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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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あるべき姿を求めて―マグナ・カルタの成立背景

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▲マグナ・カルタ(1225年版)

愛国心に満ち溢れた諸侯たちが暴君ジョン(1199-1216)の圧制に対抗して国民を守り、なおかつ近代的議会制と人権宣言の基礎としてマグナ・カルタ(Magna Carta)を勝ち取ったとする説は、今日ではほとんど否定されています。もちろん、マグナ・カルタが後代に与えた影響が大きかったのは事実ですが、当時の人々はそれまでの現状を改善することを第一の目的としてマグナ・カルタをつくりあげていったのです。現在の通説では、マグナ・カルタは王権に対抗した諸侯たちが、封建制のあるべき正常な姿を王に認めさせた封建文書であとされています。

マグナ・カルタ成立を推進した諸侯たちは、現状の封建制に不満を持っていました。不満の原因はいくつかありますが、大きなものとしてジョン王個人の問題と、ジョンを含む歴代国王による重い財政負担があげられます。ひとつめの問題についてはアンジュー家の大陸領土喪失が大きく関係しています。ジョンの即位時、アンジュー家はイングランドに加え、実にフランスの西半分を支配下においていました。ところが、フランス国王フィリップ2世(1180-1223)が、領土拡大政策をとりだすと大陸諸侯の離反が相次ぎ、1206年までにアンジュー家の大陸領土はアキテーヌの一部を残すだけとなります。1214年、ジョンは大陸領土奪還のためポワトゥーへ遠征を行いましたが失敗します。大陸領土損失はジョンの軍事手腕の欠如を露呈し、本質的に武人である諸侯たちの間に不評を生みました。また、諸侯の子弟を人質にとったり、諸侯に対し誠実義務を確認する誓約書をわざわざ提出させるなどしており、ジョンは諸侯を信用することができず、両者の間には信頼関係が築けていなかったという問題もあります。

次に貴族たちに課せられた財政負担について見ていきます。ジョンに先立つリチャード1世(1189-1199)は、十字軍遠征、対フランス戦争のための軍資金、さらに皇帝ハインリヒ6世により虜囚にとられたための身代金捻出のためと、多額の出費を諸侯に課してきました。ジョンの時代にも、引き続き対フランス戦争が行われ、大陸領土喪失後もその奪還戦のために戦費を必要としていました。これらの戦争には大陸の傭兵が多数動員されたために、戦費は莫大なものとなりました。そのためジョンは封臣の封建的付帯義務を存分に活用して資金を集めました。封建的付帯義務とは封臣の封土相続に伴う相続料、封建的軍役の代替となる軍役代納金支払いの義務や、封臣の遺児の後見権、封臣の寡婦や娘の結婚許可権を王の権利とするものでした。封臣は高額の相続料を支払い、また王による恣意的な後見や結婚を回避するために、これらの権利を買い取らねばなりませんでした。しかも、相続料や権利の価格は定額が無かったため、失地回復遠征を準備していた1213年頃には特に苛斂誅求が激しくなりました。

1214年、ブーヴィーヌの戦いにおけるフランス側の勝利によって、ジョンの大陸領土奪還の道は完全に閉ざされました。そして、この遠征の失敗以降、諸侯たちは公然とジョンと対立するようになっていきます。それまでも散発的な抵抗はありましたが、ブーヴィーヌの戦い以降、不満を溜め込んでいた諸侯は横のつながりをもって共同でジョンに対し、自分たちの権利確立のために交渉を行うようになりました。両者は会合を重ねましたが意見の一致は果たせず、また諸侯はジョンと同盟関係にあった教皇による仲介書簡を認めなかったため、とうとう1215年5月5日、一部の諸侯たちは王に対する誠実破棄を宣言します。これに対しジョンは諸侯の所領差し押さえを州長官に命じ、王国は内乱に突入しましたが、諸侯も王も決定的な対立を避ける状態が続きました。同月17日にロンドンが諸侯の手に落ちたことで、両者のパワーバランスが崩れ中立を保っていた諸侯の多くが反対派となるに及び、6月15日、ロンドン近郊のラニーミードにおいてマグナ・カルタが王によって認められました。(マグナ・カルタの内容については別の記事に譲ります。)

かくして、成立したマグナ・カルタでしたが、厳密な意味で1215年のマグナ・カルタが機能したのはほんの数週間だけでした。王と諸侯の内容解釈の違いや、憲章内容遂行の遅れにより両者は再び内乱状態へと陥っていきます。1216年、ジョンが内乱の中で没した後に幾度かの修正を経て、最終的に1225年、マグナ・カルタは独立した御領林憲章と併せて国法となりました。マグナ・カルタは王の恣意に対抗する根拠として、その後の封建社会において多きな影響力を持ち続けていきます。
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ルイ9世の地方行政

第7回十字軍から帰還したルイ9世には、処理しなければならない国内問題が数多くありましたが、その中のひとつが地方行政官の引き締めでした。旧来からの代官であったプレヴォの職権の乱用を防ぐため、ルイの祖父にあたるフィリップ・オーギュストの御世に、フランスではより広範囲を治める代官が新設され、裁判権の代行、徴税、有事には徴兵などを執り行っていました。この代官は主に北フランスではバイイ、南フランスではセネシャルと呼ばれていたのですが、皮肉なことに彼らもまた、職権乱用で王を困らせるようになっていたのです。

この状況に対処するため、ルイは1254年に行政改革の大王令を下します。この王令は代官に対し慣習に基づいた適切な裁判をすることを求め、彼らの職権乱用を抑えるためのさまざまな項目が含んでいました。まず、賄賂による汚職を防ぐために、代官は自分の上司やその家族へ贈り物をすることが禁じられ、また反対に自分や自分の家族への贈り物を受け取ることを禁じられました。

また、管区内の住民との癒着が問題とならないよう、頻繁な配置換えがなされた他、代官の子息と地域住民の婚姻は禁じられました。さらに、代官には管轄地域内での不動産の所有が認められず、下級役人の増加により国庫負担が増え、代官の権力が肥大化しないように下級役人の数は制限されました。

彼らは代官職を退任しても全ての責任から解放されるわけではありませんでした。現役中、彼が執り行った業務に対する苦情や訴えを受け付けるために、元代官として自分自身、あるいは代理人が前の管区に留まる必要があったのです。退任直前を好機とし、職権乱用をして逃げ去ることは許されなかったのです。王領地の中で進められていた、このような地方行政制度の発展は、いまだ官僚組織として完成された域には達していたとはいえませんでしたが、中世後期の絶対王政を支えるひとつの柱となっていくのです。


王、諸侯・城主・領主-貴族間の相互関係

これまで「封建制」や「裁判領主制」などの記事で中世の支配体制について紹介してきましたが、それらを総括して全体的に眺めてみると、中世社会はどのようなものであったのか。それを探っていきたいと思います。

世界史の教科書には、中世のヨーロッパ世界と称してフランス、イングランド、神聖ローマ帝国と色分けされた地図が載っています。初めて中世史について学ぶ人でなければ、この地図は内情を何も表していないことがわかるはずです。今のような独立主権国家としての国境線が引かれたのは絶対王政によって国王が一円的に王国を支配するようになってからのことです。それ以前の中世のヨーロッパは無数の諸侯が跋扈するアナーキーな状況にあったわけです。

さて、今度は中世史の入門書を見てみます。今度はカペー朝の支配領域が小さく示されて、周囲にシャンパーニュだのアンジューだのの伯領が幅を利かせているのがわかります。しかし、中世社会についてより詳しく知りたいと思ったら、この諸公領で線引きされた地図だけで満足していはいけないようなのです。

中世の支配体制の大きな流れとしては、中世初期フランク王国による広域的支配があり、その後の王国の分割によりヨーロッパ世界では城を中心勢力を築いた城主層が台頭し始めます(中世中期)。城主層の封主である伯を中心とした諸侯は、彼らより上位の貴族や王に対しての封臣として、自己の支配体制を固めていきます。城主の下には普通ひとつの村の支配権を持つ小領主層がいました。しだいに王と諸侯は自らの領地で支配権を広げ、最終的には都市・議会と結びつくなどして基盤を固めた王権が絶対権力になるに至ります(中世後期)。かなり大雑把ですが、社会の流れはこのようになっています。

それぞれの支配体制を王、諸侯、城主、領主に分けて紹介していきます。王はキリスト教の擁護者、ゲルマン的な血統を引き継ぐ者として全国(ここでは王領と封臣の支配域)に渡っての統治権を握ろうと努めていきます。具体的には王は上訴審の際の最高裁判権を持ち、諸侯たちの第一人者としての力を持つようになります。王領地の管理はプレヴォ、バイイなどの代官を派遣して行っていました。王は中央統治機構としての役人も揃え、中央集権化を図る足がかりとしていきます。諸侯の影響力はしだいに低下し、王領の騎士や学問を修めた市民層が政治を牛耳るようになっていきます。

諸侯たちも王の支配をコンパクトにしたような支配をしていました。城主や小領主へ授封していない直轄地は城代、所領管理人が担い、役人としては裁判執行人や裁判、徴税、軍指揮を代行した副伯などがいました。

城主は城の周囲5~10km、数ヶ村に渡り支配権を行使しており、中世の支配形態の核をなしていました。城主は城に守備兵として家内騎士を置き、さらに支配下の村の直接の管理人として小領主を従えていました。これらの領主には家内騎士たちが身分上昇してなったり、領地を継承できない城主一家の次三男がなったりしました。小領主はもはや小さな所領を経営するのに代官も役人もいらないので、領主一家と村落共同体の代表と共に村を統治しました。

中世の支配は、以上のように王、諸侯、城主、領主によって行われていました。また今回は紹介できませんでしたが、司教座や修道院も無視できない大きな勢力を成していました。今回は、全体を簡単に眺めてみると言うコンセプトで紹介して行きましたので、いずれ各階級の貴族についてより詳しい記事を書きたいと思います。

▼支配階層についてのイメージ
(ナイトの駒は家内騎士と小領主両方を表しています)

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行政機構の変容

【中央】

ヘンリー3世(1216 - 1272)の時代になると、それまであった行政の二重構造に変化が現れます。二重構造とは、大陸と島とを行き来する王に従って移動する宮内府と、王の不在時にも行政をこなせるように置かれた在地の財務府を中心とした国家行政機構のことです。ヘンリー3世の先代、ジョン(1199 - 1216)は大陸領の大部分を失い、それ以来国王はイングランドの統治に専念し始めました。もはや王の代理人は必要とされなくなりました。ヘンリー3世は国家行政の頭、最高司法官を廃止します。

エドワード1世(1272 - 1307)の時代にも行政機構の変容は続きます。国家行政の要、財務府はまったく消滅したわけではありませんが、宮内府宮廷財務室から独立した納戸部が財務を中心的に担うようになってからは、軍隊や役人の会計審査と清算事務だけを行う部署となります。

この納戸部「ウォードロウブ」ですが、宮内府の役職が王の周辺の世話役から発展していったように、これは元は王の衣服の収納部でしたが、やがて重要な書類や現金をも扱うようになり、重要度を増していきました。財務や文書を司る部署としてはすでに述べた財務府と宮内府の尚書部がありましたが、納戸部との管轄の線引きは曖昧だったようです。しかし、全体として言えるのは、それまで在地組織として大きな力を持っていた国家行政機構は縮小し、王国支配の中心は宮内府に移ったということでしょう。このように形成されていった行政機構は、しだいに影響力を強めてきた諸侯を中心とした議会の下に置かれるようになっていくのです。

国家の役人へ

【中央】

初期の中央行政組織が王の私的な役人団だったのに対し、ヘンリー1世(1100 - 1135)の時代には宮内府の管轄とは別の組織が作られていき、しだいにこの組織が統治を中心的に担う存在となっていきます。王の家政役人に代わる国家の役人の台頭は、イングランドの支配が国王による恣意的なものから、定められた制度的なものへと変わっていったことを意味します。

この新しい組織を統括したのは「チーフ・ジャスティシア」でした。直訳すれば最高司法官ですが、意訳では行政長官とでも言うべき存在です。ノルマン朝が開かれた当初から大陸と島とに領土が二分されていたイングランドでは、王の不在が多く、その間でもしっかりと統治が行われるように王の代理人を置く必要があったのです。

また、新組織の中核となったのは財務府「エクスチェカ」です。もちろん財政業務を担っていましたが、その本業はむしろ最高司法官の下で在地行政を行うことでした。初期のエクスチェカは常任の定まった人員を持つ組織ではありませんでした。王国の主要人物かその代理人による集会で年に2回開かれる王国役人たちの会計審査が行われましたが、その集まりこそが初期のエクスチェカでした。

最後に新組織の第三の要素として裁判組織が挙げられます。任命された常任の裁判官たちは大陸と島それぞれに複数名派遣され、その地で裁判・行政業務に携わりました。またウィリアム征服王(1066 - 1087)時代からあった巡回裁判は、それまでは王の信頼する家臣が裁判官を勤めていたものを、前述の常任裁判官の中から選ぶこととしました。裁判官は王領地を査察・監督し、領民からの訴えを王の裁判権の下で裁き、それに伴う罰金などの裁判収入をもたらしました。

【地方】

フランク王国の伯がもとは地方長官であったのが世襲化し、諸侯身分を形成していったのと同じように、イングランドのシェリフたちも放っておけば地方豪族化する危険がありました。イングランドの歴代の王たちはこのような傾向をどうにか防ごうとします。

ノルマン朝を開いたウィリアム征服王にはシェリフの独立を防ごうとする思惑は無かったと思いますが、結果的にシェリフの世襲を一度完全に廃しました。1071年までにシェリフの大部分が征服王が率いてきたノルマン人に取って代わられたからです。

しかし、このノルマン人シェリフはしだいに豪族化し、その特権を以って私腹を肥やすようになります。父の後を継いだヘンリー1世はこれに対し、州長官の権力を小さくする政策を採ります。具体的にはシェリフの裁判権を縮小し、代わりに州の中小貴族層による地方裁判所を設置しました。

ヘンリー1世の没後、王の甥スティーヴンの時代にイングランドは内乱に突入します。その後、ヘンリー1世の孫であるヘンリー2世(1154 ‐ 1189)が即位したときには、内乱に乗じて世襲化に成功した多くのシェリフがいたのです。ヘンリー2世は巡回裁判所を以って州長官職から貴族を排し、後継として王の役人を送り込んだのです。

王の役人

16~17世紀の絶対王政、国王が中央集権化を進めていく中でなされていきました。絶対王政の二つの柱のうちのひとつ、官僚組織は中世にはすでにその萌芽を見ています。今回は、初期中世イングランドの統治組織について紹介します。

【中央】

初期の中央行政組織は、王の私的な仕え人から発展していきました。例えば王の寝室(チェンバラ)で仕えていた者は、しだいに王の支出、ひいては国家の支出をも司る宮廷財務長官「チェンバレン」となり、王室の宝蔵庫(トレジャリ)の管理人は、国庫の管理を担う宝蔵長官「トレジャラ」となっていったのです。を。このような王の家計と国家の行政の区切りが薄い組織は宮内府「ハウスホウルド」と呼ばれ、前述した二役の他に尚書部長官「チャンセラ」がいました。チャンセラは国璽を預かり、その文が王のものであることを照明しました。彼らはそれぞれ宮廷財務室「チェインバ」、宝蔵室「トレジャリ」、尚書部「チャンセリ」の役人を統括していました。

また、重要事項の決定機関としては臨時に賢人会議「ウィテナイェモート」が開かれました。この会議では外交・立法・徴税などに関し話し合いがなされました。参加者は諸侯、司教など高位聖職者、王の側近の役人など、つまり王国の支配階級にあった人々でした。

【地方】

現在のように交通・通信が発達していなかった当時は、磐石な地方統治が成されていることが王国統一のために不可欠でした。イングランドには中世を通して各地に州長官「シェリフ」が置かれ、自分の管轄する州「シャイア」における裁判・徴税・軍の召集などを行っていました。

州制度は、王国の中心であったウェセックスより始まり、全国的に普及したのは11世紀頃のことでした。州よりさらに細かい行政区分としては郡「ハンドレッド」があり、これは名前の通りなら100のハイドで構成される行政区でしたが、その規模はかなりアバウトだったようです。さらにその下部には十人組「タイジング」が整備され、治安維持と出廷の連帯責任を負いました。

ダンジュー?ダキテーヌ?-フランスの貴族

フランス貴族は普通、個人名と支配する領地から名前がつけられています。例えばシャルル・ドゥ・ブロワだとブロワ伯シャルルを意味するわけです。(ドゥは「~の」意)そこであるとき私は疑問に思ったのです。ルイ9世の弟シャルル・ダンジューや、リチャード獅子心王の母親アリエノール・ダキテーヌなどの名前はどこから来たのか…。これはフランスの人名を日本語で捉えていたために起こったのですが、つまりシャルル・ダンジューはシャルル・ドゥ・アンジューの短縮(というか音を重ねる)だったわけです。アリエノール・ドゥ・アキテーヌはドゥ・アキテーヌを通して詠むとダキテーヌになるというわけです。ドゥの後に母音が付く領地は他にもこうなるようで、例えば「オルレアンの」というのはドルレアンとなります。



無茶苦茶簡単な事なのですが、紗瑠々は半年ほど前にやっと理解しました。実はここまで初歩的なことはあまり本にも書かれていない?と思い、恥を曝しつつ書いてみました。あれ?みなさん、もうとっくに知ってましたか?

年末だから、なのかはわかりませんがやたらと書籍を購入。長い間欲しかった「ランツクネヒトの文化史」や「西ゴート王国の遺産」を手に入れてホクホクな気分です。イタリアとドイツの傭兵の本が揃ったので、スイス傭兵の本が欲しくなってきてしまいました。困ったものです。後々、参照して新しい記事も書いてゆこうと思います。なんだか雑文の方が長いですね…。ついでに書きますとプロフィールの写真を変えました。シャルル5世賢明王です。

え~遅れましたが新年のご挨拶を、ってもう夜なんですが。

あけましておめでとうございます。
今年も紗瑠々の資料室をよろしくお願いいたします。
新しい一年が幸多き年となりますように。

伯と公-中世の爵位

ご存知の通り明治時代以降使われていた日本の爵位は公候伯子男の5つです。この爵位はそれ以前に男爵やら伯爵がいなかったことからもわかるようにヨーロッパから輸入したものです。ではそのヨーロッパ、中世の爵位はどのようなものだったのかというと基本的には伯爵と公爵しかありませんでした。もちろん言語も違えば歴史も違うヨーロッパ各国で個別に使われた爵位もありますが、基本的な爵位はこの2つでした。さて、それぞれの出自を簡単に見ていきましょう。

中世の時代の爵位は階級制度のようなものではなく、あくまで持っている領地に付随している名前に過ぎない(譲渡・継承が可能な資産のようなもの)ので「爵」を付けないようにしたほうが良いという話もあるようですが、どうせ訳語だ!ということで付けて書きました。そのほうが書きやすかったからなんですが…。



伯爵というのはフランク時代、そもそも貴族身分の生成期であった時代に生まれました。伯爵は王による地方支配を代わって行う代官であり、ローマ時代より受け継がれてきた都市管区(周辺地域を含む主要都市キウィタスを中心にした行政区)を統治しました。伯爵には都市管区内での司法・行政・軍事における権力が与えられました。また、イングランドにおいても各地方の太守として伯が生まれました。

ちなみに辺境伯はフランク時代、王国の周辺部に置かれ、外的に対する防衛の責務から、通常の伯爵より強力な権力を持っていたようです。辺境伯は公と伯の中間の権力を持つものとして、訳語には侯爵などが当てられることもあります。

大公とも表記される公爵ですが、これらの伯爵たちへの上級命令権を持っており、複数の管区を支配し中心的な都市で伯爵を兼任しました。公爵にはゲルマン的部族的な特徴を持ち、フランク王国の拡大政策によって取り込まれた旧ゲルマン部族を束ねる存在として強力な力を持っていました。

こうして最初は行政区の長官として生まれた伯爵や公爵はしだいにその役人的な性格を失っていきます。名目上は王の代官であっても、実質的には管区内に勢力を持つ豪族が伯爵となったことからもわかるように、伯爵や公爵は隙あらば爵位の世襲や管区の自立を狙っていました。そして、その隙は実際に訪れます。ヴェルダン、メルセンの両条約によってフランク王国が解体し分裂した王権が弱まると、各地の伯爵、公爵、そして各地の中小領主までもが王権からの自立を強め、勝手な分離融合を繰り返します。

その結果、フランス王国初代国王のユーグ・カペーの支配は実質、パリを中心としたイル・ド・フランスに限られることとなってしまいました。ドイツでも情況は同じで東フランクの王となったコンラート1世は、ザクセン公の分離独立を防ぐために止むを得ずザクセン公ハインリヒ1世に王位を譲るという遺言を残したのです。中世の諸侯たちは、王と並ぶ権力を持ち合わせていたのです。

諸侯による割拠はイングランドやフランスなど比較的王権が安定した国では中世末に終わりを迎えますが、ドイツの場合は王朝の度重なる移動の結果、その後の分裂を抑えることが出来ず、統一が果たされるのは近世に入ってからのことでした。



ちなみに侯爵ですが公の変わりに候を訳語として使うこともあります(堀越孝一さんの著作など)。また子爵ですが、これはヨーロッパの副伯に相当するもので、副伯は伯の補佐として置かれた役人でした。また男爵は、以上のような官職を持たない小領主一般のことを指すようです。

修道士カドフェル…いまだに読破せず。何をやっているのだか。「ジハード」というライトノベル(?)と「黒十字の騎士」を読んでいます。黒十字の方はやたらグロいです。ちょっと「大聖堂」に似ているような感じもしました。

08.1.1加筆修正

首都なき王国-ドイツ

中世を通して神聖ローマ帝国の中核たるドイツ王国は首都を持ちませんでした。この伝統はフランク王国から引き継いだ、広すぎる領地を確実に支配するための知恵でした。交通・通信手段が未発達であった中世の時代、諸侯が割拠するドイツ全体をひとつところから座して統治することはとうてい不可能でした。

そのため、歴代のドイツ王は王国に点在していた王宮を持つ都市を巡回しては、行政・裁判などに当たっていたのです。王宮を持つ都市には御領地管理役人がする大小の王領地が付属していました、様々な特許や寄進と引き換えに各地の教会に宮廷が逗留する際の給養を義務付け、司教座都市や修道院に滞在しながら政務を執ることもありました。国王の支配は、こうした各地の拠点を繋ぐ網の形で行われたのです。

宮廷は数百人ほどの集団を構成して王とともに各地を巡回しました。宮廷メンバーには厩役や内膳役など宮廷の警備や教養などの宮内職を担う王直属の家臣、さらに実際に行政に携わる文官としての聖職者たちがいました。さらに諸侯も王の相談役として宮廷に参加し、王妃も侍女を引き連れて共に移動しました。



今回は未分化モノ(?)です。中世の王都。フランスはパリ、イングランドはロンドン、ドイツは…となってしまうのはこうゆう理由だったんですね。国家・民族意識が生まれるのが遅かったドイツらしいといえば、ドイツらしいです。

両シチリア王国小史は両シチリア王国「誕生」小史になりました。こうやって各国の誕生を並べてみるのもいいなあ、と…要するには国政史はやっぱりあんまり好きじゃなかったんです。いや、面白いんですが、なんとも。このシリーズ(本当にやるのなら)ノルマン・コンクエスト→イングランドやらフランク王国→ドイツ・フランス(もうやってますね)やら第一回十字軍→十字軍国家やら美味しい所が扱えるんです。

従士制から封建制へ

以前書いたレーエン制に関する記事はかなり辞書的だったので、今回はヨーロッパで封建制度が生まれていく過程に焦点を当ててみたいと思います。

封建制度が古ゲルマンにあった従士制の影響を強く受けているのは周知の通りです。まず従士制についてみていきます。古ゲルマン世界は一部の有力者(王や族長、首長)からなる支配階級と、自由民と非自由民(奴隷)の二種類の人々で構成されていました。そして、自由民の男子であることは戦士であることとイコールでした。戦争になると、男は家族や一族で一部隊を編成して戦いに行ったのです。

やがて、一部の自由民が専業戦士として部族の有力者に従属するようになります。これは自ら進んで有力者の従属下に入り、彼らのために率先的に戦うことで、金銭、装備、馬、食料、戦利品などを獲得し、種々の特権を得るようになります。有力者に従属し彼らの家で給養されることと引き換えに、平時には護衛を勤め、やがて助言者にもなっていく人々を従士といい、有力者と従士とのこの関係を従士制といいます。

現物による給養はしだいに土地の授与に変化していきます。与えられた土地から上がる収益によって装備や馬などを従士自ら手配することが求められていくのです。この土地は従属への見返りですので、義務を怠たればただちに返還されるべきもので、有力者が貸し与えるといった状態でした。しかし、そこに実際に住む従者にとってはそのようなことは建前に過ぎず、しだいに土地は従士の財産とみなされるようになり、子孫に相続されていくようになります。

このときに有力者が与えた土地のことを独語で「レーエン」といいます。異民族進入の混乱期を経て、小領主、バン領主(城主層)、諸侯、王といったより広範囲に影響を及ぼすようになっていく支配階級の中にレーエン制がシフトしていき、変質を重ねて、中世の封建制度が生まれました。


        
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