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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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中世の貨幣経済

中世の貨幣と経済を把握するのは、なかなか難しい。その理由は国家(現代から見たフランス、ドイツなどの国民国家の枠組み)の中でさえ貨幣が統一されていなかったことや、計算上単位と硬貨の単位に違いがあることなどです。

計算単位としてはローマの貨幣制度を受け継ぎ、フランク王国期に形作られたデナリウス・ソリドゥス・リブラがあります。デナリウスが最小の単位で1ソリドゥスは12デナリウス、1リブラは240デナリウスに相当します。つまり20ソリドゥスは1リブラです。この計算単位は各国では以下の名で呼ばれていました。

価値比 ラテン イングランド フランス イタリア ドイツ
1 デナリウス ペニー ドニェ デナロ ペーニヒ
12 ソリドゥス シリング スー ソルド シリング
240 リブラ ポンド リーブル リブラ プフント

ヨーロッパでは13世紀に入るまで、貨幣は基本的に1デナリウスに相当する重さ1.5g前後の小銀貨しかありませんでした。つまりソリドゥス銀貨もリブラ銀貨も無かったわけです。しかし、中世盛期、貨幣経済が盛り上がりを見せると共に、それまでの小額貨幣だけでは不都合になってきたために、新しい大型の銀貨が造られるようになります。

1202年、ヴェネツィアで最初に作られたこの銀貨はラテン語の「大きい」に由来してグロッソ銀貨と呼ばれます。このグロッソ銀貨を模倣して各国は大型銀貨を発行して行きます。フランスではグロ銀貨、イングランドではグロート銀貨、ドイツではグロッシェン銀貨と呼ばれる大型銀貨は各国で13世紀中に発行されることとなりました。

1253年にはこちらも北イタリアのフィレンツェで、中世最初の金貨であるフィオリーノ金貨が造られました。ヴェネツィアでもドゥカート金貨が発行され東地中海貿易の担い手となりました。フィオリーノ金貨をモデルとしてイングランドではノーブル金貨、ドイツではグルデン金貨が発行されます。フランスではフィオリーノ金貨がフローランの名で流通するものの、この金貨に習った金貨はほとんど発行されず、代わりにエキュ金貨やフラン金貨といったフランス独自の金貨を造っていました。金貨は14世紀に中世の主要国全てで発行されていました。

これらの貨幣の価値は、時代や地域のの違いが大きいため一概には言えませんが、イングランドではグロート銀貨が4デナリウス、ノーブル金貨は80デナリウスほどの価値でした。大陸ではもっと複雑でしたが、大型での大型銀貨の価値はイングランドのそれよりいくらか高く、金貨は十数グロッソの価値のものが多いようです。またフランス国内ではドゥニエ銀貨でトゥール貨とパリ貨というふたつの体系があり、トゥール貨5枚=パリ貨4枚の交換比率でした。
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グーテンベルクの活版印刷-何が特別なのか

火薬、羅針盤、そして活版印刷。これらがルネサンス三大発明と言われるものですが、それぞれ三大と呼ぶにふさわしい影響を世界史に及ぼしています。特に活版印刷によって、それまで一地域の人しか知りえなかった情報が大量に他の人々とも共有されるようになり、宗教改革の広がりも活版印刷の発明に大きく影響されました。

さて、活版印刷と聞いて第一に思い浮かぶのはヨハン・グーテンベルク(1399-1468)だと思います。それ以前の本の作り方は一文字一文字丁寧に書き写すというとほうもない労力と時間が必要なものでした。木版や石版に文字を刻み入れれば版画と同じ要領で写本ができそうなものですが、木版だと強度が低いため大量生産に向かず、木を削るという労力と割に合いません。石版だと今度は硬すぎて文字を刻み込むのだけで大変です。そこでグーテンベルクは、それまでにあるにはあった印刷術に改良を加えて、高水準の印刷機を発明したのです。

グーテンベルクの印刷機の特徴は
(1)活字合金の鋳造による活字の大量生産
(2)印刷用インク
(3)平圧式印刷機
にあります。

(1)の活字合金とは鉛、スズ、アンチモンの合金により作られた活字に適した合金です。また、黄銅に父型を打ち込んで母型を作り、そこに前述の合金を流し込んで活字を作る手法により、同規格でかつ大量生産可能な活字が生まれました。(2)は亜麻からとれる亜麻仁油を使って作られました。(3)は当時使われていた葡萄絞り機やオリーブ油絞り機がヒントとなりました。

グーテンベルクの印刷術は彼の弟子たちによって継承され、ヨーロッパ全土に広がって行きます。特にルネサンスの発祥地イタリアでは、この新たな手法を貪欲に取り込んで行き15世紀末には77もの印刷工場を持つに至ります。同じ時期、お家元のドイツには52、フランスには41、ヨーロッパ全土では1000軒もの印刷工場がありました。15世紀中に印刷された書物は4万点に達し、その半数は宗教関係の書物でその他には文学書や法学書、科学書などがありました。印刷された本の4分の3はラテン語でしたが、しだいに各国語の本が増えていきました。

学生のノート-蝋板

紙が貴重だった中世では、講義で学習したことを記録しておくだけでもかなりの金がかかりました。そこで人々は、司教座聖堂付き学校に通う商人の子弟から、大学の講義を受ける学生まで蝋板を携えていました。蝋板は木の板に黒か緑で色付けされた蝋が塗ってあるもので、細い金属製の棒を使って文字を書くことができました。この棒の反対側は丸められており、蝋を平らにして文字を消すこともできました。

中世の学生たちは、とにかく知識を頭に詰め込むことを要求されました。学習用の教科書は中世後期に生まれますが、もちろん充実していたとはいいがたいので、彼らは今よりはるかに「記憶する」必要がありました。後で紙に講義内容を清書することもありましたが、ほとんどの知識は暗記するしかなかったのです。実際、教授たちも何かを書くときはまず蝋板に書いて、それを専門の書記に清書させていました。

町から町へ-中世の飛脚

近代のような郵便制度ができる以前、公文書や手紙は飛脚を通して、町から町へ、城から城へと交換されていました。飛脚は商用のついでに飛脚を兼ねていたものと、専業のそれとがありました。前者は、各地を旅してまわった遍歴職人や巡礼者、大道芸人などです。また農民たちも賦役として、手紙配達の仕事を担っていましたし、農村部へ家畜の買い付けに出かける肉屋も、配達人として活用されました。

飛脚には特徴的な持ち物がいくつかあります。槍あるいは杖、それから小箱ないし壷、この二つが飛脚のシンボルでした。飛脚の衣服やこれらの持ち物には、飛脚が仕える個人ないし団体が持つ紋章が取り付けられていました。公文書や領主の指令所を扱う飛脚は、王家や貴族の紋章を持ち、大学飛脚は各大学の紋章を着けていました。大学飛脚は12世紀頃から、学生とその親との間の手紙や金銭の配達を担っていました。

早くも11世紀頃のシュトラスブルクには、司教に仕える24人の飛脚がいたそうですが、飛脚制度が一般的になるのは13、14世紀以降になってからのようです。市の紋章を掲げていた彼らは、商人が求めていた商取引の情報の他に、市民の手紙も請け負うことがあったようです。飛脚には基本給の他に、衣服、靴の維持費や槍や壷といった現物を支給されていたようです。

水車 「用途の多様化」

製粉は水車の最も一般的な用途です。水車は普通、聖俗の領主が所有しており粉挽き人にそれを貸し出すという形をとっていました。領主たちは農民たちに強制的にこの水車で粉を挽かせて、その使用料を取っていました。挽き賃は地域や時代によって異なりますが持ち込んだ小麦の20分の1から10分の1くらいでした。この強制を徹底するために当時の農民は自家用の石臼を所有を禁じられていましたが、相当数の臼が自宅で使われていたようです。粉引きの臼ではビールを造るための麦芽の粉砕や、鉱石の粉砕が行われました。

また縦回転のローラー臼の誕生によって、オリーブやサトウキビ、樫の樹皮などの原料を潰して油や砂糖、タンニン(革をなめすのに使われる)を抽出したり顔料製造が行われました。ローラー臼はすり潰す用途のほかにも金属などの研磨に使われました。

クランクやカムの利用で水車の回転運動を上下運動へと変化させた水車もあり、そうしてできた水力ハンマーは織りあがった毛織物を叩いて強くする縮絨作業に使われました。また縦運動の水車は金属加工においても大きな革新をもたらしました。鉱石の粉砕、ハンマーによる鍛造、水力ふいごによる品質の向上と生産の拡大などです。水車はその他にも金属板の圧延・切断、硬貨の鍛造、坑道の排水、換気、鉱石の巻上げなどを行い、中世の工業に欠かせないものとなりました。

▼ローラー臼
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▼回転砥石
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▼水車による鍛造
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▼水力ふいご
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水車 「普及」

古代はそれほど普及もしておらず、仕事の多様化もなかった水車は中世の時代に飛躍的な発達を遂げました。ヨーロッパの河川は水量が安定していて水車を使うのに適していたこと、奴隷労働が基本的に消滅しまた人口も減少して労働力不足に陥っていたことが水車の伝播に大きな役割を果たしました。

またシトー会を始めとする修道院が水車小屋を置いたことや、領主や商人などが水車利用の利益に注目したこともその水車の普及の要因となりました。そしてアルプス周辺地域や北フランスで新しい水車利用の技術(水車の縦運動化など)が生まれたことにより水車は中世の工場のようなものとなっていきました。

 

前の記事でも書きましたが、11世紀末のイングランドには5000を超える水車が存在しました。そのような総括的な資料は他の地域にはありませんが、例えばフランスのピカルディ地方では11世紀初期に40あった水車が12世紀末には245へと増加し、同じくオーブ地方では11世紀にたった14だったものが13世紀初期にはおよそ200に増加しました。


風車 「水がなくても」

風車の起源は古代エジプトにまでさかのぼるとも言われていますが、記録に残されているものでは10世紀頃、現在のイラン・アフガニスタンの国境地域に作られたのが最初だとされています。この地域では水車の原動力となる河川が少ないことを考えれば、強風が吹くこの地域で風を使った機械を作ろうとしたことも不思議ではありません。風車は主に、井戸水の汲み上げや製粉に使われました。さて、本題のヨーロッパの水車の話に入ります。

中世ヨーロッパで風車が登場するのは12世紀初期です。風車はやはり水流に恵まれない地域を中心に普及してゆき、例として13世紀、フランドルのイーペル周辺だけで120の風車があったと記録されています。また、風車といえばオランダですが、この地に風車がやってきたのは13世紀後半のことです。写真などで何度も目にしたことがあると思います。オランダでは14世紀末頃からは干拓のために多くの排水風車が活躍しました。

また、風車は時代とともにその形を変えていきます。初期の風車は車がついた箱を木柱「ポスト」の上に乗せて、風の向きに応じてその箱を回転させる箱型風車でした。しかし、本体を動かすのは労力がかかったために、14世紀に入ると風車の頭の部分だけを回転させることができる塔型風車が登場します。これらの風車は製粉が主な仕事でしたが、オランダなどでの干拓や水車も行うようなさまざまな用途に使われるようになっていきました。

▼箱型風車
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▼塔型風車
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水車 「舟水車、橋水車、潮力水車」

今日は暑かったですね。(関東在住)最近は涼しくなったと思っていたんですが…まぁ、夜はぜんぜんマシになりましたが…。中世の人々は(今の日本のような殺人的な気候ではないにしろ)気候をすべて直に受けて生きていたんですよね。たくましいことです。



前回紹介した二種類の水車以外に特赦な形状をした水車があります。まずは舟水車。その名のとおり舟の舷側に水車がとりつけてあり、舟上に設置された臼で製粉を行います。古代ローマ時代からあったとされており、ゴート族の攻撃で通常の水車が使えなくなった際にベリサリウスという将軍が考案したものだと言われています。中世になるとヨーロッパ広域に普及し、12世紀後期、セーヌ川ではパリ周辺に70隻が置かれていました。また、中世盛期になると臼や歯車などの機構を舟から移して、橋の下に水車を設置する橋水車も登場しました。

また、沿岸部では潮の満ち干を利用して水車を回すものがありました。河口などにダムをつくり、干潮時に水門を開けて車輪を回すのです。13世紀、イギリスには38台の潮力水車がありました。しかし、11世紀末のイギリスには5624台の水車があったとされていますので、このような型の水車は非常に稀だったといっていいでしょう。

  ▼舟水車

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▼橋水車
 
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水車 「垂直型と水平型」

11世紀頃からヨーロッパで普及し始めた水車は、すでに紀元前1世紀には地中海世界においてその存在が確認されています。(もっと過去のものもあります)古代ローマで造られていたこの水車はイギリス産業発明の初期に使われていたものとほとんど変わらない機構なのだそうです。この水車は、主に製粉のために使われました。しかし、奴隷という労働力が豊富にあった古代ローマ世界にあっては、水車は中世にくらべるとかなり限定的にしか使われていませんでした。それでも、軍団駐屯地や帝都ローマなど、穀物需要が高い拠点にパンを供給するために、水車は重要なものでした。

さて、そんな水車は大きく分けると二種類に分類されます。水平型と垂直型です。水平型は車輪が横回転をして、水の流れをそのまま臼に伝えるものです。垂直型は、私たちが普通に水車といわれて想像する車輪が水の流れによって縦回転するものです。この型の水車には河川などの上部に置かれて下から水を通す下掛け式と、上から水路を使って水を流す上掛け式がありました。特に河川の流れが弱いところでは後者が使われました。これらの垂直型水車は歯車を通して回転が水平方向へ変えられて、臼を動かすようになっていました。

▼垂直型水車

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▼水平型水車

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09.2.27 加筆修正


交通の要-中世の街道

中世の社会を流通面で支えたのは、しばしば王や、その他の領邦君主の支配下に置かれた街道でした。いくつかの街道はローマ時代に築かれたものが再利用されました。ローマ街道は軍団居留地を真っ直ぐに繋いでいるために村や都市を経由する際に不便で、商人が顧客を得ようと思っても不利だったので、廃れていくものもありました。そうした場合に出来た道は、カーブは多く、しかし起伏は少ないように作られました。

領主たちは街道を支配することで、街道における平和維持の役目を負い、対価として利用者から関税・通行税を取り立てました。運搬手段として街道とともに使われた河川でも状況は同じです。しかしながら、君主が平和領域を簡単に確立できるのなら苦労はなく、平和領域としての街道の確保は法理念上のこと、ありていに言えば通行料目当ての建前であり、実際の街道には盗賊や野党化した傭兵隊など多くの危険が付きまといました。

これらの人的な厄難のほかにも、倒木や土砂崩れが起き、雨が降れば道はどろどろになって荷車での走行はほぼ不可能になるという状態を考えれば、中世の旅がどれほど困難だったかが想像できます。そんな街道ですが、多種多様な人々がこれを使用したというのも事実です。軍隊、商人は当然として、聖地へと向かう巡礼者、早足に過ぎ去る飛脚、都市を転々とする遍歴職人、施しを求めてさ迷い歩く乞食、そして道を住処とするジプシーなどがこの時代の街道を歩んでいたのです。

08.2.4加筆修正