忍者ブログ

チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


ジャック・ル=ゴフ「中世の身体」藤原書店 (2006)




中世ヨーロッパの歴史と題された書物の多くは、古代ローマ帝国の滅亡からゲルマン民族の侵入に示される中世初期、現代に連なる国家の成立と封建制の確立、農業の躍進と都市の勃興をみた中世盛期、戦災、疫病、飢饉に見舞われた衰退の後期中世を経てルネサンス、大航海時代を迎えるというようなスタイルをとっています。もちろん、そのような政治史、制度史も重要な歴史の一面ですが、そこには生きた人間は存在していません。あるのは連なる事件と年号、連綿と続くエリートの系譜だけです。
 
そのような中で、中世の生きた人間を発見しようとした身体史の総合として、本書は非常に興味深い内容となっています。中世の身体のカテゴリとして、性を中心とする身体の抑圧からはじまり、中世人の死と生、医療と病気、食、入浴、スポーツなどの生活の諸相を描き、さらには身体を国家や政治機構の象徴としてとらえるなど、中世人の身体観にまで話は広がっており、身体史の重要性が実感させられます。結びの言葉「身体には歴史がある。身体とは、我々の歴史なのだ」が端的に表している通り、本書の第一の主張は身体には歴史があるということなのです。
 
人間の体への認識や体を動かすという行為は、あまりにも当たり前のことであるが故に歴史家たちに顧みられてきませんでした。「序」の中で引用されているマルセス・モースは、体の動き方や身のこなしは人類に生得の普遍的なものでは有り得ないと述べています。これは、ダンスなどの民族独特の体の動かし方についての話ではなく、歩き方、就寝の方法、座る、しゃがむといった休息の方法など人間の生活に欠かせない動きの話なのです。モースはこれらの人間の体の動きは「とりわけ社会、教育、作法、流行、威光などとともに変化する」と述べ、身体は自然な、歴史とは別の次元に存在するものではなく、その時代や地域の影響を如実に受けて変化していく、文化的なもの、すなわち歴史ある存在なのだと主張しています。
 
本書の意義は、生活諸相への考察が単に中世の物質社会の説明に終わっていないところにあります。つまり、食や入浴などの事象を単なる生活の一局面として捉え、何を食べ、どんな家に住んだかなどを物質的に考察するだけでなく、中世のイデオロギーを支配したエリートのキリスト教会と、それに反抗する民衆の身体という全体の中に、それらの事象が埋め込まれているということです。これにより、本書は中世人の生活に対する素朴な好奇心を超えた、生活、文化を規定していたものの領域にまで踏み込んでいる内容となっています。
 
中世における身体の最大の特徴は、それが一方で称えられ、またもう一方では抑圧されるという緊張関係の中にあったということでした。その中で、キリスト教会は当初身体を完全に抑圧しようとしましたが、身体の強い反抗はそれを許しませんでした。そこで、教会はただ欲求を禁止して身体を抑圧することを止め、身体をキリスト教の教義体系の中に組み込み、管理、監視していくことで人々を根幹から支配していったのです。教会による規制や、身体の反抗は、双方とも近代から現代に連なるヨーロッパ人の身体史に影響を与えています。中世の身体、中世の人々は、ふたつの価値の中で揺れ動きながら近代を模索していたのです。
PR

河川、井戸、貯水槽、水道-生活用水の確保

人は水がないと生きていけません。このことは、古代から現代に到るまで世界のどこへいっても変わりません。中世の時代にも、河川などの水源が人々が生活していくために必要不可欠だったことは言うまでもありません。特に人口密度の高かった中世都市では、市民の生活用水の確保は最重要課題のひとつでした。

パリがセーヌ川を抱き、テムズ川沿いにロンドンが位置し、多くの都市が天然の水掘を備えていたことからも窺えるように、大量の水への需要を満たすため、都市は基本的に河川に隣接する形で建設されました。また、周囲を海に囲まれたヴェネツィアでは雨水を効果的に貯める井戸が存在していましたし、城などにも置かれた貯水槽は、この時代における最も単純な作りの水源となりました。

しかし、中世になってから、ローマ人たちが建造した水道の記憶が完全に消えてしまったわけではありませんでした。確かに、ゲルマン民族のもたらした破壊は衝撃的でしたが、ローマ人の建造した水道橋は、帝国の崩壊後も中世を通じて使用され、修繕されていましたし、さらに新たな水道が建設されることさえあったのです。

例として、7世紀南フランスのカオールの町では、司教が地下水道建設のため、職人の派遣をクレルモンの司教に要請しています。また8世紀、最盛期よりはよほど衰退してはいたものの、永遠の都としての地位をキープしようとしていたローマでは、時の教皇の命により4本のローマ水道が修繕されました。このように、ローマ帝国による行政運営を徐々に委任されていった教会勢力の権威者である司教は、それまでのローマの権力者に求められていたように善行(私費による公共施設の建設)を引き受けていく立場になっていったのです。


生産の場としての森

中世の人々にとって、森は現代とは比べ物にならないほど畏怖された存在でしたが、同時に生活に密着したものでもありました。中世の文明は森の資源を活用し、また森を切り開いて成長していったのです。森では、主に建築材料として、あるいは燃料として、多くの樹木切り倒されました。ドングリを代表とする木の実は家畜の餌となり、栗などは農民たちの食事にも添えられました。高貴な人々にとっては、森は狩猟の場であり、鹿や猪などの獣は食卓に加えられることもありましたし、またビーバーやリスなどは毛皮をとるために森で捕まえられました。

中世都市の建築というと石造のものを想像しがちですが、実際には多くがが木造でした。そのため、木材供給源としての森はかなりの重要度を持っており、都市の周辺の森はまっさきに伐採されました。また、寒いヨーロッパで暮らすための暖房として、あるいは食事のために煮炊きを行うのにも大量の薪が使われました。

さらに、裕福な商人の石造家屋や鍛冶工房、大聖堂も森無くしては存在し得なかったといってもいいでしょう。どんな石造建築にも、木材の足場は不可欠でしたし、煉瓦職人もガラス職人も鍛冶屋も、そろって燃料の薪を必要としていたからです。また、彼らが使ったもう一つの燃料、木炭を供給するために炭焼き人は森に入って作業所を構えたのでした。

貴族たちにとって、森での狩猟はスポーツとしてのみ意味を持っていたのではありません。野生動物は珍しい食材として喜ばれましたが、これはつまり野生動物の食卓に占める割合はほんの僅かだったということです。「戦う人」として育てられてきた彼らに、狩猟による乗馬などの訓練の場を与えたのも森だったのです。他にも森は、砂糖の貴重だった時代に代用の甘味料として蜂蜜を、照明として使われる蝋燭を提供していたのです。
 

ロベール・ル・フォール

870年、メルセン条約によりフランク王国は分割され、中世国家の境界線の大枠が定められました。禿頭王シャルルが王位を継承した西フランク王国では、カロリング朝の血筋は100年程続いた後に断絶します。その後、フランスの王にパリ伯ユーグ・カペーが選ばれ、彼の時代から300年以上の長きにわたって続くカペー朝が始まります。

今回はいったんカペー朝の幕開けから遡り、ユーグ・カペーの属すロベール家のそれまでの歴史をみていきます。ロベール家はロベール・ル・フォ-ルの時代に歴史の表舞台へと出てきます。彼はロワール沿岸地方の諸地域、アンジューやトゥーレーヌなどの伯爵を兼任し、さらにサン・マルタン修道院領もその影響下に置いていました。

そして、彼の息子ウードの時代に、ロベール家は初めて一族から王を出します。885年当時、王都パリはヨーロッパ侵攻を盛んに行っていたヴァイキングによる包囲の憂き目にあっていました。その時に、パリの指導者として名を上げたのがウードでした。当時の国王カール肥満王(彼は同時に一時的に統一された全フランクの王だった――包囲軍を追い払うために金でけりをつけた――)が死ぬと、ウードは新国王として戴冠されたのです。

▼ロベール・ル・フォールの主な支配地域

0510be54.JPG



あんまりにも放置しすぎたのでカテゴリ移動 07.12.27


中世の人口について

お久しぶりです。なかなか更新できずにいましたが、そろそろ更新を再開したいと思っています。



<中世盛期の人口>
11世紀頃、中世盛期に入りヨーロッパの気候が温暖化してくると、それに伴う農業生産の増加から、人口は増えていきました。当たり前ですが、しっかりとした戸調査などない時代なのでヨーロッパの人口の推定値は研究者によって様々です。ヨーロッパ全体の人口としては1000年頃:4000~5500万人、1200年頃;6000~6500万人、13000年頃:8000万人以上と増加していったと考えられています。

最盛期の人口増加を国家・地域別にみてみると、イングランド:110~370万人、フランス:600~2000万人、イタリア:500~1200万人程であったと推測されています。人口の増加は、さらなる農業生産の拡大などのほかに十字軍の活動や東欧への植民など、ヨーロッパ外部への影響を強めていく一因となりました。