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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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アルビジョワ十字軍-第二次十字軍と王権の拡張

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▲カルカソンヌの城塞都市

1225年、ブールジュ教会会議にてレイモン7世の破門と、新たなアルビジョワ十字軍の結成が決議されました。一連の動向は教皇特使ロマン・ド・サンタンジュがルイ8世との協力の方向に進めるべく暗躍していたようです。ともあれ、ルイ8世は陣羽織に十字を縫いこんだ数万の軍勢を率い、南フランスへと侵攻しました。そして年内に、プロヴァンス地方の主要都市のひとつアヴィニョンを陥落させます。その後、トランカヴェル家領など南フランスの諸都市は次々と十字軍に下っていきます。トゥールーズ伯の命運は風前の灯火に見えました。しかし、ルイ8世が病に倒れたために十字軍は最終目標トゥールーズを手に入れることなく退却。1226年、ルイ8世はパリへの帰還を果たさずに崩御します。

南フランスではルイ8世の置き土産にしたカルカソンヌのセネシャル(代官)、アンベール・ド・ボージューがトゥールーズ伯との戦闘を続行していました。ルイ8世撤退後の一連の戦いは3年ほど続き、1229年モーの和平条約で終結します。いまだ幼少のルイ9世に代わって摂政となったルイ8世王妃ブランシェ・ド・カスティーユ、ロマン・ド・サンタンジュによって計画されたと思われるこの和平は非常に奇妙なものでした。というのも、敗北したわけでもないトゥールーズ伯があまりにも厳しい内容の条約を飲んでいるからです。

モーで行われた和平会議で提示された条件は、異端撲滅の義務付け、多額の賠償金といった適当なものに始まりますが、後半ではトゥールーズ伯の娘をルイ9世の弟アルフォンス・ド・ポワティエに嫁がせること、トゥールーズを始めとする主要都市の武装解除、さらには防備が残される城砦の大方をフランス国王管轄にするなど、常識を超えたものでした。レイモン7世には息子がいなかったため、娘の嫁入りは彼の死後トゥールーズ伯領が王領に併合されることを意味していました。レイモン7世はこの条件を飲みました。その理由はわかっていませんが、ブランシェ・ド・カスティーユとロマン・ド・サンタンジュの策略が疑われています。

1229年中、ロマン・ド・サンタンジュはトゥールーズで教会会議を開きました。この会議はモーの協約の特に異端に関する部分を実現するためのものでした。この会議で、異端審問の手続きにまつわる45ヶ条の決議がなされます。当時の教皇グレゴリウス9世が、異端審問制度の創設に大きく関わっていたことは示唆的です。この会議から数年後、それまで在地の聖職者に委ねられていた異端審問はドミニコ会士などの専門の異端審問官によって担われていくことになります。悪名高い異端審問制度の始まりです。

1240年、このような王権・教皇権の伸張に対しレイモン・トランカヴェルが二度目の反乱を起こします。彼の軍勢は、旧カルカソンヌとベジエの副伯領の落人たちにアラゴン王国の歩兵隊という加勢まで参加した大軍でした。彼はカルカソンヌ奪還を図りますが、包囲をかけるまでに時間を浪費してしまったためカルカソンヌ代官ギョーム・デ・ゾルムに防衛強化と救援要請の暇を与えてしまいました。カルカソンヌは包囲に耐え抜き、反乱軍は結局、フランス王の家臣ジュアン・ド・ベルモン率いる北の軍勢に降伏します。ジュアンはこの機会に残っていた多くの敵方の拠点を落として行きました。トゥールーズ伯はこの反乱の際、レイモン・トランカヴェルの救援要請を断っていました。レイモン7世には、別の計画があったのです。

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アルビジョワ十字軍-ミュレの戦いと南フランス諸侯の反乱

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▲南フランス地図(都市の並びはおおよその位置です)

シモン・ド・モンフォールは、ミネルヴ、テルムに続きいくつもの要塞を落としていきましたが、その戦いの中でトゥールーズ伯やフォワ伯などの強力な南フランス諸侯とも争うようになっていきました。1213年にミュレを占拠したばかりの彼の軍勢は損害が多く、南フランス諸侯がシモン・ド・モンフォールと彼の十字軍を潰すための絶好の機会が巡ってきました。

折しも、南フランスに国境を接するアラゴン王ペラ2世がトゥールーズ伯、フォワ伯及びコマンジェ伯の臣従礼を受け、南フランスへの介入を始めていました。臣従礼を受けて、彼らの封建制上の主人になるということは、同時に封臣保護の名目で南フランスに軍事侵攻できるようになったことを意味します。南フランス諸侯とアラゴン国王の連合軍は、ミュレのシモン・ド・モンフォールを圧倒的兵力差で包囲します。同年9月12日、包囲に耐えかねた十字軍はついに一か八かの賭けに出ました。城から打って出たのです。そして、大逆転劇が起こります。北国の騎士の突撃によりペラ2世は戦死、シモン・ド・モンフォール率いる別働隊が大きく迂回して敵側面を突いたことにより連合軍は総崩れになったのです。この奇跡的勝利に勢い付けられた十字軍は、1215年、無血でトゥールーズを占領しました。レイモン6世とその子、レイモン7世はイングランドへの亡命を余儀なくされました。

翌年の1216年、精力的に異端根絶に努めたインノケンティウス3世が崩御しました。この機会にレイモン7世は南フランスに上陸、シモン・ド・モンフォールの弟の守る城を占拠します。これに応じる形でトゥールーズの町は駐屯していた十字軍を虐殺、蜂起の狼煙を上げました。この反乱の動きに対し、シモン・ド・モンフォールはトゥールーズに包囲戦をしかけます。この時、トゥールーズの投石機が放った石が、この北の騎士を死に至らしめました。

シモン・ド・モンフォールの家督を継いだのは息子のアモーリ・ド・モンフォールでしたが、凡庸な彼にはトゥールーズ伯に対抗し、父の築いた大封土を守りきるだけの力はありませんでした。1224年、カルカソンヌは15年ぶりにトランカヴィル家の手に帰しました。1209年のカルカソンヌ陥落の後に獄死したレイモン・ロジェの息子、レイモン・トランカヴェルはトゥールーズ伯、フォワ伯の加勢を受け、父の領地に帰還を果たしたのです。

アモーリ・ド・モンフォールはといえば、父の遺骸と共に北フランスへと帰って行きました。こうして南フランスの政治地図は、アルビジョワ十字軍以前の状態に戻ります。しかし、これで万事が丸く収まったわけではありませんでした。先祖伝来の土地へ戻ったアモーリは、法律上はいまだ自分の領地である南フランスの土地を、フランス王ルイ8世に献呈します。こうして、ルイ8世には豊穣の大地、南フランス征服戦争の大儀名分が与えられたのです。


アルビジョワ十字軍-ミネルヴ、テルム陥落

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▲火刑に処されるカタリ派の信者

シモン・ド・モンフォールはカルカソンヌ陥落後も、十字軍の総大将としてカルカソンヌを拠点に戦闘を続けましたが、十字軍の主力であった諸侯の家臣団の多くは、トランカヴィル家を討ち遠征の目的は達成されたとしてさっさと引き上げていってしまいました。しかし、カタリ派を擁護する南フランス騎士の一部は、堅固な城砦に立てこもりなおも抵抗を続けていました。十字軍の総大将として、彼が始めに取りかからねばならなかった仕事は、これらの城をひとつひとつ攻略していくことでした。

1210年6月、要害の地にそびえるミネルヴの攻略にかかります。ギョーム・ド・ミネルヴの指揮する守備兵に守られたこの城への攻撃に際し、シモン・ド・モンフォールは一日の経費が20リーヴルも掛かる投石機を用いて、6週間に渡る長期の包囲を行いました。この投石により敵の水源への道が絶たれたことが勝利の要因となりました。7月22日、守備兵が自由に立ち去ることができる、異端者はカタリ派の信仰を捨てる限りにおいて除名されるという条件の下で、ミネルヴは降伏しました。しかし、この約束にも関わらず150名余りの信者は信仰を捨てるよりかは死を選び、彼らは生きたまま焼かれたのです。

同年の8月、シモン・ド・モンフォールはまたも高所に立つの難攻の城砦、テルムを包囲します。しかし、こちらの戦いでは守備隊の方でも投石機を動員しており、戦いはミネルヴのときのようには進みませんでした。結局、3ヶ月間包囲を続けても城は依然として落ちなかったのです。夏の終わりから始まった戦いも、そろそろ冬を迎えようとしていました。冬の戦いではしっかりした拠点のない攻城側が圧倒的に不利です。

11月、長期の包囲が功を奏し、水源の枯渇したテルムから和睦がなされましたが、その内容は満身創痍の十字軍への撤退勧告とも言えるものでした。すなわち、城は明け渡し、城内の者は自由に退去できる、そして翌年の復活祭に城は元の城主に戻されるというものです。しかし、友軍に続々と見捨てられていたシモン・ド・モンフォールは、この条件を飲みました。しかし、和睦締結から城の明け渡しまでの間に雨が降ったのです。当然のことながら、テルムは和睦案を破棄します。

こうして、十字軍には撤退の道しかないように思われていた11月22日、シモン・ド・モンフォールの軍勢はテルムから物音ひとつしなくなったことに気が付きます。十字軍が恐る恐るテルムへ入ると、そこでは守備隊やカタリ派信者たちが死に絶えていました。和睦申し入れの日に降った雨で、確かに井戸は満たされたのですが、その井戸に死んだ鼠が入っており、城内の者は赤痢のために全滅したのです。この後も、シモン・ド・モンフォールはいくつかの山城を攻略し、南フランスにおける地盤を確固たるものにしていきました。
 


アルビジョワ十字軍-ベジエ、カルカソンヌ陥落

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▲カルカソンヌを追われるカタリ派

カタリ派への教会の態度が変化したのは、教皇特使ピエール・ド・カステルノーがトゥールーズ伯レイモン6世を破門した後、何者かに暗殺されたことがきっかけでした。下手人は不明でしたが、当然のことながらレイモン6世が犯人だとされました。1209年、教皇インノケンティウス3世はフランス全土の高位聖職者、諸侯、騎士らに向けて異端撲滅のための大号令を発します。これを受けて、ブルゴーニュ公を筆頭としてフランスの名だたる諸侯や司教らが、30万とも言われる大軍を引き連れて集結地のリヨンに続々と乗り込んで来ました。この前代未聞の大軍を前にして、レイモン6世は教会への謝罪を行い、以後異端撲滅に協力し、十字軍に参加するという約束で破門を解除されました。十字軍は攻撃目標を、南フランスのナンバー2、カルカソンヌとベジエの副伯、トランカヴィル家のレイモン・ロジェに定め直します。

十字軍は副伯領の主邑のひとつ、ベジエをたった一日で陥落させました。ここで、ひとつ問題が湧き上がります。ベジエ市民の中から、異端者と正統カトリックの信者をどうやって見分けたらよいのかという疑問です。これには、シトー修道会の総修道院長であり、この度の十字軍の総大将であるアルノ・アマルリックが答えました。「全てを殺せ、神は神のものを知りたまう」つまり、神は正統カトリックの信者だけ、あとで天国へ導いてくださるのだから、見分けのつかない異端者を逃がす危険を冒すよりかは、住民を根こそぎ血祭りにあげた方がよいのだ、と。こうしてその数2万とも3万とも言われるベジエの市民は、老若男女の如何を問わず虐殺されたのです。

血なまぐさい殺戮の後も十字軍の勢いは衰えず、次いで彼らは副伯のもうひとつの主邑カルカソンヌへと進軍します。こちらでは、副伯レイモン・ロジェ・トランカヴィル自ら指揮した篭城軍が健闘し、十字軍は2週間に渡る包囲を余儀なくされます。戦闘の決着を着けたのは夏の陽光でした。カルカソンヌの井戸が、南フランスの容赦ない日差しを受けて干上がってしまったのです。篭城軍は已む無く降伏し、副伯レイモンは捕虜となり、その3ヶ月後、赤痢を患い獄死しました。

こうして南フランスで権勢を誇ったカルカソンヌとベジエの副伯、トランカヴィル家は政治舞台から抹消されます。十字軍内では、この副伯の継承者を誰にするかを決定するために会合が持たれました。当時の南フランスは、ローマの伝統を受け継いだ裕福な大都市が多くある豊穣の土地であり、貴族たちにとっては垂涎の的であるはずでした。しかし、副伯の継承を推薦された大諸侯は、自分たちは異端を討伐しに来たのであって南フランスの土地を奪いに来たのではないからと理由を付け、現在の勢力バランスを崩さずにはいられないであろうこの大封土の受領を拒否しました。そこで、目を付けられたのが遠征に参加していた一貴族、シモン・ド・モンフォールでした。さて、一夜にして平凡な領主から、強大な副伯領の主人となったシモン・ド・モンフォールですが、彼の前途は安寧なものではありませんでした。

 


アルビジョワ十字軍-南フランス事情

十字軍といえば聖地エルサレム奪還のためにヨーロッパのキリスト教徒たちが編成したものが有名ですが、広義の十字軍には非キリスト教世界に対する戦いが全て含まれます。例えば、スペインのレコンキスタやドイツ騎士団の活躍した北方十字軍などがそうです。これらはいずれも、キリスト教世界の周辺部で行われたものでしたが、13世紀、フランス南部という西方世界のど真中で行われた十字軍がありました。アルビジョワ十字軍として知られる、異端カタリ派討伐のための十字軍です。

カタリ派とは善悪二元論を教義の根本とする異端で、11世紀頃から南フランス一帯に広まっていました。このことを懸念した教会当局は、この異端に対する介入を始めますが、それらの介入は異端者への破門宣告や異端側聖職者との討論会、南フランス諸侯へのカトリック教義の厳守などを求めたものが中心で、直接的な武力行使はほとんど行われませんでした。

当時の南フランスの勢力図としては、まず頂点にトゥールーズ伯がフランス国王を名目上の宗主として君臨し、その下にフォア伯、コマンジェ伯、ナルボンヌ副伯、カルカソンヌとベジエの副伯などが並んでいました。当時のトゥールーズ伯は、いまだフランス全土を掌握していない国王に並んで力を持つ有力な大諸侯でした。ちなみに、副伯(ヴィコント)というのは南フランス特有の爵位で、時たま子爵と邦訳されているようです。この訳からわかるように、体系上は公爵、伯爵の下位に位置づけられていますが、支配域の大きさなどの実力から見れば公爵と変わらないようなものまでいました。

これら南フランスの諸侯は、自身は正統カトリックの信者であっても、領内に広がる異端への摘発を積極的に行おうとはしませんでした。カタリ派は南フランスの住民の間に浸透しており、もし彼らが異端の一斉摘発をしようものなら、家臣や、自らが治める都市と戦わねばならない状況があったのです。