忍者ブログ

チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


騎士団の成立-聖地事情

cba99f1c.jpeg
▲聖墳墓の円堂に詣でる巡礼者たち

世界の多くの宗教にはその宗教固有の聖地があります。聖地巡礼が信徒の人生における一大義務であるイスラム教に劣らず、キリスト教徒にとっても自らの信仰の証明としての聖地巡礼はローマ帝国にキリスト教が広まって以来、連綿と続いていました。ローマ帝国の滅亡や、イスラム勢力によるエルサレムの占領、一部の原理主義的なカリフによる弾圧などを経験する中でも、この聖地への巡礼熱はヨーロッパ中世を特徴付ける流行として、途切れることなく継承されていました。

巡礼は当時、非常に過酷で危険を伴うものでした。交通手段が未発達であり、かつ巡礼路を守る公的組織も存在しなかったため、巡礼者の多くが聖地への途上で盗賊やイスラム兵士の被害に遭っていました。1099年に十字軍士によってエルサレムが陥落したことにより、巡礼はより活発になりましたが、それでも巡礼が危険なことであるのに変わりはありませんでした。枢機卿ジャック・ド・ヴィトリは当時の様子を「野盗や追剥が街道に出没し、巡礼たちを脅かし、多くの人々から金品を奪い取り、人々を虐殺していた」と残しています。

西欧の巡礼者たちは自らを守ってくれる存在を求めていました。しかし、保護者を求めていたのは彼らだけではありませんでした。建国当初の十字軍国家は軍事的に非常に貧弱でした。十字軍国家はエルサレム王国を宗主としてエデッサ伯国、エンティオキア公国、トリポリ伯国で構成されていました。これらの国々は東地中海に面した細長い地帯を占領しており、海岸線は500km、イスラム教国との国教は1000kmにも及びました。それにも関わらず、遠征時には数万を数えた十字軍は今や故郷へと帰ってしまい、聖地にはわずかな兵力しか残されていませんでした。エルサレム陥落から5年経った1124年には、エルサレム王ボードワン2世が招集できた騎士は1000名ほどでしかありませんでした。あまりにも広大な領域を、あまりにも少ない兵力で維持する必要にあったのが、当時の十字軍国家だったのです。

このような状況から、1118年、シャンパーニュ出身の城主ユーグ・ド・パイヤンが友人のジョフロワ・ド・サン=トメールらと共に自発的に巡礼者の保護を始めました。創設期の9人のメンバーによるこの集団は自らを「貧しきキリストの騎士」と呼んでいました。彼らの評判は、領土内での平和維持と軍事力を求めていたボードワン2世の耳にも届きます。王は1119年に、エルサレム市内の土地を騎士団に提供しました。この寄進地は、旧約聖書の時代、ダビデの息子、ソロモンが立てたヤハウェの神殿(テンプル)の跡地であり、イスラムの支配下でアル・アクサ寺院が建てられていました。すでに王宮をダビデ塔に移していたエルサレム王が、この神殿跡地を騎士団に譲ったことにより、「キリストの貧しき騎士」は通称「テンプル騎士団」と呼ばれるようになったのです。

PR

肉は週に三食-テンプル騎士団の衣食住

3911e119.jpg
▲騎士団最後の総長ジャック・ド・モレー

被服長官が騎士団幹部に含まれていたことは、この騎士団内における衣服の重要性を物語っています。中世において、衣服は実用的な意味の他にも、それを着る人々の所属する集団や身分、階級などを表す記号として大きな意味を持っていたのです。騎士の服装は、会則によって厳密に定められており、白い長衣とマントからなっていました。12世紀中旬以降、長衣の胸の前とマントの左肩に赤い十字が施されるようになります。衣服の白は、白衣の修道士と呼ばれたシトー会からの影響を受けており、穢れの無い純潔を意味していました。また、赤い十字は信仰のための戦いで流される血、騎士団の犠牲的精神を表しています。

奢侈虚飾は疎まれ、騎士は騎士団から貸与されたこれらの服以外の衣服を着たり、服を飾り付けたりすることが禁じられ、さらに中世に流行したとんがり靴や長髪も許されませんでした。しかし、派手好きな王侯や貴族出身の騎士たちにこの規定を守らせるのは容易ではなかったらしく、この規則は時代が下るにつれてなおざりにされていったようです。また、従者は茶色や黒の衣服を支給され、上位の騎士たちと区別されました。

騎士団の規制は食事にも及んでいます。彼らは修道士として大食を戒められるのと像同時に、異教徒との戦闘を任務としていた騎士でもあるという特異性のために、一般の修道士であれば奨励されはするものの非難されることはない、個人的な断食をすることも禁じられました。彼らは、決められた分量を、決められた時間に食べることが求められていたのです。そのために、4人がひとつのテーブルを使用して、おたがいに食べすぎないし勝手な断食が行われていないか監視しました。

一日の食事は中世の人々の平均と同じく2回で、今で言う朝食を抜いた、昼食と夕食のみのものでした。食事中は騎士団所属の司祭が聖書を朗読するのを静かに聴きながら、沈黙を保たなければなりませんでした。沈黙は徳目とされたため、一日の締めくくりの祈りである終課後の会話は禁じられ、さらに飲食も総長の特別な許しが無い限りは出来ませんでした。週に14回ある食事のうち肉が供されるのは3回で、日曜には肉が二皿出されました。ただし、二皿の肉料理を食べられるのは騎士だけで、従者には通常通り一皿のみであり、食事においても騎士と従者は区別されています。

衣服と同じく、寝具も被服長官から支給されました。団員の騎士は藁のマットレス、シーツ、毛織の掛け布団をそれぞれあてがわれ、下着姿で寝ました。就寝時間は早く9時ないし10時頃でした。幹部級の団員には個室が割り当てられていましたが、平の修道騎士は複数のベッドがある部屋で一緒になって寝ました。


テンプル騎士団-コマンドリーの経営

テンプル騎士団は、聖地エルサレムへの巡礼者を保護することを目的に発足しましたが、民衆や貴族からの寄付を集めて規模を拡大するにつれて、パレスチナ以外にも多数の領地を持つようになっていきます。このようにして得られた騎士団の領地の最小単位はコマンドリーと呼ばれます。

コマンドリーはより大きなくくりの管区に分けられていました。東方ではエルサレム、アンティオキア、トリポリの三管区があり、ヨーロッパではアラゴン、カスティリャ、(北)フランス、ポワトゥー、プロヴァンス、イギリス、ハンガリーなどの諸管区がありました。ちなみに、フランスは当時の大国で人口も農業生産も多く、また南北で言葉や文化が違ったために、一国で複数の管区があります。聖ヨハネ騎士団の管区も同様にフランスをいくつかの管区に分けています。

13世紀末、騎士団のコマンドリーの数は9000にも及びました。そして、そのうちの3分の1がフランスに存在していました。これらのコマンドリーはヨーロッパでは城館ないし修道院としての意味を持つメゾンという建物を中心とした農園というのが基本的な形で、コマンドール(支部長)によって統率されていました。コマンドリーは、地域の司教権に属さない教会堂や墓地を備えている騎士たちの修道生活の場であり、一方で多くの使用人・農民と耕地を抱えた、農業生産の場でもありました。ヨーロッパの大部分ではこのような城館と農場で構成されたコマンドリーが一般的でしたが、イスラム教徒の侵入を受けていた聖地やイベリア半島では、ひとつの城砦でコマンドリーが構成されているような軍事色の強いものが大半でした。

フランス、トロワ司教管区内にあるパイヤン(騎士団創設者、ユーグ・ド・パイヤンの出身地)というコマンドリーには、当時の詳細なデータが残っています。それによると、パイヤンには召使、牛飼、羊飼、馬丁、運搬人夫、パン焼職人、倉庫番など50人を超える人々を雇っていました。また、これ以外にも木を切り出したり、荷車や馬具を修繕する人に手間賃を出していました。コマンドリーの支出としてはこれらの人件費のほかに、倉庫や門など各種建物の修繕費、明かりをとるためのロウソク代、穀物用袋を作るための布代があり、さらに騎士や使用人のための食費も含まれています。

コマンドリーの収入源は当時貨幣に置き換わられつつあった地代収入、余剰農産物や家畜の販売により得られました。パイヤンのコマンドリーは、747.5ボワソー(約9717リットル)の小麦を集め、そのうち8割弱の576ボワソー(約7488リットル)を販売しています。この小麦の販売によって得られた39リーヴル16スーの他にも、パイヤンにはチーズや家畜などの販売、地代収入によって全体で250リーヴルの収入がありました。同年の支出の合計は189リーヴルですので、このコマンドリーは61 リーヴルの黒字経営だったことがわかります。荘園経営で得られた貨幣や販売されなかった余剰産物は聖地へと運ばれ、騎士団が聖地で生活し、武器甲冑を調達し、城砦を建設するために使われたのです。


テンプル騎士団-国際銀行にして王室金庫

Templarsign.jpg
▲清貧を象徴する、二人のテンプル騎士が一頭の馬に乗っている図。

テンプル騎士修道会は創立当初、数人の騎士が聖地の港からエルサレムまでの巡礼路を守っているだけのものでしたが、数十年で何百もの騎士を抱える大軍事組織に発展しました。この騎士たちは、修道士にして騎士という身分上、清貧の精神を尊重し、食事や衣服も、世俗の騎士に比べると質素なものでした。しかし、その一方でテンプル騎士団は組織全体としては莫大な富を蓄えていました。この富をテンプル騎士団にもたらしていたのは、ヨーロッパの各地のコマンドリー(騎士団の持つ支部、主に農場として経営)からの上納金や、聖地で異教徒と戦うという崇高な目的に惹かれた人々からの財貨や領地の寄進でした。

この巨大な財力とヨーロッパから聖地にまたがる活動網は、騎士団には金融業を行う機関を与えました。イギリスやフランスに住む巡礼者や十字軍士は、ロンドンやパリに置かれている支部に金銭を預け、聖地で手形と交換に金銭を受け取ることができたのです。これによって、巡礼者は重い貨幣を聖地まで運んでいく手間や危険を避けることが出来るようになりました。また、巡礼者が一定の財産を騎士団に預けておいて、もし戻らなかったならば、その巡礼者の相続人に財産が渡されるように取り計らうこともできました。13世紀に入っても、ヨーロッパで集めらた貨幣を載せた騎士団所属の船舶が地中海を行き来していました。

また、騎士団は巡礼者のための現金移送以外にも寄託(預金)業務や両替、貸付業を行っていました。当時の人々は盗難や火災での被害を恐れて、金銭や貴金属などを修道院や教会に寄託することがありました。修道院に貴重品を預けることで理念的には教会に保障されていた保護と安全の恩恵に与ろうとしたのです。通常の修道院の機能に加えて武装能力を持ったテンプル騎士団にも、このような流れの中で寄託が行われました。寄託の場合は金銭の所有権は騎士団に移らないものの、現金を騎士団に集積される結果を生みました。また、当時の人々にとって、預金は利子が付く投資としては捉えられておらず、むしろ貸し金庫を使わせてもらっているのだと考えられていたため、預託には保管料が付く場合もありました。

現在とは比べ物にならないほどに貨幣の種類や質が雑多であり、一国内でさえ同額の貨幣が何種類と造られていた中世において、両替業務は重要な役割を持っていました。また、騎士団は一個人から王侯まで幅広い身分の人々に貸付も行っていました。騎士団の金貸しについては別記事で後述します。

テンプル騎士団は、しだいに王侯の金庫としての役割も担うようになっていきます。この時代、王の個人資産と国家財政は完全に分離していなかったので、王が騎士団との間で金銭の取引を行うということは、テンプル騎士団金庫の国庫化を意味していました。フランス王フィリップ2世は第三回十字軍(1189‐1192)への参加の際、遺言の執行人をテンプル騎士団の財務長官に指名し、王の不在中の地方からの収入はタンプル塔(在パリ騎士団支部)に集められるように指示しました。また、フィリップ2世の孫、ルイ9世は第七回十字軍(1248‐1254)で捕虜にとられた際、テンプル騎士団の預託金を身代金の一部に使っています。

1295年、フィリップ4世はフィレンツェ人を責任者とする王室財務官庁を新設し、国庫の管理に乗り出しました。しかし、完全にテンプル騎士団による国庫管理がなくなったわけではなく、また王室財務官庁自体もフランドルとの戦争や財政危機のためにリーダーシップを発揮するには到らず、王室金庫がやっと統一されたのは騎士団解散と王崩御の後のことでした。