10世紀以降、農業上の発達や、異民族の侵入がほとんどなくなったことからヨーロッパは新たな時代を迎えます。都市の再生です。縮こまったローマ都市の周囲には、教会や修道院などの拠点を中心に新しい都市=ブールが建設され、さらにブールに入りきらなくなった人口は城外市=フォーブールに流れ込みました。都市に不動産を持つ市民たちは、自分たちの活動を支えるために、徴税、行政や立法の権利を領主たちから獲得していきました。税金は、彼らの安全のための都市防衛や市壁建築のための原資となりました。
前述の通り、中世の都市は「あらゆる可能な形体を持っており…歴史的、地理的なあらゆる状況に自由に適応して」(p60)いました。そのために、中世都市を一般的にひとつのモデルとしてまとめることは難しいのですが、それでもいくつかの共通項はあります。様々な用途を持つ大小の街路、宗教・経済・政治の中心としての広場などですが、ここでは市壁について詳しくみてみます。市壁は都市防衛の要でしたが、そのコストは莫大なものであったので、市壁は一定の領域をできるだけ短い線で囲めるように不規則な円形をしていることが多かったようです。都市住民の増加に対しては、まず都市を横に広げるよりも縦に長くする方が優先されました。つまり、複数階建の建物を建設し、それでも市域が足りなくなって始めて市壁が建てられたのです。しかし、14世紀に市壁を拡大したいくつかの都市では、その後の人口減少によって市壁内に緑地が残されてしまうような場合もあったようです。
レオナルド・ベネーヴォロ、佐野敬彦・林寛治訳『図説・都市の世界史-2[中世]』相模書房(1983)
コメント返信など長い間ためていて申し訳ありませんでした。
卒論を、書かないといけません。
もちろん就職のための活動もしないといけません。
そのためにですね…このブログに少しづつ材料をためていこうと思います。
とりあえずは参考にした論文をまとめていく感じになるかと思います。
とりあえず「中世ヨーロッパの都市における市壁」についていろいろと集めてみるつもりです。
就職活動とうまく並行できるかな。
乞うご期待?
カンタベリ物語―中世人の滑稽・卑俗・悔悛 (中公新書 (749))
目次
第一章『カンタベリ物語とはどんな作品か』
第二章『カンタベリ物語』「序の歌」をめぐる巡礼たち
第三章『カンタベリ物語』における笑い
第四章『カンタベリ物語』における真面目と冗談
あとがき
高校世界史において、中世ヨーロッパの三大文学として、フランスの「ローランの歌」、ドイツの「ニーベルンゲンの歌」に並び立つのは、イギリスの「カンタベリ物語」です。この物語は、偉大な英雄が活躍する叙情詩である前二者と異なって、イングランドの著名な巡礼地であるカンタベリへ向かう巡礼者たちが、旅の慰めに各々自分の知っている話をするというものです。巡礼ですから、上は騎士や高位聖職者、下は農夫や一介の修道士など様々な身分の人々が集まっています。ちなみに、このような形の物語をフレーム・ストーリーといい、古くからの文学作法のひとつです。「千夜一夜物語」(アラビアン・ナイト)やボッカチオの「デカメロン」などはその代表と言っていいでしょう。
本書は、カンタベリ物語の著者であるジェフリー・チョーサー(1340頃-1400)その人について、物語に登場する様々な人々の中世における地位や関係、さらに物語全体を覆っている笑いや冗談の意識や、それらの意識と共にあるある種の真面目さ、さらに巡礼や物語における聖と俗の葛藤についてなどがコンパクトにまとめられています。まだ岩波から完訳の「カンタベリ物語」が出版されていない時代に書かれたものですが、完訳版の注を引くだけではわからない物語の全体像が浮き彫りになってくる本です。
今回はその中でも、物語の全体を貫いている聖と俗の葛藤について紹介していきます。「巡礼とは宗教的な意図で遠くの聖地を訪れ、そこで超人間的なものの恩恵にあずかろうとする企てである」。したがって、巡礼は元々聖の理論に基づいているわけです。教会も、巡礼を奨励し、罪を償うための行為として認めていました。しかし、巡礼が一般化・日常化すると共に、そういった巡礼の聖の意味は薄れていき、遊びとしての巡礼意識が広がっていきました。長い冬を越えて、春を迎えた人々は、いそいそと巡礼の準備を始めます。解放感に満ちた春の旅には旅の仲間との娯楽がつきものになり、「現代で言えば週末の団体旅行」のようになっていきます。それでも、巡礼は完全に聖の世界から自由になることはありませんでした。「カンタベリ物語」の最後の話は、司祭による七つの大罪と悔い改めについての長い説教でした。巡礼の一同はこの説教を真剣に拝聴するのです。ここには、巡礼における聖の論理が働いているといえます。「カンタベリ物語」を支配している遊びの雰囲気は、現実の世界を中心から支えている聖の要請から遠ざかって、自由を味わおうとする俗の論理から来たものといえます。ここに、中世社会全体における聖と俗の葛藤のひとつの形をみることができるのです。
▲ワタン体制の概念図。同色は同カーストを示しています。
今回も、前回に引き続き、中世ヨーロッパから離れたテーマで書いてみたいと思います。テーマは中世インドのマハーラーシュトラ地方における社会関係です。インド一般にこの地域での事象を適応してもよいかはわかりませんが、インドの中世社会のひとつのかたちとしてまとめていきたいと思います。これも大学の講義の備忘録です。
この地域の史料の中には、土地所有に関する文書や土地売買文書といったものがほとんど見つかっていません。その代わりに、ワタン(vatan)と呼ばれる世襲的権益が、売買や紛争の対象として多く文書に登場してきます。それではワタンとはいったいなんなのでしょうか。
ワタンとはマハーラーシュトラ地方では村落共同体(village community)や、村落共同体が50前後集まって構成している地域共同体(local community)における、世襲的役職とそれに付随する取り分を意味しました。
村落共同体では、村長は村長ワタンを持ち、村人の大部分を占める正規の農民は農民ワタンを持っていました。また、村全体にサーヴィスを提供する大工、鍛冶屋、陶工、占星師、不可触民などのカーストの人々がいて、彼らは大工ワタン、鍛冶屋ワタンといったそれぞれのワタンを持ち、村からバルテー(balute)と呼ばれる報酬を受け取っていたためバルテーダールと呼ばれていました。当時の理念的な村の規模を示す「60人(家族)の農民と12種類のバルテーダール」という言葉がありましたが、実際の村はこれよりも小規模だったようです。
地域共同体においては、そのデーシュムク(Deshmukh)と呼ばれる首長や書記がいて、それぞれのワタンを持っていました。また、村落共同体で生活する大工や鍛冶屋は、この地域共同体を単位としてカーストの集団を形成していました。このカースト集団の長はメータル(Mhetar)と呼ばれ、このメータル職もワタンでした。面白いことに、同カーストの広がりはひとつの地域共同体にとどまらず、それぞれの地域共同体のカーストは互いにネットワークを巡らせており、理念的にはどこまでもこのカースト的分業社会が広がっているということです。
このように、村落共同体とその上位に位置する地域共同体における社会を構成していたのは、各種のワタン所持者(ワタンダール)たちでした。ワタン体制(Vatan System)とも言えるこの社会関係は、地域における社会的分業の体制であり、かつ上下関係を持つ階級的な関係でもあったのです。
この体制が形成され始めたのは10世紀前後で、14世紀にはおおかたのかたちができあがっていたと考えられています。また、土地ではなくワタンだ重要だった背景には、当時のインドでは人口に比べて相対的に余っており、労働力の伴わない土地にはほとんど価値がなかったためであるそうです。土地が重要なヨーロッパや日本の社会とはかなり違っていて、興味深いですね。
▲ファラケス、起源はエトルリア(http://www.aetherometry.com)
今回は、少し中世から離れて、古代ローマの政治と、ファスケスについて紹介したいと思います。ネタ元は、本日の大学の講義です。備忘録として。
古代ローマの政体は、大きく三つに分けられます。都市国家ローマの誕生と共に始まった王政、前509年から起源27年まで続いた共和政、そして崩壊まで続く帝政です。注目したいのは、真ん中の共和制です。共和政とは、君主政の対義概念であり、ようするに王様のいない政体ということです。ローマ共和政にはもちろん王はいませんでしたが、政治・行政・裁判・軍事といった幅広い領域の権限を担った少数のエリートが存在しました。政務官です。コンスル(執政官)やプラエトル(法務官)と呼ばれた彼らは、大きな権力を握って、古代ローマを支配していました。
共和政ローマは、理念上全ての市民(市民権を持つ成人男子)が参加できる民会を備えており、民会が政務官の承認や、法律案の可決権を握っていたため、建前上は民会と政務官との間にはお互いを牽制し合う、対等の関係にも見えます。しかし、実態はそうではありませんでした。行政権は今も昔も、予算(カネ)と実務(ノウハウ)の力で、国政の中心的存在です。ローマも例外ではなく、さらに階級(政務官の多くは貴族だった)や命令権による権力・権威を持っており、政治のアマチュアである民会は彼らと対等に張り合っていたとはいえなかったようです。
政務官の権威を象徴したものとして、ローマにはファラケスというものがありました。ファラケスは斧に複数の棒を束ねたものであり、政務官の後ろには、このファラケスを携えた副官がつき従って、政務官の身分と権威を示していたのです。面白いのは、近代の世界にもファラケスの表象が残っているということです。アメリカの著名な大統領、ワシントンとリンカンの彫像は、団結を示すファラケスに手を添えるかたちで作られています。アメリカ政治の理念として、ローマの共和政が考えられていたためであろうと考えられます。また、ところ変わってイタリアのムッソリーニ率いるファシスト党fascist、こちらの語源もファラケスfascesです。ちなみに、ムッソリーニやヒトラーの片手をあげるポーズも、ローマの政務官は民衆に呼び掛けを行う際のポーズをモデルにしていたようです。後に世界大戦で相争う勢力が、同根の表象を纏っていたというのは、ヨーロッパ文明の一体性というか、歴史の面白さを感じさせます。
▲ファラケスに手を添えるワシントン像(http://www.history.org)
▲ケルン大聖堂(Wikipediaより)
今回は、中世盛期以降に広まったゴシック様式の大聖堂の建築の基本について紹介したいと思います。ちなみに、カトリック教会において一般の教会(church)と大聖堂(cathedlar)の何が違うかといいますと、施設のトップが司祭なのか司教なのかということです。大聖堂は、別に司教座聖堂とも呼ばれるように、司祭(いわゆる村に1人、街区に1人いるような聖職者)の上位者である、司教の座がある教会でした。
さて、前置きはこれくらいにしまして、ここからは非常に重たい石を積み上げた大聖堂が、なぜ、他のものを圧倒させるような高さで建っていられるのかということについて明らかにしていきます。結論から言うと、ゴシック式大聖堂を支えていたのは、尖頭アーチ、飛び梁、リブ・ヴォールトという三つの要素でした。
まず尖頭アーチ。大聖堂の壁面や天井はアーチによって支えられていますが、よくよく見るとアーチはただの半円形ではなく先端が尖っています。これが尖頭アーチです。普通の半円アーチでは、一番上の石の重力が横方向に働きやすく、幅を広げるとアーチが崩れやすくなってしまいますが、尖頭にするとその力が下に向きやすくなるために、下の石で上の石を支えることができるようになります。
しかしながら、尖頭アーチを使っても幅広のアーチで重い石を支えるのには十分ではありません。そこで登場するのが、飛び梁です。飛び梁は、どうしても横方向に働きがちな一番上の石の重力を、その外側から抑え込む役割を果たします。アーチの左右両側から、横方向の力に釣り合うように支えるのです。こうして、大聖堂のアーチは大きな幅を持つことができるようになります。このアーチは、壁の石ではなくアーチ自身によって支えられているので、アーチの間部分には大きなステンドガラスをはめ込むことができるようになります。
最後に、リブ・ヴォールトとはなにかといいますと、簡単に言えば直角に交差した尖頭アーチのことです。つまり、4本足の立体アーチです。これによって、天井の石の重力を柱で支えることができるようになったのです。
ゴシック式大聖堂は、それまでのローマやギリシャで使われていた半円アーチの建築術から一歩先に進んだ技術を取り入れたことにより、未曾有の高さを誇る、壮麗な建造物となることができたのです。そして、この大聖堂は、人々の神への畏怖や、宗教心をかき立て、民衆への教化にも大いに役立ったことでしょう。
久しぶりに「ヨーロッパの中世」というシリーズもの一巻を読み直しました。前読んだはずなのですが、内容をすっかり忘れていまして。しかし、読んでいくうちに思い出してきて、面白い考えだなあと改めて思ったので、最初の部分の内容を紹介します。
ヨーロッパの中世とはなにか。これが難題です。もちろん教科書的にいえば、476年の西ローマ帝国の滅亡から1453年の東ローマ(ビザンティン)帝国の滅亡までの約1000年間のヨーロッパということになります。これに対して、たとえば両ローマ帝国の滅亡は象徴的な出来事にすぎないとか、別の年代を基準にするとか、議論は大きくありますが、筆者はもっと大きな視点から中世を捉えようとしています。
「中世を切り出す」という小見出の通り、筆者は先史時代と呼ばれる文献資料の存在しないはるか昔のヨーロッパから現代までの長い人類史の中で、中世の位置づけを探っていきます。その中で、西洋の歴史家によって考えだされたヨーロッパにおける世界システムなどにも言及しています。無論、ここでいう世界システムとは近代ヨーロッパの拡大による地球全体の経済関係の話ではなく、大きくてもヨーロッパから北アフリカ・中東までを含むユーラシアの西部に限っての話です。この世界システムの考え方では、中世までの世界は、富める中心と未加工品を中心に送る周辺からなるシステムの時代と、地域ごとに小さな共同体が首長を中心に集まって、相互に経済活動をしていた、全体的に見ればまとまりの弱い時代に分けられるそうです。わかりやすいのがローマ帝国の時代で、この時代の中心は地中海世界で、北ヨーロッパなどが周辺にあたります。そして、西ローマ帝国の滅亡後は地中海東部が中心となります。中世ヨーロッパは、ゲルマン民族侵入後に小さな集団に分裂したために、半周縁に置かれていくことになるのです、
また、ヨーロッパの長い歴史は民族侵入の歴史であり、先史時代にはスキタイ、ケルト史料の残る時代にはゲルマン、フン、アヴァール、マジャール、ブルガール、トルコなどの異民族の侵入が常態でした。しかし、オルマン・トルコによるヨーロッパ東部から東地中海への支配は、ヨーロッパ半島に蓋を閉め、以後異民族の大規模な侵入はなくなります。つまり、中世とは先史時代から続く長い長いヨーロッパの歴史の中で、最後の民族移動があった時代なのです。この後には、出入り口をふさがれたヨーロッパ人は西の海から世界へ進出していくことになるのです。
このように、中世を長いヨーロッパの通史の中から切り出して考えることで、新しい見方ができるのだと思います。古代と近世との比較だけにとどまらず、もっと大きな視野をもって中世について学びたいものです。
今回は、佐藤賢一氏による中世ヨーロッパを描いた短編「ジャンヌ・ダルクまたはロメ」を紹介します。そもそも中世史を描いた短編というものはあまり多くはなく、そもそも珍しい作品なのですが、さらにこの作品が珍しいのは、著者の佐藤氏が描くことが多いフランス以外の地域を舞台とした短編が収録されている点です。フランスのもののほかに、スペインを題材にしたものが1話、イタリアを舞台にしたものが3話収録されています。
この中で特に面白いのが、「エッセ・エス」と「技師」です。「エッセ・エス」は統一間近のカスティリャ王国とアラゴン王国の間で大冒険をしたある騎士の回想録というかたちをとっています。古い習慣を重んじる、わかりやすく堅物な騎士が、自分の使える王女イザベルのために、自由奔放な王子に悩まされながらも旅をするというのが本筋なのですが、この王子と王女が婚姻関係を結んだことにより、統一スペインが形成されていくことになるのです。文中にはマキャベリやグーテンベルク、ドンキホーテなども登場し、まさに時代が中世から近世へ移り変わる様が、小気味よく感じられます。
「技師」は、築城術を学んだ技師が、故郷の都市防衛のために大工事をするという話です。なによりも、築城家という特殊な職業を扱っているのが面白いです。「エッセ・エス」と同様に、この作品もヨーロッパの時代の転換を示しており、大砲の発達によって築城技術に大転換が訪れていたことを背景にしています。フィレンツエェやミラノのような大都市国家に比べ描かれることの少ない弱小都市国家の人々が、大国フランスへの恐怖を感じつつも戦う様は、新しい視点を提供してくれると思います。
1363年、トスカーナの平原に大軍団が姿を現しました。後に百年戦争として知られることになる英仏戦争の前半戦を締めくくったブレティニーの和を受けて失業した傭兵たちが結成した「白の軍団」コンパニア・ビアンカが戦争を求めてイタリアへやってきたのです。後にフィレンツェから国葬をもって遇されることになるジョン・ホークウッドは、当時は軍団内の一隊長に過ぎませんでした。
軍団は最初、フィレンツェの仇敵であるピサと契約を結びましたが、ピサ当局が満足する成果を上げられないでいました。ホークウッドが一隊長からコンパニア・ビアンカ全軍を率いる立場になったのはこの時のことです。彼は、対フィレンツェ戦で決定的な敗北を喫するも、その後のピサの政変に深く関わり、新たに生まれたピサ領主との間に緊密な関係を結びました。
彼はその後、ピサ領主と同盟関係にあったミラノの領主、ヴィスコンティ家と結んだ後、教皇庁に雇われます。教皇庁との契約中、ホークウッドは枢機卿の名の下、チェゼナの町での大虐殺に参加して悪名を轟かせます。チェゼナの虐殺は、教皇との契約による最後の仕事となり、次に彼を雇ったのはフィレンツェとヴィスコンティ家でした。しかし、ヴィスコンティ家の頭がすげ変わったことを受けて、今度はパドヴァの依頼でヴィスコンティ家と戦ったりもしています。
彼が、どの陣営に属している際でも標的にされた都市がシエナでした。シエナは、ホークウッドの軍が都市近郊を通過する度に、彼の軍団をおとなしくさせておくための代金を支払わなければなりませんでした。支払いを拒めば、ホークウッドの軍はシエナ領内で掠奪をはたらき、たとえ支払いを認めたとしてもホークウッドたちの暴走を止める手立てはありませんでした。アレッツォもピストイアも、トスカーナの雄フィレンツェも、この手の支払いを免れることはできませんでした。
ホークウッドの行動を追っていくと、中世イタリアの傭兵隊長たちの姿が浮かび上がってきます。金を払っても言うことを聞かない傭兵隊長は、都市にとって時に偉大な守護者であり、またある時はやっかいな掠奪者でもありました。彼らは、半分盗賊のような荒々しい兵士たちを束ねる親分であり、稼ぎを一銭でも多くしようと狙っている冷徹な企業家でもあり、婚姻や契約を通じて群小の都市と領主との間を渡り歩く政治家でもあったのです。
▲ジョン・ホークウッド
▲ローランのうた
中世に誕生した物語はいくつもあります。それらの作品は「中世文学」と一言で括られることはありますが、時代によって物語の主題や特徴に大きな違いが存在し、同質の物語ではありませんでした。中世最初の叙事詩「ローランの歌」と、そのおよそ100年後に書かれたクレティアン・ド・トロワの作品との間には、大きな内容上の変化が存在するのです。今回は、そのような中世文学について、武勲詩からロマンスへの変遷という視点でまとめたいと思います。
武勲詩とは、フランス語で功業の歌を意味するシャンソン・ド・ジェストと同義であることが示す通り、英雄たちの功績を讃えるための歌で、およそ11世紀ころに、中世の一般的書き言葉であったラテン語ではなく俗語(地域の言葉)で書かれました。もちろん、書物にまとめられるのは後の時代ことで、それ以前は城から城へと遍歴する楽人たちによって口頭で伝えられていました。代表的な武勲詩としては、778年にカール大帝の軍の後衛がバスク人によって壊滅させられた史実をモデルにした「ローランの歌」や、スペインでカスティリャ王やムーア人の王たちに仕えた傭兵隊長、ロドリゴ・ディアス・デ・ビバル(エル・シッドとも呼ばれた)を主人公とした「わがシッドの歌」などがあります。武勲詩は、荒々しい戦闘の中で発揮される勇気と武勇、悲劇的な最後をも恐れない主君への絶対的な忠誠心、そして、戦友たちとの固い友情を賛美する歌であり、ゲルマン的な蛮勇を賛美する風潮も含まれているように感じられます。また、そこには後代の文学の中心となる女性とのロマンスの要素はかなり限定されていました。
11世紀末、南仏を中心にトゥルバドゥール(吟遊詩人)たちによる新しい風が吹きこんできます。騎士階級の出であった彼らが書いた詩の主題は恋愛でした。トゥルバドゥールたちが重視したのは、愛の対象である貴婦人の美しさや魅力をいかに表現するかであり、物語の主人公たちは、自分より身分が上のことが多い、手の届かぬ存在としての貴婦人への恋心に苦しむことになります。騎士がもとめられたのは、貴婦人への奉仕と謙虚な態度でした。初期のトゥルバドゥールの一人であり、多くの愛人を持ち教会から非難されていたアキテーヌ公ギョームの詩には、自らの愛人たちの魅力を歌ったものがあります。
南仏から広まった恋愛賛歌は12世紀以降にロマンス文学として発展していきました。ロマンスの英雄は、忠誠を主君に捧げると共に(ときには、それ以上に)敬愛する貴婦人にも忠誠を捧げ、また自分が貴婦人に相応しい騎士であることを示すために数々の冒険に繰り出していきます。そのために他の騎士と競うこともあり、武勲詩で強調された同志愛は薄れていきます。さらに、ロマンスは心理描写の点で大きな発展を遂げており、登場人物たちの感情や心の変化に重きを置いています。このことは、武勲詩では受動的役割しか与えられていなかった女性について、特に当てはまります。主君への忠誠と不義の愛との間で苦しむ騎士を描いた「トリスタン」(トリスタンとイゾルテ)や「ランスロ」(荷車の騎士)などが、ロマンスの代表作と言えるでしょう。後者の著者クリスティアン・ド・トロワの「ペルスヴァル」(パーシバル)の作品からも伺えるように、ロマンスは騎士の関心であった「騎士の持つべき価値」を鮮明に描いています。それは例えば、貴婦人への礼儀正しい作法であったり、寛容や憐れみといった精神であったりしました。ロマンスは、理想の騎士を描き上げることで、当時の騎士たちにひとつの価値を提示していたのです。
「紗瑠々の資料室」は中世ヨーロッパ世界を中心とした情報サイトです。通史・軍事・城・都市・農村などの中世社会を理解するにあたってポイントとなるものを少しづつ紹介しています。学術的なものではなく、一個人が趣味で収集した資料ですので不適当なところもあるかと存じます。お気づきの点がございましたら、ご指摘をお願いします。
画像・文章の無断転載等はご遠慮下さい。また、このブログの情報を運用した結果の影響についてはいっさい責任を負いかねますので、観覧は全て自己責任でお願いします。
百年戦争。荒れ狂う戦火の中で、金と仲間にしか興味を持っていなかった傭兵隊長が、ひとりの少女に強く惹かれていく。少女の名はジャンヌ、オルレアンの救世主にして、フランスの希望だった。
英仏百年戦争、ジャンヌが登場してからの歴史は有名ですが、それ以前となるとあまり知られていません。百年戦争前半の英雄、名将デュ・ゲクランや賢王シャルル5世、黒太子エドワードや重鎮チャンドスの活躍に注目です!
王妃はフランス王ルイ12世の妃であるジャンヌ。王は彼女の離縁を求めて離婚裁判を起こすが、そこに弁護士フランソワが立ちふさがる。15世紀を舞台にした、異色の法廷劇の中で、中世人の心性が伝わってきます。
ロードス島。東地中海に浮かぶ小島は聖ヨハネ騎士団の拠点にして、イスラムとの戦いの最前線でもある。16世紀、拡張を続ける大帝国オスマン朝の大群に立ち向かった騎士たちの、壮絶な戦いが甦る。
コンスタンティノープルの陥落という世界史的大事件を、当時生きた様々な立場の人から多角的に描いた作品。スルタンや皇帝といった指導者の他に、キリスト教徒の同胞との戦いを強いられたバルカン半島の騎士、皇帝を支えた重臣などの活躍も見どころ。
騎士の生活から、彼らの使った武器や防具に関する詳細な情報。騎士になるための訓練、文学の中の騎士、騎士の華馬上槍試合と、中世の騎士に関する情報が満載の一冊。中世騎士なら、まずはここから始めてみてはいかがでしょう。
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