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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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『アポカリプト』(2006、アメリカ)



『アポカリプト』(2006、アメリカ)
原  題:Apocalypto
監  督:メル・ギブソン
上映時間:139分
おすすめ:★☆☆

舞台は16世紀初頭のアメリカ、ユカタン半島。マヤ文明の後期に当たります。主人公たちは村で狩りをして平和に暮らしていました。ところが、あるとき、同じくマヤ文明でも大きな国家を形成していた部族からの襲撃を受けてしまいます。襲撃の目的は、奴隷と生贄の確保でした。主人公は、妻子が待つ故郷へ走る、走る、走る。本編の大部分がジャングルを走り回る半裸の男たちという絵です。歴史物というよりはアクション映画ですね。中南米の文明のエネルギーを感じます。

世界史の観点から見ても面白いシーンはたくさんあります。まずは、生贄を捧げるシーン。主人公たちは「捧げられる」立場なのですが。インカ帝国、アステカ王国など同じ中南米のアメリカ先住民も行っていたであろう、ピラミッドの上で生贄の心臓を生きたまま取り出す儀式です。生贄として祭壇の露と消えていった人々の思いは、想像するしかないですが、戦争捕虜として連れてこられた生贄であればそりゃあ怖かったことでしょう。

また、英語を使わずに全編でマヤ語を使うというこだわりも見せています。マヤ文明は紀元4世紀から14世紀頃にかけて栄えていた中南米の文明です。アステカやインカのように広大な統一国家を築くことはなく、都市国家同士で戦争や同盟を続けていたようです。派手なボディ・ペインティングやじゃらじゃらした服装をした貴族や戦士、ほとんど裸の庶民や奴隷などの対比がよくわかります。服装が派手であればあるほど高い位にいることが示されたのでしょう。

最後に、主人公はスペイン人の来航を目にします。一隻のボートで乗り上げる数人の宣教師と兵士です。このシーンをみると、これまで映画で見てきたほとんどの人が、この後数十年の間に殺戮や伝染病、労役による酷使で死んでいくのだという未来を予感せずにはいられません。タイトルから察せられるように、中南米諸文明の終焉を感じられる映画です。

▼16世紀中南米の諸文明

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小説フランス革命〈5〉議会の迷走



シリーズ第四巻では、1790年5月、開明派貴族や国民議会の重鎮が結成した1789年クラブの結成から、7月14日のバスティーユ陥落一周年を挟む、4ヶ月間の議会運営を描いています。

この期間中の大きなできごとは、2つ。バスティーユ陥落、すなわち革命から一周年を記念する連盟際の開催と、聖職者を公務員化する聖職者民事基本(聖職者市民法)の成立です。

連盟際は、パリ市長となったバイイの提案で国民議会が開催を決定した一大セレモニーでした。パリの練兵場シャン・ド・マルスに、フランス全土から馳せ参じた国民衛兵1万4000人を中心に、議員や市民ら10万人が列席したといわれています。国民衛兵とは、革命後の騒乱を納めるためにブルジョワが各地で結成した民兵を、連盟兵として、全国組織にしたものでした。舞台装置は市民のボランティアにより用意され、バスティーユ陥落時と同様の、人民の一体感が演出されました。

練兵場の中央には、大理石に見えるように骨組みと紙でつくられた「祖国の祭壇」が鎮座します。ここで、国民衛兵総司令官となったラ・ファイエットが、立憲王政、自由、平等、友愛を高らかに宣誓したのが連盟際のハイライト。続けて、国王ルイ16世が憲法の順守を宣言したことで、フランス革命は達成されたかに見えました。しかし、ここで革命を終わらせようとする保守派と、さらなる平等を目指して革命を続けようとする革新派の争いは、今後も続いていくことになります。

2つめの重大事、聖職者民事基本法の成立により、司教の数は県の数と同じ83になり、聖職者は公務員化しました。これで、聖職者の特権は廃止されたかに見えましたが、実際にこの法律を適用するに当たっては、聖職者たちの大きな反発を抑え込まねばなりませんでした。

小説フランス革命〈4〉聖者の戦い



佐藤賢一『小説フランス革命〈4〉聖者の戦い』集英社(2011)

シリーズ第四巻では、1789年10月、議会がパリへ移ってから、翌年1790年4月にいたるまでの約半年を描いています。この間、議会では着々と改革が進められていきます。

封建的特権の廃止により、貴族に引導を渡した議会が、次に目をつけたのは聖職者たち第一身分でした。10分の1税は封建的特権の廃止と共になくなっていましたが、さらに踏み込んで教会財産の国有化が可決、聖職者の「公務員化」が進められていきました。聖職者は、信徒のお布施や教会の不動産収入で暮らすのではなく、国家からの俸給で暮らすよう求められたのです。もちろん、聖職者である第一身分代表議員からは大きな反発が起きましたが、多くの貴族が亡命した今、第三身分が大部分を占める議会によって議事は進行していきます。

この国民議会の主力である第三身分代表議員とは、一言で言うならばブルジョワということになります。貴族よりも稼ぎの多い大ブルジョワから、銀行家、弁護士、職人の親方、商店主などの小ブルジョワまで様々ですが、共通しているのは生活には困らないだけの収入がある身分という点です。彼らが最も重視したのは、「自分たち」が議会での発言権を得ることと、国が安定し事業を円滑に進められるという2点でした。

問題となるのは「自分たち」とは、平民全てのことではなく、ブルジョワを指していたという点です。多くの第三身分代表議員の利害は、あくまでブルジョワの利害だったのです。ここに国民議会の状況が明らかになります。少数の自由主義貴族や高位聖職者などの保守派(ラ・ファイエットなど)、民衆の利益を考慮する少数の革新的第三身分代表議員(ロベスピエールなど)、そして大多数のブルジョワ寄り
第三身分代表議員という構図です。

この構図の結果を端的に表しているのは、1789年10月の新選挙法、通称マルク銀貨法です。定められた新しい選挙は、一定以上の納税者にのみ参政権を認める制限選挙でした。これ以上の革命を望まない、言いかえればブルジョワの利益を守りたい議員たちが多数派になった結果でした。そんな中、改革派議員たちはジャコバン・クラブを結成し、ロベスピエールを代表に選出していました。


シャルル・モーリス・ドゥ・タレイラン・ペリゴール
オータン司教、第一身分代表議員
(1754年2月13日 - 1838年5月17日)

小説フランス革命〈3〉バスティーユの陥落



佐藤賢一『小説フランス革命〈3〉バスティーユの陥落』集英社(2011)

シリーズ第三巻は、1789年7月14日、武器を手に入れた市民たちがバスティーユを陥落させた事件から、同年8月の「封建的特権の廃止」「人権宣言」を経て、10月のヴェルサイユ行進の結果、国王と議会がパリへ移動するまでの3カ月弱が描かれています。まさに、フランス革命前半戦のハイライトとなる事件に焦点が当てられています。

本書で印象的だったのが、ヴェルサイユ行進にいたる流れです。バスティーユ陥落後、フランス各地に広まった騒擾は、国王と革命の和解が進み、「封建的特権の廃止」が決議されるに及んで、沈静化しました。しかし、革命の大きな要因のひとつとなったパリの食糧難は、解決されていません。そんな中、ヴェルサイユの国民議会では、革命の成果を早急に明文化しようと「人権宣言」の策定、続いて王の権力制限についての議事が進行していました。

しかし、「人権宣言」で何を謳おうと、また国王が議会へ拒否権を持とうが持つまいが、人々の腹は膨れないのです。民衆は、わかりやすい欲求で動きます。食への欲求、安全への欲求です。パリの民衆は、バスティーユのときは食糧難と、パリへの軍隊駐屯により生命の危機を感じたからこそ立ち上がったのです。いまだに、食への欲求が満たされない中、人々が再度立ち上がるのは時間の問題だったのです。

もうひとつ、わかりにい「封建的特権の廃止」について。これは、「すべての領主は地主になった」と言いかえることができます。廃止されたのは、貴族の免税特権、領民への裁判権、領民へ賦役などの肉体的な労働を強制する権利でした。つまり領民を支配する権利です。残ったもの貴族が今までの領地を、地主として所有し続ける権利でした。金銭的な権利ですね。領民は、今後は地主となった貴族に小作料を納め、土地を地主から買い戻すことで自営農民になる道が開かれたのです。

今回は、パリの革命を指導した国民議会議員以外の人々の肖像画を掲載します。年齢は、1789年当時。


ジャン・ポール・マラー
46歳(1743年5月24日 - 1793年7月13日)

 
ジョルジュ・ジャック・ダントン
30歳(1759年10月26日 - 1794年4月5日)

小説フランス革命〈2〉パリの蜂起



佐藤賢一『小説フランス革命〈2〉パリの蜂起』集英社(2011)

シリーズ第二巻は、1789年6月20日、議場を締め出された国民議会の議員たちが「憲法制定までは解散しない」ことを決議した球戯場の誓いから、同年7月12日、平民財務長官ネッケルの罷免に反発したパリの民衆が蜂起を起こすまでの、約1カ月が描かれています。バスティーユ牢獄の陥落は、この2日後のことです。

前半では議会を巡る攻防が描かれます。三部会を無視した、国民議会の独走は当初、国王によって解散を命じられるところまで至りますが、その後国王の態度は一転し、国王は特権身分への国民議会への合流を促します。かと思えば、国民議会に反発する特権身分に押されるかたちで軍隊を、議会の置かれていたヴェルサイユ、首都パリへと終結させ、武力に物を言わせた圧力を加える。

数週間のうちに起こったこれらのめまぐるしい出来事を、力を持たない議員の視点から描き出すことで、本編は国家とはすなわち暴力の独占体であることを肌で感じさせてくれます。

後半では弁護士デムーランがパリの民衆を焚きつけて蜂起に至るまでを描いています。ここでも、民衆に足りないもの、武器がいかに重要であったかがよく伝わってきます。

また、軍隊と民衆という言葉では見えてこない、両者の微妙な関係も興味深いものがあります。フランス軍の主体はほとんどが第三身分であり、かつ同じフランス人だったという当然の事実です。軍は同胞である彼らに対し、銃を向けることを嫌いました。これに対し、フランス軍の中には金で雇われた外国人兵士も多かったのですが、この状況が革命を経て「国民皆兵」というかたちに変化するというのも面白いところです。

今回も、本書では主役級ではなくとも、歴史上重要であった革命期の登場人物の肖像画を掲載します。年齢は、1789年当時。


ジャン・シルヴァン・バイイ
パリ管区選出第三身分代表議員、国民議会議長

53歳(1736年9月15日 – 1793年11月12日)


エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス
パリ管区選出第三身分代表議員、『第三身分とは何か』の名分で知られる

41歳(1748年5月3日 - 1836年6月20日)


ラ・ファイエット侯爵マリー・ジョゼフ・ポール・イヴ・ロッシュ・ジルベール・デュ・モーティエ
リヨン管区選出第一身分代表議員、アメリカ独立戦争に参戦した自由主義貴族
32歳(1757年9月6日 - 1834年5月20日)

小説フランス革命〈1〉革命のライオン




佐藤賢一『小説フランス革命〈1〉革命のライオン』集英社(2011)

『小説フランス革命』シリーズは、世界史の一大事件であるフランス革命を扱った佐藤賢一さんの長編小説です。文庫版第一巻では。1787年8月、ネッケルがフランス王国の財務長官に復職を果たしてから、1789年6月、全国三部会にて第三身分代表議員が国民議会の成立を宣言するまでのおよそ1年弱を描いています。

本書は、小説のかたちをとりつつも、随所に説明的な文章が織り込んであるため、フランス革命について詳しく知りたいと思う方への入門書になるかと思います。

印象的だった3点について紹介したいと思います。

1点目は、三部会を当時の人々はどう考えていたか、ということです。確認ですが、三部会とはそもそも、国王が貴族や聖職者などの特権身分に課税をしようとしたところ、特権身分から「三部会の承認がなければ課税に応じない」という主張を受けて開かれたものでした。そうして、聖職者、貴族、平民それぞれの代表議員を集めて、三部会が開かれることとなったのです。

民主主義国家に暮らす我々にとって、市民の中から代表者を選ぶというのは至極当然のことです。しかし、18世紀末の当時は、絶対王政の下に貴族や高位聖職者が免税特権を握り、平民は重い税を課せられるも発言権はありませんでした。そんな中、国王が三部会を開くという知らせは、多くの平民にとって「国王が我々平民の声も聞いて下さるんだ!」という期待を持って受け止められたようです。

革命直前のフランスで、小規模な一揆が頻発したのは、飢饉があった時期というものありますが、この「国王は平民の味方なんだ」という感覚に後押しされたものであったのかもしれません。

2点目は、三部会の代表議員の選出についてです。教科書や資料集からはいまいち読み取れない、こまかな制度についても本書で学ぶことができます。もちろん、この時代に普通選挙などはありません。第三身分の代表議員を選ぶ権利があったのは、選挙人と呼ばれる村や町の街区ごとに決められた名士たちでした。金持ちのブルジョワや豪農にしか選挙権はなかったわけですね。ミラボーが選出されたプロヴァンスの中心都市エクスの管区で総投票数が344票でしかないことを考えれば、当時の有権者の少なさが分かります。

しかし、このシステムでも、ブルジョワの利益だけを考えたものが議員になったかと言うとそうではありません。ミラボーの例がその代表でしょう。彼は、プロヴァンスで起きた民衆の騒乱を沈めたことで民衆の英雄になったばかりではく、その被害者になるはずだったブルジョワたちにも恩を売りました。もし、名士たちがミラボーを議員に選出しなければ、また暴動が起こるかもしれない。選挙権なき民衆は選挙人に、「もし自分たちの推薦する者が議員になれなかったら、その時は暴動が起きるかもしれないぞ」という無言の圧力をかけることで、政治に参加していたと言えるかもしれません。

3点目は、三部会における差別についてです。このことについて紹介する前に、三部会が議決方法をめぐって紛糾していたことを確認したいと思います。

問題になったのは、身分別議決法と個人別議決法、どちらを選択するかです。身分別議決は、身分内でひとつの議決を出すため、特権身分への課税は当然のことながら聖職者、貴族が反対するため2対1で否決になってしまいます。個人別議決にすれば、数の多い第三身分代表と特権身分から数名の合流があれば、貴族への課税を可決することができるというわけです。

三部会が議決方法をめぐって紛糾した。それだけ聞くとさも平等な話し合いが平行線をたどったかのように感じられますが、これが大きな勘違いなのです。貴族や高位聖職者は着飾って議場入りしたのに対し、第三身分、つまり平民は「相応しい服」として黒服を指定され、議場への入り口も特権身分とは異なりました。最初から差別されていたのです。

この差別の延長線上で「身分別の」議員資格の確認作業が行われようとしたところ、第三身分がこれに反発したことが決議方法についてのごたごたのはじまりでした。第三身分は、このままではなし崩し的に身分別の投票になってしまうということを恐れたのです。結局、第一身分の聖職者の一部が合流した国民議会の成立宣言まで、貴族と平民はろくに議論を戦わせることもなかったわけです。

この本の一番の魅力である登場人物たちの生き生きとした描写については、ぜひ本書を呼んで確認していただければと思います。

最後に第一巻の主な登場人物の肖像画を掲載します。年齢は1789年当時。


ミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・リケティ
エクス・アン・プロヴァンス管区選出第三身分代表議員
41歳(1749年3月9日 - 1791年4月2日)


マクシミリアン・ドゥ・ロベスピエール
アルトワ管区選出第三身分代表議員
31歳(1758年5月6日 - 1794年7月28日)


ジャック・ネッケル
フランス王国財務長官、スイス人実業家
56歳(1732年9月30日 - 1804年4月9日)

 
カミーユ・デムーラン
弁護士、第三身分代表議員に立候補するも落選
29歳(1760年3月2日 - 1794年4月5日)

善悪二元論の系譜-カタリ派

フェルナン・ニール『異端カタリ派』 白水社(1979)

今回のテーマは「カタリ派」です。

カタリ派とは、11~13世紀にヨーロッパ、特にフランス南部に広まったキリスト教の異端です。初めに注意しなければならないのは、この「異端」という言葉。これはあくまで自分たちを「正統」だと考えたローマ・カトリック教会の教えと異なる、という意味です。従って、異端者たちは自分たちこそが真実の教えを守っているのだと信じていたわけです。カタリ派の信者たちは自身のことを、キリスト教徒と称していました。

一説によれば、3世紀に創始されたマニ教が、バルカン半島、北イタリアを経て、南フランスに広まる中でキリスト教的な衣をまとっていったのが、このカタリ派であるといわれています。カタリ派は、別名アルビジョワ派とも呼ばれていました。南フランスのアルビという都市に由来するようですが、確かなことはわかっていません。最終的に、この「異端」の教えは、13世紀、フランス王国を中心に組織されたアルビジョワ十字軍によって徹底的な弾圧を受け、消滅しました。

カタリ派の中心的な教えは、善悪二元論という言葉に要約できます。二元論とは、全てのものが神の創造物であるという一神教の考えではなく、善は神に由来し、悪は神とは別の原理に由来するという考え方です。マニ教、そしてキリスト教や仏教とともにマニ教に影響を与えたゾロアスター教も二元論を信奉していました。二元論の歴史を通して、カタリ派の信仰に迫っていきましょう。

ゾロアスター教は、前7世紀頃(諸説あり)にイランで生まれた宗教です。世界は光明神アフラ=マズダと、それに対立する暗黒、アーリマンの対決の場であると説き、最後の審判によって光明神が勝利するという教えは、教科書の通りです。この考え方はユダヤ教やキリスト教にも継承されています。

では、なぜ古代のイランで、このような宗教が生まれたのでしょうか。それは、人々が自分たちは根本的に間違った世界に住んでいるのではないかと思えるほどに、古代の世界が生きにくいものだったからと言えます。大量殺戮、奴隷制、気まぐれな君主による専制、強制労働、飢饉や天災など、古代の人々の生活には実に多くの困難が存在していました。そのため、神はなぜこんな世界をつくったのか、という疑問は自然に湧いてきます。そこで、この世界について、特に悪の存在理由について説明したゾロアスター教が受け入れられたのです。

マニ教は、ゾロアスター教の善悪二元論を引き継ぎ、世界の創造神話をつくりあげました。それによれば、世界には善と悪の二原理があり、善の神が悪を滅ぼそうとしてさまざまなものを創造したが、それら創造物が悪に取り込まれてしまったことで、人の生きる世界がつくられたというものです。

さて、やっとカタリ派に戻ってきました。カタリ派は、これまでみてきた善悪二元論を教義の中心とし、そのうち善なるものは霊的な存在であり、悪なるものは物質的な存在であると考えました。なぜなら、マニ教の世界創造からわかるように。人が物質として知覚できる世界は悪に取り込まれたことによってつくられたものだからです。

善悪二元論の教えは、必然的に現世の否定、徹底した禁欲主義を信者に義務付けることになりました。現世の否定とは、物質的なものを全て否定するということを意味します。つまり、食事、生殖などの活動を極力抑えるということです。この教えを極限までつきつめるとどうなるか、考えると少し怖いですね。

もちろん、全ての信者にこれらの教えを徹底させることは難しいため、カタリ派には大きく二種類の信者がいました。完徳者(パルフェ)は、黒衣まとったカタリ派の教えの忠実な実践者でした。完全な菜食主義者となり、あらゆる性的関係を断つことで物質を極限まで排し、信者を導く立場になったのです。その他大勢の帰依者(クロワヤン)は出来る限りで禁欲生活に努めました。カトリックに対応するような司教、司祭、助祭などの職階は完徳者が勤めました。完徳者には女性も多く含まれていたというのは、カトリック教会と大きく異なる点でしょう。

最後に、南フランスでカタリ派が拡大した要因を考えてみましょう。大きな要因がふたつあります。ひとつは、13世紀までの南フランスは、フランス王権に組み込まれていない、ひとつの政治地域、もっといえばひとつの文明として独立した立場にあったことです。フランス王権がローマ・カトリック教会と強い絆を持っていた当時においても、南フランスは貴族から平民まで、カタリ派の教えに従う生活を送ることができたのです。

もうひとつの理由は、ローマ・カトリック教会の腐敗です。これは他の異端や教会改革全般に共通することですね。11世紀以来の度重なる教会刷新の動きが示す通り、当時の教会は貴族との繋がりが強く、聖書が求める清貧生活とはかけ離れている状況が多く見られました。一般の信者にとっては、キリスト教にしろ、カタリ派にしろ、教えの細部はわからずとも、肥太った貴族出のカトリック司教や、内縁の妻を持つ田舎司祭に比べ、清貧に生きるカタリ派の完徳者がよき指導者に見えたであろうことは、容易に想像がつきます。

カタリ派を、異端と捉えるのはひとつの考え方ですが、ひとつの宗教としてみると、また違った歴史の一面が見えてくるように思います。

天国と地獄と-中世ヨーロッパの死生観


▲「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」に描かれた地獄(15世紀)

「神を、そして教会を信じ、敬虔に生きましょう。さもないと地獄へ落ちますよ」

まっとうな教育を受けておらず、文字を読むことさえできなかった中世の農民を前にして、村の司祭や説教師が盛んに持ち出した常套句が上の文章です。「悪さをすれば地獄行き」というのは至極わかりやすい話であり、当時の宗教人は、説教の際に天国という言葉よりも頻繁に地獄という言葉を利用していました。地獄の恐ろしさについては、聖職者たちはいくらでも語って聞かせることが出来ましたし、教会堂の怪物の彫刻や壁画が視覚的にも地獄の恐ろしさを伝える役割を果たしていました。

では中世キリスト教世界にあって、天国と地獄はどのように位置づけられていたのでしょうか。キリスト教の根本理念を形作っている聖書には、天国という言葉が、神の国という言葉とほぼ同義語として使われています。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」(マタイによる福音書5:1)の一節は有名です。聖書の中ではからし種やパン種などといった比喩を用いて説明されている天国は、イエスが再来した後の完全となったキリスト教世界を意味しています。

「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入るほうがよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」(マルコによる福音書9:47-48)聖書の中でこのように描かれる地獄は、神の教えを守らない者たちの死後における苦しみの場です。しかし、天国も地獄もほとんどが比喩的に表現されているので、聖書のみから中世人にとっての天国と地獄を理解するのはなかなか困難です。

中世における天国と地獄のイメージ形成は、原始キリスト教時代の教父たちに始まり、時代の聖職者たちによって徐々に進められていきました。大教皇グレゴリウス1世(540頃~604)の『対話篇』には、臨死体験や幻視についての記述があり、これらは中世の来世観に大きな影響をもたらしました。また、ドイツの隠者、オータムのホノリウス(1080頃~1156)は『教えの手引き』の中で天国と地獄について言及しています。これによると、天国は物理的な場所ではなく、歓喜に満ちた霊的な存在であり、反対に地獄では熱さ、寒さ、肉体的・精神的苦痛・悪臭などの耐え難い責め苦が待っている場とされています。

さらに『教えの手引き』には新たな来世の可能性として、天国へ行くために現世での罪を清める、天国と地獄の中間とでもいうべき場が登場します。後に煉獄と呼ばれるようになるこの世界では、人は罪の重さに応じて、短い場合は数時間から数日間、長ければ何年もの間、浄罪に努めなければなりませんでした。この煉獄という考えは、6,7世紀に大陸に持ち込まれたアイルランド修道制の持つ贖罪の意識と重なり、しだいに中世の来世観の一部となっていきます。

13世紀のある説教集の中には煉獄に落ちた高利貸しが、妻の祈り・施し・断食などの敬虔な行為によって救われるという話があります。このように、煉獄は死者と生者との関係を持続させるという性質を持っていました。煉獄の意識は、お互いの死後の平安を求めて、祈りや教会への寄付を行ったギルドや兄弟団などの組織の広まりと連関しながら、中世人の心にゆっくりと染み込んでいったのです。

人は誰しも小さな罪を犯すもの。天国か地獄かの二択では、完全な聖人以外はみんな地獄行きということになってしまいます。煉獄が、まったく罪を犯したことはないとは言いきれない、多くの平信徒の心を掴んだのは想像に難くないですね。



今野國雄『ヨーロッパ中世の心』日本放送出版協会(1997)

中近世インドの農村社会-ワタン体制

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▲ワタン体制の概念図。同色は同カーストを示しています。

世界史でのインド史の扱いはよいとは言えません。カースト制度こそ細かく扱いますが、それ以外はほぼ王朝の羅列で終わってしまいます。マウリヤ朝、クシャーナ朝、グプタ朝、ヴァルダナ朝、ラージプート時代を経てムガル帝国、植民地支配と、これだけで前近代インド史が終わってしまった、なんて方も多いのではないでしょうか。

インドの社会には、ヨーロッパとはまったく異なる社会体制がありました。今回は特に、インドのマハーラーシュトラ地方における農村の社会関係を紹介します。広いインド一般にこの地域での事象を適応してもよいかはわかりませんが、インドの中近世社会のひとつのかたちとしてまとめていきたいと思います。
 
興味深いのは、この地域の史料の中には、土地所有に関する文書や土地売買文書といったものがほとんど見つかっていないことです。その代わりに、ワタン(vatan)と呼ばれる世襲的権益が、売買や紛争の対象として多く文書に登場してきます。それではワタンとはいったいなんなのでしょうか。
 
ワタンとはマハーラーシュトラ地方では村落共同体(village community)や、村落共同体が50前後集まって構成している地域共同体(local community)における、世襲的役職とそれに付随する取り分(現代でいう給料でしょうか)を意味しました。
 
村落共同体では、村長は村長ワタンを持ち、村人の大部分を占める正規の農民は農民ワタンを持っていました。また、村全体にサービスを提供する大工、鍛冶屋、陶工、占星師、不可触民などのカーストの人々がいて、彼らは大工ワタン、鍛冶屋ワタンといったそれぞれのワタンを持ち、村からバルテー(balute)と呼ばれる報酬を受け取っていたためバルテーダールと呼ばれていました。当時の理念的な村の規模を示す「60人(家族)の農民と12種類のバルテーダール」という言葉がありましたが、実際の村はこれよりも小規模だったようです。
 
村よりも大きな単位である地域共同体においては、デーシュムク(Deshmukh)と呼ばれる首長や書記がいて、それぞれのワタンを持っていました。また、村落共同体で生活する大工や鍛冶屋は、この地域共同体を単位としてカーストの集団を形成していました。このカースト集団の長はメータル(Mhetar)と呼ばれ、このメータル職もワタンでした。面白いことに、同カーストの広がりはひとつの地域共同体にとどまらず、それぞれの地域共同体のカーストは互いにネットワークを巡らせており、理念的にはインドのどこまでもこのカースト的分業社会が広がっているということです。
 
このように、村落共同体とその上位に位置する地域共同体における社会を構成していたのは、各種のワタン所持者(ワタンダール)たちでした。ワタン体制(Vatan System)とも言えるこの社会関係は、地域における社会的分業の体制であり、かつ上下関係を持つ階級的な関係でもあったのです。

この体制が形成され始めたのは10世紀前後で、14世紀にはおおかたのかたちができあがっていたと考えられています。また、土地ではなくワタンだ重要だった背景には、当時のインドでは人口に比べて相対的に余っており、労働力の伴わない土地にはほとんど価値がなかったためであるそうです。土地が重要な財産であった、ヨーロッパや日本の社会とはかなり違っていて、興味深いですね。

▼マハーラーシュトラ州

中世ヨーロッパとヴィクトリア朝の身分一考


▲ヴィクトリア朝時代の男性

大学時代、サークル関係でふだん読まない時代の本を読んでいろいろ興味深かったのでご紹介します。『大英帝国‐最盛期イギリスの社会史‐』講談社新書。

本書は、主に19世紀、ヴィクトリア朝期のイギリス社会史について扱っていて、「世界の工場」として七つの海に君臨した大英帝国の光と影についてわかりやすくまとめてあります。大英帝国を知る入門書として、おすすめです。
 
社会史の概説は本書にお譲りして、ここでは中世ヨーロッパとの比較で気になった「身分」について紹介していきたいと思います。中世の身分が祈る人(聖職者)・戦う人(貴族)・働く人(農民)と大別されていたのに対し、19世紀イギリスの身分は上流階級・中流階級・労働者階級に大別されていました。

上流階級上流階級とは貴族やジェントリ、すなわち土地からの収益で生活する地主層のことを指します。彼らの起源は、中世の騎士・貴族や中近世に土地を獲得して地主化した商人たちであろうと思います。彼ら地主と中世の領主との決定的な違いは、地主はもはや小作人を人格的に支配していないということです。小作人たちの間で争いが起こったとき、地主はもはや彼らを裁く権利はないのです。中世の貴族が、小作人(農奴)に対して、流血裁判権をも含む人格的支配をしていたのとは対照的ですね。上流階級は総人口のほんの数パーセントしかいませんでしたが、彼らが政治の実権を握っていたエリートを構成していたのは、中世とそんなに変わらなかっただろうと思います。
 
中流階級とは、商業・工業・金融業などで財を成したブルジョワジーや医師・法曹・軍の士官などの専門職で構成されました。彼らの前身は、中世の成功した都市民や、名家の人々かと思われます。上流階級が、地代で食べていけるために「働かない人」であるとすれば、ブルジョワジーは「働く人」に分類されますが、彼らの労働は額に汗を流すようなものではなく、監督・経営という精神労働でした。19世紀前半に選挙権を得た上層中流階級は、国政へも参与するようになります。中流階級は、人口の2割程度を占めていたと考えられているようで、この時代にはかなり都市化が進んでいたことがわかります。
 
労働者階級は、肉体労働を日々の糧の対価として生活している人々で、工場労働者の他にも農業労働者、鉱山労働者などを含んでおり、人口のほとんどを占めていました。彼らは、劣悪な生活条件の中で必死に生きていました。中世との大きな隔たりといえば、段階的に、かつ女性は含まれていまでんでしたが、選挙権が徐々に拡大し、国政への参加が認められるようになっていったことでしょうか。また、中世の代表身分だった祈る人がなくなっていることは、宗教改革や科学の発展を経て宗教勢力が弱体化していたことを示していると思います。
 
このように、中世とヴィクトリア朝期の身分を比較してみると、いろいろ違いがあります。こんなところからも、歴史の流れが少し見えてくるような気がします。
 
参考:長島伸一『大英帝国‐最盛期イギリスの社会史‐』講談社(1989)


        
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