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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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中世の「食」

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▲貴族の食卓(フランス)

中世の食事については、肉や野菜、パンなどと項目を細かく設けて紹介してきましたが、中世の食事全体について概説的な記事を書いていなかったので、今回はそれを書いてみようと思います。中世の食卓には、現代のヨーロッパ人や彼らから影響を受けた我々日本人が日ごろ口にする、重要な食品のいくつかが欠けていました。トマトやジャガイモ、コーヒーや紅茶、チョコレートなどがそうです。これらの食品は、中世末期から近世にかけてアジアやアメリカなどの「新世界」からもたらされました。イタリア人が料理にトマトを多用するようになったのも、ドイツやアイルランドでジャガイモが人々を養ったもの、近世に入ってからのことだったのです。コーヒーがトルコから伝わったことや、紅茶貿易を背景にイギリスがアヘン戦争を起こしたのは有名な話ですね。
 
過酷な自然と直接向き合って生きていた中世の人々にとって、食事とはまず生きるための栄養を得るためのものでした。社会の中の一握りのエリートたちだけが、宮廷風のマナーを備え、美食を求めることができたのです。中世ヨーロッパ人の主食は小麦、大麦、ライ麦などの穀類でした。栽培される穀物は、その土地の状態や気候によって左右されました。穀物からパンをつくって食べることは、ローマから受け継いだパンとワインの食文化と、イエスの肉としてのパンという聖書の言説から、採算性を度外視して食の基本理念として存在していました。つくるのに手間がかかり、ふすまなどを取り除く必要から目方が減るパンは贅沢な食べ物といってもよく、そのため貧者は牛乳やスープで煮込んだ粥として穀物を消費するほうが多かったようです。
 
我々日本人と比較してヨーロッパ人は肉食というイメージがありますが、これは中世をかたちづくった文化のひとつ、ゲルマン文化から大きな影響を受けています。パンとワインのローマ人に対し、ゲルマン人は肉とビールの民といってもいいかもしれません。もっとも、ゲルマン人も肉ばかり食べていたわけではなく、牛乳、チーズ、バターなどの乳製品や卵などの肉以外の畜産品からも多くのカロリーを摂取していました。中世の食肉の代表は、なんといっても豚です。鶏は卵のため、羊は羊毛のため、山羊や牛、馬は乳や労役のためにも必要とされましたが、豚は純粋に食肉用に飼育されていました。

現代の感覚だと肉は穀物より高級で、パンにも困るような貧しい中世人が肉を食べていたというイメージがしっくりこないかもしれませんが、これは中世の豚が森に放牧されていたということで説明できます。つまり、現代の家畜は栽培された穀物を飼料としているためにコストが高くつきます。一方、中世の豚は母なる森が提供してくれるドングリを食べて勝手に肥えていったので、越冬しない限りはコストはほとんどかからなかったのです。そして、冬に入る前に家畜の多くは捕殺されて貯蔵食として加工されました。つまり、穀物栽培は畜産と競合せず、むしろ牛馬の畜力や糞の利用により改善されていったのです。また、肉食が禁じられる斎日の多かった中世では、斎日中はサケ、タラ、サバ、ニシンなどの魚が食卓にのぼりました。
 
四旬節を代表とする教会による節制と、謝肉祭に見られるような節制への反動との間を揺れ動いていた中世社会には、一方に厳格な修道院や農村での質素な食卓があり、他方に宮廷や豪商の邸宅での香辛料をふんだんに使った御馳走がありました。もっとも一般的な調味料は塩であり、塩は味付け以外にも四旬節で食べる魚(ニシンなど)や豚肉を保存するための塩漬けにも使われました。よく使われた香辛料としては、ニンニク、コショウ、ショウガ、ナツメグ、サフラン、シナモンなどがあり、香辛料の使用量は身分や経済力が上がるにつれて多くなった。甘味料としては蜂蜜と砂糖があったが、森に囲まれた中世ヨーロッパでは前者のほうがはるかに一般的だった。砂糖はキプロスやシチリアなどの温暖な地中海地域で栽培される高級品であり、砂糖が大衆化されるにはヨーロッパがカリブ海に巨大な砂糖プランテーションを築くのを待たねばなりません。
 
中世の「食」は、食材だけでなく、料理法やマナーについても現代と様々な点で異なっています。写本に残る彩色画から、中世の食卓を覗いてみると、そこにはフォークやナプキンがなく、代わりに長いテーブルクロスや皿として使われた固くなったパンが目を引きます。中世人は、ナイフで肉を切り、手づかみで食べ、汚れた手をテーブルクロスの残り布で拭きながら食事をしたのです。ナプキンは中世後期には存在しましたが、フォークが使われだすのは16世紀以降のことです。
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イエスの血、ローマの遺産-受け継がれるワイン

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▲15世紀フランス、葡萄を摘む農民

古典古代のギリシア・ローマ世界においてワインが好まれていたことはよく知られています。地中海の底から引き上げられた当時の商船の残骸からは、オリーブ油やワインを運ぶための大量の陶器が一緒に発掘されています。ところで、古代世界ではディオニュソスやバッカスといった酒を司る神がいましたが、そもそもワインは宗教とは切ってもきれないものとして生まれたようです。ワインの語源は古代インドに遡ります。古代インドでは宗教儀式の際に興奮・幻覚作用を持つ発酵飲料が使われていました。この酒はヴェーナ(vena)と呼ばれ、これが多くのヨーロッパの言語で使われるワインの単語の語源となったのです。

さて、古代の多神教世界では宗教と結びついていたワインですが、キリスト教においてもワインは特別な意味を持ちます。ヨハネによる福音書第2章では、イエスが最初に起こす奇跡について語られています。イエス一行が出向いたガラリアのカナの婚礼において、用意されていたワインがきれてしまった際、イエスは家の使用人に瓶に水を満たすように指示し、その水をワインに変えたのです。また同福音書第6章では「わたしの肉を食べ、私の血を飲むものは、永遠の命を得、わたしは終わりの日にその人を復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである」とあります。またさらに同福音書第15章「私はまことの葡萄の樹、私の父は葡萄づくりである」とも書かれています。聖書におけるワインへの言及は400ヶ所以上に上ります。ワインは聖書にあって、イエスの血を象徴するものとされ聖体祭儀(ミサ)でワインに浸したパンを食す聖体拝領に必要不可欠でした。

さて、話をローマに戻します。ローマ世界では金持ちから奴隷まで品質にかなりの差はあれど誰もがワインを飲んでいました。「ローマはギリシアを征服したが、文化的には征服された」とよく言われますが、ワインについてはローマ人はギリシアの物まねでは終わらず、自分たちで改良を加えました。大きな変化のひとつに樽の利用があります。古代ギリシアではワインは全て陶器の壺で保管されており、当初はローマでも状況は同じでした。しかし、ガリアの征服により、ケルト人たちがセルヴォワーズ(ビールの祖先)を造る際に木製の樽を使用していることを参考に紀元前後にはワイン製造に樽が広く使われるようになりました。樽によって熟成時に呼吸が可能になったことにより、ワインの風味や香りの質が向上しました。また、葡萄汁を集めるための搾汁機を発明したのもローマ人でした。さらに、搾汁機によって集められた葡萄汁よりも、葡萄を積んだ際に、自重により自然に実が潰れて流れ出る果汁から造ったワインの方が良質なものであることを発見したのもローマ人でした。

ローマ帝国内でのキリスト教の浸透、国教化につれて、さらにローマ人独自の改良によって発達していったワインですが、ゲルマン民族の侵攻に続く帝国の滅亡とともに衰退を迎えます。しかし、ヨーロッパのワインの文化が完全に廃れてしまったわけではありませんでした。宗教的意味を持ったワインはローマの行政組織を継承した司教権力や、中世初期から中期にかけて乱立する修道院を中心に継承されていきます。領域支配を安定させ、荘園経営に乗り出した貴族たちもこれに倣います。かくして、中世盛期に商業の復活を迎えたヨーロッパではローマ・ギリシア時代からの産地であるイタリア半島や地中海の島々のみならず、フランスやドイツなどのアルプス以北の地域でも活発にワインが造られるようになっていきます。ワインは、ヨーロッパに広まったキリスト教との深い関わりや、中世の母体のひとつとなったローマ時代への回帰の想いから、中世を通じ主要な飲み物として継承されていったのです。
 


豚の脂身と乳製品-中世のカロリー源

現代は飽食の時代と言われます。人々にとっては、どれだけ多くの量の食事を口にするかということは普通問題ではなく、逆にどれだけカロリーを抑えた食事ができるかということが重要視されているように感じます。しかし、中世の人々、特に恵まれた上流階級からはみ出た多くの一般庶民にとっては多くの食事で必要カロリーを得ることは死活問題でした。個々の食品の栄養価が低く、現代人よりはるかに体を動かす生活スタイルがとられていた中世においてはカロリーの高い食事が求められていたのです。

さて、自明のことですがカロリーを多く摂取するために、一番手っ取り早いのは脂質を摂ることです。南ヨーロッパ、地中海沿岸地帯では、古代ローマの時代よりオリーヴ油が人々に脂質を提供していました。オリーヴの栽培限界以北、アルプス彼方の北ヨーロッパでは、豚の脂身や牛や羊の乳製品が脂質を摂るための中心的な存在でした。ミルクはそのままでも蛋白質や脂質の貴重な栄養源でしたが、塩を加えたり乾燥させたりして、チーズやバターに加工することで保存性が高められました。これら乳製品の生産が特に盛んだったのは、ブルターニュ、フランドル、イギリスなどの地域でした。

このように、中世の人はカロリーを求めていたのです。栄養の問題でも、味の問題でも、中世のチーズは脂肪分が多くねっとりしたものが好まれたようです。最上級のチーズは乳の出がもっとも良くなる夏至の時期につくられたこってりしたもので、逆にあっさりした脂肪分少な目のチーズは安物とされたようです。

砂糖-この上なく甘く真っ白な

聖地への十字軍と、それに続く東方貿易の活発化によって中東からは数々のモノが流れ込んできました。砂糖きびの栽培・精製技術もそのうちのひとつです。ヨーロッパにもたらされた砂糖はまずもって薬品として扱われました。そもそも一般的に食用に出来るほど安価なものではなかった砂糖は、その純白の色合いやこの上ない甘さも手伝ってか、神秘的なものだと考えられていたのです。砂糖を薬品とみなす考えもイスラム世界から導入したようで、11世紀の医師イブン・スィーナーは砂糖を万能薬と見なしたいました。12世紀のビザンティン皇帝に仕えた医師も熱さましに砂糖漬けのバラの花を勧めています。イスラム流れの考えを用いて砂糖の薬用を説いたものもいましたが、もっと単純にその甘さと白さ、貴重さによって、砂糖には薬用効果があるはずなのだと考えられていたのです。かのトマス・アクィナスも断食中に砂糖を口に入れるのは、砂糖は薬品であるから問題ないといています。これによって何かと制約の多かった教会からの足かせが無かった砂糖は、近世以降大量に生産・消費されていくことになります。

さてヨーロッパでの主な砂糖の栽培地としては、キプロスやシチリアなどの地中海の島々がありました。砂糖の原料となる砂糖きびはある程度の高温を必要としたため、ヨーロッパの中では暖かい地中海気候の中でしか育てられなかったのです。収穫された砂糖きび砕いてから圧縮して汁を取り出し、その汁を煮詰めて結晶になったものが砂糖になりました。砂糖きび以外の砂糖原料として開発されヨーロッパ各地で栽培されるようになるビート(甜菜)が現れるのは、ずっと後の19世紀のことです。

砂糖は高級品として、それを用いる人々のステータスシンボルにもなりました。ヨーロッパのディナーを飾る一品に砂糖の装飾菓子が出てくるのはその現われです。蛇足ですが、ビートの登場までヨーロッパでは多く生産できなかった砂糖は、近世以降もその高級性を保ちます。しかし、カリブ海などで行われた大規模なプランテーションが発達し生産量が倍増するにつれて、一般大衆にも手が出せるものとなっていきました。

穀物の保存

缶詰も冷凍技術もなかった時代、最も一般的だった食料の保存法は乾燥させることでした。穀物の保存も同じで、種子のかたちで、粉に挽かれて、あるいはパンのかたちで、乾燥させて保管しました。乾燥パスタにするのも有効で、そうすることで穀物は2~3年はもったようです。

パンを長期保存するために二度焼き(ビスキュイ)することもあり、この作業はビスケットの語源となりました。この二度焼きパンは、地中海のガレー船の漕ぎ手や帆船の船乗りたちの重要な栄養源となっていました。長期保存したパンは、噛み切れないほどに硬くなってしまうので、ワインや水に浸して食べたり、スープやポタージュの入った器に入れて、ふやかしてから食べられました。

小麦、ライ麦、燕麦、大麦-麦の4種

古代から現代にいたるまでの他の時代の歴史でもそうであったように、中世においても小麦は麦の王様でした。他の穀物に比べ、グルテンを多く含んでいるために柔らかくふっくらと焼けるパンは小麦粉でしか作れなかったのです。小麦粉で作られるパンの中でも、一度挽いた小麦をふるいにかけて落とした真っ白な小麦粉で作った白パンは最高級のパンで、このようなパンを食べられるのは貴族や裕福な商人などに限られていました。ふるいに残ったふすま入りの目の粗い粉からは二等級のパンが作られ、市民ら平民層の糧となりました。白パンは栄養的な観点からはとても褒められたような代物ではなく、ふすまを除いてしまったことによりビタミン・ミネラルが大きく欠けていました。白パンと全粉パンと比べると、例えば鉄分は2分の1、ビタミンB1は3分の1と圧倒的に栄養価が低い食べ物でした。

ライ麦は、単体でもパンを作ることが可能で、かつ小麦より耐寒性に優れていたので、ヨーロッパの中でも寒い北欧、ロシア、ドイツなど多くの地域を中心に栽培されていました。ライ麦で作るパンは黒パンで、白パンに比べると固くて重いものでした。黒パンは白パンに比べて二倍以上のビタミンを含んでいたので、貴族のように様々な食事から栄養を獲ることの出来なかった庶民に必須の食事でした。

カラス麦ないしオート麦とも呼ばれる燕麦は、ライ麦よりさらに厳しい条件下でも育つことが出来ます。そのためアルプスなど山岳地帯やスコットンドなどでも栽培されていました。燕麦単体ではパンが出来ないので、いくらかの小麦を混ぜることでパンを作りましたが、それでも平べったく黒っぽいので黒パンの部類に入ります。燕麦は他の麦に比べてたんぱく質、脂質などが多く含まれていたので、食物の少ない寒冷地や山岳部の庶民の大切な栄養源となりました。

大麦もライ麦や燕麦と同じく、小麦が栽培できないような寒い地方でも栽培されました。大麦はパンにされるより、むしろビール醸造に多く用いられました。ビールは大麦や燕麦を発芽させ、その麦芽を乾燥させて発芽を止めてから細かく砕き、水に入れて発酵させて作りました。香り付けにはスパイスやハーブが用いられました。代表的な香り付けの原料はホップで、これには香り付けの他にビールの日持ちを良くする効果がありました。このようにして作られたビールは、ワインより一段下の庶民用の飲料としても飲まれましたが、地域によってはその土地の代表的な飲み物となって、パンと同じように庶民の生活を支えていました。

パンを焼く

中世ヨーロッパでのパンの製法は、ほとんどローマ時代と変わりませんでした。古代ローマの時代に造られ始めたパン焼き窯は、1800年頃の産業革命期までほとんど形を変えずに使われていたそうです。もしそのまま生地を火に当てたりすれば、生焼けになってしまい、鉄板の上で両面焼きにするのでは薄いパンしか焼けません。パン窯を使って焼くことで、生地に多方面から、長時間熱を加えることができ、ふっくらとしたパンが焼くことができるようになったのです。

中世ではパン窯の普及によって、古代の炉辺焼きなどの伝統は衰退して行きましたが、それでもなおハレの日の特別なパンの調理法としては残っていました。炉辺焼きは熱した石の上に生地を貼り付けて、焼き具合を見ながら回転させ、火にかざして焼く方法です。他にも、干し葡萄を加えた生地を串に巻きつけて焼いた串焼きや、生地を二枚の鉄板で挟んで焼いた鉄板焼きなどがありました。これらの特殊なパン焼きは、窯のパンが日常のパンとするならば、祭りなど非日常のパンとして食されていたのです。

発酵のいろいろ

パンはどのようにして膨らむのか、そのプロセスを紹介していきます。まず、パンに最も適した麦は小麦ですが、これはグルテンの含有量が多いことが原因です。小麦の胚乳には粘展性を持つタンパク質と弾力性を持つタンパク質とがあり、グルテンはこれらを捏ねることで生まれます。このグルテン入り小麦に、酵母菌(イースト)から発せられる炭酸ガスが加わることで、パンはふっくら焼きあがるのです。小麦に次いでパンに向いていたライ麦は粘展性を持つタンパク質のみを持っていたので、単体でパンを焼くことはできても、そのパンは重く、噛むのに苦労する黒パンになります。そして燕麦や大麦、その他の雑穀は、小麦を加えないことにはパンにすらなりませんでした。

ドライイーストという便利なもののない中世。パンを膨らませるための酵母菌は、天然素材の中から見出されました。最も簡単なのが発酵したパン生地の一部を、焼かずにとっておくというものです。残し種と呼ばれるその生地は、発酵を進め、そのうち乾燥して菌の活動を停止します。これを保存しておき、パンを焼く前日に生地と水の中で一晩漬けてふやかすと、全体が発酵した生地が出来上がるのです。

この残し種は、長い発酵の過程で乳酸菌なども生まれるために、酸味のあるパンができるのでサワー種と呼ばれます。また、パンを焼く回数が少ない地域では、その度にサワー種を作っていました。サワー種は簡単に言えばただの過剰発酵したパン生地なので、室温を上げて、水の中に麦粉を漬けておき、適宜新しい麦粉を加えていけば数日で完成しました。

なぜパンなのか

私の住む日本や、東、東南アジア地域の主食は言うまでもなく米です。そして世界の穀物で米と並ぶ地位にあるのは麦で、ヨーロッパから中東、ロシアまでの広い地域で栽培されてきました。大まかに言うと、温暖湿潤な地域では稲作、寒冷乾燥の地域では麦作が適していたのでこうゆう住み分けになりました。ここでひとつ疑問があります。私たちは日常的な米食は粒のままで食べます。それと比べ、なぜ麦食は「挽いて捏ねて焼く」という面倒をしてまでパンにして食べるのかという疑問です。

理由は米と麦との構造上の違いにあります。米でも麦でも、人間が一番必要とするデンプン、タンパク質は胚乳にあります。ここに辿り付くまでの流れが米と麦では違うのです。最初の段階では両方とも一番外側には硬い殻が付いていて、これは食べられないので落とします(脱穀)。米の場合、脱穀した玄米は糠で包まれているのですが、この糠は柔らかく、かつ中の胚乳部は硬いので、玄米を突いて精米することで糠は簡単にとることができますし、柔らかい糠はそのままでも食べることができます。しかし、麦の場合、柔らかい胚乳の周りが硬くて消化の悪い「ふすま」で覆われているため、胚乳を取り出すにはどうしても挽く必要があり、その過程で胚乳は粉状になります。それをふるいにかけて、初めて胚乳部を取り出すことができるのです。

粉状のままでは食べにくいので、これを水で捏ねて、さらに焼くことで、ふっくらとした舌触りと良い香りを備えた美味パンを作ることができました。こうして、挽いて捏ねて焼いたパンが生まれたのです。

食と行政

他の諸々の商品と同じく、都市で売られる食料品には厳重な監視の目が光っていました。これは、食料品が日々の生活に欠かせない重要なものであり、かつ大きな税収を都市にもたらすためであり、不衛生になりがちな都市において人々の安全を守るためでもありました。

居酒屋では最高級ワインの値で安いワインが売られ、肉屋は豚のひづめをつけた足を売って目方をごまかそうと企みます。こうした商人に対抗するため、当局は部門ごとの監査官を使って摘発に努めました。また、衛生面での対応として、祝祭日でも魚や野菜、果実など保存の利かない食料を売る許可を与えたり、腐りやすい内臓などを陳列棚に置くことを禁止したりしました。

また、当局は都市の食料供給が滞りなく進んでいるかをチェックする必要がありました。穀物の、パンの供給が少なくなり値段が上がると、買占めを防ぐために当局は個々の貯蓄を監査し、穀物の輸出も禁止しました。さらに状況が悪化すると当局が直接穀物を買い上げました。1411年のフィレンツェは近くの農村から遠方の大都市に至るまで様々なところから穀物を輸入しようとしました。そのような試みが実を結び、中世後期のイタリアの大都市では餓死者はほとんどでなくなったのです。そして、緊急事態に陥る前にも、パンや小麦の値段は公権力によって制限されていたのです。

        
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