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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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石壁と円塔-城の発展

中世ヨーロッパの城主たちにとって、もっとも大きな関心のひとつは自分の城の安全性を高めることでした。城の防衛力向上のためには様々な工夫がなされましたが、もっとも効果があったのは木造の城を石造に建て替えるというものでした。石造の城は強度の面でも耐火性の面でも優れていたため、財力のある城主たちはこぞって石造の城を建てようとしました。最も早い時代の石造の城は、10世紀中旬以降のフランスで確認されています。950年に建てられたドゥエ・ラ・フォンテーヌ城と、995年に建てられたランジェ城は最初期の石造の城として有名です。モット・アンド・ベイリーのような木造の城が全盛だった時期に建造されたこれらの城は、貴族の中でも有力な伯などの諸侯によって建てられました。

11世紀を通じて石造の城は増加してゆき、12~13世紀になると城は石造のものが一般的となります。石造の城は新たに建造される事もあれば、元々あった木造の城を改築して石造にすることもありました。フランスのロッシュ城は11世紀に石造の城として新設され、イングランドのヨーク城は11世紀の建設当時は木造でしたが、13世紀に石造に立て替えられました。12世紀に一般化した石造の城は、石造の矩形塔(キープ)を外壁で囲む形を基本にしており、イングランドでは「シェル・キープ」様式と呼ばれました。

城の石造化の背景にはヨーロッパ世界全体での経済発展がありました。農業の躍進は人口の増加を招き、人口が増加したことによって開墾や農地の拡大が活発化するという相乗効果は、余剰作物と非農業人口の増大を可能にし、各地には余剰産物を売買するための市場を中心として都市が勃興します。農民の収穫や、商人たちの支払う通行税によって生計を立てていた領主たちは、この経済発展の恩恵を存分に受け、石造の城建築という莫大な費用のかかる事業にも着手できるようになったのです。

11世紀末以降の城の発展には、十字軍を媒介にしたイスラム文化の流入の影響もありました。第一回十字軍へ参加した農民や騎士たちは、エルサレム奪還後にそのほとんどが故国に帰ってしまったため、残された聖地の防衛はエルサレム王国などの十字軍国家と少数の騎士修道会に託されました。僅かな騎士だけで広大な聖地を防衛する必要があったヨーロッパ人は、城を用いることで兵数の少なさを補ったのです。騎士たちは現地のギリシア人やアラブ人、トルコ人などの築城技術を学び取り、自分たちの戦闘経験も活かして城を改築・建造していきました。その築城技術の一部は十字軍帰還者らによって輸入され、多角形や円形の塔やキープがヨーロッパの城塞に導入されていくようになったのです。角の部分が脆い矩形の塔に対し、多角形や円形の塔には死角がなく、丈夫であるという利点がありました。1215年にジョン王に包囲されたロチェスター城は、陥落後にキープが円形に再建されました。

キープを囲む防護壁が木製の柵から石造の城壁に代わり、城壁自体の防衛力が増していくに連れて、城内には城主の居館をキープとは別に建てることも可能になっていきました。城壁内にある程度の空間を備えた城には、城主一家の住処である居館や炊事場、厩、武器庫など数種の建造物がキープとは独立して建てられました。居館が独立したことにより、城主の住環境は飛躍的に改善しました。もう、キープ独特の狭い窓や冷たい石壁に悩まされることなく、広い食堂でゆったりと食事できるようになったのです。

11世紀以降、フランスではシャテルニーと呼ばれる、城を中心として一円的に広がる領地が形成されるようになります。この時代に、城はそれまでの辺境の防衛、民衆の避難所としての性格を薄め、一定の領域を統治するための支配の道具としての意味を強めていったのです。

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軍事拠点と避難所と-城の起源

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▲寡兵で城に挑む筆者 「Mount&Blade」より

11世紀以降、中世ヨーロッパの各地で、地域支配の中心として、城の建設が盛んになっていきます。中世中期から多く現れるようになった城は、それまでの防衛施設や、防備を施された集落、軍事要塞などとはいくぶん異なった性質を持ち、中世独特の役割を担っていました。この新しい城は、多くの場合、その城の周辺領域を支配するための拠点であり、当該地支配者の住居であり、権力行使の中心でした。今回は「中世の城」への影響の有無などと併せて、中世盛期以前の防衛施設を概観していきます。

ゲルマン民族の大移動以前、イタリア、フランス、イングランド、スペインなど、西ヨーロッパの大部分を占める地域は、ローマ帝国の支配下にありました。帝国領内の重要拠点や辺境地域にはローマの軍団が配備され、軍団は四方を壁と堀で囲んだ防備施設「カステルム」を築き、そこを拠点に駐屯しました。カステルムは、一見すると中世の城の原型のようにも思われます。しかしカステルムはあくまでも純軍事的な施設であり、帝国からの支配拠点・兵士居留地という意味はあれど、領主の住居としての役割や、分断された領国の中心地としての役割は持っていませんでした(後述のように都市化したカステルムが地域の中心としての機能を持つ事はありえました)。また、カステルムは後世の城に比べ大規模であり、職業軍人の駐屯を前提としていたために、防衛設備が最低限のものに限られているという特徴を持っていました。カステルムには退役した軍人が定住するために純軍事的役割を失って城塞都市となったり、中世に拡張を施されて城として生き残ったものもありましたが、そのまま中世の城の原型というには難がありそうです。

ローマ文明と並んで、中世ヨーロッパを構成する要素のひとつとなった古代ゲルマン社会では、避難施設としの城塞が存在していました。タキトゥスは彼の著書「年代記」の中で、この城塞を「部族の枢要の地」と呼んでおり、マルコマンニ族についての記述では「王の邸」と城塞が別ものとして存在したことがわかります。ゲルマン民族の王ないし首長たちは、いくらかの防備を施した邸宅に、近親者や従士たちとともに住んでいましたが、それは城と呼べるような規模ではなかったようです。ゲルマン人の城塞は、有事の際に民衆を収容するため避難所であり、首長の住居ではなく、部族全体のための城塞だったのです。中世の城は、城主一家、使用人、守備兵などの少人数を収容するのに適したコンパクトなつくりをしており、ゲルマンの避難城塞とはかなり異なった特徴を持っていたといえます。

東ローマ帝国の後身であるビザンツ帝国が、小規模な兵力で防衛可能なつくりの城の原型を提供したという説もあります。ユスティニアヌス大帝の時代、将軍ベリサリウスが北アフリカへと遠征した6世紀頃、チュニジアにアイン・トンガという城塞が建設されました。アイン・トンガは、分厚い石造の壁と高い塔からなる防衛施設で、ひとつの塔は守備隊が最後の抵抗拠点として使えるようにつくられていました。これは中世の城の主塔(キープ)を髣髴させます。また、イスラム教徒もビザンツの建築様式を模倣して、8~9世紀の間、イベリア半島で数百の城塞をつくっています。これらの城塞は矩形の塔で強化されており、レコンキスタを通じてキリスト教圏にも影響を与えていきました。

ヴァイキングの活動も中世の城に影響を与えました。北フランスや低地地方など、ヴァイキングの影響を最も受けやすかった地域では、それまでになかった新しい形式の城塞が生まれました。盛り土の上に築かれた主塔と、柵で防御された囲い地からなる城塞は「モット・アンド・ベイリー」様式と呼ばれ、西ヨーロッパにおける初期の城の一般的な様式であると考えられています。木造であるために考古学的な研究が難しく、この様式の起源はかなり不鮮明ですが、最初の出現がヴァイキング侵攻の時期であるために、ヴァイキングの土塁で防御した野営地と、フランス人の対ヴァイキング用避難城塞からの影響を受けて出来たという説が有力なようです。中世の城は、これらの諸要素の融合と、国家の解体や権力分裂という政治的な条件によって始めて誕生したのです。

騎行-正当な破壊活動

中世ヨーロッパの全体を通して、王や諸侯同士の大きな戦争から、近隣領主間のフェーデに到るまで、戦いの中心であったのは攻城戦と、敵領地への急襲でした。この襲撃はフランス語でシュヴォシェと呼ばれるもので、日本語では騎行と訳されています。

騎行は、主に敵領地財の略奪・破壊が主な活動であり、敵の力を弱体化させることを狙いにしていました。騎行には農民の殺害や村落・都市への放火などの野蛮な行為が含まれていましたが、当時の人々(騎士)にとってみれば、騎行は戦略上の必要性から、正当なものとされていました。騎行の際に、騎士道の理念に邪魔をされる騎士は少なかったと思われます。

例えば、百年戦争中にエドワード黒太子が行った南フランスでの騎行について、イングランドの騎士が手紙を残しています。彼は、黒太子によって破壊された都市や地域のリストを載せた上で、以下のように述べています。

「フランスとの開戦以来、このたびの侵攻ほど大きな破壊を一地域に与えたことはないと存じます。なぜならば、破壊した農村地帯や都市は、戦費としてフランス王国の歳入の半分以上を賄っていたからです。」

このように、手紙を残したこの騎士は、騎行を敵の経済に打撃を与えるという目線から見ていることが伺えます。また、騎行は動かない敵を、大規模な会戦へ誘い出す挑発としての役目も担っていました。また、騎士や兵卒にとって騎行に加わることは、略奪品の獲得を意味していたので、軍隊の士気向上にも役立ったと考えられます。もっとも、被害者となる農民たちにとってはたまったものではなかったことは言うまでもありません。


城の眼-狭間窓あるいは射眼

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▲狭間窓を内部から。外には攻め手の攻城塔が見える(Mount&Blade)

城砦建築の壁は分厚くできており、この厚さを利用した機構に狭間窓があります。これは、壁の外側に狭く内側には広がっており、真上から見たとすればちょうど漏斗型・台形をしたような形の窓です。この狭間窓を使えば、内部にいる兵士は狙いをつけるために自由に動くことができますが、攻め手はほんの一筋の切れ目にすぎない窓の中の相手を狙わなければならないのです。これにより、城の守備兵は凹凸の鋸壁に隠れながら攻撃を行うより、はるかに安全に戦闘を行うことができました。

レコンキスタの英雄-エル・シッド

88056b74jpeg<エル・シッドの騎馬像、スペイン-ブルゴス

エル・シッドという渾名こそはロドリゴ・ディアスその人の生きた時代を端的に表していると言えます。エルというのはスペイン語の定冠詞、シッドはアラビア語のサイード、つまり主を意味します。彼はスペインの全キリスト教徒の、そして一部ではありますがイスラム教徒の守護者でもあったのです。レコンキスタの真っ只中に生きた彼の人生を追ってみることとしましょう。

ロドリゴ・ディアスは1043年、イベリア半島中北部、ブルゴスはビバル村の下級貴族の家に生まれました。15歳で父と死別した彼は、当時レオンとカスティリャ両国を支配していたフェルデナント1世の長男サンチョに仕えることとなりました。レオン・カスティリャといえば、後ウマイヤ朝の滅亡後統一が成されず小国分離状態にあったイスラム諸国から、貢租を受けていたようなイベリア半島随一の強国です。一騎打ちの決闘での功績を称えられカンパゾール(勇者の意)と称えられた彼の前には、サンチョ2世として即位した主人の寵臣として、順風満帆の未来が約束されているかに思えました。しかし、運命は彼に甘くありませんでした。

1072年、サンチョ2世は反対派の手で殺されました。王位は弟のアルフォンソ6世に転がり込みます。初めのうちエル・シッドはアルフォンソの姪ヒメナを嫁に貰うなど上手く立ち回っていましたが、政敵の讒言によって追放の憂き目に遭います。アルフォンソはエル・シッドに「サンチョ暗殺に関わっていない」という旨の宣誓をさせられたことを根に持ち、彼を追放したという話がありますが、どうやら史実に即していないようです。

ともかくエル・シッドはサラゴサのイスラム君主に仕えることとなりました。一見変なように思えますが、この時代のレコンキスタはまだ宗教色が弱かったためキリスト教徒とイスラム教徒が入り乱れて戦っていたのです。さてアルフォンソはといいますと、彼は着々と支配権を広げて行きましたが、窮地に陥ったイスラム諸国がアフリカのイスラム系王朝ムラービト朝に援軍を頼んでからは旗色が悪くなっていきます。ザグラハスの戦いで大敗を喫した王はエル・シッドを赦免し彼を頼ることにします。しかし、敗戦の記憶が薄れるやいなや王はまたしてもエル・シッドを追放します。

エル・シッドは二度目の追放を受ける前に支配していたレバンテ(イベリア半島東部の沿岸地帯)を平定し、1094年には長い包囲の後、バレンシアを占領します。アルフォンソの名の下の占領でしたが、実質的には彼が全てを支配していました。1092年に二度目の赦免を受けていたエル・シッドはまたも頼ってきたアルフォンソのところへ一人息子に手勢を付けて派遣しますが、その息子はコンスエグラの戦いで戦死しいてしまいます。その後もムラービト朝と戦い続けていたエル・シッドですが、ついに1099年その波乱の一生を終えます。英雄無き今、もはやキリスト教徒たちはムラービト朝の攻勢に耐え切れず、1102年、バレンシアから撤退します。この町がキリスト教徒の手に戻るまでは、実に130年以上もの時間を要しました。

役人から諸侯まで-ミニステリアーレス

中世ヨーロッパの封建制が確立されていくのに時を同じくして、封建制の主役となった城主層や諸侯に仕える下層の人々の身分が形成されていきました。もとは騎士や領主の従士と呼ばれていた人々は、この頃から家士や家人と訳される身分を形成していきます。非騎士の戦士であった彼らは、フランスやイングランドではヴァッサル、ドイツではミニステリアーレスと呼ばれていました。今回はこのミニステリアーレスについて紹介します。 ドイツのミニステリアーレスの特徴は、その従属性です。王により封土を授かった自由民たる貴族たちは、封土の世襲化に成功し、王の意見を意に介さないような存在となってしまったので、王は不自由民を召し抱えることで彼に忠実な家臣をつくろうとしました。ミニステリアーレスの栄達は、使える君主の恣意に基づいていたので、彼らは王に対し、もはや半独立を果たした貴族等より、従属的な身分を形成していたのです。もっともこれは彼らの存在が欠かせないものとなるにつれ建前になっていきましたが、それでも理論上は彼らは領主に従属する非自由民だったのです。そして、この従属こそが彼らの社会的身分上昇に役立っていたのです。ミニステリアーレスは自由な市民や自営農民たちとは違った道を歩んで行きました。 10世紀頃から現れたミニステリアーレスたちの多くは、自分の所領を持っていませんでした。彼らは領主に使え、城代として、領主の土地管理人として彼らに使え、また封建的軍役の中では騎兵戦力の一部を担いました。また、都市領主に使えたミニステリアーレスは造幣人などとして領主の役人層を形成し、自らも商業活動に従事していました。さらに皇帝に直属することで権力を拡大した帝国ミニステリアーレスたちの中には、諸侯と並ぶほどの力を持ち合わせていた者もいたようです。 ミニステリアーレスの価値がしだいに高まっていく中で、主人から封土を受けるミニステリアーレスも出始めます。彼らは自分の所領に構えられた、防御を固めた屋敷や城で居住していました。もちろん封土を与えられなかったミニステリアーレスは領主の城でほかのミニステリアーレスとともに暮らしていました。 自分の城を持ったミニステリアーレスは従属する家士としての性格を薄めていったといってよく、他の封建領主にあるように、主君に対する反発もあったようです。彼らはしだいに契約を軸にした存在になっていきました。12世紀のケルン大司教の家士たちについての例を挙げておきます。彼らは大司教のために従軍するのに際し、土地の境界を越える場合には金品や布といった報酬を求めており、また大司教はアルプス越えの召集を出す場合には1年も前にそのことを通達する必要があったのです。

略奪と殺戮と-盗賊騎士

私たちが考える中世の騎士のイメージはどんなものでしょうか。神を敬うキリストの戦士、文学に見られるような悪さをする竜を退治する英雄、そして主君のために命がけで仕える忠義の者。様々な騎士像がありますが、中世の騎士の中にはこのようなイメージとはかけ離れた姿の騎士が大勢いました。今回のテーマは盗賊騎士です。盗賊と騎士、イメージ上では相反するような存在の二者ですが、中世ヨーロッパにはこの二つの性格を備えた盗賊騎士が一般人の平穏な暮らしを脅かしていたのです。

「戦う人」として中世の身分秩序の中に位置づけられた騎士たちには戦いの権利が認められていました。この戦いとは、フェーデを行う権利、つまり自分が相手によって名誉を傷つけられたときや、実際に不利益を被った場合などに、武力によって自力救済を行う権利を持っていたということです。このフェーデの目的は相手の殲滅にあるのではなく、あくまで相手の譲歩と補償を引き出すための手段でした。

しかし、このような曖昧な理由による武力行使の正当化は、中央権力不在のヨーロッパ世界に中世を野蛮と呼ばしめる騒乱を生じさせました。それが本当に自力救済のためのフェーデなのか、それとも略奪目当ての強盗なのかわからないのです。「本来、暴力の鎮圧を任務とするものたちが狼のように荒れ狂い、鳥のように飛びまわった」とある年代記製作者が嘆くように、盗賊騎士は私利私欲のために、その戦闘能力を発揮しました。騎士たちが国の軍事の中心を成していた当時において、彼らの暴走を止めるのは簡単な事ではありませんでした。

それがフェーデであろうとなかろうと、深刻な被害を第一に被ったのは一般の民衆でした。彼らは、ほとんど無防備な状態で騎士たちの襲撃を受けたのです。家は焼かれ、食料や財貨は奪われ、多くの村人が殺されました。商人たちも彼らから逃れられませんでした。都市にいるときに襲撃を受けることは少なかったにせよ、各地を移動する行商人たちは強盗騎士たちの格好の餌食でした。悪名高い盗賊騎士の城を避けるために、フランスの古ローマ街道がすたれ、修道院を通る別のルートが生まれることさえあったのです。

教会や皇帝による平和令の乱発は、そうした法令がほとんど意味を成さなかったことの証明となっています。実際、強盗騎士を取り締まるには武力を持ってするしかなかったようです。13世紀、皇帝ルドルフは百人以上の盗賊を処刑し、彼らの城を破壊しました。都市は基本的に防衛に力を注ぎましたが、驚くべきことに策略を用いて盗賊騎士の城を陥落させた都市もあったようです。

隘路、坂道、バービカン-城までの道

城の防衛-守備兵数と装備品目録」で紹介したように、中世の城を守っていたのは、本当にわずかな数の兵士たちでした。守備兵の少なさを補い、防衛の利点を最大級に引き出すために、城は数々の防衛施設を持っています。主塔や強固な門、堀などがその代表ですが、そこに至る前の城に通じる道さえも立派な防衛機能を果たしていました。

例えば、城に通じる小道は大変狭く馬が一騎ようやく通れる幅しかないものがあり、攻め手が一気に総軍を城に到達させることを不可能にしていました。このような小道は、その狭さゆえに少ない手勢で多くの兵士と渡りあうことを可能にした、至極単純な防衛施設でした。このような小道を三周もしないと、城門にたどり着けない城さえありました。

そして可能であれば、城に至る道は時計周りになるように設計されました。こうすることで、攻め手は盾を構えていない右側面を城の射手に曝すことになるのです。このように城までの道の狭さを利用するところもあれば、逆に山城などでは周囲の樹木を全て伐採し、敵に隠れる場所を与えないようにしたものもありました。山城であれば、自然と城への道は勾配を持ち、攻め手は必死になって坂道を上りきって、やっと城に到達することができたのです。

また、要塞化された道として防衛区「バービカン:英」が設けられることもありました。これは、壁や塔で周囲を強化した通路で、この道を通らなければ門に到達できないように設計されました。

▼バービカン(通路と中庭以外の場所は堀になっています)

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ミレスから騎士へ-騎士身分の誕生と変遷

騎士の前身となったのは、ラテン語でミレスと呼ばれた人々でした。彼らはフランク時代に有力者に仕える職業戦士としてその身分を形成していきました。初期においては必ずしも騎乗していなかったミレスは、戦場での歩兵と軽装騎兵が果たす役割が小さくなるにつれ、重装騎兵としての装備を身に着けるようになり、兜、鎧、剣の他に軍馬と騎槍(ランス)が彼らの基本装備となっていきます。騎士と馬との関連性はフランス語のシュヴァリエ(chevalier)が馬(cheval)を、ドイツ語のリッター(ritter)が騎乗(ritt)を語源としていることからもわかります。ちなみに英語のナイト(knght)は主従関係から来た下僕(cniht)という語を語源としています。

当初、彼らは農民と大差ない広さの土地の所有者でしたが、装備一式を自前で用意するためにより多くの土地が与えられるようになります。時代の流れとしては、貸し出された(という名目であった)土地は大は伯領から小は村まで世襲される傾向にありました。そうして彼ら下層の職業戦士は小領主として封建制の末端に組み込まれていきます。彼らのような、自身に仕える封臣を持たない小領主や、有力者の家に住み着いて彼らの手足となって働いた家中騎士たちが狭義の騎士です。ドイツにおける家中騎士は特に家士(ミニステリアーレス)と呼ばれ、領主たちの役人として力をつけていきました。また、彼らの中には皇帝直属のミニステリアーレスになることで封土を受け、諸侯と変わらぬほどの権力を持つに至るものまでいました。

戦士たちを統制しようとした教会の騎士に対するキリストの戦士化や、南仏などを中心に騎士的宮廷文化が築かれていくことなどの相互作用として、騎士は素朴な戦士集団から、崇高な理想を掲げた階級へと変化していきます。そして13世紀までには、一般に想像されがちなイメージ、すなわち「貴族すなわち騎士である」という騎士制度とも言えるものが確立します。1184年、マインツで行われた聖霊降臨祭の際、皇帝フリードリヒ・バルバロッサの二人の息子が騎士に叙されたことは、騎士身分が下層戦士から王侯貴族まで広がったことを示すよい例です。広義の騎士は彼らのような全ての貴族と、彼らに仕える家中騎士で構成されています。しだいに、騎士になるための教育、訓練、そして騎士叙任などが一連の流れに乗っ取って行われるようになっていきました。騎士志願者は、親族や有力者の下で小姓として働き、戦時には主君の従士となり、時が来れば儀式化された叙任式を迎えて、晴れて騎士となったのでした。

つまり中世の騎士と一口にいっても、その姿は時代やその騎士自身の境遇によって大きく違うものだったのです。圧倒的多数の騎士は、小さな領地をもつ(あるいはまったく領地をもたない)貧しい人々で、大所領を持ち封臣を幾人も従えているような騎士(貴族)はごくわずかでした。彼らはまさに、中世の軍事制度、社会制度の変化の中で生まれ、変容を遂げていったのです。

▼共に14世紀、フランスで描かれた騎士

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前へ後ろへ-破城槌

城砦を攻めようとしている指揮官にとって、もっとも安上がりだった攻城兵器は破城槌でした。もっとも単純な破城槌は、切り倒した木を横に倒して、兵士に担がせるだけでよかったのです。強化された破城槌の先端部分には、鉄の塊が装着されていて、破壊力を高めていました。また多くの場合、破城槌は車輪の付いた可動式の小屋を備えており、兵士たちは比較的安全な場所から攻撃することができました。しかし、この兵器では目標に接近しなければ使用できないため、破城槌の使用前には堀を埋め、遮蔽物を取り除く必要がありました。


        
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