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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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Ⅳ-シチリア王ルッジェーロ2世

シチリア伯ルッジェーロ1世が没した後、息子のルッジェーロ2世が伯位を継承します。アプーリア公ロベルト・ギスカルドからその息子ルッジェーロ・ボルサへの継承は諸侯の反乱と公国の衰退をもたらしましたが、ルッジェーロ2世は父の残した統治機構の力で円滑に領地を踏襲することに成功しました。

父の代からあったアプーリア公への援助と引き換えの領地割譲は続いており、ルッジェーロ・ボルサが没しその子グリエルモが公位を次ぐとその影響力はますます強くなり、ついにひとつの契約を結ぶに至ります。グリエルモに後継者ができなかった場合、アプーリア公位はルッジェーロ2世に継承されるというものです。目論見どおり、数年後にグリエルモは死にルッジェーロ2世はいまや南イタリアのほとんど全ての領地とシチリア島全土を支配する大領主となりました。

この勢いは止まらず、当時対立教皇の存在により軍事援助を欲していた教皇アナクレトゥス2世を援助する換わりに、ルッジェーロ2世は教皇からの王位授与を求めました。(当時は教皇に許された人のみが王を名乗ることが許されていました)この計画は実現し、1130年、ルッジェーロ2世は初代シチリア王として戴冠されます。ノルマン人最初の拠点がアヴェルサに出来てから100年後のことです。両シチリア王国の誕生です。

ルッジェーロ2世は戴冠後に起こった諸侯の大反乱を10年かけて鎮圧した後、拡大政策も行いアフリアのチュニジアやビザンティン帝国領だったギリシャの島嶼もいくつか獲得します。彼の代に、南イタリアは統一され、公や候などの上級爵位は王家が独占し、都市は軍その事力を削られていきました。されに反乱に加わった諸侯の多くは処刑あるいは追放されたため、揺れ動いていた王国はやっと平安を手にしました。

▼ノルマン人と関わりの深い都市
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ヨーロッパの人名は国によって表記が違います。今回の両シチリア王国小史では舞台が南イタリアということで基本的に名前はイタリア語表記にしてあります。しかし、この国の歴史は多文化の流れの真ん中になり、なおかつノルマン人の故郷ノルマンディーはフランスの一部なのでロベルト・ギスカルドやルッジェーロ1世の父親タンクレードはフランス語表記にしました。以下にいままで出てきた人名の対応表を記しておきます。

イタリア フランス ラテン
ロベルト ロベール ロベルトゥス
ルッジェーロ ロジェ ロゲリウス
タンクレーディ タンクレード タンクレドゥス
グリエルモ ギョーム ウィレルムス

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Ⅲ-シチリア伯ルッジェーロ1世

今回はロベルト・ギスカルドの公国から視点をずらし、タンクレードの末っ子ルッジェーロがシチリア伯となるまでの経過を追っていきます。ルッジェーロは他の兄たちを追って南イタリアへ向かい、六つ上の兄でアプーリア公だったロベルト・ギスカルドに仕えます。1058年、紆余曲折の後に彼はカラブリアの村ミレートを獲得します。その後、ルッジェーロの視線は西にある目と鼻の先の島、シチリアへと注がれることになります。

当時シチリア島はイスラム教徒の支配下にありましたが、一枚岩ではなく3人の将軍がそれぞれの領土を治めている状態にありました。それまで均衡を保っていたシチリアのパワーバランスが崩れ、将軍の1人がルッジェーロに支援を求めて来たとき、ルッジェーロのシチリア島征服が始まりました。彼は兄の本土での戦争に協力しつつ島での領土を拡大していき、1072年には最大の主要都市パレルモを陥落させます。このとき、ルッジェーロは兄ロベルト・ギスカルドからアプーリア公を宗主としたシチリア伯の称号を受けます。シチリア伯ルッジェーロ2世の誕生です。その後も征服活動は続き、1091年までに彼の伯領はシチリア全土を支配下に組み込むことに成功しました。

アプーリア公ロベルト・ギスカルドが遠征中に死亡すると、跡を継いだ息子がいたにも関わらず、ルッジェーロはほとんど独立した君主のように振舞いました。アプーリアの新しい主となったロベルトの息子ルッジェーロ・ボルサは、異母兄との対立や諸侯の相次ぐ反乱の中で勢力を急速に衰えさせており、ロベルトの建設した公国は小領主や都市の単位にまで分裂してしまいました。彼は叔父であり臣下(であるはず)のシチリア伯ルッジェーロに、公位の踏襲を認め、援軍を送ってもらうためにカラブリアの大部分を割譲しなければなりませんでした。こうして、ルッジェーロはシチリアとカラブリアを支配する南イタリア最強の国家となったのです。

Ⅱ-アプーリア公ロベルト・ギルカルド

戦士を欲していた南イタリアに、当時土地不足によって相続を得られず、故郷にあぶれていたノルマン人たちが引き寄せられます。この需要と供給を結びつけたのは、イタリアを経由して旅していたノルマン人巡礼者たちでした。南イタリアの諸侯はこぞってノルマン人傭兵を集めます。その中でナポリ公と契約したライヌルフスという男は戦功によりアヴェルサの町を与えられ、ここに南イタリアにおける初のノルマン人伯領が生まれました。アヴェルサ伯は分散していた同郷者を集めて、自分の下で戦うように勧め、この町をノルマン人の拠点とします。

この町に引き寄せられたノルマン人の中に、タンクレードの息子たちがいました。タンクレードはノルマンディーの小領主でしたが、彼らの息子たちは小さな領地を分割相続する気にならなかったのか、次々と南イタリアへと旅立っていきました。息子たちは南イタリアでそれぞれ活躍しましたが、特筆すべきは二番目の妻との間の長子ロベルトでした。ロベルト・ギスカルド(強者)と呼ばれるこの男は、始めはアヴェルサ伯の元から独立しアプーリア公となっていた兄に付き従っていましたが、後に公位を踏襲します。

アヴェルサ伯・アプーリア公両ノルマン系勢力は周辺の小国を吸収しながら拡大し、南イタリアを分割する二大勢力となっていきます。1080年までにロベルト・ギスカルドは各地の反乱を鎮圧し、教皇と組んだアヴェルサ伯をも倒し、南イタリア全土を支配するに至りました。その後、叙任権闘争により皇帝ハインリヒ4世と争っており、軍事的な援助を求めていた教皇グレゴリウス7世と和解を果たし、一部地域を除いた領地に対し教皇の封臣となりました。こうしてロベルトは圧倒的な勝利と、教皇の承認によって統治をゆるぎないものにしたのです。



BOOKOFFって偉大ですね、いろいろ買ってしまいました。これで冬篭りの用意はバッチリです!
両シチリア王国の歴史は狭い地域でのことですが、なんとなく西欧の中世史の縮小版のような感じがします。各地に跋扈していた小領主による支配から、強化された王権の集権的支配への移行。その中で起こるのは対外戦争や内乱…と。そんな視点で見てみるのも面白いかもしれないなぁ、と考える師走の夜。ああ、忙しい忙しい…

 


Ⅰ-南イタリア情勢

南イタリアに覇を唱えた両シチリア王国。この国の誕生について簡単にまとめました。南イタリアの当時の情勢と、建国に深く関わった3人のノルマン人を中心とした4部構成となっております。(07.12.29 加筆修正)



両シチリア王国は11世紀、ノルマン人冒険者のひとりタンクレードの息子、ルッジェーロが南イタリアの一部とシチリア島を平定して築き上げた強力な伯領が起源です。今回は、ノルマン人が進入してくる以前の南イタリアの情勢について紹介したいと思います。

ローマ帝国滅亡後の5世紀末、東ゴート族がイタリア半島を支配した後、東の帝国はユスティニアヌス帝のもと国土の再征服(6世紀初期)に乗り出しました。しかし、イタリアを回復したのも束の間、今度はランゴバルド族の侵攻に遭い、東帝国は長靴型の半島のわずか爪先と踵の部分、すなわちアプーリア地方とカラブリア地方にのみ影響力を持ち、半島中部カンパニア地方に点在するナポリ、アマルフィ、ガエータの都市とそれらに付随する若干の周辺領域に対しては名目上の宗主権を持つのみになってしまいました。その他の南イタリアは、568年にランゴバルド王国が成立したのと同時期に興ったスポレート、ベネヴェントのランゴバルド系両候国が占めていましたが、その後スポレート候国が王国に吸収され、ベネヴェント候国が分裂した結果、ベネヴェント、カープア、サレルノの町を中心にした三つの候国いずれかの支配下に組み込まれていきます。

また、シチリア島はイスラム教の発生以来西進を続けていたムスリムの将軍たちが支配していました。このように、当時の南イタリアにはラテン・カトリック文化、ギリシャ(ビザンツ)・オーソドックス(東方教会)文化、アラブ・イスラム文化という地中海を取り巻く三つの大きな文化圏が互いにせめぎあっていました。そして、諸侯国や帝国領、各都市はこの地の覇権争いに勝てるような強力な軍隊を必要としていたのです。南イタリアのこのような情勢が傭兵としてのノルマン人を呼び寄せたのです。

▼南イタリアの主要都市と地方名

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いきなりですが、通史です。両シチリア王国の歴史を軽く紹介していく予定です。他の国の通史も軽くやってみたいな、と思いつつもドイツとかフランス軽くなんて書けないなぁ、とも思っていたり…。できれば君主で時代を区切って書いてみたいと思います。