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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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バシネット-多用途兜

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▲11世紀、ミラノのバシネット(19世紀のスケッチより)
 左図の下部に垂れているのがカマイル。

14世紀はじめ、騎士たちの間でバシネット(仏・バシネ)という新しい兜が使われるようになります。バシネットは円錐形の兜で、顔の部分が開けてあるという特徴をもっており、サーブレア(cervelliere)と呼ばれるより単純な構造の鉄兜から生まれました。バシネットは単体で使われることもありましたが、バシネットの上にグレート・ヘルムを被って使われることもありました。その際、最初の騎兵突撃の後の荒々しい白兵戦の間、呼吸と視界の邪魔になるため、グレートヘルムはしばしば捨てられたため、内側のより小回りの利くバシネットは重宝されました。また、首から肩にかけての兜と鎧の隙間を埋めるために、バシネットは下部の縁にカマイルという脱着可能な鎖垂れをつけることもありました。

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▲ドイツ式のバイザー付きバシネット(同上)
 
バシネットにおける大転換は、バイザーがつけられることによって、バシネット単体の防御力が格段に上がったことでした。14世紀中頃までには、ほとんどの騎士の兜が、グレート・ヘルムからバイザー付きのバシネットへと移行しています。バイザーは犬の鼻面ないし嘴のような形をしており、ハウンスカル(独・フンツグーゲル)と呼ばれていました。バイザーは視覚と通気性を犠牲に防御力を高めましたが、可動式のため上に動かすことでバシネット単体の時と同様の視界と通気性を確保でき、さらに取り外しも可能であったため、戦闘時以外にバイザーを外しておくこともできました。バイザーには視界確保のためのサイトの他に、鼻先部分に多くの孔が穿たれており通気性を確保していました。膨らんでいるバイザーの形状からに口の前に空間があったため、グレート・ヘルムよりも楽に呼吸ができたと考えられます。また、バイザーの代わりにT字や逆Y字型の鼻当てが付けられることもあったようです。
 
運用の簡便さと適度な防御を備えたバシネットは、百年戦争期を含む14世紀から15世紀にかけて騎士やメン・アット・アームズ(下馬騎士・重装歩兵)の代表的な兜として普及していきました。14世紀末には首周辺の防御のためにカマイルの代わりにガーガットと呼ばれる金属板でできた頸甲が用いられるようになり、バシネットはさらに強化されます。チェイン・メイルからプレート・アーマーへの移行期で、兜もまた鎧の一部として変化していったのです。15世紀中頃には、バイザーの鼻が丸いビコケ(イタリア語で「小さい城塞」の意)が登場しました。このように、バシネットはさらに多くの金属板を用い、打撃を受け流すために丸みを帯びる方向に進化していき、後の時代に広まるアーメットの原型となりました。
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菊池良正「神聖ローマ帝国」講談社(2003)




<目次>

序章―神聖ローマ帝国とは何か
第一章―西ローマ帝国の復活
第二章―オットー大帝の即位
第三章―カノッサの屈辱
第四章―バルバロッサ‐真の世界帝国を夢見て
第五章―フリードリヒ二世‐「諸侯の利益のための協定」
第六章―大空位時代
第七章―金印勅書
大八章―カール五世と幻のハプスブルク帝国
第九章―神聖ローマ帝国の死亡診断書
終章―埋葬許可証が出されるまでの百五十年間

あとがき
聖ローマ帝国関連略年表
参考文献



「神聖ローマ帝国ってなんだ?」世界史を学ぶ高校生が、中世の歴史地図をみて最初に抱く、そして結局教科書では解明されない謎がこれなのではないかと思います。空間的には現在のドイツを中心として、イタリア北部やオーストリア、チェコ、スイス、ベネルクス三国などの一部を含むこの国家は、果たしてどんな存在なのか。何が「神聖」で、どこが「ローマ」なのか。本書は、古代の系譜を継ぐ中世初期からの歴史を概観していくことで、この素朴な疑問に答えてくれます。

今回は、本書から「神聖ローマ帝国」の名前の由来に関わる意外な事実について紹介していきたいと思います。高校世界史の教科書ではよく、962年、オットー大帝(912-973)が神聖ローマ帝国の皇帝に即位、と書かれていますが、厳密にいうと、これは正しくありません。戴冠したとき、オットーはただ「皇帝アウグストゥス」を名乗っただけでした。そこには神聖の字も、ローマの影もありません。当時、ドイツと北イタリアを支配していたオットー大帝とその子孫は、カール大帝の復活させた帝国と帝位を継承したという理念を持っていましたが、大帝所縁のフランスを手中にしていない状態では「ローマ帝国」と名乗るのがはばかられたのでしょか。「ローマ帝国」という文字が公式文書に現れるのは、オットー大帝の属すザクセン朝が断絶したのちに開かれた、ザリエリ朝のコンラート2世(990年? - 1039)の時代をまたなければなりませんでした。ブルグンド王国を継承した彼は、カール大帝の帝国には及ばないものの、ローマ帝国を名乗れるくらいの版図は獲得したのです。

さて、時代は進み1155年、シュタウフェン朝のフリードリヒ1世が皇帝に即位します。彼の時代、カノッサの屈辱以降続いていた教皇と皇帝のパワーバランスが変化します。イタリア遠征を繰り返し、ドイツ国内でも諸侯を抑えつけることに成功した彼は、「帝国は教皇の封土」とまでうそぶくローマ教皇ハドリアヌス4世の高慢な態度を許しませんでした。フリードリヒ1世は、新約聖書のルカ伝にある「二振りの剣」を、神から発した教剣と政剣のふたつであるという解釈を用い、前者を持つ教皇と後者を委ねられた皇帝との地位の同等性を主張しました。帝国は、教皇により聖別される必要はない、「帝国は神に直接、聖別されているのである!」(本書p96)。このことを示すべく、1157年のイタリア遠征のための諸侯への召集状には「神聖帝国」という国号が記されました。しかし、世界帝国を目指したフリードリヒ1世の時代には、この「神聖帝国」と「ローマ帝国」が「神聖ローマ帝国」となるにはいたりませんでした。

皮肉なことに「神聖ローマ帝国」という文字は、その名前を求めて奮闘した皇帝たちを輩出した、中世前期ドイツの華であるザクセン、ザリエリ、シュタウフェンの三王朝期には登場せず、大空位時代に初めて使われ始めます。大空位時代の間は戴冠を受ける皇帝が存在せず、多くの者が分裂する諸侯に擁立され、対立王として名をあげていたために、正当な王位なるものが継承されていませんでした。対立王の一人ホラント伯は王の権威もなにもあったものではない現実に不満を覚え、帝国の理念だけでもつくりあげようとしました。「外見が壮大になればやがて実態もついてくるものだ!」(同p131)。そして、彼は1254年の公式文書に史上初めての「神聖ローマ帝国」という国号を用いたのです。対立王もこれを使用するようになり、定着化したこの国号はkなき帝国の正式名称となっていったのです。

本書は、「神聖ローマ帝国」の名前の由来以外にも、理念と現実の間で奮闘した歴代皇帝たちを概観し、さらに帝国が30年戦争後のウェストファリア条約によって事実上解体し、最終的にナポレオンに敗北して名実ともに消滅するまでを簡潔に描いています。中世ドイツの全体像を、軽くではありますが、理解するのに最適な本だと思います。


皮剥ぎ、あるいは死体処理人


▲犂を使う農民(14世紀)

皮剥ぎ人になりたいだって、あんた正気かい?まあ、どうしてもっていうなら止めないけどよ…。

まともな職についている奴らは、誰もがあんたを避けて、口も利かないだろう。なんてったって、触れただけで穢れが移るんだ。もちろん、教会だって助けちゃくれない。聖餐だって一番後だ。隣人愛なんて糞食らえ!

もし、皮剥ぎ人が死んでも小教区の司祭さまは棺を教会には入れちゃくれないし、埋葬だってよくて墓場の隅っこ、悪けりゃ自殺者と同じ共同墓地に突っ込まれちまう。でもまあ、それでもいいっていうなら、話だけはしてやるよ。

聞いたところによると、一昔前までは皮剥ぎって仕事はなかったらしい。村の家畜が死んだ時は、そのまま野晒しにしておけば鳥や獣が勝手に始末してくれたんだ。そうでないときは、農夫が自分で穴を掘って埋めればそれで済んだ。

でも、都市があちこちで建設されるようになると、市内での死んだ家畜の処理が問題になった。家畜を埋める空間なんて狭苦し市壁内にはないし、もちろんそのまま放っておけば伝染病が広まっちまうから、そんなの言語道断だ。そこで、市内の死んだ家畜を市壁外に運び出して始末する役職が必要になったってわけだ。もちろんこのときに皮を剥ぐのさ。皮は高く売れるからな。

皮剥ぎは嫌われものだが都市になくちゃならない仕事だ。そんなわけで、市当局は皮剥ぎを保護して円滑に仕事ができるように取り計らってくれてる。皮剥ぎはツンフトこそつくれないが、当局から独占営業を認められていて、一定の地域内では他の皮剥ぎは営業することいができない。同業者と縄張り争いをする手間はないわけだ。

そして、もっと重要な特権として地域内の全ての家畜の処理権を持っている。これがまた、市民から皮剥ぎが嫌われる一因なんだ。市民は死んだ馬や牛から、果ては愛玩用の犬までも全て皮剥ぎに引き渡さなければならない。馬や牛の皮の価格が高騰すればするほど、皮剥ぎは儲かり、市民の皮剥ぎへの憎悪は増すってわけだ。

普通の市民は、自分たちが飼っていた家畜を、勝手に埋めたり処分刷ることは7許されない。禁令を破った市民の家の戸には皮剥ぎのナイフが突き刺される。その家の住人は、触れば賤民に落ちるナイフを自分で取り外すわけにもいかず、かといってそのままの不名誉な状況を続けるわけにもいかず、皮剥ぎに賠償金を支払ってナイフを抜いてもらうしかないわけだ。

ああ、言い忘れていたが哀れな自殺者を引き取って埋めるのも皮剥ぎの仕事だ。教会は自殺者を死んだ後も許さない。自殺者は市の境界あたりまで荷車で運んで、適当に土をかけて埋めればそれでいい。

なあ、ひどい仕事だろ。考え直せよ、と言いたいとこだが、もう無理かな。もう俺と一杯やっちまったもんな、兄弟。俺たちみたいな穢れた人間が選べる仕事なんて、そう多くないぜ。じゃあ、新しい皮剥ぎ仲間の門出を祝ってもう一杯といこうか。

ハンブルク、刑吏の酒場にて


「刑吏の社会史―中世ヨーロッパの庶民生活」 阿部謹也




「また、フーズムでも貧民のために多額の金を遺して死んだ善良な刑吏の棺をかつぐ者がいなかったために、市参事会では評判のよくない六人の獄丁や捕吏たちにかつがせた。しかるにこの六人が揃って足が悪いうえに身長がはなはだしく違い、しかも身体が弱った老人であったために、まことに《恥さらし》な光景になったという。…その観衆の前を歯を食いしばり、屈辱に耐えていた死者の妻子が歩いたのである。」(本文よりp19-21)

<目次>

はじめに

第一章  中世社会の光と影
1 「影」の世界の真実
2 賤視された刑吏
3 皮剥ぎの差別と特権
4 神聖な儀式から賤民の仕事へ

第二章  刑罰なき時代
1 供犠・呪術としての処刑
2 処刑の諸相
絞首 車裂き 斬首 水没 生き埋め 沼沢に沈める 投石 火刑 突き落し 四つ裂き 釘の樽 内蔵びらき 波間に流すこと

第三章  都市の成立
1 平和観念の変化
2 ブラウンシュヴァイクの刑吏
3 医師としての刑吏
4 ツンフトから排除された賤民
5 キリスト教による供犠の否定

第四章  中・近世都市の処刑と刑吏
1 糾問手続きと拷問の発展
2 刑吏の祝宴と処刑のオルギー
3 近世の刑吏

むすび
あとがき
参考文献


中世から近世にかけて、人々に忌み嫌われると同時に、人々によって必要とされ続けた職業があります。刑吏です。刑吏は裁判で処刑の判決を言い渡された被告を、斬首・絞首・火刑など様々な手段を以て処刑することを生業としていました。中世において、人々は戦う人、祈る人、働く人の三種に分けられているという考えがありましたが、刑吏やその他賤民とされた人々はこの三身分の枠外に置かれていました。この三身分の人々は「名誉ある」人々であり、賤民は「名誉をもたない」人々とされていたのです。この時代の「名誉」とはほぼ「権利」と同義に読むことができます。すなわち、彼ら賤民は社会の中で「自己の権利を守ることができな」かっただけでなく、「常にネガティブな生活を余儀なくされて」(p13)いたのです。

接触したり、会話を交わしたり、ともに食事をするだけで彼らと同じ賤民に落ちると考えられていたため、市民たちの刑吏に対する差別は非常に激しいものでした。どんなに善良な刑吏でも、死んだときに棺を運びに来てくれる者はなく、刑吏の妻の出産にかけつける女房仲間は一人もいませんでした。自力救済が原則の中世社会においては、ギルドやツンフトなどの同業者組合が、組合員同士の互助や協力体制をつくりだしていましたが、ツンフトイの結成が認められない刑吏は、助け合う仲間もなしに、市民たちの差別に耐えていかなければなりませんでした。

刑吏が差別される理由、それはローマ法の導入によってもたらされた古典時代の刑吏への差別意識の復活や、単純に人を殺すことに対して起こる人間の自然な嫌悪感が原因なのではありませんでした。むしろ12、13世紀における中世人の持つ処刑概念の変化が刑吏への蔑視をもたらしたのです。古代ゲルマンの時代にあって、処刑とは犯罪行為によって社会や共同体が受けた傷を、住民全員で修復するための儀式でした。それは古代の神々を沈めるための供犠であり、社会の傷を癒す呪術だったのです。そのため、処刑の執行人は聖職者であり、処刑自体は神聖な儀式だったのです。

この処刑概念を変えたのはキリスト教の普及と平和意識の変容、そして都市社会の発展でした。キリスト教によって供犠や呪術としての性格を否定された処刑に対して、人々は畏怖の念を抱くことはもはやなく、残った感情は怖れでした。さらに、単純な殺人などは支族間の復讐による解決を原則とし、国家や統治者による介入を認めなかった古代ゲルマン社会は、キリスト教の受容と共に私闘なども禁じた、世界の一元的な平和を目指すようになっていきます。そして人口の密集した都市という新たな生活環境は、氏族集団を解体し、個人による犯罪が被害者個人だけではなく多くの市民へも影響を与える環境を提供し、平和維持のために処刑には修復の意味ではなく予防のための威嚇の意味が強くなっていきました。さらに、拷問の導入や国家権力による公開処刑は、刑吏を公権の名のもとに残虐な行為をする自分たちとは異色の者であるという意識を人々に抱かせたのです。

本書はこのような平和・処刑概念の変遷や都市法の整備による刑吏の賤民化がどのようにしてなされたかについてや、中世の刑吏の日常生活、蔑視・差別の実態、皮剥ぎや街路掃除などの副業、刑吏たちの共同体などについて興味深い事実がぎっしり詰まっています。中世のマルジノーに関心のある方だけでなく、中世全般に興味がある方にお勧めの一冊です。


「カペー朝 フランス王朝史1」 佐藤賢一

 


<目次>
 
はじめに フランス王とは誰か
最初のルイは誰か/ヴェルダン条約とメルセン条約/フランク王か、フランス王か
 
1 ユーグ・カペー(987年~996年)
強者ロベール/ロベール家の台頭とカロリング家の凋落/再び王位へ/無政府状態/伯の独立/冴えない始祖
 
2 名ばかりの王たち
ロベール1世(996年~1031年)/身から出た錆/アンリ1世(1031年~1060年)/フィリップ1世(1060年~1108年)/淫婦
 
3 肥満王ルイ6世(1108年~1137年)
不遇の王子/肥満王/足場を固める/家臣団の統制/左右の重臣/ターニング・ポイント
 
4 若王ルイ7世(1137年~1180年)
血気さかん/十字軍/離縁/揺さぶり/好機到来
 
5 尊厳王フィリップ2世(1180年~1223年)
月桂樹のイマージュ/初仕事/宿命の戦い/大荒れの私生活/征服王フィリップ/内政の充実/ブーヴィーヌの戦い/大国フランスの誕生
 
6 獅子王ルイ8世(1223年~1226年)
恵まれた貴公子/欲求不満の日々/獅子奮迅
 
7 聖王ルイ9世(1226年~1270年)
列聖された王/偉大なる母/美しき妻/聖王の十字軍/正義と平和の使者として/ひたすらに神のため
 
8 勇敢王ヒリップ3世(1270年~1285年)
名君の息子/寵臣政治/内政の進化/アラゴン遠征
 
9 美男王フィリップ4世(1285年~1314年)
謎めく美貌/法律顧問/唯我独尊/ローマ教皇との戦い/神殿騎士団事件/晩年に射した影
 
10 あいつぐ不幸
ルイ10世(1314年~1316年)/フィリップ5世(1316年~1322年)/シャルル4世(1322年~1328年)
 
おわりに 天下統一の物語
王たちのデータ/カペー朝の功績/カペー朝の限界
 
主要参考文献
 

 
本書は西洋歴史小説家の佐藤賢一さんが書いたノンフィクション作品です。小説家が書いているだけあって、一気に読破させてしまう面白さを備えています。特に王個人の置かれた状況を、単なる政治的、事件的な視点から見るだけではなく、王が在位した当時の年齢や王妃との関係、幼少期の生活条件などから、王の資質や統治理念を丁寧に描き出していて、時間的にも地理的にも距離を感じずにはいられないフランスの王たちに親近感が湧いてきます。

もちろん、王の性格や人柄など想像を逞しくして書かれている部分もあり、必ずしも学問的とは言い難いのかもしれませんが、それでも根拠のあるテキストの中から、そのように歴史を再構成している文章は、読んでいてとても心が躍ります。過去に起こった出来事を全て知ることができない以上、このような営みもまた歴史のひとつの表現の仕方なのかもしれません。
 
表題のとおり、本書は中世フランス王国で300年以上の長きにわたって王位を継承してきたカペー朝を描いた物語です。フランスの王朝というと革命期のブルボン朝などのほうが有名かもしれませんが、このブルボン朝や、その前のヴァロワ朝、スペインのブルボン朝は全てカペー朝の血筋を引いています。そういった意味で、カペー朝はフランス王国に影響を与え続けていたといえます。カペー朝がどのようにして、王位簒奪者の誹りを免れ、統治を正当化していったのかなどは、カペー朝全体を、見渡す長いスパンを一冊の新書にコンパクトにまとめた本書だからこそ、わかりやすく説明できるのではないかと思います。
 
初代ユーグ・カペーの時代。自身の狭小な王領地でさえも満足に統治できなかった「名ばかりの王」から、戦争や政略結婚を経てフランス王国の大部分を掌握し、さらに神聖ローマ皇帝や教皇に並ぶほどの権威を備え、ヨーロッパ一の強国の主となるに至るカペー朝の奇跡。特に世界史の教科書にも登場する、カペー朝のトップ・スリー、フィリップ2世、ルイ9世、フィリップ4世についても彼らの事績だけでなく、彼らの親の代に築かれてきたものがあったからこそ、彼らの活躍があったのだという歴史の連続性を感じさせられます。カロリング家の断絶に続くカペー朝の開始、そして終焉までの概要を理解したいと思っている方にはおすすめの本です。

バルビュータ-古代の伝統

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▲Y字型サイトとサイトの縁帯を持つバルビュータ (http://en.wikipedia.org/wiki/Barbute)

イタリアで花開いたルネサンス運動は、古典古代を見直していくことで人間性を再生しようとする潮流を生み出し、絵画や彫刻などの芸術や文芸の領域に留まらず、防具製作にも影響を与えました。この流れは、たんに古代文化の復興に終わらず、これまでにない新しい試みをする気風を生み出しました。ルネサンス時代のイタリアでは、この「再生」の中で、完全に頭部を覆うアーメットや後述のバルビュータのような新しいタイプの防具が誕生します。

バルビュータ(barbuta)ないしバルブータは14世紀に北イタリアで生まれました。英語ではバーバット(barbut)と表記されます。頭頂部が丸みをおびていて、かつ鉢が深くつくられているために頭の大部分を覆う事ができます。バイザー(面頬)はなく、正面にT字ないしY字型に開いたサイト(視孔)を持っており、また鼻や口も露出しているのでこのサイトは呼吸口も兼ねていました。バルビュータは、正面がほとんど露出しているものや、ハート型のサイトを持つもの、額から鼻までの部分に鼻当てが付けられているものなどさまざまな形状のものがありました。また、兜を滑った刃が顔に当たらないようにするために、サイトの縁にストッパーとしての帯が鋲止めされているものもありました。

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▲コリント式兜 (http://thewalters.org/exhibitions/heroes/gallery.html)

バルビュータのモデルは、紀元前8~7世紀、古代ギリシアに普及していたコリント式兜です。基本的な形状は、バルビュータとコリント式兜でほとんど違いはありませんが、コリント式が頭頂部に羽飾りなどを付ける装飾性を持っていたのに対し、バルビュータは実用性に特化しているといえます。バルビュータのような兜は正面のサイト以外の頭部を全て覆っているので、グレート・ヘルムには及ばないものの、かなり防御に適しています。

その反面、耳を覆ってしまっているので指示が聞こえずらい、暑い、重いなどの欠点があります。これらの欠点を改善するために古代ギリシアでは、耳を露出させたり、頬当てを可動式にするなどけの軽量化が図られました。バルビュータは、グレート・ゲルムよりも視界が広く、呼吸が楽であり、ケトル・ハットやノルマン・ヘルムよりも防御域が広い、中間をとったような兜として、活用されたであろうと思われます。

ちなみに、管理人のお気に入り映画の「ロード・オブ・ザ・リング」に登場するゴンドールの兵士の兜はバルビュータがモデルのようです。


軍事拠点と避難所と-城の起源

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▲寡兵で城に挑む筆者 「Mount&Blade」より

11世紀以降、中世ヨーロッパの各地で、地域支配の中心として、城の建設が盛んになっていきます。中世中期から多く現れるようになった城は、それまでの防衛施設や、防備を施された集落、軍事要塞などとはいくぶん異なった性質を持ち、中世独特の役割を担っていました。この新しい城は、多くの場合、その城の周辺領域を支配するための拠点であり、当該地支配者の住居であり、権力行使の中心でした。今回は「中世の城」への影響の有無などと併せて、中世盛期以前の防衛施設を概観していきます。

ゲルマン民族の大移動以前、イタリア、フランス、イングランド、スペインなど、西ヨーロッパの大部分を占める地域は、ローマ帝国の支配下にありました。帝国領内の重要拠点や辺境地域にはローマの軍団が配備され、軍団は四方を壁と堀で囲んだ防備施設「カステルム」を築き、そこを拠点に駐屯しました。カステルムは、一見すると中世の城の原型のようにも思われます。しかしカステルムはあくまでも純軍事的な施設であり、帝国からの支配拠点・兵士居留地という意味はあれど、領主の住居としての役割や、分断された領国の中心地としての役割は持っていませんでした(後述のように都市化したカステルムが地域の中心としての機能を持つ事はありえました)。また、カステルムは後世の城に比べ大規模であり、職業軍人の駐屯を前提としていたために、防衛設備が最低限のものに限られているという特徴を持っていました。カステルムには退役した軍人が定住するために純軍事的役割を失って城塞都市となったり、中世に拡張を施されて城として生き残ったものもありましたが、そのまま中世の城の原型というには難がありそうです。

ローマ文明と並んで、中世ヨーロッパを構成する要素のひとつとなった古代ゲルマン社会では、避難施設としの城塞が存在していました。タキトゥスは彼の著書「年代記」の中で、この城塞を「部族の枢要の地」と呼んでおり、マルコマンニ族についての記述では「王の邸」と城塞が別ものとして存在したことがわかります。ゲルマン民族の王ないし首長たちは、いくらかの防備を施した邸宅に、近親者や従士たちとともに住んでいましたが、それは城と呼べるような規模ではなかったようです。ゲルマン人の城塞は、有事の際に民衆を収容するため避難所であり、首長の住居ではなく、部族全体のための城塞だったのです。中世の城は、城主一家、使用人、守備兵などの少人数を収容するのに適したコンパクトなつくりをしており、ゲルマンの避難城塞とはかなり異なった特徴を持っていたといえます。

東ローマ帝国の後身であるビザンツ帝国が、小規模な兵力で防衛可能なつくりの城の原型を提供したという説もあります。ユスティニアヌス大帝の時代、将軍ベリサリウスが北アフリカへと遠征した6世紀頃、チュニジアにアイン・トンガという城塞が建設されました。アイン・トンガは、分厚い石造の壁と高い塔からなる防衛施設で、ひとつの塔は守備隊が最後の抵抗拠点として使えるようにつくられていました。これは中世の城の主塔(キープ)を髣髴させます。また、イスラム教徒もビザンツの建築様式を模倣して、8~9世紀の間、イベリア半島で数百の城塞をつくっています。これらの城塞は矩形の塔で強化されており、レコンキスタを通じてキリスト教圏にも影響を与えていきました。

ヴァイキングの活動も中世の城に影響を与えました。北フランスや低地地方など、ヴァイキングの影響を最も受けやすかった地域では、それまでになかった新しい形式の城塞が生まれました。盛り土の上に築かれた主塔と、柵で防御された囲い地からなる城塞は「モット・アンド・ベイリー」様式と呼ばれ、西ヨーロッパにおける初期の城の一般的な様式であると考えられています。木造であるために考古学的な研究が難しく、この様式の起源はかなり不鮮明ですが、最初の出現がヴァイキング侵攻の時期であるために、ヴァイキングの土塁で防御した野営地と、フランス人の対ヴァイキング用避難城塞からの影響を受けて出来たという説が有力なようです。中世の城は、これらの諸要素の融合と、国家の解体や権力分裂という政治的な条件によって始めて誕生したのです。

ヨーロッパ大戦-ブーヴィーヌの戦い

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▲オラース・ヴェルネ「ブーヴィーヌのフランス王フィリップ2世」

“王国全体のあらゆる所で拍手喝采以外には何も聞こえない。身分、貧富、職業、性別、年齢の区別なく、皆、賛美歌を歌おうとし、皆の口から、王に対して栄光と賞賛と名誉が歌われる”

ギョーム・ル・ブルトン『フィリピデ』第12巻、西村由紀子訳、西洋中世資料集(2000)より

1214年7月27日、フランス、トゥルネー西のブーヴィーヌにおいて、大規模な会戦がおこなわれました。この戦いは、神聖ローマ帝国、イングランド、フランスなど北ヨーロッパの大国の命運を握る非常に重要な戦いでした。一方の陣営は、オーギュストの渾名で知られるフィリップ2世(1180-1223)率いるフランス軍であり、封建契約のために集った諸侯率いる騎士と歩兵から成っていました。それに対する連合軍は、ヴェルフェン家の神聖ローマ皇帝オットー4世(1198-1215)を率いるドイツ諸侯、イングランド陣営としてはソールズベリ伯ウィリアム、ジョン王(1199-1216)の腹違いの兄弟であるウィリアム・ロングソードがおり、フランドル伯フェルディナント、ホラント伯やブラバント公など低地地方の諸侯たちも加わっており、さらにはフランスの反乱貴族であるブーローニュ伯なども馳せ参じている大連合でした。

フランス王に対するこのような大規模な連合軍が成立する背景には、個々の勢力のフランス王に対する敵対関係がありました。オットー4世は皇帝位をめぐり、シュタウフェン家のフリードリヒ(後のフリードリヒ2世)と対立していましたが、フィリップ2世と教皇はフリードリヒを支援していました。また、イングランド王ジョンはアンジュー家の所有していた大陸領土をフィリップとの戦いでほとんど失っていたために、その奪還を狙っていました。そのために、ジョンは低地地方諸侯やブーローニュ伯らに対し貨幣知行を与えて彼らを対仏同盟に繋ぎとめていたのです。貨幣知行とは土地の代わりに貨幣を与えて、その大小として軍役奉仕を求めるものでした。ブーヴィーヌの戦いに先立つ2月、ジョンは自ら南仏はラ・ロシェルに上陸しプワトゥー地方で勢力を拡大させていましたが、フランス王太子ルイの反撃のためにそれ以上の進軍を阻まれました。しかし、この遠征は実は陽動であり本命は北フランスの皇帝率いる連合軍だったのです。

ブーヴィーヌで激突した両軍の兵力がどの程度であったのかについては、よくわかっていません。最大で両軍合わせて8万の軍勢がいたとする記述もありますが、これは多すぎだとする見解もあり、合計1万から4万の兵力と考えられてもいますが、それにしても幅が大きすぎます。騎兵と歩兵の割合に対しても議論があるようですが、ブーヴィーヌに参加したある一軍では騎兵の4倍の歩兵がいたというのが、基準になるかもしれません。また、フランス軍よりも連合軍のほうが、大差ではないにしろ、数で勝っていたようです。

戦闘はトゥルネーを出発しリールに向かう途中であったフランス軍に、連合軍が追いつくというかたちで始まりました。フィリップ2世が戦場を故意に選んだのか、それとも止むに止まれぬ状況を感じて選んだのかは不明ですが、彼は敵を迎え撃つべく、全軍を騎兵と歩兵から成る隊列を3隊編成して横一列に並べました。連合軍も同じような編成を行い、左翼にフランドル伯、中央にオットー4世、右翼にイングランドとブーローニュ伯の軍が配されました。しかし、連合軍は追撃の中で隊列を大きく乱しており、その長さは数kmに及んだと考えられています。このことが連合軍にとって致命傷となります。

最初にフランス軍に追いついたのは左翼のフランドル伯で、ブルゴーニュ公とシャンパーニュ伯に率いられたフランス軍右翼と衝突しましたが、戦いはもっぱらフランス軍優勢に進みました。この戦闘の最中、中央では、歩兵を前面に配置し守りの姿勢をとったフィリップ2世に対し、オットー4世の軍が攻撃を開始します。ドイツ軍は一時フィリップを落馬させるまで攻め込みますが、やがてドイツ軍が衰え始めると、後方に温存してあった騎兵の支援を受けて、フランス軍の巻き返しが起こり、馬を負傷させられたオットー4世は戦場から逃走します。中央とほぼ同時に戦闘に入った連合軍右翼は、当初フランス軍と互角に戦っていましたが、全ての歩兵がまだ戦場に到達しきれておらず、さらに他の戦闘で勝利したフランス軍が増援にやってきたために、ソールズベリ伯やブーローニュ伯といった指揮官を失い敗北します。

連合軍左翼が敗走を始めると戦線は崩壊し、戦いはフランス軍の完全な勝利に終わります。フランドル伯、ブーロニュ伯、ソールズベリ伯ら5人の諸侯が捕虜となり、両軍会わせて百数十名の騎士と数戦の兵士が戦死したと伝えられています。この戦いの結果、フランスは領土拡張を成功させ安定的に国家を維持していきます。一方ドイツでは、諸侯に見放されたオットー4世が戦いの翌年に廃位され、シュタウフェン家のフリードリヒ2世が新たに神聖ローマ皇帝に即位しました。イングランドでも、遠征の失敗が諸侯の失望を招き、マグナ・カルタに繋がる内乱の要因のひとつとなりました。

グレート・ヘルム-樽型兜

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▲グレート・ヘルムを被っている騎士

グレート・ヘルムは、複数の金属板を折り曲げて連結したものを円筒形に接合した兜で、頭部全体を覆うことができました。形状が、樽ないし、ひっくり返したバケツの形状に似ているために、バレル・ヘルム(Barrel:樽)やバケット・ヘルム(bucket:バケツ)、ポット・ヘルム(Pot:鉢)などと呼ばれることもあるようです。上記のような兜を英語でグレート・ヘルムと言いますが、中世においてはヘルムという言葉のみでこの樽型兜のことを意味していました。フランス語ではオーム、ドイツ語ではトップフヘルムと呼ばれます。

グレート・ヘルムは「頭部全てを覆う」ことを目的にして作られていたために、かなり単純な構造をしていました。そのために、いくつかの弱点を持っています。まず、頭頂部がほとんど平らであるために打撃系の攻撃に弱いということが挙げられます。また、兜が顔全体を覆っているために、非常に重く、また前面に開けられた一文字のサイト(のぞき穴)から周囲の状況を確認するしかないために視界が非常に限られていました。そのため、グレート・ヘルムは軽装で敏捷さを求められた下級の歩兵や弓兵には使われず、密集した騎馬軍団での突撃戦法を主とする騎士や、ほとんど動かない防御陣を組んだ重装歩兵重など、兜の重さや視界の悪さが影響しにくい兵士に使用されました。さらに、グレート・ヘルムには口の辺りに換気と呼吸用の穴が開けられていましたが、防御上の理由で穴がかなり小さくならざるをえなかったため、通気性も悪かったようです。また、兜から頭への衝撃を緩和するために、使用者は兜の下側で布製の頭巾を被りました。

12世紀末に生まれたグレート・ヘルムは、十字軍遠征に参加した騎士たちに多様されたこともあって、騎士の防具の象徴となっていきます。また、13世紀末になるとグレート・ヘルムには丸みを帯びさせて頭頂部を尖らせるという改良が加えられました。この改良により、これまで平らな面で直接打撃を受けていたのが、打撃を横に流して力を弱められるようになりました。頭頂部に丸みを帯びたこのグレート・ヘルムは特にシュガーローフと呼ばれることもあります。改良されたグレート・ヘルムは14世紀頃まで使われましたが、バイザーのために良好な視界・通気性を確保することのできたバシネットに、しだいに取って代わられていきます。15世紀において、グレート・ヘルムは騎士のトーナメントにおいてしか使われなくなりますが、それでも代表的な騎士の兜としての座を保っていました。

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▲サイトと通気孔、頭頂部に装飾を施されたグレート・ヘルム

グレート・ヘルムには実用性だけでなく、装飾性も同時に求められていました。例えば、初期の通気孔はただの小さい穴でしたが、後に十字などの模様をかたどったスリットが登場します。また、横軸のサイトにあわせて縦軸の装飾が付け加えられて顔前面に十字を描いたグレート・ヘルムもあります。特にドイツの兜に多かったものとしては、兜の天辺上に王冠や翼、紋章を現す旗やの飾りを取り付けたものがあります。栄誉や名声を求める騎士階級に使われた防具であるからこそ、このような装飾が発展したのでしょう。

サレット-長い“tail”に守られて

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▲様々な形状のサレット(19世紀のスケッチより)

サレットの一番の特徴は、後ろに伸びた「尾(tail)」のような形状のネックガードがついている点です。このネックガードは、首からうなじにかけて広い範囲を防御できるようになっていましたが、兜前面は鼻の高さまでしか覆われていないため、顎当てなどの補助防具とともに使われることもありました。ネックガードは、兜全体が一枚の金属板を打ち出してつくったものではスカル(兜の部位のひとる:頭蓋を囲む部分)と一体になっていましたが、スカルが頭の形に合わせて作られている場合には、複数の金属板を鋲留めして後からスカルに接合されました。また、このネックガードは、時代が下るにつれて長くなる傾向がありました。

サレットの前面には可動式のバイザー(面頬)がつけられているものと、そうでないものがありましたが、どちらにしても目の部分に視界を確保するためのスリットが開けられていました。また、15世紀中頃にイタリアで生まれたサレットは、同時代に使われていたバルビュータとはかなり対照的な形をしていたために、バルビュータにみられる古代ギリシア・ローマからの伝統をほとんど継承していないタイプの兜であると考えられています。

ケトル・ハットと同様、単純なつくりであったサレットは発祥の地イタリアのみならず、ヨーロッパで広く普及しました。特によく使われていたイタリアとドイツでは兜の形状に地域差が生まれ、イタリア式のものはスカルが半球形のものが一般的であり、ドイツ式のものは天辺がいくぶん平らで、額に当たる部分から鶏冠のような飾りないし補助防具がつけられているものもありました。興味深いことに、サレットが隆盛から4世紀以上経過した第一次世界大戦において、ドイツ軍のヘルメットの形状に影響を与えたという見方もあるようです。