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"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。
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十字軍といえば聖地エルサレム奪還のためにヨーロッパのキリスト教徒たちが編成したものが有名ですが、広義の十字軍には非キリスト教世界に対する戦いが全て含まれます。例えば、スペインのレコンキスタやドイツ騎士団の活躍した北方十字軍などがそうです。これらはいずれも、キリスト教世界の周辺部で行われたものでしたが、13世紀、フランス南部という西方世界のど真中で行われた十字軍がありました。アルビジョワ十字軍として知られる、異端カタリ派討伐のための十字軍です。
カタリ派とは善悪二元論を教義の根本とする異端で、11世紀頃から南フランス一帯に広まっていました。このことを懸念した教会当局は、この異端に対する介入を始めますが、それらの介入は異端者への破門宣告や異端側聖職者との討論会、南フランス諸侯へのカトリック教義の厳守などを求めたものが中心で、直接的な武力行使はほとんど行われませんでした。
当時の南フランスの勢力図としては、まず頂点にトゥールーズ伯がフランス国王を名目上の宗主として君臨し、その下にフォア伯、コマンジェ伯、ナルボンヌ副伯、カルカソンヌとベジエの副伯などが並んでいました。当時のトゥールーズ伯は、いまだフランス全土を掌握していない国王に並んで力を持つ有力な大諸侯でした。ちなみに、副伯(ヴィコント)というのは南フランス特有の爵位で、時たま子爵と邦訳されているようです。この訳からわかるように、体系上は公爵、伯爵の下位に位置づけられていますが、支配域の大きさなどの実力から見れば公爵と変わらないようなものまでいました。
これら南フランスの諸侯は、自身は正統カトリックの信者であっても、領内に広がる異端への摘発を積極的に行おうとはしませんでした。カタリ派は南フランスの住民の間に浸透しており、もし彼らが異端の一斉摘発をしようものなら、家臣や、自らが治める都市と戦わねばならない状況があったのです。
中世は何をするにも身分が大きな意味を持つ社会でした。その人の身分によって日々の生活の質が違うのはもちろんのこと、法的な権利や刑法上の罰則までもが異なっていたのです。さて、中世の身分といえばすぐに思い当たるのが「戦う人」「祈る人」「働く人」の三区分ですが、この三区分は中世の期間を通して常に適応され得たわけではありませんでした。
中世初期、すなわちゲルマン部族社会の影響がいまだ色濃く残っていたフランク王国時代のヨーロッパでは、人の身分は基本的に「自由人」と「不自由人」の二つに大別されていました。これに、フランク王国の地方統治や封建制度の発達により明確な存在となっていった貴族が加わります。11世紀後半ドイツで出された、「神の平和」(戦争・私闘の禁止を定めた平和令)の中では、人々の身分を貴族・自由人・不自由人の三つに分類しています。
では、農民身分というものは、どのようにして生まれるにいたったのでしょうか。それには、農民に武装能力があるあどうかということが、大きく関わっていました。そもそも、フランク時代には農民であろうと貴族であろうと、自由人は王の求めがあれば従軍するという、古代ゲルマン部族に由来する原則が適応されていました。しかし、10世紀以降、機動力と破壊力を兼ねそろえた騎馬軍団の需要が高まるにつれて、騎士相当の武装をする能力の無い者の従軍価値は極めて小さいものとなっていきます。
12世紀、神聖ローマ帝国による平和令は農民が剣または槍を携行することを禁止し、同じ頃に農民は私闘権を失っていきました。自力救済が基本の中世社会においては、武装・自衛能力を持つことが自分の権利を主張する上で大きな機能をはたしていました。そのため、農民たちはもはや自分たちの権利を主体的に求めていくというよりは、貧者や聖職者、そして女性などと同じく保護の対象とされるようになりました。
武装能力を持つ領主は、農民を保護することで、農民の権利を代わって行使する権限を持ったのです。こうして、それまでの自由・不自由の区別に代わって、貴族(騎士)・農民の区別が生まれましたが、騎士と農民との間の保護・被保護の関係は完璧だったとは言いがたく、農民は常に戦争・野党の襲来・フェーデなどに怯えながら暮らしていたのです。