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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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ゴシック式大聖堂の基本

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▲ケルン大聖堂(Wikipediaより)

今回は、中世盛期以降に広まったゴシック様式の大聖堂の建築の基本について紹介したいと思います。ちなみに、カトリック教会において一般の教会(church)と大聖堂(cathedlar)の何が違うかといいますと、施設のトップが司祭なのか司教なのかということです。大聖堂は、別に司教座聖堂とも呼ばれるように、司祭(いわゆる村に1人、街区に1人いるような聖職者)の上位者である、司教の座がある教会でした。
 
さて、前置きはこれくらいにしまして、ここからは非常に重たい石を積み上げた大聖堂が、なぜ、他のものを圧倒させるような高さで建っていられるのかということについて明らかにしていきます。結論から言うと、ゴシック式大聖堂を支えていたのは、尖頭アーチ、飛び梁、リブ・ヴォールトという三つの要素でした。
 
まず尖頭アーチ。大聖堂の壁面や天井はアーチによって支えられていますが、よくよく見るとアーチはただの半円形ではなく先端が尖っています。これが尖頭アーチです。普通の半円アーチでは、一番上の石の重力が横方向に働きやすく、幅を広げるとアーチが崩れやすくなってしまいますが、尖頭にするとその力が下に向きやすくなるために、下の石で上の石を支えることができるようになります。
 
しかしながら、尖頭アーチを使っても幅広のアーチで重い石を支えるのには十分ではありません。そこで登場するのが、飛び梁です。飛び梁は、どうしても横方向に働きがちな一番上の石の重力を、その外側から抑え込む役割を果たします。アーチの左右両側から、横方向の力に釣り合うように支えるのです。こうして、大聖堂のアーチは大きな幅を持つことができるようになります。このアーチは、壁の石ではなくアーチ自身によって支えられているので、アーチの間部分には大きなステンドガラスをはめ込むことができるようになります。

最後に、リブ・ヴォールトとはなにかといいますと、簡単に言えば直角に交差した尖頭アーチのことです。つまり、4本足の立体アーチです。これによって、天井の石の重力を柱で支えることができるようになったのです。

ゴシック式大聖堂は、それまでのローマやギリシャで使われていた半円アーチの建築術から一歩先に進んだ技術を取り入れたことにより、未曾有の高さを誇る、壮麗な建造物となることができたのです。そして、この大聖堂は、人々の神への畏怖や、宗教心をかき立て、民衆への教化にも大いに役立ったことでしょう。
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もっとも使徒的に-聖フランチェスコ②

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▲小鳥に説教をする聖フランチェスコ(ジョット/聖フランチェスコ大聖堂壁画)

フランチェスコの仲間たちはは「小さき兄弟の修道会」と自称し、仮認可からホノリウス3世による正式認可までの10年足らずで、数千人にまで及んだとされるほどにまで信奉者を増やしていきました。ポルツェウンコラに専用の聖堂を得た「小さき兄弟の修道会」は、ここを拠点としてイタリアを中心にヨーロッパ各地に伝道者が派遣されました。フランチェスコ自身も、本拠に留まるのではなく盛んな伝道の先頭をゆき、なんと聖地のイスラム教徒を改宗させようと自ら聖地へ向かう船に乗り込みました。そして、嵐のために聖地へはたどり着けなかったものの、エジプトのダミエッタでスルタンとの会見するという荒業をやってのけたのです。しかし、フランチェスコが知らぬ間に、組織は彼の「小さき兄弟の修道会」は肥大化し、分裂の兆しをみせていました。

フランチェスコの言行を一語一句厳守し、完全に托鉢のみによって生きるべきとする厳格派と、巨大化した組織をまとめるために、ある程度の指揮系統や財産が必要と考える穏健派との間で対立が起きたのです。1221年、フランチェスコは修道会のために23条からなる新会則(1221年会則)を起草しますが、修道会設立時の初志に立ち返ることを目的としたこの新会則は教皇の介入により、枢機卿ウゴリーノ(後の教皇グレゴリウス9世)の手で大幅な改編を加えられ、1224年の総会で正式の会則(1224年会則)とされました。1221年会則には新約聖書からの引用がおよそ100節ありましたが、修正された1224年会則にはわずか5節しかありませんでした。福音に忠実に生きるという、フランチェスコの意思は会則に生かされきれませんでした。

そして、この年の総会以降、フランチェスコは穏健派のエリアを総長代理とし後任を任せ、自らは数名の弟子と共にアルヴェルナ山に入り、静かな祈りと瞑想の生活を送ります。このアルヴェルナ山での生活で、彼の生涯最大の奇跡が起こります。1224年9月14日、祈りの中で朝を迎えたフランチェスコのものに6人の天使と光り輝く十字架舞い降ります。この幻が消えた後、フランチェスコの両手両足とわき腹にイエスのものと同じ聖痕が刻まれたのです。また、神の全ての被造物を愛したフランチェスコは、動物の言葉を解するようになり、トリやウサギ、ロバやオオカミとも心を通わせたという伝説が残っています。さて、病の篤くなったフランチェスコは担架で生まれ故郷のアッシジに、次いでポルツェウンコラの聖堂に運び込まれ、その地で44歳の生涯を終えます。死期を感じたフランチェスコは修道会へ向けての遺言状を書き取せました。しかし、この遺言状は1230年、教皇庁によって法的権威を持たないと宣言されます。

フランチェスコは死後2年目の1228年、教皇グレゴリウス9世によって列聖されます。そして、この年から、正統カトリック信仰の新たなシンボルを探していた教皇庁と修道会によってアッシジの町に聖フランチェスコの名を冠した大聖堂の建設が始まりました。絶対的な清貧を旨としたフランチェスコの教えを守る厳格派は聖堂建設に反対しましたが、フランチェスコの「聖なる教会に逆らってはならない」という言葉のために、抵抗することはできませんでした。1239年、創設者が生きていたら絶対に認められなかったであろう大聖堂はおよそ10年という異例の速さで完成します。イタリア・ゴシックを代表する建築となったこの聖堂には、ジョットなどの画家によって聖フランチェスコの生涯が壁画として残されました。

修道会は、1212年にキアラによって始められた第二修道会、1221年からある在俗信徒のための大三修道会を合わせ発展を続け、聖フランチェスコ大聖堂完成の前年にはドミニコ会と並んで異端審問も担うようになります。14世紀初頭には所属修道院数が1400にも達します。そして1323年には、修道会内で長く続いた厳格派と穏健派の争いに終止符が打たれます。教皇ヨハネス22世によって厳格派の教えは誤りとされ、考えを変えないものは異端として断罪したのです。こうして、フランチェスコの教えに最も忠実であった人々は、異端者として火刑に処され、修道会から追放されました。


御曹司から修道士に-聖フランチェスコ①

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▲インノケンティウス3世に謁見する聖フランチェスコ(ジョット/フランチェスコ大聖堂壁画)

フランチェスコは1182年、イタリアのアッシジで裕福な毛織物商人ピエトロ・ベルナルドーネの子として生まれました。彼は名家の子弟として郊外の聖堂付属学校に学び、父の家業を継ぐべき息子として何不自由ない生活を送っていました。フランチェスコの生まれた時代、イタリアは神聖ローマ皇帝とローマ教皇との対立の影響を色濃く受けており、都市や領主、貴族や平民の間で争いが耐えませんでした。

1198年に即位した教皇インオケンティウス3世は、アッシジを含むウンブリア地方が教皇領であると主張、この動きを受けて、アッシジは皇帝の血筋を引くスポレート公コンラートの支配に対して反乱を起こしました。市民軍は公の不在を突いて城塞を破壊し、皇帝派の支配を逃れて自治と自由を獲得します。当時16歳であったフランチェスコも、アッシジ屈指の富豪の御曹司として、この戦役に参加していた可能性があります。フランチェスコは1202年、都市ペルージャを相手にした戦役にも参加しましたが、そこでは捕虜に捕られるという憂き目にあっています。フランチェスコは、騎士を夢見て戦場に出かけ、故郷の祭りでは主役を演じる、栄達を望み、華やかさを愛する青年でした。

修道制とは程遠いような青年だったフランチェスコが改心し、使徒的生活を率先して行うようになるのは23歳のことでした。その頃から彼は度々神の声を聴くようになっていきました。決定的だったのは、アッシジ郊外のサン・ダミアーノ聖堂で「我が家を修復せよ、それはもう壊れかかっている」という声を聴いたときでした。彼は家に帰ると父の商品である織物を売り払い、その代金をサン・ダミアーノの司祭に、聖堂の修繕費として寄付しようとしたのです。もちろん、父ベルナルドーネはこれを知って怒り狂い、事態は裁判沙汰にまで発展します。この祭、フランチェスコは家族と一切の縁を切り、托鉢生活に入ります。1209年、アッシジ近郊のポルツェウンコラにいた彼は聖堂から聞こえてくる福音書の一説を聞き、清貧のうちに生き、悔い改めを説くという生き方を決めたとされています。「行って、『天国は近づいた』と述べ伝えなさい…あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけない。旅行用の袋も、2枚目の下着も、くつも、杖も持たず行きなさい。」

「神の教会を建設し、人々に福音を広めよ」。フランチェスコは声に従って、説教活動を始めました。彼の主張は、愛と平和、そして清貧を尊ぶということに尽きました。彼は自分が嫌う全ての者、自分を傷つけ、卑しめ、罵倒するような者たちへの愛を勧め、清貧を保つことで財産を守る腕力を必要としなくなった人々による平和が、神の国への道であると説きました。フランチェスコの清貧は物質だけでなく精神にも及びました。修道士には時として傲慢を生み出す豊かな知識は必要ない、と。初期の伝道では、フランチェスコは人々にきちがいと相手にされませんでしたが、説教を身を挺して体現する彼の姿に、いつしか多くの弟子がつき従うようになっていきます。その中には、農民や騎士から、聖堂参事会の顧問などさまざまな階級の人々を含んでいました。

1210年、11名の仲間を連れたフランチェスコはローマに赴き、正式な修道院としての認可を求めました。福音書からとった短い会則と、説教活動の許可をもらうためでした。教皇インノケンティウス3世は初め、みずぼらしい格好の彼らを邪険に扱いましたが、一行が訪ねてきたその晩に、夢の中で倒れ掛かるラテラノ聖堂を支える乞食姿の男を見て、これがフランチェスコであると悟り、彼らに修道院認可の口約を与えたという話が残っています。

聖ドミニコ-托鉢修道会というかたち

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▲ドミニコの持つ書物は異端者が火に投げ入れても、三度宙に舞い上がり焼けなかったという奇跡を描いた絵

11世紀から12世紀にかけて、ヨーロッパ各地では教皇庁に異端視される民衆運動が活発化していきます。これは、11世紀から始まる教会組織の刷新運動、クリュニー、シトーを初めとする修道院運動の広範な展開がきっかけとなり、民衆の中にも使徒的生活の実践を志す機運が生まれたためでした。使徒的生活とは、キリストの福音を広め、聖書に記された使徒たちのように清貧を貫く共住生活を送るというもので、本来は修道院の理想と同じものであるので正統信仰と相容れないようなものではありません。しかし、教会の教義を充分に理解していなかった民衆による使徒的生活の実践は、素朴で単純なものであり、聖書の言行を字句通りに解釈したようなものでした。そのため解釈と論争、妥協を重ねた正統教義とは異なったものとなり、時として教会組織と対立するものとなってしまったのです。

このような動きに対し、まず行動を起こしたのはシトー修道会の人々でした。彼らは、修道院の中で沈黙と祈りの時を過ごすという従来の伝統から、民衆の中に自ら飛び込んで人々を教化するという修道士の新しい展開を示しました。しかし、清貧を旨とはしていても従来型の修道院であったシトー会だけでは、広がる民衆の異端的運動を押さえ込むことは困難でした。時代は、新たなかたちの修道会を欲していました。

そんな折、教皇インノケンティウス3世は、北欧での説教から帰還しローマを訪れていたスペイン人聖職者に、カタリ派の根拠地南フランスでの伝道を薦めます。教皇の推薦を受け、それまで教皇特使たちに委ねられていたカタリ派撲滅の任を授かったのは、オスマの司教ディエゴ、そして聖堂参事会員ドミニクス・デ・グスマンらでした。彼らは、それまでのやり方とはまったく違った異端撲滅活動をすることで、南フランスの民衆を正統信仰に引き戻そうしました。それまで教皇特使や派遣された修道士たちは、壇上の高みから教会の権威と圧力を武器に、民衆に説教を垂れていました。しかし、ドミニコたちは使徒的生活を実践すること、つまり金銀や高価な衣装を捨てて清貧を実践することで、異端者の持つ厳格、質素という武器を自らの中に取り込み、かつ異端者と直接論戦を繰り広げるという、新しい試みをしました。

1206年にはプルーィユに宿舎を建設し、異端から改宗した女性たちの住処としました。この建物は、後に聖母女子修道院と呼ばれるようになります。翌年、司教ディエゴが亡くなった後もドミニコは精力的に活動を続け、1214年にはトゥールーズ司教から複数の教会堂を預けられ、地域の教化に勤めました。このような活動が実り、1216年、新たに教皇に選出されていたホノリウス3世の勅令により、ドミニコのその仲間たちは説教者修道会として正式に認められます、いわゆる托鉢修道会の誕生です。

教会からの認可をきっかけに、ドミニコの仲間たちはパリ、マドリード、ローマへと散っていきます。ローマへ向かったドミニコは、次いでボローニャへと渡ります。最初期の大学を抱えるパリとボローニャにドミニコ会の拠点が置かれたことは、後にドミニコ会が労働に代わり学問に大きなウェイトを置くことに繋がっていきます。ドミニコ会は、後にアルベルトゥスや、その弟子トマス・アクィナスなどの著名な教会神学者を輩出することになるのです。1220年には最初の総会がボローニャ開かれ、ドミニコ会の枠組みが形作られました。この総会には出席したもののドミニコは病を患っており、翌年、ボローニャ大学に埋葬されます。ドミニコ会はその後急速に発展を遂げ、ドミニコ没時の所属修道会は20ほどでしたが、彼が教会によって列聖された1234年にはおよそ100に、13世紀末には550以上に上りました。



聖堂参事会とは

中世都市の大聖堂が、司教によって管理・運営されていたのは知られています。しかし、全ての大聖堂に司教が座したわけでもなければ、ひとりの司教がひとつの大聖堂の全てを支配していたわけでもありません。となれば、司教を補佐する、あるいは司教なしで聖堂を管理する役職が必要となります。この役目を果たしたのが、聖堂参事会でした。聖堂参事会は、聖堂に属する聖職者の集団です。この聖堂参事会は大きく、司教座聖堂付きと参事会聖堂付きにわかれます。文字通り前者は、司教座のある聖堂で働く参事会であり、後者は司教のいない聖堂で職務をこなしました。

参事会員は、司教座付きの場合は司教の相談役、補佐役を勤め、日々の祈祷・典礼などの聖務をも執り行いました。また、それぞれが司祭、助祭、副助祭などの階位を持っており、その役職にあった職務を遂行しました。例えば、司祭の資格をもっている者には信徒の直接的な指導が要求されたのです。

一般的な小教区の司祭と違い、彼らはひとつの組織として活動していました。聖職者の集団というと、厳格な戒律の下で修行する修道士が思い浮かびますが、参事会は修道士とも違う存在です。まずもって、禁欲的な戒律が日常生活に適用されているわけではありませんでしたし、修道院に閉じこもって祈りを捧げる修道士と違って、日常的な聖務では一般の信徒と交わることも多いわけです。さらに、修道士は寝食を共にし、私有財産を持ちませんでしたが、参事会員は一定の囲い地の中に住むことが多かったものの、個人の家に住んでいましたし、彼らの多くは大土地所有者でした。しかし、まったく規制がなかったわけではなく、多くの参事会は「共住生活規則」とも呼ばれる「聖アウグスティヌス会則」を採用していたようです。

また、参事会にはほとんど修道院のような生活を送るものもあり、そのような参事会は通常の俗間参事会と区別され、律修参事会と呼ばれます。プレモントレ会やサン・ヴィクトール参事会などがそれに当たりますが、これらは参事会を名乗っているものの本質的には修道院と変わりがなかったようです。
 

F/H

シトーの改革-働く修道士

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▲クレルヴォーのベルナルドゥス

1098年、ブルゴーニュはディジョンの森にモレームのロベルトゥス(1027頃~1110)を長として、彼と21名の同志によりシトー修道院が創設されました。シトー修道院は、肥大化によって修道制初期の理念を見失っていたクリュニー修道会に代わって、清貧や服従の誓いを新たにするべく西ヨーロッパ修道制全体に改革の影響を及ぼしていくことになります。この修道会も、クリュニーと同じく教皇直属となり、ベネディクト戒律を採用していました。

シトー修道院では第二代修道院長アルベリクスの時代に、修道士の服装が規定されます。彼らはさらしていない白い修道衣を黒の袖無し肩衣の下に着用していたので「白衣の修道士」と呼ばれるようになります。黒の服を着ていたクリュニー修道会士が「黒衣の修道士」と言われたのと対照的です。

1106年にシトー修道会が正式に認可された後、1115年までにはラ・フェルテ、ポンティニー、クレルヴォー、モリモンと、四つの修道院が新たに創設されました。これらの新設修道院はクリュニー修道院が母修道院と呼ばれるのに対して父修道院と呼ばれるようになります。それ以後にも増え続けるシトー系の修道院は、これら母修道院と父修道院からなる5つの主要修道院から生まれていくことになります。1129年にはイングランドに最初のシトー会修道院が建立され、中世の終わりまでにはヨーロッパ全域に750弱のシトー会修道院があったようです。

これらの修道院を結び付けていたのは、第三代院長ステファヌス・ハルディング(1059頃~1134)が起草に関わった「愛の憲章」(カルタ・カリタィーティス)と呼ばれる30ヶ条からなる文書でした。愛の、という名前からも想像が付きますが、クリュニー修道会と違ってシトー修道会の結びつきは民主的で、各修道院は本院の支配下にあるわけではなく、修道院長を決めるのは各々の修道院内での選挙でした。もちろん、シトー会同士の連携がないわけではもちろんなく、例えば父修道院の院長は各々の娘修道院やシトー本院への巡察義務がありましたし、年に一回シトー会の全修道院長が集う大会も開かれていました。

シトー修道会の特徴は、クリュニーと比較していくとよくわかります。まず、彼らは10分の1税(聖職者が領民に課す税)の徴収をせず、隷属民もかかえないで、自分たちの手で生産活動を行うことで経済的自立を成し遂げました。修道士は修道院に居住しなければならなかったため、遠隔地の生産拠点には助修士と呼ばれる、修道士の待遇でも髪を剃らない俗人身分の者たちにまかせていました。「祈り、働く」シトー会士でも本業はあくまで祈ることでした。また、富が流れ込んで肥大化したクリュニーを反面教師として、住居や食事など日々の生活を質素なものとして、典礼でさえ必要以上の豪華さを控えようと努めていました。主に森林地帯で行われた彼らの組織的生産活動は、中世盛期を特徴付ける大開墾運動を牽引していきました。

シトー修道会の名を一躍高めたのは、四つある父修道院のひとつ、クレルヴォー修道院を創設し、そこの初代院長となった聖ベルナルドゥスです。彼は第二回十字軍への参加を呼びかけた人物としても有名です。また、彼は持ち前の演説力を生かして、クリュニー修道会に挑戦状を叩きつけました。これが後に、クリュニー・シトー論争と呼ばれるものです。シトー会はクリュニー修道会の退廃振りを、特にその巨万の富と贅沢を批判しました。彼の名声は、彼自身の聖性を高めるのみならず、シトー修道会全体の勢いをも向上させました。


クリュニーの改革-祈る修道士

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▲クリュニー修道院復元画

910年の9月11日、マコン伯を兼ねるアキテーヌ公ギョームはとある書類に署名しました。中世盛期の修道院改革第一波の中心となる、クリュニー修道院の創立文書です。公は、ブルゴーニュのマコン伯領近くに自らが持つクリュニーの所領を、修道院創設のために寄進したのです。これはブルゴーニュ貴族出身の修道士ベルノーの要望に答えたもので、彼がクリュニー修道院の初代院長となります。

「だれも神の僕(修道士)たちの財産を犯したり、奪ったり、減じたり、交換したり、だれかに封として与えたり」してはならないと創設文書にあるように、この修道院は諸侯などの世俗権力を初めとして、聖界諸侯である司教の権力からも独立したものとして創設されました。諸侯や司教に代わって修道院を支配したのは、西方キリスト教会の総締めとなっていた教皇庁でした。クリュニーは、ただ教皇座のみに直属した機関となったのです。この両者の関係はクリュニー修道院が、教皇座に5年につき10ソリドゥスの灯明料を納めていたことにも示されています。

また、創設文書にはこの寄進は「私の祖先や母の魂のためであり、私とわが妻のため、すなわちわれわれの魂と肉体の救済」のためであると記されています。当時、聖なる教会や修道院への寄付は、自らと家族を霊的に救う贖罪行為になると考えられていました。つまり、土地や財産を寄進した貴族やその家族、先祖のために修道士たちが祈りを捧げたのです。これは代祷ないし「執り成し」と呼ばれるものでした。クリュニー修道院は、カロリング朝分裂後の不安な世界に生きる貴族たちの、精神的安定剤として働いていたのです。

さて、クリュニー修道院の最大の特徴は、上記の執り成しなどを含めた「祈祷」に活動の大部分を費やしていたことです。一日中、神への賛美を詠うのが彼らの主な仕事でした。写本作成や芸術作品の収集なども盛んに行われましたが、これも全て神を称えるための道具として重要視されたからでした。その一方で、それまで修道院が行っていた古典文学の写生や、農作業などの手労働は軽視されるようになっていきます。

クリュニー修道院は、12世紀初頭に最盛期を迎え、およそ1500もの系列修道院を抱えるに到ります。系列修道院は、クリュニー出身の修道士が新たに修道院を創設したり、既存の修道院を改革したりすることで生まれました。戒律上は、修道院長は複数の修道院を支配することはできませんでしたが、遠隔地所領経営のための、分院のような存在であるならば、複数を統制することができました。つまり、新たなクリュニー系修道院は本院の分院と位置づけられ、クリュニー修道院長はヨーロッパにまたがる巨大な組織(ある歴史家はクリュニー帝国とさえ呼ぶ!)を支配したのです。

執り成しを求める貴族の寄進により富を増大させ、ヨーロッパを横断する巨大な中央集権的組織を展開し、自らの糧の生産は修道院の隷属農民に任せるばかり。このような修道院が、清貧と孤独を旨とする初期修道制とはかなり違ったものであることは容易に理解できます。純粋な祈りの場となるべく改革された修道院は、皮肉なことに初期修道制の理想を忘れさせてしまったのです。新たな問題の持ち上がった中世修道制に、新たなる改革をもたらしたのは、「祈り、働け」をモットーとするシトー修道会でした。


もうひとりのベネディクトゥス-新たなる改革

7世紀後半から、ヨーロッパの社会や経済は急速に発展していきます。農業生産の拡大や商業活動の活発化は、日々の生活に余裕をもたらし、この余裕は8世紀後半に栄えた文芸復興、すなわち歴史的にカロリング・ルネサンスと呼ばれる時代を呼ぶ一因となりました。カール大帝の御世には、イングランド出身のアルクィンを初めとする多くの学僧たちが、帝の保護の下で、古典文化や聖書の研究や継承に従事することになり、修道院ではそれらにまつわる写本が数多く書かれました。

このカロリング・ルネサンスは修道院の学術的な側面を強化する役割を果たした半面で、王権を手にして間もないカロリング家が、修道院を王の支配の体系に組み込むことを助長する結果を生み出しました。カロリング家は、自分の意に沿う人物を修道院長に斡旋しましたが、そのような人物は別段精力的に修道士たちを率いるわけではなく、修道院の持つ財産にもっぱらの関心があったのです。こんなことでは、修道制全体として衰退は避けられません。

このような流れを押しとどめようと、修道院のベネディクトゥス戒律厳守を推し進めた人物として、アニアーヌのベネディクトゥス(750頃~821)がいます。戒律を著したヌルシアのベネディクトゥスと同名のこの男は、ルイ敬虔帝により建てられたインデ修道院に招かれます。彼は、アーヒエンの教会会議でベネディクト戒律を唯一の修道戒律とし、816年にはこの戒律の厳守を、勅令の形をとって各地の修道院に告知しました。ここで注目されるのが、アニアーヌのベネディクトゥスが修道生活の中で、祈祷をなによりも重要視したことです。そのために、以後の修道院においては農業などの手労働もちろん、古典文献の研究などは軽視されていくことになります。

しかし、アニアーヌのベネディクトゥスの改革は完全ではありませんでした。理由は、彼の改革は修道院長の選出に関して、俗権の介入を完全に排除することはしなかったからです。ルイ敬虔帝の時代には、帝国の相続をめぐって親兄弟が互いに争い合い、帝の死後は兄弟間で血みどろの戦いまで繰り広げられることになります。結局、分裂を余儀なくされたルイの息子たちの王国は、以前にも増して、支配の体系として求める修道院への干渉を強めていくのです。この俗権の干渉を完全に断ち切るたる修道院を創設したのは、ブルゴーニュ貴族出身の修道しベルノン、後のクリュニー修道院長でした。


ウィリブロードとボニファティウス-アングロ・サクソン修道士の活躍

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▲これまで記事で紹介した修道院

聖コロンバヌスがフランク王国で修道制改革を行っていたのと同じ頃、ローマではセナトール貴族出身で修道院に学んだ一人の人物が司教に任ぜられていました。後の教皇グレゴリウス1世(540頃~604)です。就任後、彼はアウグスティヌスを長とする一団をイングランドに送り込みます。アウグスティヌスはケントのカンタベリー近くに修道院を開き、自ら最初のカンタベリー大司教として、イングランドでローマ系キリスト教の布教を進めて行きました。

なぜ、教皇座ローマがわざわざ聖職者を送り出さねばならなかったのか、と今の私たちは考えてしまいますが、当時のローマ教会は、周囲を異端の宗派(アリウス派)のランゴバルド王国に囲まれ、近隣の司教への影響力さえほとんどなかったという事情があったのです。ですから、その一方でアイルランド系教会もブリテン島へ進出しており、アイルランド系教会とローマ系教会の修道士たちは互いに競ってイングランドでの地歩を固めようとしていたのです。

両教会のバランスが一方的になったのは664年のウィトビー教会会議でのことでした。この会議では復活祭の日取りを決定するための復活祭論争が行われ、この論争の結果、ローマ系方式が正式に認められたのです。以後、イングランドでのアイルランド系教会の勢力は弱体化していきます。7,8世紀になるとローマ系教会のイングランド人修道士たちが、フランク王国やその外側の地域へ進出し、キリスト教の布教に努めていくことになります。

イングランド人修道士の一人でリポン修道院出身のウィリブロード(658~739)は7世紀末にフリジア(フリーセン)の地へと足を踏み入れました。フリジアは彼が布教を開始する少し前にフランク王国に併合されたばかりでした。ルクセンブルクにエヒテルナッハ修道院を建ててフリジア人の教化を進めたウィリブロードは、布教が大成功に終わったとは言えなかったものの、教皇からフリジア大司教に任ぜられました。

また、こちらもイングランド出身のボニファティウス(680~754)は8世紀初頭にフリジアに赴き、その後はライン以東の地、すなわちゲルマニアでの布教を進めました。フルダ修道院を創設した彼は、後にマインツの大司教となりました。ボニファティスはベネディクト戒律の厳守を訴え、さらに747年の教会会議でローマ司教(教皇)を頂点とする西方教会のモデルを提示するということも成し遂げました。この後、ローマ教会が751年のカロリング家の王位奪取公認、754年のピピンの寄進、そして800年のカールの戴冠を経てフランク王国を自らの後見とし、西ヨーロッパのキリスト教会を支配することになるのご承知の通りです。

このようにグレゴリウスが蒔いた種は、イングランドで芽を出し、フランク王国で花開くことになるのです。西ヨーロッパの修道制は、ローマ教会、フランク王国宮廷と密接な関わりを持ちながら発展していくのです。


アイルランドからの風-コロンバヌスの改革

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▲聖コロンバヌス

591年、後の修道制に大きな影響を与えることになる人物が、12人の仲間とともにガリアに入りました。その男の名はコロンバヌス(540頃~615)。彼は、睡眠時間が無きに等しいような苦行を実践していた、北アイルランドはバンゴール修道院の出身でした。彼はガリアの修道制が、退廃しきっていて、今にも崩壊してしまいそうな状態にあることに衝撃を受け、また修道院に対して大きな指導力を持つ司教が、贅沢な暮らしの中で安穏としていることに反発を持ちました。

このような悪徳を排除するために、彼は修道院の建設場所を、それまで多かった都市に隣接する場所から、農村地帯に移そうとしました。そもそも、5,6世紀の修道院は聖人が埋葬された地に建てられるのが普通だったのですが、この埋葬地、すなわち墓地はローマ時代からの習慣として城壁外の街道沿いに置かれていたのです。そのため、初期の修道院の多くは都市に隣接するように建てられていたのですが、コロンバヌスはこれを変えようとしたのです。こうして、司教権力から、静かな祈りの場である修道院は遠ざけられました。この結果、7世紀に創設された300を超える修道院の内、6割以上が田園地帯に建てられることとなります。

コロンバヌスはまた、物理的に修道院と司教座を切り離すだけではなく、制度的にも両者を分けようとしました。この計画を後押ししたのは、アイルランド修道制に帰依したフランク国王クローヴィス2世(637~658)の妃、バルティルド(630頃~680)でした。王室は司教に圧力をかけて、司教に修道院の自立を認めさせたのです。このような修道院分布の地方化や司教権力からの独立は、田園地帯での荘園領主としての修道院が発達する下地にもなっていきました。

コロンバヌスは、ブルゴーニュにリュクスーユ修道院を、晩年には北イタリアにボッビオ修道院を創設して、アイルランド修道制の思想と実践の発信源としました。彼は自分の建てた修道院のためにふたつの戒律を著しました。「修道士戒律」ではバンゴール修道院の活動を基に修道士での生活について、「共住戒律」では罪を犯した後の告白と贖罪について記してあります。後者の、信者が自分の心の中に罪の意識があれば告白し贖罪するという習慣は、アイルランド修道制が持ち込んだものです。

しかし、彼の持ち込んだアイルランド修道制の戒律は、いささか行き過ぎているところもありました。そこで、コロンバヌスの死後、弟子たちは彼がローマから持ち帰ってきたベネディクトゥス戒律とアイルランド修道制をミックスして「混合戒律」をつくりだしました。これにより、アイルランド修道制の持つ徳の高さや厳格さと、ベネディクトゥス戒律の持つ弱者への配慮がひとつになり、西ヨーロッパの修道制はさらに発展していくことになります。


        
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