配したのは、アングロ族、サクソン族、ジュート族などのゲルマン民族でした。アングロ・サクソンの総称で呼ばれる彼らは、北ドイツやユトランド半島から、船に乗ってブリテンに移住してきました。彼らはそこで、ゲルマン由来の従士制を元に、土地に根ざした社会を作り上げていきました。

七王国と呼ばれるアングロ・サクソン系王国が割拠する中、各国の王の中心的存在となった王が存在していました。このような大権を持つ王は、いくつかの王国で交代していましたが、9世紀初頭から、ウェセックスの国王が、デーン人による一時の支配を除き、アングロ・サクソンの連合王国を支配しました。