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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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市壁について〈3〉-エーディト・エネン『ヨーロッパの中世都市』より

この本は、中世ヨーロッパ都市を論じたものとしては古いものですが、多くの文献に引用されている基本的な書物のようです。この本からは、近年になって新しい役割を見いだされつつある都市の城壁について、古典的な理解を提供してくれると思います。
 
まず本書は都市の城壁(この本では周壁の用語が用いられている)のことを、「死にもの狂いになって平和を求めながらもそれが得られないでいる時代の、切実な必要物」であると述べています。中世ヨーロッパにおいてはフェーデといわれる私闘が自分の権利を守るための行為として法律で認められていました。この私闘は、ゲルマン人による部族間の復習に起源を持っており、集団や個人の間での紛争解決の手段のひとつでした。絶対的な権力を持つ強力な中央政府がないために、自分の権利は自分で戦って獲得するのが当たり前とされていたのです。このようなフェーデ、あるいは国家間の大規模な戦争など、中世ヨーロッパでは戦いがいわば常態としてあり、そのことが城壁を生んでいく最も大きな要因だったのです。
 
このような状況の中で、10世紀から12世紀にかけて盛んに建設された城壁は、都市に対して大きくふたつの影響をもたらします。ひとつめは、都市の持つ集落としての二元構造を解消したことです。それまで都市は、領主の城塞や集落の起点となったローマ時代の城壁という守られた区画と、壁外にまで展開する商人の集落という、守られていない区画に二分されていたが、集落全体を囲む城壁が建設された結果、この二区画がひとつの城壁に囲まれ、ひとつの都市というかたちをつくりあげたのです。
 
もうひとつの影響としては、城壁が近隣の農村と都市とを峻別し、雑多な人間の集まりである都市住民に「われわれ意識」を形成させたことがあります。まず城壁は、住宅の密集と教会堂といった高層建築で農村地域から分けられる集落を、線で鋭く区別する働きを持っていました。また、城壁の建築は都市住民による最大の公共事業のひとつであったため、法的身分や出身地を異にした人々を「自己意識のある市民層」へと変化させていくことになったのです。
 
また、君主たちは城壁を持った都市を城塞とみなして、その建設を奨励しました。彼らは都市への減税、間接税などの都市による徴収の認可を与えることで、財政的に都市の城壁建設を援助しました。君主にとって城壁を持つ都市は、自分の懐をそこまで傷めずに防衛拠点を増加させられることを意味していたので、このように都市城壁の建設を支援したのです。

エーディト・エネン、佐々木克己訳『ヨーロッパの中世都市』岩波書店(1987)
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市壁について〈2〉-James D. Tracy "To wall or not to wall"より

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▲アンティオキアの市壁、攻城戦

市壁はヨーロッパの中世都市のシンボルというべき存在です。しかしながら、全ての中世都市が市壁を備えていたわけではありませんでした。市壁はなぜ建てられたのか、というのがこの論文のテーマです。今回は、この中で紹介されているデータを見ていくことで、中世ドイツにおける市壁建築の有り様について考えていきます。
 
Heinz StoobによるMitteleuropaにおける都市分布図から、市壁のある都市の分布に地域差があることがわかります。Mitteleuropaとは中央ヨーロッパに似ていますが、少し違っていて西はカレーから東はポーランドのヴィスワ川まで、北はスカンディナヴィア南部から南はアルプス裾野のイタリア、ダルマティアまでを含むヨーロッパのかなり大きな領域のことを指しています。このMitteleuropaの都市を経度20度で東西に分けると、東側の都市そのものの少なさと同時に、市壁を持つ都市の割合も低い(西は4855都市のうち45.1%、東は768都市のうち15.5%)ことがわかります。特に西側の都市化が進んでいる地域(フランドル、ラインラント、ヘッセン、ザクセン)や争奪の的になった辺境(低地地方)で強固に要塞化された都市の集中があるようです。このデータにおいては、塁壁(rampart)や柵(palisade)しか持たない都市は市壁を持たない(Unfortified)とみなされています。
 
Deutsches Stadtebuchのシリーズ(DSB)は、都市特許状や市長などの都市行政の存在を指標としたドイツ北部、中部の1083の都市について調査している。これによると、1800年までの間で、1083の都市のうち576の都市(53%)は少なくとも一度は市壁に囲まれましたが、そのうち建設時期がわかっている428の都市のうち390の都市(91%)は1500年まで市壁を持ち、中でも13,14世紀における建設が最も多い(2世紀で71%)ことがわかります。また、都市の人口も市壁の建築と関係があったと考えられます。1500年までのおおよその都市人口がわかっている185の都市のうち、人口が3000人以上の都市は全て市壁を持っていましたが、1000人未満の都市では43%した市壁を持っていませんでした。
 
都市の法的な地位とも市壁は関係していました。特許状を持つ862の都市のうち市壁を持つのは57%に上るのに対し、特許状のない都市では41%に留まっていました。13世紀に特許状を与えられた都市に至っては77%の都市が市壁を持っていました。これは、特許状を与えた領主が都市に経済的機能に加えて軍事的役割を期待していたことを示しています。13世紀のラインラントの伯や司教、14世紀西プロイセンのチュートン騎士団などは、辺境防衛のために都市を建設しています。城を築き守備隊を置くよりも、都市に市壁を築いて市民の自衛の力を利用する方が安価だったのです。
 
また都市の社会的・経済的性質も市壁建築に関わっていました。商人による支配が行われた交易の中心地としての都市では、市民によって市壁が建設されましたが、鉱山を主産業とする都市ではあまり市壁がつくられませんでした。なぜなら、発展も衰退も急激な鉱山業の町は拡大も縮小も速く、都市域を囲い込むことや市壁建築のための富を維持するのが困難だったためです。また、港湾都市は一般に海という自然の要害が利用できたことにより市壁は少なかったようです。また、城や教会を書くとせず、領主によって建設されたわけでもない自然発生的な都市で市壁が少なかったことは、領主の設置した都市の方が市壁を持つことが多かったことを示しています。市壁建築に対する領主や国王の影響力の大きさにも地域差があり、イングランドなど王権の強かった地域では国王の認可した都市のみが市壁を持つことができ、市壁建築権が国王大権のひとつとみなされていたドイツでは、都市は市壁建設の許可を国王や領邦君主に求めました。
 
このように都市の市壁建築は、自然の要害の有無、特許状の有無、人口、都市の性質、君主による防衛や権利譲渡の思惑など様々な因子によって建設されました。この中で、市壁を持たないとされた多くの都市にも何らかの防衛設備はあったということは注目すべきであると思います。市壁(wall)と塁壁(rampart)や柵(palisade)との明確な違いはどこにあるのかを、今一度考える必要もあると思います。
 
これらのことを総合し、中世の景観を考えると、そこには確実に堅固な城壁をめぐらす数少ない大都市と、市壁のあるものもないものもある多くの小都市、そして市壁のない小都市と見た目ではほとんど変わらないと思われる防備を施した大きな農村や、それ以外の無数の小さな農村の広がりといったものを想像できるかと思います。もはや、そこには都市と農村が明瞭に分けられる景色はなく、むしろ大都市と小村とのグラデーションを思わせます。都市域とそれ以外を分断し、都市のシンボルとして、都市を農村と区別するような機能を持つ市壁のことを考えると、逆に都市と農村の曖昧な境界に行きあたるというのはなかなか面白いことだと思います。

James D. Tracy, To wall or not to wall: Evidence from medieval Germany, In James D. Tracy(ed.),City walls: the urban enceinte in global perspective, Cambridge University Press,2000,pp. 71-87
 

市壁について〈1〉-ベネーヴォロ「都市の世界史」より

ローマ帝国の滅亡から10世紀以降に都市が新たに誕生してくるまでの期間、ヨーロッパの都市世界において顕著だったのは縮小、消滅の動きでした。人口は外敵の攻撃を受けやすく、不安定な都市から大地から生計を得られる農村へと移ってゆき、社会システムもまたその流れにそう形で、農地=荘園を基盤にした貴族たちによる封建制が発達しました。そのような流れの中でも、ローマ時代に建設された都市の全てが放棄されたわけではありませんでした。都市に残ることを決めた人々は、コンパクトになった都市空間の中で生活していくことになります。円形劇場や競技場などの古代の公共建築は城塞化され、教会などの最重要施設を囲む形で市壁が縮小されました。例えばアルルでは円形闘技場をそのまま城壁代わりにして、その中に住居が建ち並びました。ちなみに、当時は墓地を壁外につくることが多かったために、墓地や聖人の廟に隣接して建てられた教会が市壁の外にあることも一般的でした。後の時代にも言えることですが、この時代の都市はまさしく規則性と不規則性のはざまにあったといえます。古代の規則正しい道路をそのまま使う場合もあれば、自然のかたちに合わせて変えていくこともあったからです。この自然と幾何学の垣根をとりはらった都市のかたちこそ中世都市の特徴と言えるのです。
 
10世紀以降、農業上の発達や、異民族の侵入がほとんどなくなったことからヨーロッパは新たな時代を迎えます。都市の再生です。縮こまったローマ都市の周囲には、教会や修道院などの拠点を中心に新しい都市=ブールが建設され、さらにブールに入りきらなくなった人口は城外市=フォーブールに流れ込みました。都市に不動産を持つ市民たちは、自分たちの活動を支えるために、徴税、行政や立法の権利を領主たちから獲得していきました。税金は、彼らの安全のための都市防衛や市壁建築のための原資となりました。
 
前述の通り、中世の都市は「あらゆる可能な形体を持っており…歴史的、地理的なあらゆる状況に自由に適応して」(p60)いました。そのために、中世都市を一般的にひとつのモデルとしてまとめることは難しいのですが、それでもいくつかの共通項はあります。様々な用途を持つ大小の街路、宗教・経済・政治の中心としての広場などですが、ここでは市壁について詳しくみてみます。市壁は都市防衛の要でしたが、そのコストは莫大なものであったので、市壁は一定の領域をできるだけ短い線で囲めるように不規則な円形をしていることが多かったようです。都市住民の増加に対しては、まず都市を横に広げるよりも縦に長くする方が優先されました。つまり、複数階建の建物を建設し、それでも市域が足りなくなって始めて市壁が建てられたのです。しかし、14世紀に市壁を拡大したいくつかの都市では、その後の人口減少によって市壁内に緑地が残されてしまうような場合もあったようです。

レオナルド・ベネーヴォロ、佐野敬彦・林寛治訳『図説・都市の世界史-2[中世]』相模書房(1983)

イングランドにおける中世都市の成立―ノルマン・コンクエスト以前

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▲ノルマン・コンクエスト(バイユーのタペストリー)

中世都市の成立と題された本の多くは、中世ヨーロッパの中心であったフランスとドイツを舞台としたものが多く、イングランドにおける中世都市の成立について語ってくれるものは多くありません。今回は、触れられることの比較的少ないイングランドの都市に焦点を絞って、その成立事情を簡単に紹介しようと思います。今回は特に、ノルマン・コンクエストまでに発達した、イングランドの古い都市に的を絞ります。

英語の辞書で、都市や都市行政に関わる単語を探すと、いくつかの種類があります。これらの語は、中世都市やその前身の都市を指すのに使われていていた言葉を由来としています。例えば、英語の都市や市当局をそれぞれ意味する「city」や「municipality」といった語は、ローマ支配下のブリテン島に建設された都市であるキウィタス(civitas)やムニキピウム(municipium)を語源としています。これらのローマ都市は、ローマ人によって新たに建設、植民されたものもあれば、既存の部族集落を都市化しただけのものもあり、与えられていた権利の大きさも異なっていました。イングランドには、ランカスタ、マンチレスタ、グロスタなど「チェスタ」「カスタ」「(セ)スタ」などを語尾に持つものが多いですが、これらはラテン語で砦、兵営を意味する「カストルム」(castrum)に由来しており、これらの都市が元々はローマ軍団の駐屯地であったことを示しています。

中世都市の起源はローマ都市だけではありません。英語で行政区や市を意味する「borough」は、アングロ・サクソン語の城塞、すなわちブルフ(burh)に由来しています。5世紀初頭のローマ撤退後のブリテン島は、土着のブリトン人と来航してきたアングロ・サクソン人との支配権争いを経て、アングロ・サクソン人の支配する小王国が割拠しました。その後、新たなる侵入者デーン人との戦いの際、アングロ・サクソンの一王国ウェセックスの君主たちは、いまやデーン人の支配領域となったブリテン島東部に接する前線に城塞を築いていきます。これがブルフで、これらのうちのいくつかは、中世にバラ(borough)と呼ばれる都市として発展していきます。

しかし、全てのローマ都市やブルフが都市に成長したわけではなく、今では場所も定かでないものや、中世盛期に至っても商業的な発展がなされなかったものもありました。つまり、都市が発展するかは、その土地が交易に適している、商工業の焦点と成り得るかどうかで決まったのです。ローマ都市やブルフは戦略上の要地に建てられましたが、そこが幸運にも交易に最適な場所であれば、防壁が提供する防衛力の魅力も手伝って、そこに多くの商人や職人が集まり、都市を形成したのです。都市は、一般的に市場と造幣所を持ち、地域商業の結び目となりました。さらに、ブルフなどの核を持たなくとも、交通の要所である街道の交差点や、渡河可能な橋などに市場が形成されることで、多くの都市が誕生しました。ロンドンの前身はロンディニウムと呼ばれるローマ都市でしたが、さらにそのまた前身はテムズ川に架かる橋を中心としたブリトン人の集落でした。

注意しておくべきことは、これらの都市成立の要素は、きれいに分類できるものというよりは、重複することのある曖昧なものだったという点です。ローマ都市にいくつかはブリトン人集落を由来とするものがあり、複数のブルフが鉄器時代の集落跡や、ローマ都市などを拠点にして建設されることもあったのです。核が、ブルフと橋、修道院とブルフなど複数あるものも存在するため、都市成立の要素は柔軟に考える必要がありそうです。


中世都市のふたつのモデル-北欧都市と南欧都市

中世盛期の時代、ヨーロッパ各地には新しい形の集落が無数に勃興し始めました。これらの集落は、それまで支配的だった農業生産のための集落とは異なり、商業・手工業の中心地、すなわち都市でした。これらの都市は、ローマの伝統を受け継ぐ古代の都市から、あるいは地域の中心地となるべき性格を備えた施設を核として誕生、発展していきました。ところで、都市の成立はヨーロッパ全域で起こった現象でしたが、その中でも特にイタリア半島北部とフランドルを中心とする南ネーデルラント周辺では、他の地域より大規模な都市が数多く築かれており、私たちの中世都市観にひとつのモデルを提供しています。今回は、中世都市の代表といえる、この両地域周辺の二つの都市圏について比較していきます。

ひとつめの都市圏は北イタリア・南フランスを含む南欧都市圏です。なかんずく北イタリアは、肥沃なロンバルディアの平原を含み、中世農業革命によって鉄製の農具を先進的に取り入れていた地域でした。また、ローマ帝国の中枢部であったために、古代からの伝統を色濃く残すキヴィタスが帝国の滅亡とその後の混乱を生き抜いて残っていました。さらに、古代末期の騒乱によって縮小されてはいましたが、奢侈品を扱う地中海遠隔地商業も、ヴェネツィア-オリエント間の通商が開かれてから活発になっていました。この地域では、都市の形成にかかせない農業生産増大による非農業人口の増加や、商業の発達が進んでいたのです。

これらの地域では、司教の支配するキヴィタスないしは、封建領主の城塞の内側に商人たちが定住することで都市が形成されていきました(ミラノやパヴィアなど)。都市の拡大に伴って周辺の中小貴族の所領を都市内に吸収していく際には、強制的に、あるいは自発的に、貴族たちは都市内に住居を構えて生活するようになっていきます。彼ら都市内の封建貴族は、遠隔地商業で成功を収め都市で指導的役割を果たしていた豪商の家門と結びつくことで、都市貴族(パトリチアート)と呼ばれる階層を形成していきました。貴族というと、戦う人を想像しますが、南欧都市の貴族は商売をすることにさほどの抵抗はなかったようです。こうして、南欧都市は封建制ヒエラルキーが都市内部に持ち込んでおり、農村との境が曖昧であった南欧都市は領主対市民という構図が生まれにくかったために、よく言われるような「外界の封建制社会とのコントラストを示す市民的平等社会を実現した都市」を形作るにはほど遠かったのです。

ふたつめの都市圏は南ネーデルラントを中心とする北欧都市圏です。この場合、北欧というのはいわゆるスウェーデンやノルウェーといったスカンディナヴィアのことではなく、ロワール川、エルベ川、アルプス山脈に囲まれた北フランス、ドイツ、低地地方を含む地域のことです。

これらの地域の都市は、地誌的二元構造と呼ばれる特徴を備えています。キヴィタスないし領主の城館に商人が集まって都市が形成された南欧と異なり、北欧都市は領主の城館に隣接した商業集落(ヴィク、ポルトゥス)として生まれました。ケルンやヴェルダンは司教座(キヴィタス)の周壁に隣接して、ブルッヘとヘントはフランドル伯の居城の外部に、それぞれ商業集落が出来たことで都市が形成されていきました。この中でヘントやヴェルダンは、都市の核と新市外が川で隔てられています。この地域で、なぜ城塞と集落が分けられていたのかという明確な理由は明らかになってはいませんが、領主が商人の関税収入くらいしか興味がなかったこと、商人からしてみれば領主の干渉を出来るだけ避けたかったこと、集落が城塞の立地地点よりさらに河川に近く、水上貿易に有利な場所を求めたことなどが理由として挙げられています。

これらの商業集落は後に荘園や村抱えだった手工業者を吸収し、住民による誓約団体(コムーネ)を結成して都市領主(司教、伯)に対し平和と自治を求めるていくようになります。領主側の妥協や王権の介入により自治権を得た北欧都市は、都市内でのある程度の法律上の市民的平等を実現しました。「都市の空気は自由にする」ということわざは、商業集落が半ば独立していたために領主対市民という図式を形成し易かった北欧都市ならではのものであったのです。


都市と農村のはざま

中世世界を展望するのによく試みられる方法として都市と農村を分けて考えることがあります。基本的に都市は商業的役割を強く持ち、消費地としてあるいは商品の遠方への発信地として、地域の産物の集計地となりました。これに対し農村は多分に生産的な役割を担い、都市を保持するための産物の供給地となりました。政治的にも都市にはコミューンが生まれ、自由と自治を獲得したのに対し、農村は領主に従属していたという対比があります。

しかし、実際には都市と農村との境界線はかなりアバウトなものであったようです。都市は農村的、農村は都市的性格をそれぞれ持っており、明確な分類は出来ないのです。まずは都市にみられる農村的な面について見ていきましょう。初期の都市には多く見られるように都市の市壁の内側には市民の菜園があり、また衛生上の理由で禁止されるようになるまでは豚などの家畜も放し飼いにされていました。都市でも農業生産が行われていたのです。

市壁はあたかも都市領域を確定しているかのようにも見えますが、実際にはそうではありませんでした。市壁の外側には都市領主が持つ裁判権に属す地域が広がっており、それらの地域に住む人々は都市民と同様に市壁の建設・維持費を負担し、警備や見張り役も担いました。イタリア都市国家にみられる周辺領域「コンタード」のようなものは他のヨーロッパの諸都市にもあったわけです。

それなら市壁が都市たる存在に必要なのかと言うと、必ずしもそうではありません。多くの中世都市の市壁は、ゲルマン民族やノルマン人など異民族の侵攻に際して築かれましたが、中世後期、百年戦争に至りようやく市壁を建設し始めた都市も少なくなく、また集村化と共に共同体を作り上げていった農村は周囲に壁を巡らせた防衛集落を築くこともあったのです。

ではコミューンや慣習法文書の有無ではどうか。これでも都市と農村を完全に分けることはできません。フランスではそもそもコミューンの特許状を得た都市は北フランスに集中しており、中部フランスでは多くの都市がプレヴォ都市、つまり王や伯などの代官が統治する形態を採っていました。さらに北フランスのたコミューン都市や南フランスのコンシュラ都市でも、完全に領主権力を退けていたわけではなく、程度に差はあれど領主の従属化にあったことでは農村とそう違いませんでした。封建制のヒエラルキーに取り込まれた都市で軍役が課せられたことなどはその一例です。反対に多くの農村もコミューンを結成して上級権力から自治の特許状を獲得し、また慣習法文書も都市だけのものではなく、農村地帯にも広まっていたのです。

では、当時でもあいまいだった都市と農村が、中世後期までに完全に都市的な集落となるか、あるいは農村的集落のままに終わるのかという差はどうやって生じたのでしょうか。これはその集落が市壁・法文書・商業的、農業的性格などの、都市的あるいは農村的要素をどれほど持っていたか、その程度の差でしかないようです。

専業化された職業

工場での大量生産や、流れ作業などがなかった中世では、職業が細分化されていて、各々が専門の業務を行っていました。例えば1292年、パリにおける職種は130種にものぼりましたし、15世紀、ニュルンベルクの鍛冶屋もは製作物や加工する金属の違いから30もの職種がありました。以下の表は1292年、パリの主な職業の一覧表です。(「中世ヨーロッパ都市の生活」J・ギース、F・ギース著141,2Pより引用)

靴職人366
毛皮職人214
女中199
仕立屋197
理髪師151
宝石職人131
料理店主130
古着屋121
菓子職人106
石工104
大工95
職工86
蝋燭職人71
織物商70
樽職人70
パン職人62
水運搬人58
さや職人58
葡萄酒商人56
帽子職人54
鞍職人51
鶏屋51
財布職人45
洗濯女43
油商人43
運搬人42
肉屋42
魚屋41
ビール商人37
バックル職人36
しっくい職人36
香辛料商人35
鍛冶屋34
塗装工33
医師29
屋根職人28
錠前師27
風呂屋26
紐職人26
宿屋主人24
皮なめし職人24
筆写人24
彫刻師24
敷物職人24
馬具職人24
漂布職人23
干し草商人22
刃物師22
手袋職人21
木材商人21
木彫師21

飛脚、娼婦、公証人、両替商、ガラス職人、刺繍工、膠職人、煉瓦積み職人、指し物師…etc 他にも職業はたくさんあります。以上の職業については、いくつかは記事にしていきたいと考えています。たくさんあるので、何かお詳しいものがありましたら記事投稿も募集します(笑)

備えあれば憂いなし-都市の警備

城壁で周囲を囲まれていた中世都市は、そうでなかった農村地域より、はるかに外部からの攻撃に対して備えがありました。しかし、人口の集中する都市で頻繁に起こった暴行や窃盗、殺人や強盗などの犯罪は、絶えず市民たちの生活を脅かしていました。また、城壁が築いてあったとしても、襲撃の際、即座に敵を発見し防衛体制に入らなければ、都市は簡単に乗っ取られてしまう恐れがありました。このような内側と外側の危険に対し、都市では警備隊が組織されていきました。

中世初期のことについては詳しくわかっていないようですが、中期から後期になると都市警備についての資料を見つけやすくなるようです。都市の安全を守るために組織された彼らは警備隊と夜警に大別されます。警備隊は日中、あちこちの市門に配置され、夜警はその名の通り夜間の見回りと、敵襲に備えての見張りを行いました。人数としては警備隊より多く動員された夜警が警戒していたのは、こそこそ動き回る盗人だけではありません。しばしば乱闘騒ぎを起こした飲んだくれ、ただ刀剣を持ち歩いていただけの男も、それだけで都市の平和を乱しかねない者として処罰されました。都市内で武器を携帯してよいのは、司法関係者と貴族とその従者だけでした。また夜警は火事にも注意を払う必要がありました。木造家屋が密集して建てられた都市では火事のせいで街区がまるまる消滅することもあったのです。

警備隊や夜警隊の大部分を構成したのは一般市民でした。都市に住む18~60歳までの男子が世帯を単位として召集され、普通は一ヶ月に一度、警備隊か夜警として働きました。しかし、夜の睡眠が取れず朝からまた働かなくてはならない夜警は敬遠されることが多かったので、必要な数の夜警を集めるためには欠席者には処罰として罰金を科さなければなりませんでした。合法的に夜警を免れるにはしかるべき代理人を立てたり、免除金を支払わなければなりませんでした。また警備隊の召集は世帯ごとに行われたので、例えば父の代わりに息子が、主人の代わりに召使が、警備に就くことができました。

素人からなる夜警を補佐するために、大都市や国王代官の駐在する都市には国王の警備隊が設置されました。13世紀、聖王ルイの下のパリにあった国王の夜警隊は、徒歩警官40名、騎乗警官20名から成り、夜警隊長の指揮に服しました。彼らは有給の常備警備員で、一般市民からなる夜警の欠席には罰金が科されたのに対し、彼らが任務に欠席した場合、その日の分の日当は払われませんでした。パリでは国王の夜警隊の下、市民による夜警が行われていましたが、このような警備は首都であればのことで、多くの都市の警備員数は十数人といったところであったようです。

中世の都市人口

中世の都市は基本的に壁で囲われていましたので、できるだけ壁の建造コストを抑えるために市域は狭いのが常でした。そんな状況でしたので、一部の大都市を除き中世都市の人口はほとんどが数千人規模の小さい者でした。普通、人口1万人以上の都市を大都市、2000~1万人のを中都市、500~2000人のを小都市と分類します。注意しなければならないのは現在知られている中世都市の人口は、都市の徴税・軍役のための各種台帳や食料消費量などから逆算した、おおよその数であるということです。では各地域の都市人口を見ていくことにしましょう。



イタリアには13世紀、人口2万を越す都市が20以上あり、一大都市圏を形成していました。研究者や国によってかなり数字にばらつきがあるようなので、ここで示す数字は大体の人口です。中世後期の海上交易の中心、ジェノヴァとヴェネツィアがそれぞれ10万程度でイタリア、というより全ヨーロッパの中でも指折りの大都市でした。ミラノとフィレンツェもこれとほぼ同数でした。学芸で栄えたパドヴァとボローニャはそれぞれ3万人と4万人。ルッカ、ピサ、シエナなどの都市では人口はおよそ2万人でした。南イタリアに目を向けるとナポリは5万、両シチリア王国の中心地だったシチリアのパレルモは人口4万を越えていました。永遠の都ローマはどうだったかといいますと、過去の栄光は影を潜め少なく見積もると人口は2万に満たなかったようです。

ドイツにおける最大都市はケルンでその人口は最盛期には4万人にも及びました。14世紀のドイツにはフランクフルト、ミュンヘン(共に一万)などの大きな都市もありましたが、これらのように人口一万人以上を抱える都市は、15ほどしかありませんでした。人口が2千~1万の都市は約25で、あとの100を越える都市は、人口が千人から2千人の小都市でした。そしてもっと小さい都市も存在したのです。フランスやイギリスでもその状況にほとんど変わりはありませんでした。

北フランスには200ほどの都市がありましたが、そのほとんどは中小都市で大都市は10を数えるに過ぎませんでした。例えば14世紀アミアンの人口は3万、ランスは1万4千ほどでした。フランス王国の首都にして最大の都市であるパリの人口は、20万を超えるという説もありますが、周囲の都市との人口があまりにも違いすぎることからもわかるように、この数字は誤りで人口は8万ほどであったとする考えもあるようです。

北フランスやドイツに隣接するフランドル地方も、北イタリアと同じく一大都市圏を成していました。ヘントには5万人、ブルッヘには4万人、ブリュッセルは3万でアントウェルペンには2万人が住んでいました。ロンドンの人口は4万人ほどでしたが、他のイングランドの都市はほとんどが中小都市だったようです。



このように中世都市の人口は、かなり地域差の激しいものだったことがわかります。また、数えるほどの有名な大都市は中世都市のほんの一部に過ぎず、中世都市文化を形成したのはこれらの大都市の影響もさることながら、大多数の中小都市のネットワークにあるのかもしれません。…って何かの本にあったような(爆)。どちらにしろ、都市に住んでいたのは人口の1割(後期にはもっと増えることもあったようですが)に過ぎず、いまだ人口の大多数は農村に居住していたという事実も忘れてはいけません。

ツンフト闘争 その2

【アウグスブルクの場合】

ドイツ都市からは、都市の支配者であった司教から自由と自治を勝ち取ったアウグスブルクを例にとってみます。14世紀に入って、やはりここでも寡頭政治を行う都市貴族と一般の手工業者の間で対立が生じてきました。1368年、アウグスブルクの職人たちは門や市庁舎、広場など都市の中枢を占拠して、ツンフトの旗を立てて市内を行進し、市参事会に対して、新しい契約団体(都市貴族も職人も含む全市民の団体)の結成を求めました。

フィレンツェでは潰されてしまいましたが、アウグスブルクでは成功し、各ツンフトから代表者を出し、都市貴族と共に市政を取り仕切るようになっていきました。しかし、15、16世紀になると、今度は新しい参事会と下層民との間で抗争が起きてしまいます。これは都市内で生じた著しい格差にありました。納税者の八割を占める下層民の財産は、都市民が持つ全ての財産のわずか3%に過ぎなかったのです。こうして、ツンフトの政治は崩れ、復権してきた都市貴族によってツンフトの権利は大幅に削減されていきました。

【ヘントの場合】

ツンフト闘争の例として最後に、イタリアと並ぶもうひとつの大都市圏であったフランドルの都市、ヘントの例をあげます。ヘントはフィレンツェと同じく毛織物業で栄えた都市でした。この都市でも14世紀になって都市貴族と手工業者との抗争が起こります。結果として1302年以降、都市を治める役職は、毛織物ギルド、肉屋を中心とした諸ギルド、そして都市貴族の3者によって分けられるようになります。

ツンフト闘争のような下層民と支配階級との争いは、都市という環境で特別に起こっていたのではなく、それより大きい、あるいは小さい規模でも上下の争いは起きていました。14世紀、ヘントでは毛織物業者の中でも縮絨工と織布工との間で、あるいはフランドル伯やフランス王に対しての抵抗などが起きていました。


        
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