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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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ケトル・ハット-戦場の鉄帽子

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▲ケトル・ハット

ケトル・ハット(kettle hat)は中世を通じ、最も普及した兜のひとつといえるでしょう。この兜はフランス語ではシャペル・ド・フェール(chapel de fer)、ドイツ語ではアイゼンフット(Eisenhut)と呼ばれますが、どちらの名前も「鉄の帽子」を意味しています(シャペル・ド・フェールの直訳は「鉄の礼拝堂」)。その名の通り、ケトル・ハットは言ってみればただの鉄製の帽子です。つくりの簡素さから、ヨーロッパ全域で使用されたため、種類も豊富で、各地域によって少しずつ形がことなっています。イタリアのものは帽子の天辺が平らにつくられることが多く、スペインでは天辺がとがった水滴型のものが一般的だったようです。また、フランスでは渦巻き模様を施したシャペル・ド・フェールがあり、ドイツのアイゼンフットは天辺が球形で、鍔部分の境界近くにのぞき穴があるものもありました。

このように多様な形を持つケトル・ハットですが、共通の特徴として防御力を高めるための鍔が付いていたことが挙げられます。この鍔は馬上からの攻撃や弓による攻撃など上部からの攻撃に対して威力を発揮しました。攻城戦など敵が自分より高位置にいる場合にも、同じように有効だったと思われます。さらに、騎士用のグレイト・ヘルム(バケツ型兜)などに比べて良好な視界を確保できたため、弓兵に多用されたようです。その反面、側面攻撃に弱いという欠点を持っていたために、メイル・コイフ(鎖帷子の頭巾)などと併用されることもありました。

11世紀初頭から使用が始まったケトル・ハットは、近世の初期まで使われ続けました。簡単なつくりのため、防具の中でも比較的安価であったケトル・ハットは、被るだけという使い勝手のよさもあいまって、歩兵・弓兵などの下級兵士たちに好まれました。また、このケトル・ハットは時代を超えて近現代の戦争でも使われていました。第一次世界大戦においてイギリス軍は、頭部損傷による戦死者が多数出たために、降ってくる榴弾の破片から頭部を保護する目的で鉄製のヘルメットを使い始めましたが、これは中世のケトル・ハットと大差ない形をしていました。


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▲第二次世界大戦イギリス・マークⅡヘルメット

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プレート・アンド・メイル-板金鎧の発達

盛期から後期における中世ヨーロッパにおける鎧の変遷を見ていくと、大きく三段階に分けられます。第一期はおおよそ11世紀頃から14世紀初めまでに鎧の中心であったチェイン・メイル(鎖鎧)の時代。第二期は、14世紀中ごろから15世紀中ごろまでのチェイン・メイルから後期のプレート・アーマーへの過渡期(プレート・アンド・メイル)。第三期が15世紀中期以降、騎士の主な装備がプレート・アーマー(板金鎧)となった時代です。しかしばがら、ここで示した時代枠はあくまでもおおまかなイメージを捉えやすくするためのものであって、実際はその騎士(ないし兵士)がどの社会身分に属し、いかほどの経済力を持っているか、またどの地域に住んでいるかによって状況は大きく異なっていました。

今回は、第二期から第三期にかけて、プレート・アーマーは戦場の主役になっていく過程を見ていきたいと思います。最初期のプレート・アーマーは13世紀はじめに姿を現します。全身を防御していたチェイン・メイルに、補助的防具として独立した膝当てや脛当てを付け始めるましたが、これがプレート・アーマーへの移行の第一段階でした。これらの独立した防具は、しだいに拡張していき、最終的には四肢を全て包み込めるようになっていました。14世紀終わりまでに、板金で造られる防具はほとんど出揃い、これらの防具としては上半身では、頸当て、肩当て、上腕当て、肘当て、前腕のための腕甲、手甲があり、下半身では腿当て、膝当て、脛当て、足のための鉄靴がありました。

14世紀の前半になると、胴体を守るために革や布でできた胴着に金属板を縫いこむ「コート・オブ・プレート」が発明され、さらに1350年頃以降には胴体を守るために独立した金属板からできた胸当てが使われるようになっていきます。15世紀、この胸当ては騎馬する兵士のためにランス・レスト(槍掛)をもつようになります。これは右胸に付けられた突起物で、馬上で兵士が槍を構えるときの支えとして使われました。

鎧の変遷における第二期の騎士たちは、社会的地位や財力や、必要性にあわせて、上述の各々の防具を選んで使っていました。体全体を隈なく保護するためのチェイン・メイルは、個々の防具選択以前の大前提の防具として君臨していたのです。この時代の鎧は、チェイン・メイルとプレート・アーマーを重ね着していたために、プレート・アンド・メイルと呼ばれます。また、14世紀までのプレート・アーマーは磨かれていなかったため「黒い甲冑」が一般的でしたが、15世紀には磨きあげられた「白い甲冑」が普及します。これは、研磨し滑らかにすることで敵の攻撃を逸らす働きと、黒に比べ太陽光線を反射して熱の吸収を抑えるという働きがありました。

第三期、すなわち15世紀中期になると、騎士の標準装備は上述の防具をすべて揃えたものになります。装備の重量は20kg程度のものから、重い物では30kg弱のものまでありました。この時代になるとチェイン・メイルは鎧の主役の座を降りていますが、それでも関節部分など特に動きを要する部分を補強するために使われ続けました。また、この時代に騎士たちは強力な板金で前身が覆われたために、盾をほとんど使わなくなりました。完全なプレート・アーマーの普及と衰退に関しては、別の記事に譲ります。

あるべき姿を求めて―マグナ・カルタの成立背景

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▲マグナ・カルタ(1225年版)

愛国心に満ち溢れた諸侯たちが暴君ジョン(1199-1216)の圧制に対抗して国民を守り、なおかつ近代的議会制と人権宣言の基礎としてマグナ・カルタ(Magna Carta)を勝ち取ったとする説は、今日ではほとんど否定されています。もちろん、マグナ・カルタが後代に与えた影響が大きかったのは事実ですが、当時の人々はそれまでの現状を改善することを第一の目的としてマグナ・カルタをつくりあげていったのです。現在の通説では、マグナ・カルタは王権に対抗した諸侯たちが、封建制のあるべき正常な姿を王に認めさせた封建文書であとされています。

マグナ・カルタ成立を推進した諸侯たちは、現状の封建制に不満を持っていました。不満の原因はいくつかありますが、大きなものとしてジョン王個人の問題と、ジョンを含む歴代国王による重い財政負担があげられます。ひとつめの問題についてはアンジュー家の大陸領土喪失が大きく関係しています。ジョンの即位時、アンジュー家はイングランドに加え、実にフランスの西半分を支配下においていました。ところが、フランス国王フィリップ2世(1180-1223)が、領土拡大政策をとりだすと大陸諸侯の離反が相次ぎ、1206年までにアンジュー家の大陸領土はアキテーヌの一部を残すだけとなります。1214年、ジョンは大陸領土奪還のためポワトゥーへ遠征を行いましたが失敗します。大陸領土損失はジョンの軍事手腕の欠如を露呈し、本質的に武人である諸侯たちの間に不評を生みました。また、諸侯の子弟を人質にとったり、諸侯に対し誠実義務を確認する誓約書をわざわざ提出させるなどしており、ジョンは諸侯を信用することができず、両者の間には信頼関係が築けていなかったという問題もあります。

次に貴族たちに課せられた財政負担について見ていきます。ジョンに先立つリチャード1世(1189-1199)は、十字軍遠征、対フランス戦争のための軍資金、さらに皇帝ハインリヒ6世により虜囚にとられたための身代金捻出のためと、多額の出費を諸侯に課してきました。ジョンの時代にも、引き続き対フランス戦争が行われ、大陸領土喪失後もその奪還戦のために戦費を必要としていました。これらの戦争には大陸の傭兵が多数動員されたために、戦費は莫大なものとなりました。そのためジョンは封臣の封建的付帯義務を存分に活用して資金を集めました。封建的付帯義務とは封臣の封土相続に伴う相続料、封建的軍役の代替となる軍役代納金支払いの義務や、封臣の遺児の後見権、封臣の寡婦や娘の結婚許可権を王の権利とするものでした。封臣は高額の相続料を支払い、また王による恣意的な後見や結婚を回避するために、これらの権利を買い取らねばなりませんでした。しかも、相続料や権利の価格は定額が無かったため、失地回復遠征を準備していた1213年頃には特に苛斂誅求が激しくなりました。

1214年、ブーヴィーヌの戦いにおけるフランス側の勝利によって、ジョンの大陸領土奪還の道は完全に閉ざされました。そして、この遠征の失敗以降、諸侯たちは公然とジョンと対立するようになっていきます。それまでも散発的な抵抗はありましたが、ブーヴィーヌの戦い以降、不満を溜め込んでいた諸侯は横のつながりをもって共同でジョンに対し、自分たちの権利確立のために交渉を行うようになりました。両者は会合を重ねましたが意見の一致は果たせず、また諸侯はジョンと同盟関係にあった教皇による仲介書簡を認めなかったため、とうとう1215年5月5日、一部の諸侯たちは王に対する誠実破棄を宣言します。これに対しジョンは諸侯の所領差し押さえを州長官に命じ、王国は内乱に突入しましたが、諸侯も王も決定的な対立を避ける状態が続きました。同月17日にロンドンが諸侯の手に落ちたことで、両者のパワーバランスが崩れ中立を保っていた諸侯の多くが反対派となるに及び、6月15日、ロンドン近郊のラニーミードにおいてマグナ・カルタが王によって認められました。(マグナ・カルタの内容については別の記事に譲ります。)

かくして、成立したマグナ・カルタでしたが、厳密な意味で1215年のマグナ・カルタが機能したのはほんの数週間だけでした。王と諸侯の内容解釈の違いや、憲章内容遂行の遅れにより両者は再び内乱状態へと陥っていきます。1216年、ジョンが内乱の中で没した後に幾度かの修正を経て、最終的に1225年、マグナ・カルタは独立した御領林憲章と併せて国法となりました。マグナ・カルタは王の恣意に対抗する根拠として、その後の封建社会において多きな影響力を持ち続けていきます。

学問として、道標として-前近代における占星術の歴史

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▲人の十二ヶ月と十二宮「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」より

占星術とは、惑星や星座の位置を解釈することで、国家や人の運命を予言するというものです。今日、占星術は迷信の類とみなされていますが、前近代の社会においては、古代の権威によって根拠付けられたれっきとした学問でした。

占星術(アストロジー、astrology)という語が星(アストロス、astros)と論述(ロゴス、logos)というギリシア語の合成であることからも、占星術が、まやかしなどではない論理だった学問と見なされていたことがわかります。


広範な地域に、数世紀にわたり普及した占星術の手法は、各地域、時代によって多少の違いはみられるものの、基本的な考え方は同じものでした。すなわち、太陽の進む道筋である黄道を12等分し、それぞれの部位(宮)にある星座を特定し、さらに太陽と月を含む7惑星(水星・金星・火星・木星・土星)の位置を解釈するという手法です。

30度分の幅を持つ12の宮のそれぞれに星座が与えられています。白羊宮(おひつじ座)、金牛宮(おうし座)、双子宮(ふたご座)、巨蟹宮(かに座)、獅子宮(しし座)、処女宮(おとめ座)、天蠍宮(さそり座)、人馬宮(いて座)、磨蠍宮(やぎ座)、宝瓶宮(みずがめ座)、双魚座(うお座)です。

紀元前2世紀のギリシア人によって整理された結果、白羊宮が春分の日に当たるために十二宮は以上の順序で表記されますが、地球の自転軸の微妙なずれのために、2000年以上経った今日では春分の日には双魚座(うお座)がきてしまっています。これらの黄道12宮と7惑星には、それぞれ異なった性質が割り振られ、天空における両者の配置相関関係は複雑な理論に基づいていました。


占星術の生まれははっきりしていませんが、古代メソポタミアのシュメール人の間に始まったとする説が有力なようです。それが現在とほとんど変わらない形に到ったのは、前5世紀頃のカルデア王国(新バビロニア王国)においてでした。このため、ヨーロッパではカルデア人は占星術師の代名詞となっています。

古代メソポタミアに芽生えた占星術は、やがて西はギリシア、東はインドにまで伝播していきます。特に西方の占星術は、ギリシアの宇宙観や自然哲学と結びつき、ヘレニズム時代に一大発展を遂げます。プラトンやアリストテレスは、天体の運行と地上の物質の運動との間に相互関係を求め、数学者ピタゴラスは天体運動の数学的正確さから星空に万物の普遍性を見出そうとしていました。ヘレニズム時代までには世界の四大元素(空気・水・土・火)や人体の四体液論(多血質・粘液質・憂鬱質・胆汁質)、温感湿乾、春夏秋冬、幼・壮・老といった人生の各時期などとも結び付けられて考えられるようになりました。


起源前後にはローマ人のマニリウスは12宮を6宮づつ男性宮、女性宮に分け、また12宮各宮が人体のどの部位に相当するかを定めました。これは後の医学占星術に受け継がれていきます。さらに時代が下り、2世紀には大天文学者プトレマイオスが多くの恒星の位置を記した星表「アルマゲスト」をまとめ、また「テトラビブロス」で占星術の集大成を行いました。

偉大な学者たちによって権威付けられた占星術はローマ帝国にも受け入れられましたが、帝国の滅亡後は西欧での伝承が途絶えます。改めてヨーロッパに占星術が普及しだすのは、アラブ文化の受け入れが盛んになった11、12世紀以降のことです。


占星術による運命決定にはいくつかの型がありました。前兆説と呼ばれるものは、上記の12宮や惑星の運行にあまり関わらず、日食や月食、彗星などの突発的な天文事象が見られたときに、地上の事件の予兆を見るというものです。また、人が誕生した時点での星の配置で、その人の一生が運命付けられるとする生誕推知法、支配宮と惑星とが特異現象を起こした際、その支配宮に属す人々のに一大変化をもたらすとする一般占星術、個人や国家などが何か行動を起こそうとする際に、その時期や行動の如何を占う行動発端法などがあります。

ヨーロッパへともたらされた占星術は、同地で特段の変化を遂げることはありませんでしたが、ヨーロッパ世界にすばやく浸透し、時たま教会からの圧力を受けながらも、天文学が占星術から分離し、近代科学によって占星術が否定されるまで大きな影響力を持ち続けました。

下馬装甲騎兵に守られて-イングランドの長弓戦術

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▲ポワティエの戦い(1356)におけるロングボウ兵

百年戦争を代表する数々の戦場で名を馳せたロングボウは、ブリテン島西部、ウェールズ地方を発祥としています。ウィリアム1世(1066-1087)がイングランドを占領した際にウェールズとの間に辺境伯領を置いて以来、イングランドはウェールズ人との戦いを続けていました。長弓を用いた遠距離攻撃を得意とし、イングランド軍が近づくと山に逃げ込んでゲリラ戦を展開するウェールズ人にイングランド軍は長い間悩まされていました。彼らとの長年にわたる戦役の中で、イングランド軍に徐々に長弓が採用されていったのです。ヘンリー3世(1216-1272)の時代には自由農民への武装を義務付ける「武装条例」(アサイズ・オブ・アームズ)の中で装備すべき武器として弓と矢が追加されました。さらに、ウェールズを屈服させたエドワード1世(1272-1307)は、長弓兵と騎士・装甲騎兵からなる軍勢で勝利を得ていました。しかし、この時点での長弓兵は、騎馬突撃の前段階で敵戦力を消耗させるために用いられるのが主で、戦場での決定打は装甲騎兵による突撃であることに変わりはありませんでした。

イングランドの長弓兵と装甲騎兵による編成に変化をもたらしたのはスコットランドとの戦役でした。1298年のフォルカークの戦いにおいては有効性を証明した長弓戦術は、1314年のバノックバーンの戦いではイングランド側に決定的な敗北を招くことになります。フォルカークにおいては防衛陣を組むスコットランド槍兵のシルトロン(密集陣形)の上に矢の雨を降らせることで勝負がつきましたが、バノックバーンではシルトロンの突撃に不得手な装甲騎兵が対応し、側面に展開した弓兵は少数のスコットランド騎兵に掃討されてしまいました。装甲騎兵はほとんど何の援助も無いままシルトロンの槍衾に攻撃され敗北します。つまり、長弓兵・装甲騎兵軍は、相手が防衛陣を組んで動かない場合には効果的でしたが、相手が積極的に攻めてくる場合、防御の苦手な騎兵と打たれ弱い軽装弓兵を敵にさらしてしまうという弱点を持っていました。そこで考案されたのが、長弓兵と下馬した装甲騎兵(メン・アット・アームズ)による戦術でした。

エドワード・ベイリオルがイングランドの支援を受けスコットランドの大軍と戦ったダブリン・ムーアの戦い(1032)では初めて長弓兵と下馬装甲騎兵による陣が敷かれました。エドワード率いる軍はほとんどがイングランド人で、500の装甲騎兵と2000の長弓兵から成っていました。エドワードは装甲騎兵の大部分を下馬させて中央に配置、その両脇に長弓兵をやや前面に迫り出した形で並べ、後方には予備の騎兵を残しました。スコットランド軍は数の多さを頼みにイングランド軍中央へ突撃をかけましたが、彼らの頭上には良好な視界を確保した長弓兵からの連射が降り注ぎました。また、中央の下馬装甲騎兵も槍に刺されて暴れまわる軍馬を気にする必要なく、軽装のスコットランド歩兵に対応することができました。この戦いの翌年、エドワード3世(1327-1377)率いるイングランド軍が同じ戦法をより大規模に用いてハリドン・ヒルの戦いでスコットランド軍を破りました。かくして、イングランド十八番の長弓・下馬装甲騎兵布陣が完成します。

この戦術が採用されるためには、長弓兵の確保という前提条件がありました。長弓は単純な武器でしたが、それゆえに直接力を加えて弓を引かねばならないため、かなりの力を要しました。クロスボウなど素人でもすぐに扱えるようになる武器とは異なり、ロングボウの使用には長期の訓練が欠かせなかったのです。この問題に対処したのはヘンリー3世の武装条例やエドワード1世による弓術の推奨であり、これらの政策により潜在的長弓兵戦力が増加・維持されました。この長弓戦術は大陸に持ち込まれ、若干の変化を加えつつも、基本を変化させることなく百年戦争においてイングランドの勝利を支えていくことになります。



服の色から考える修道士の表象

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▲鎌で麦を刈る修道士(シトー会)1109年
茶色の頭巾付きローブを着て、腰を縄で締めている。

質問に答えるかたちで…

Q:年代、場所はどこだか分かりませんが、中世ヨーロッパの修道院で、茶色の衣服で腰周りに紐かベルトか何かを結ぶスタイルで、その茶色の下に更に白い衣服を重ね着していたところはどこかありますでしょうか?インターネット上で探した限りは、修道士の衣服は黒、白、茶のいずれかを基本色としている印象で、茶色の下に白を着ている図というのは今のところ自力では見つかっていません。もしご存知でしたらいつ頃のどの教会(または宗派?)というのを教えて頂けますと幸いです。



A:ヨーロッパにおける修道制の主流となったベネディクト会(9世紀~)の修道士は黒い修道服を採用したために「黒い修道士・黒僧」と呼ばれました。クリュニーの修道院もこれに含まれます。一方、修道院改革の中で生まれたシトー会(12世紀~)の修道士は黒い袖なしの下に白い衣服を着用していたために「白い修道士・白僧」として知られています。また13世紀に出来た托鉢修道会であるフランチェスコ会士は、同じように衣服の色から「灰色の修道士・灰僧」と呼ばれました。

このように中世の修道士は衣服の色と関連付けられた名を持っていましたが、衣服の色によって修道士を区別するというのは実際には困難で、この区別は観念的なものでした。というのも、これらの色は染色や脱色によってつくられたというより、粗末な未染色の羊毛をそのまま織った結果として生まれたものであるからです。そのため、修道服の色は同修道会内でも黒、白から灰色、褐色を含むものまで様々だったのです。極端に言うと、灰色服のベネディクト会士も、黒服のフランチェスコ会士も珍しくなかったであろうということです。未染色の衣服を着ることは、赤や青などの派手な染色が好まれた中世にあって、修道士の清貧さや質素さの象徴でした。

ベルトないし腰紐についてですが、中世人の一般的な服装であったローブや丈の長いチュニックを着る際によく使われていたようです。フラチェスコ会士はローブを縄(コルド)によって締めていたためにコルドリエという名で呼ばれることもあるそうです。あえて質素な縄を使うのは物欲を排す修道の理念にかなっていたわけです。また、下に着ている衣服についてですが、こちらも中世人一般が白い(未染色)リンネル製の肌着を用いていました。ただ、夏の間はローブやチュニックを地肌にそのまま着ることもあったようです。

答えをまとめますと茶色の衣服を着た修道士が、どこの修道会に属すのかは明確には判別できないと思われます。ベネディクト会の「黒僧」やシトー会の「白僧」のようにどこかの修道院の衣服として茶色が定められていたという可能性はないとも言い切れませんが、今のところ聞いたことはありません。また、ベルトは中世人一般に使われており、肌着と思われる白い衣服は丈の長い衣服に隠されてしまっているのではないかと思われます。

もっとも使徒的に-聖フランチェスコ②

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▲小鳥に説教をする聖フランチェスコ(ジョット/聖フランチェスコ大聖堂壁画)

フランチェスコの仲間たちはは「小さき兄弟の修道会」と自称し、仮認可からホノリウス3世による正式認可までの10年足らずで、数千人にまで及んだとされるほどにまで信奉者を増やしていきました。ポルツェウンコラに専用の聖堂を得た「小さき兄弟の修道会」は、ここを拠点としてイタリアを中心にヨーロッパ各地に伝道者が派遣されました。フランチェスコ自身も、本拠に留まるのではなく盛んな伝道の先頭をゆき、なんと聖地のイスラム教徒を改宗させようと自ら聖地へ向かう船に乗り込みました。そして、嵐のために聖地へはたどり着けなかったものの、エジプトのダミエッタでスルタンとの会見するという荒業をやってのけたのです。しかし、フランチェスコが知らぬ間に、組織は彼の「小さき兄弟の修道会」は肥大化し、分裂の兆しをみせていました。

フランチェスコの言行を一語一句厳守し、完全に托鉢のみによって生きるべきとする厳格派と、巨大化した組織をまとめるために、ある程度の指揮系統や財産が必要と考える穏健派との間で対立が起きたのです。1221年、フランチェスコは修道会のために23条からなる新会則(1221年会則)を起草しますが、修道会設立時の初志に立ち返ることを目的としたこの新会則は教皇の介入により、枢機卿ウゴリーノ(後の教皇グレゴリウス9世)の手で大幅な改編を加えられ、1224年の総会で正式の会則(1224年会則)とされました。1221年会則には新約聖書からの引用がおよそ100節ありましたが、修正された1224年会則にはわずか5節しかありませんでした。福音に忠実に生きるという、フランチェスコの意思は会則に生かされきれませんでした。

そして、この年の総会以降、フランチェスコは穏健派のエリアを総長代理とし後任を任せ、自らは数名の弟子と共にアルヴェルナ山に入り、静かな祈りと瞑想の生活を送ります。このアルヴェルナ山での生活で、彼の生涯最大の奇跡が起こります。1224年9月14日、祈りの中で朝を迎えたフランチェスコのものに6人の天使と光り輝く十字架舞い降ります。この幻が消えた後、フランチェスコの両手両足とわき腹にイエスのものと同じ聖痕が刻まれたのです。また、神の全ての被造物を愛したフランチェスコは、動物の言葉を解するようになり、トリやウサギ、ロバやオオカミとも心を通わせたという伝説が残っています。さて、病の篤くなったフランチェスコは担架で生まれ故郷のアッシジに、次いでポルツェウンコラの聖堂に運び込まれ、その地で44歳の生涯を終えます。死期を感じたフランチェスコは修道会へ向けての遺言状を書き取せました。しかし、この遺言状は1230年、教皇庁によって法的権威を持たないと宣言されます。

フランチェスコは死後2年目の1228年、教皇グレゴリウス9世によって列聖されます。そして、この年から、正統カトリック信仰の新たなシンボルを探していた教皇庁と修道会によってアッシジの町に聖フランチェスコの名を冠した大聖堂の建設が始まりました。絶対的な清貧を旨としたフランチェスコの教えを守る厳格派は聖堂建設に反対しましたが、フランチェスコの「聖なる教会に逆らってはならない」という言葉のために、抵抗することはできませんでした。1239年、創設者が生きていたら絶対に認められなかったであろう大聖堂はおよそ10年という異例の速さで完成します。イタリア・ゴシックを代表する建築となったこの聖堂には、ジョットなどの画家によって聖フランチェスコの生涯が壁画として残されました。

修道会は、1212年にキアラによって始められた第二修道会、1221年からある在俗信徒のための大三修道会を合わせ発展を続け、聖フランチェスコ大聖堂完成の前年にはドミニコ会と並んで異端審問も担うようになります。14世紀初頭には所属修道院数が1400にも達します。そして1323年には、修道会内で長く続いた厳格派と穏健派の争いに終止符が打たれます。教皇ヨハネス22世によって厳格派の教えは誤りとされ、考えを変えないものは異端として断罪したのです。こうして、フランチェスコの教えに最も忠実であった人々は、異端者として火刑に処され、修道会から追放されました。


御曹司から修道士に-聖フランチェスコ①

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▲インノケンティウス3世に謁見する聖フランチェスコ(ジョット/フランチェスコ大聖堂壁画)

フランチェスコは1182年、イタリアのアッシジで裕福な毛織物商人ピエトロ・ベルナルドーネの子として生まれました。彼は名家の子弟として郊外の聖堂付属学校に学び、父の家業を継ぐべき息子として何不自由ない生活を送っていました。フランチェスコの生まれた時代、イタリアは神聖ローマ皇帝とローマ教皇との対立の影響を色濃く受けており、都市や領主、貴族や平民の間で争いが耐えませんでした。

1198年に即位した教皇インオケンティウス3世は、アッシジを含むウンブリア地方が教皇領であると主張、この動きを受けて、アッシジは皇帝の血筋を引くスポレート公コンラートの支配に対して反乱を起こしました。市民軍は公の不在を突いて城塞を破壊し、皇帝派の支配を逃れて自治と自由を獲得します。当時16歳であったフランチェスコも、アッシジ屈指の富豪の御曹司として、この戦役に参加していた可能性があります。フランチェスコは1202年、都市ペルージャを相手にした戦役にも参加しましたが、そこでは捕虜に捕られるという憂き目にあっています。フランチェスコは、騎士を夢見て戦場に出かけ、故郷の祭りでは主役を演じる、栄達を望み、華やかさを愛する青年でした。

修道制とは程遠いような青年だったフランチェスコが改心し、使徒的生活を率先して行うようになるのは23歳のことでした。その頃から彼は度々神の声を聴くようになっていきました。決定的だったのは、アッシジ郊外のサン・ダミアーノ聖堂で「我が家を修復せよ、それはもう壊れかかっている」という声を聴いたときでした。彼は家に帰ると父の商品である織物を売り払い、その代金をサン・ダミアーノの司祭に、聖堂の修繕費として寄付しようとしたのです。もちろん、父ベルナルドーネはこれを知って怒り狂い、事態は裁判沙汰にまで発展します。この祭、フランチェスコは家族と一切の縁を切り、托鉢生活に入ります。1209年、アッシジ近郊のポルツェウンコラにいた彼は聖堂から聞こえてくる福音書の一説を聞き、清貧のうちに生き、悔い改めを説くという生き方を決めたとされています。「行って、『天国は近づいた』と述べ伝えなさい…あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけない。旅行用の袋も、2枚目の下着も、くつも、杖も持たず行きなさい。」

「神の教会を建設し、人々に福音を広めよ」。フランチェスコは声に従って、説教活動を始めました。彼の主張は、愛と平和、そして清貧を尊ぶということに尽きました。彼は自分が嫌う全ての者、自分を傷つけ、卑しめ、罵倒するような者たちへの愛を勧め、清貧を保つことで財産を守る腕力を必要としなくなった人々による平和が、神の国への道であると説きました。フランチェスコの清貧は物質だけでなく精神にも及びました。修道士には時として傲慢を生み出す豊かな知識は必要ない、と。初期の伝道では、フランチェスコは人々にきちがいと相手にされませんでしたが、説教を身を挺して体現する彼の姿に、いつしか多くの弟子がつき従うようになっていきます。その中には、農民や騎士から、聖堂参事会の顧問などさまざまな階級の人々を含んでいました。

1210年、11名の仲間を連れたフランチェスコはローマに赴き、正式な修道院としての認可を求めました。福音書からとった短い会則と、説教活動の許可をもらうためでした。教皇インノケンティウス3世は初め、みずぼらしい格好の彼らを邪険に扱いましたが、一行が訪ねてきたその晩に、夢の中で倒れ掛かるラテラノ聖堂を支える乞食姿の男を見て、これがフランチェスコであると悟り、彼らに修道院認可の口約を与えたという話が残っています。

聖ドミニコ-托鉢修道会というかたち

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▲ドミニコの持つ書物は異端者が火に投げ入れても、三度宙に舞い上がり焼けなかったという奇跡を描いた絵

11世紀から12世紀にかけて、ヨーロッパ各地では教皇庁に異端視される民衆運動が活発化していきます。これは、11世紀から始まる教会組織の刷新運動、クリュニー、シトーを初めとする修道院運動の広範な展開がきっかけとなり、民衆の中にも使徒的生活の実践を志す機運が生まれたためでした。使徒的生活とは、キリストの福音を広め、聖書に記された使徒たちのように清貧を貫く共住生活を送るというもので、本来は修道院の理想と同じものであるので正統信仰と相容れないようなものではありません。しかし、教会の教義を充分に理解していなかった民衆による使徒的生活の実践は、素朴で単純なものであり、聖書の言行を字句通りに解釈したようなものでした。そのため解釈と論争、妥協を重ねた正統教義とは異なったものとなり、時として教会組織と対立するものとなってしまったのです。

このような動きに対し、まず行動を起こしたのはシトー修道会の人々でした。彼らは、修道院の中で沈黙と祈りの時を過ごすという従来の伝統から、民衆の中に自ら飛び込んで人々を教化するという修道士の新しい展開を示しました。しかし、清貧を旨とはしていても従来型の修道院であったシトー会だけでは、広がる民衆の異端的運動を押さえ込むことは困難でした。時代は、新たなかたちの修道会を欲していました。

そんな折、教皇インノケンティウス3世は、北欧での説教から帰還しローマを訪れていたスペイン人聖職者に、カタリ派の根拠地南フランスでの伝道を薦めます。教皇の推薦を受け、それまで教皇特使たちに委ねられていたカタリ派撲滅の任を授かったのは、オスマの司教ディエゴ、そして聖堂参事会員ドミニクス・デ・グスマンらでした。彼らは、それまでのやり方とはまったく違った異端撲滅活動をすることで、南フランスの民衆を正統信仰に引き戻そうしました。それまで教皇特使や派遣された修道士たちは、壇上の高みから教会の権威と圧力を武器に、民衆に説教を垂れていました。しかし、ドミニコたちは使徒的生活を実践すること、つまり金銀や高価な衣装を捨てて清貧を実践することで、異端者の持つ厳格、質素という武器を自らの中に取り込み、かつ異端者と直接論戦を繰り広げるという、新しい試みをしました。

1206年にはプルーィユに宿舎を建設し、異端から改宗した女性たちの住処としました。この建物は、後に聖母女子修道院と呼ばれるようになります。翌年、司教ディエゴが亡くなった後もドミニコは精力的に活動を続け、1214年にはトゥールーズ司教から複数の教会堂を預けられ、地域の教化に勤めました。このような活動が実り、1216年、新たに教皇に選出されていたホノリウス3世の勅令により、ドミニコのその仲間たちは説教者修道会として正式に認められます、いわゆる托鉢修道会の誕生です。

教会からの認可をきっかけに、ドミニコの仲間たちはパリ、マドリード、ローマへと散っていきます。ローマへ向かったドミニコは、次いでボローニャへと渡ります。最初期の大学を抱えるパリとボローニャにドミニコ会の拠点が置かれたことは、後にドミニコ会が労働に代わり学問に大きなウェイトを置くことに繋がっていきます。ドミニコ会は、後にアルベルトゥスや、その弟子トマス・アクィナスなどの著名な教会神学者を輩出することになるのです。1220年には最初の総会がボローニャ開かれ、ドミニコ会の枠組みが形作られました。この総会には出席したもののドミニコは病を患っており、翌年、ボローニャ大学に埋葬されます。ドミニコ会はその後急速に発展を遂げ、ドミニコ没時の所属修道会は20ほどでしたが、彼が教会によって列聖された1234年にはおよそ100に、13世紀末には550以上に上りました。



騎士団の成立-聖地事情

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▲聖墳墓の円堂に詣でる巡礼者たち

世界の多くの宗教にはその宗教固有の聖地があります。聖地巡礼が信徒の人生における一大義務であるイスラム教に劣らず、キリスト教徒にとっても自らの信仰の証明としての聖地巡礼はローマ帝国にキリスト教が広まって以来、連綿と続いていました。ローマ帝国の滅亡や、イスラム勢力によるエルサレムの占領、一部の原理主義的なカリフによる弾圧などを経験する中でも、この聖地への巡礼熱はヨーロッパ中世を特徴付ける流行として、途切れることなく継承されていました。

巡礼は当時、非常に過酷で危険を伴うものでした。交通手段が未発達であり、かつ巡礼路を守る公的組織も存在しなかったため、巡礼者の多くが聖地への途上で盗賊やイスラム兵士の被害に遭っていました。1099年に十字軍士によってエルサレムが陥落したことにより、巡礼はより活発になりましたが、それでも巡礼が危険なことであるのに変わりはありませんでした。枢機卿ジャック・ド・ヴィトリは当時の様子を「野盗や追剥が街道に出没し、巡礼たちを脅かし、多くの人々から金品を奪い取り、人々を虐殺していた」と残しています。

西欧の巡礼者たちは自らを守ってくれる存在を求めていました。しかし、保護者を求めていたのは彼らだけではありませんでした。建国当初の十字軍国家は軍事的に非常に貧弱でした。十字軍国家はエルサレム王国を宗主としてエデッサ伯国、エンティオキア公国、トリポリ伯国で構成されていました。これらの国々は東地中海に面した細長い地帯を占領しており、海岸線は500km、イスラム教国との国教は1000kmにも及びました。それにも関わらず、遠征時には数万を数えた十字軍は今や故郷へと帰ってしまい、聖地にはわずかな兵力しか残されていませんでした。エルサレム陥落から5年経った1124年には、エルサレム王ボードワン2世が招集できた騎士は1000名ほどでしかありませんでした。あまりにも広大な領域を、あまりにも少ない兵力で維持する必要にあったのが、当時の十字軍国家だったのです。

このような状況から、1118年、シャンパーニュ出身の城主ユーグ・ド・パイヤンが友人のジョフロワ・ド・サン=トメールらと共に自発的に巡礼者の保護を始めました。創設期の9人のメンバーによるこの集団は自らを「貧しきキリストの騎士」と呼んでいました。彼らの評判は、領土内での平和維持と軍事力を求めていたボードワン2世の耳にも届きます。王は1119年に、エルサレム市内の土地を騎士団に提供しました。この寄進地は、旧約聖書の時代、ダビデの息子、ソロモンが立てたヤハウェの神殿(テンプル)の跡地であり、イスラムの支配下でアル・アクサ寺院が建てられていました。すでに王宮をダビデ塔に移していたエルサレム王が、この神殿跡地を騎士団に譲ったことにより、「キリストの貧しき騎士」は通称「テンプル騎士団」と呼ばれるようになったのです。