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"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。
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<目次>
序章―神聖ローマ帝国とは何か
第一章―西ローマ帝国の復活
第二章―オットー大帝の即位
第三章―カノッサの屈辱
第四章―バルバロッサ‐真の世界帝国を夢見て
第五章―フリードリヒ二世‐「諸侯の利益のための協定」
第六章―大空位時代
第七章―金印勅書
大八章―カール五世と幻のハプスブルク帝国
第九章―神聖ローマ帝国の死亡診断書
終章―埋葬許可証が出されるまでの百五十年間
あとがき
聖ローマ帝国関連略年表
参考文献
「神聖ローマ帝国ってなんだ?」世界史を学ぶ高校生が、中世の歴史地図をみて最初に抱く、そして結局教科書では解明されない謎がこれなのではないかと思います。空間的には現在のドイツを中心として、イタリア北部やオーストリア、チェコ、スイス、ベネルクス三国などの一部を含むこの国家は、果たしてどんな存在なのか。何が「神聖」で、どこが「ローマ」なのか。本書は、古代の系譜を継ぐ中世初期からの歴史を概観していくことで、この素朴な疑問に答えてくれます。
今回は、本書から「神聖ローマ帝国」の名前の由来に関わる意外な事実について紹介していきたいと思います。高校世界史の教科書ではよく、962年、オットー大帝(912-973)が神聖ローマ帝国の皇帝に即位、と書かれていますが、厳密にいうと、これは正しくありません。戴冠したとき、オットーはただ「皇帝アウグストゥス」を名乗っただけでした。そこには神聖の字も、ローマの影もありません。当時、ドイツと北イタリアを支配していたオットー大帝とその子孫は、カール大帝の復活させた帝国と帝位を継承したという理念を持っていましたが、大帝所縁のフランスを手中にしていない状態では「ローマ帝国」と名乗るのがはばかられたのでしょか。「ローマ帝国」という文字が公式文書に現れるのは、オットー大帝の属すザクセン朝が断絶したのちに開かれた、ザリエリ朝のコンラート2世(990年? - 1039)の時代をまたなければなりませんでした。ブルグンド王国を継承した彼は、カール大帝の帝国には及ばないものの、ローマ帝国を名乗れるくらいの版図は獲得したのです。
さて、時代は進み1155年、シュタウフェン朝のフリードリヒ1世が皇帝に即位します。彼の時代、カノッサの屈辱以降続いていた教皇と皇帝のパワーバランスが変化します。イタリア遠征を繰り返し、ドイツ国内でも諸侯を抑えつけることに成功した彼は、「帝国は教皇の封土」とまでうそぶくローマ教皇ハドリアヌス4世の高慢な態度を許しませんでした。フリードリヒ1世は、新約聖書のルカ伝にある「二振りの剣」を、神から発した教剣と政剣のふたつであるという解釈を用い、前者を持つ教皇と後者を委ねられた皇帝との地位の同等性を主張しました。帝国は、教皇により聖別される必要はない、「帝国は神に直接、聖別されているのである!」(本書p96)。このことを示すべく、1157年のイタリア遠征のための諸侯への召集状には「神聖帝国」という国号が記されました。しかし、世界帝国を目指したフリードリヒ1世の時代には、この「神聖帝国」と「ローマ帝国」が「神聖ローマ帝国」となるにはいたりませんでした。
皮肉なことに「神聖ローマ帝国」という文字は、その名前を求めて奮闘した皇帝たちを輩出した、中世前期ドイツの華であるザクセン、ザリエリ、シュタウフェンの三王朝期には登場せず、大空位時代に初めて使われ始めます。大空位時代の間は戴冠を受ける皇帝が存在せず、多くの者が分裂する諸侯に擁立され、対立王として名をあげていたために、正当な王位なるものが継承されていませんでした。対立王の一人ホラント伯は王の権威もなにもあったものではない現実に不満を覚え、帝国の理念だけでもつくりあげようとしました。「外見が壮大になればやがて実態もついてくるものだ!」(同p131)。そして、彼は1254年の公式文書に史上初めての「神聖ローマ帝国」という国号を用いたのです。対立王もこれを使用するようになり、定着化したこの国号はkなき帝国の正式名称となっていったのです。
本書は、「神聖ローマ帝国」の名前の由来以外にも、理念と現実の間で奮闘した歴代皇帝たちを概観し、さらに帝国が30年戦争後のウェストファリア条約によって事実上解体し、最終的にナポレオンに敗北して名実ともに消滅するまでを簡潔に描いています。中世ドイツの全体像を、軽くではありますが、理解するのに最適な本だと思います。
▲犂を使う農民(14世紀)
皮剥ぎ人になりたいだって、あんた正気かい?まあ、どうしてもっていうなら止めないけどよ…。
まともな職についている奴らは、誰もがあんたを避けて、口も利かないだろう。なんてったって、触れただけで穢れが移るんだ。もちろん、教会だって助けちゃくれない。聖餐だって一番後だ。隣人愛なんて糞食らえ!
もし、皮剥ぎ人が死んでも小教区の司祭さまは棺を教会には入れちゃくれないし、埋葬だってよくて墓場の隅っこ、悪けりゃ自殺者と同じ共同墓地に突っ込まれちまう。でもまあ、それでもいいっていうなら、話だけはしてやるよ。
聞いたところによると、一昔前までは皮剥ぎって仕事はなかったらしい。村の家畜が死んだ時は、そのまま野晒しにしておけば鳥や獣が勝手に始末してくれたんだ。そうでないときは、農夫が自分で穴を掘って埋めればそれで済んだ。
でも、都市があちこちで建設されるようになると、市内での死んだ家畜の処理が問題になった。家畜を埋める空間なんて狭苦し市壁内にはないし、もちろんそのまま放っておけば伝染病が広まっちまうから、そんなの言語道断だ。そこで、市内の死んだ家畜を市壁外に運び出して始末する役職が必要になったってわけだ。もちろんこのときに皮を剥ぐのさ。皮は高く売れるからな。
皮剥ぎは嫌われものだが都市になくちゃならない仕事だ。そんなわけで、市当局は皮剥ぎを保護して円滑に仕事ができるように取り計らってくれてる。皮剥ぎはツンフトこそつくれないが、当局から独占営業を認められていて、一定の地域内では他の皮剥ぎは営業することいができない。同業者と縄張り争いをする手間はないわけだ。
そして、もっと重要な特権として地域内の全ての家畜の処理権を持っている。これがまた、市民から皮剥ぎが嫌われる一因なんだ。市民は死んだ馬や牛から、果ては愛玩用の犬までも全て皮剥ぎに引き渡さなければならない。馬や牛の皮の価格が高騰すればするほど、皮剥ぎは儲かり、市民の皮剥ぎへの憎悪は増すってわけだ。
普通の市民は、自分たちが飼っていた家畜を、勝手に埋めたり処分刷ることは7許されない。禁令を破った市民の家の戸には皮剥ぎのナイフが突き刺される。その家の住人は、触れば賤民に落ちるナイフを自分で取り外すわけにもいかず、かといってそのままの不名誉な状況を続けるわけにもいかず、皮剥ぎに賠償金を支払ってナイフを抜いてもらうしかないわけだ。
ああ、言い忘れていたが哀れな自殺者を引き取って埋めるのも皮剥ぎの仕事だ。教会は自殺者を死んだ後も許さない。自殺者は市の境界あたりまで荷車で運んで、適当に土をかけて埋めればそれでいい。
なあ、ひどい仕事だろ。考え直せよ、と言いたいとこだが、もう無理かな。もう俺と一杯やっちまったもんな、兄弟。俺たちみたいな穢れた人間が選べる仕事なんて、そう多くないぜ。じゃあ、新しい皮剥ぎ仲間の門出を祝ってもう一杯といこうか。
ハンブルク、刑吏の酒場にて
<目次>
はじめに
第一章 中世社会の光と影
1 「影」の世界の真実
2 賤視された刑吏
3 皮剥ぎの差別と特権
4 神聖な儀式から賤民の仕事へ
第二章 刑罰なき時代
1 供犠・呪術としての処刑
2 処刑の諸相
絞首 車裂き 斬首 水没 生き埋め 沼沢に沈める 投石 火刑 突き落し 四つ裂き 釘の樽 内蔵びらき 波間に流すこと
第三章 都市の成立
1 平和観念の変化
2 ブラウンシュヴァイクの刑吏
3 医師としての刑吏
4 ツンフトから排除された賤民
5 キリスト教による供犠の否定
第四章 中・近世都市の処刑と刑吏
1 糾問手続きと拷問の発展
2 刑吏の祝宴と処刑のオルギー
3 近世の刑吏
むすび
あとがき
参考文献
中世から近世にかけて、人々に忌み嫌われると同時に、人々によって必要とされ続けた職業があります。刑吏です。刑吏は裁判で処刑の判決を言い渡された被告を、斬首・絞首・火刑など様々な手段を以て処刑することを生業としていました。中世において、人々は戦う人、祈る人、働く人の三種に分けられているという考えがありましたが、刑吏やその他賤民とされた人々はこの三身分の枠外に置かれていました。この三身分の人々は「名誉ある」人々であり、賤民は「名誉をもたない」人々とされていたのです。この時代の「名誉」とはほぼ「権利」と同義に読むことができます。すなわち、彼ら賤民は社会の中で「自己の権利を守ることができな」かっただけでなく、「常にネガティブな生活を余儀なくされて」(p13)いたのです。
接触したり、会話を交わしたり、ともに食事をするだけで彼らと同じ賤民に落ちると考えられていたため、市民たちの刑吏に対する差別は非常に激しいものでした。どんなに善良な刑吏でも、死んだときに棺を運びに来てくれる者はなく、刑吏の妻の出産にかけつける女房仲間は一人もいませんでした。自力救済が原則の中世社会においては、ギルドやツンフトなどの同業者組合が、組合員同士の互助や協力体制をつくりだしていましたが、ツンフトイの結成が認められない刑吏は、助け合う仲間もなしに、市民たちの差別に耐えていかなければなりませんでした。
刑吏が差別される理由、それはローマ法の導入によってもたらされた古典時代の刑吏への差別意識の復活や、単純に人を殺すことに対して起こる人間の自然な嫌悪感が原因なのではありませんでした。むしろ12、13世紀における中世人の持つ処刑概念の変化が刑吏への蔑視をもたらしたのです。古代ゲルマンの時代にあって、処刑とは犯罪行為によって社会や共同体が受けた傷を、住民全員で修復するための儀式でした。それは古代の神々を沈めるための供犠であり、社会の傷を癒す呪術だったのです。そのため、処刑の執行人は聖職者であり、処刑自体は神聖な儀式だったのです。
この処刑概念を変えたのはキリスト教の普及と平和意識の変容、そして都市社会の発展でした。キリスト教によって供犠や呪術としての性格を否定された処刑に対して、人々は畏怖の念を抱くことはもはやなく、残った感情は怖れでした。さらに、単純な殺人などは支族間の復讐による解決を原則とし、国家や統治者による介入を認めなかった古代ゲルマン社会は、キリスト教の受容と共に私闘なども禁じた、世界の一元的な平和を目指すようになっていきます。そして人口の密集した都市という新たな生活環境は、氏族集団を解体し、個人による犯罪が被害者個人だけではなく多くの市民へも影響を与える環境を提供し、平和維持のために処刑には修復の意味ではなく予防のための威嚇の意味が強くなっていきました。さらに、拷問の導入や国家権力による公開処刑は、刑吏を公権の名のもとに残虐な行為をする自分たちとは異色の者であるという意識を人々に抱かせたのです。
本書はこのような平和・処刑概念の変遷や都市法の整備による刑吏の賤民化がどのようにしてなされたかについてや、中世の刑吏の日常生活、蔑視・差別の実態、皮剥ぎや街路掃除などの副業、刑吏たちの共同体などについて興味深い事実がぎっしり詰まっています。中世のマルジノーに関心のある方だけでなく、中世全般に興味がある方にお勧めの一冊です。