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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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フランク王国の分裂

フランク王国、西方世界の覇者にも終焉の時が近づいてきました。



<フランク王国の分裂>

814年、西ローマ帝国皇帝にして西方世界の覇者であったカール大帝が死ぬと、広大な国家の帝位は息子ルートヴィヒ(独語読み、仏語ではルイ)に委ねられました。彼にはロタール、ルートヴィヒ、ピピンという三人の息子がいました。817年、彼は長子ロタールに帝位を継がせ、後の二子は領土を与えられるもののロタールの宗主権に入ると定めた「帝国計画令」を出しました。

しかしこの6年後、ルートヴィヒは新たに生まれたシャルルへの土地相続のために「帝国計画令」を自ら反故にしてしまいました。これにより、兄弟間、父子間の不和を招いてしまいます。840年に王ルートヴィヒが死去した後も争いは収まらず、843年のヴェルダン条約においてようやく兄弟間の戦争は終わりました。これによりロタールはフリースラントからイタリアまでのフランク王国中部(中部王国)を治め、ルートヴィヒはその東の王国領(東フランク王国)を、シャルルは西側(西フランク王国)を、というように王国は分割されました。

ロタールの死後、彼の息子3人に領土は分けられましたが、結局870年のメルセン条約により、イタリアを除く地域は東西フランク王国に吸収されました。カロリングの血筋はこの後もしばらくは西方世界を支配しましたが1000年までに王家は断絶しました。



いったん、ここまでで通史で紹介するヨーロッパ史をストップします。次回からは、今まで途中になっていたカテゴリの続き、もしくわこれまで紹介してきた中世初期の政治、社会、経済について記していこうと思います。
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カールの戴冠

西ローマ帝国が復活します!



<カールの戴冠>

800年のクリスマス、カール大帝は教皇によって西ローマ皇帝として戴冠されました。カールの王国は、過去の西帝国の領土に匹敵しており、そのことは戴冠の一因となりました。しかし、西ローマ帝国の復活は、直接には教皇の思惑が実行されたかたちとなりました。797年、教皇レオ3世は政敵の襲撃を受け、ローマから脱出しました。彼は、ザクセン攻略の任についていたカールに助けを求めました。レオ3世は古のローマ皇帝コンスタンティヌスが当時の教皇にローマ皇帝の任命権を譲渡したとされる「コンスタンティヌスの寄進状」を根拠に、カールを皇帝に任命しようと考えたのです。この寄進状はルネサンス期に偽書であることが判明しましたが、レオはローマ教会の保護者カールを皇帝にすれば、自身の地位向上につながるとも考えたのです。

カール大帝

ドイツ語読みでカール。フランス語ではシャルルと呼ばれる王。彼はフランク王国に大きな変化をもたらしました。



<カール大帝>

768年、カロリング朝の始祖ピピンの死後、王国は長男カールと次男カールマンに引き継がれました。即位三年後、カールマンが急死したためカールは単独支配を始めます。カールの治世期に、フランク王国は大きな領土の拡張を果たしました。

彼はカールマンの息子の権利を利用し、内政干渉を図ろうとしたランゴバルドと戦争を開始し、774年にランゴバルド王国を滅ぼしました。また、バイエルンを併合し、ザクセンとの間にも決定的な勝利を治めました。ザクセン族の平定は、デーン人やスラヴ人との接触を、バイエルンの獲得は東の遊牧民族アヴァール人との衝突を招くくとになります。また、イベリア半島ではバスク人やムスリムに対して攻撃を加えましたが、こちらの方はイスパニア辺境領を、半島北部の小域に置くのに止まりました。

教皇領寄進

通史を追ってきましたが…グレゴリウスもボニファティウスも出てきていません…。教会や、修道院については、総合HP開設に際し、加筆したいと思っています。


<教皇領寄進>

ローマ教皇座とフランク王国との関係は、教皇がステファヌス2世に代替わりし、新王朝が成立した後も密接に続きます。754年、ステファヌス2世は敵対していたランゴバルド王国への攻撃をピピンに要請しました。ピピンは、反対する諸侯を抑えて教皇の求めに応じることを決め、同時に「教皇領寄進の約束」を交わしました。755年に、フランク軍はランゴバルド王国に侵入、勝利を収めます。この際に教皇に譲渡された土地が、物質的なものとしての教皇領の始まりでした。


ピピン3世

試験が終わりました。もう忘れることにします。さて、今回はピピンによってカロリング朝が開かれる流れを追っていきます。

 


 

<ピピン3世>

741年、カール・マルテルが死去した後には彼の息子カールマンとピピン3世が王国を分割統治していました。747年にカールマンが修道院へ隠居すると、ピピンは王国最高の権力者となりました。

そしてついに、ピピンは王権交替にむけて活動を始めます。ソワソンでの諸侯会議に先駆けて、ピピンは教皇ザカリアスに王朝交替への同意を求めました。ランゴバルドなど外敵の存在を気にかけており、西ヨーロッパに同盟政権を求めていた教皇はこれに応じました。これにより、ピピン一族の権力は宗教的な支援のもと権威へと昇華したのです。751年、諸侯会議でピピン3世は、メロヴィング朝最後の王シルデリック3世を廃位し、カロリング朝を打ち立てました。


トゥール・ポワティエの戦い

カールの治世に、封建制の萌芽が見られます。


<トゥール・ポワティエの戦い>

カール・マルテルはイスラム教徒とも戦いました。西ゴート王国を滅ぼしイベリア半島を手中にした、アブドゥル・ラフマン率いるイスラム軍は、732年にピレネーを越え、フランク王国に侵入しました。カールは全土から兵士を招集します。両軍はトゥール・ポワティエの戦いで激突し、フランク軍が勝利します。この戦いでアブドゥル・ラフマンを失ったイスラム軍は、ピレネーの此方から一掃されました。

トゥール・ポワティエの戦いでは、フランクの歩兵がイスラムの騎兵を破りましたが、これにはかなりの苦戦を強いられました。この経験を生かし、カールは騎兵の大幅な増員を目指しました。しかし、騎兵隊を構成する家臣団を、王自ら雇うのには経済的に無理があります。

そこで、家臣に土地を与え、自前で騎兵を用意させようとしました。カールは家臣に与えるために、王国領の大きな部分を占めていた教会や修道院の領地を没収し、教会に対しては、土地を与えられた家臣が税を、土地の平民が十分の一税を支払うことでこれを承諾させました。


カール・マルテル

え~、数日後に試験なので、また更新がストップします。


<カール・マルテル>

ピピン2世の後を継ぎ、フランク王国の実権を手にしたのがカール・マルテルでした。彼はピピン2世と側室の間の子であったため、宮宰職の継承が円滑には進みませんでした。このために発生した中央権力低下の時期を利用して、ネウストラリアが新たに宮宰を立てて反旗を翻し、アキテーヌの統治者もこの動きに同調しました。アラマン族などの従属部族も王国の統治から脱し、東部辺境ではフリーセン族やザクセン族が反フランクの動きを展開します。

カール・マルテルの最初の仕事は、王国の支配権を確実なものにすることでした。カールの軍団は各地を転戦し、多くの勝利を治めました。この結果、ネウストリアやアキテーヌ、アラマン族などは再び王国に服従することになり、王国外の部族も、従属部族国家として服属させられました。


ピピン2世

メロヴィング朝終期、王国の実権は宮宰が握るようになります。その中でも偉大な宮宰がピピンでした。

 


 

<ピピン2世>

7世紀に入り三分王国制が定着した頃、メロヴィング朝の王の力はしだいに弱まり、それに替わって宮宰「マヨール・ドムス」が政治の実験を握り始めました。クロタール2世が採用した宮宰は各分王国で権力を強め、分王国同士の争いは宮宰間の争いに他ならないのでした。

こうした中、宮宰ピピン1世の娘と、メッツ司教アルヌルフの息子アンセギサルの間にピピン2世が誕生します。彼は父と同じように宮宰となり、アウストラシアを中心に自らの勢力を拡大させていきました。687年、テルトリの戦いを経て、ネウストリアの全権を掌握したピピン2世は、王を凌ぐ国家一の有力者となりました。

しかし、このことはすぐさま王権の交代という事件を起こすことはありませんでした。権力を失ったメロヴィング朝の王たちには、まだ国王としての権威が、王族としてのカリスマが残されていたのです。それは王国一の有力者でさえも、簡単に崩すのは難しかったのです。


分王国時代

さて、話はフランク王国にもどります。メロヴィング朝時代には分王国と呼ばれる小王国が集まってフランク王国を成していました。では、分王国の形成について紹介します。


<分王国時代>

511年にクローヴィスがパリで亡くなった後、王国は彼の息子に分割継承され、パリ、ランス、オルレアン、ソワソンをそれぞれ首都とする分王国に分けられました。558年にクロタール一世によって王国が再統一されるまでの間も王国は領土拡大を続け、534年にはブルグンド王国を完全に征服しました。クロタール一世の死後は、またも王国は分裂し、6世紀末までには3つの分王国が生まれます。大雑把に書くと、王国西部にはパリを首都とするネウストリア分王国が、東部にはメッツを首都とするアウストラシアが、そして中部にはオルレアンを首都としてブルグンド分王国が建ちました。経済力に恵まれたガリア南部は、分王国の王たちが共同管理することになりました。


ムスリムの西進

レコンキスタ、十字軍等イスラム教徒との交流は、ヨーロッパの形成に際し大きな意味を持ちます。彼らは、どのように勢力を拡大させていったのでしょうか。


<ムスリムの西進>

預言者ムハンマドの登場によって啓かれたイスラム教は、散らばっていた遊牧部族をひとつの帝国にまとめ上げました。ウマイア朝サラセン帝国と呼ばれるムスリムの国家は、ローマの領地を次々と奪っていきました。

635年のダマスカスの占領に始まり642年にはアレキサンドリアを、678年には小アジアを経由したサラセン軍が、失敗に終わったというものの、帝都コンスタンティノープルまで攻め上ります。695年にはカルタゴを落とし、アフリカを支配下に組み入れ大西洋を望むまでになった帝国はなおも拡大を続け、711年には西ゴート王国を滅ぼします。地中海はムスリムの海になろうとしていました。


        
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