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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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中世の「住」

 日本の木の文化に対比する形で、ヨーロッパが石の文化と形容されることがよくありますが、少なくとも中世に関する限り、ヨーロッパの建物の大部分は木造でした。確かに、中世を代表する城砦や大聖堂の多くは石造ですが、これらは例外的な建物であり、一般の人々の住居はほとんどが木でできていました。都市においても状況は変わらず、市庁舎やギルド会館などの施設に並んで、裕福な市民の邸宅が石造となるのは中世の後期からのことです。都市の住居は、市壁内領域の狭小さのために、縦に空間を有効活用すいる必要があり、2階建てや3階建てが一般的だったようです。最も簡単なつくりの住居は貧農の家でした。踏み固めた床に、壁と柱を建て、藁ぶきの屋根を載せただけの農家は脆く、世代ごとに建て替えや大きな修繕を要しました。貴族の住居であった城も、住居棟が別につくられるまでは、防衛上の要請から住人に広い生活スペースを提供することはできませんでした。
 
プライバシーの概念が薄かった中世では、多くの人々が一つの部屋で生活していました。食べるのも、働くのも、寝るのも、同じ部屋というのが普通だったのです。部屋は壁や柱によって区画に分けられることもありました。区画の数は住民の資力に応じて変化し、たとえば13世紀イギリスのある村では、区画を5つも持つ豪農がいる一方で、区画を1つしか持たない貧農も存在しました。裕福な住民は部屋を複数持つことができ、フランスの聖王ルイ9世は個室で食事をとったり、客人に面会したことが知られています。しかし、彼も個室で一人きりで過ごしたわけではなく、寝るときには近習の騎士たちが王の傍らで一緒に休みました。
 
住環境において窓ガラスはほとんど普及しておらず、中世の後期になるまで教会がガラス窓(ステンドグラス)を独占していました。その代わりに、窓には鎧戸が付けられており風雨から屋内を守りました。天候の悪い日には、少ない光量で生活するしかなかったわけです。光を取り入れるために、木で孔子がつくられたり、油や蝋をひいた紙や布が張られることもありました。窓については、平民よりもむしろ城に住む貴族たちが劣悪な状況にありました。進入口をできるだけ狭く、少なくしてつくられた城の窓は小さく、光を取り入れるにはあまりに貧弱でした。室内照明として、ランプや蝋燭はありましたが、効果が薄く値段も張ったため充分なものではありませんでした。また、家の中心には寒冷なヨーロッパで生活するのに欠かせない暖房具として、家の中心には囲炉裏が置かれました。ここから出た煙は、当初は天井に開けられた孔から出ていくのにまかせていましたが、時代がすすむにつれ煙突と暖炉にとって代わられていきました。しかし、ひとつの暖房で住居全体を温めることは到底不可能だったので、領主の邸宅には暖房をよく利かせることのできる小部屋が領主の一家用につくられることもあるほどでした。したがって、中世の家は、暗くて寒いというイメージはそこまで的外れなものではないのです。
 
家の大きさや構造と同じく、家具の種類や量も住人の身分に依っていた中世において、最も基本的な家具はベッドと長持ちでした。中世のベッドは2人から6人が一緒に寝ることができるような大きなものでした。一部のエリートを除いて、中世の家族はみんながひとつのベッドに寝たのです。ベッドのつくりは簡単で、干草を箱に詰めてそれにシーツをかければ、もう立派なベッドでした。しかしながら、最貧の人々や一部の修道士はシーツを用いず、直接干草の上で横になりました。長持ちは、衣装や書類、金銭などをしまっておく場所であり、また腰掛けとしても利用されました。長持ちは、地階では床がただ踏み固められていることが多かったために脚がついていることが多く、さらに貴重品を守るために錠が取り付けられることもありました。庶民の間では長持ち以外の腰掛けは一般的ではなく、シーツで包んだ藁束や、そのままの藁束を椅子ないし座布団の代わりに用いました。座るためだけに椅子を作るのは贅沢だったわけです。裕福な家庭では壁掛け(タペストリー)によって、住居に装飾を施したり隙間風を防ぐこともできました。
 
中世の「住」は、現存する遺跡の大部分が石造であり、木造建築が少ないことから、なかなか捉えにくいところがあります。しかし、森を開拓することで生活圏を大幅に拡大していった中世人の見た景観を思い浮かべれば、おのずと木の文化に支えられた中世の建築事情を感じることができるのではないでしょうか。中世人の「住」の歴史の中には、ものや技術の不足からくる多くの問題がありましたがが、その一方で近世の住生活に連なる様々な発展の萌芽もみられるのです。
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騎士の家-荘園の領主館

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▲マナーハウスの基本要素

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▲マナーハウスにおける身分秩序(断面図)

中世騎士の住居といえば、城が思い浮かべられるかもしれません。しかし、騎士であれば誰でも石造りの城に住んでいたわけではありません。建設に莫大な費用のかかる城は、広大な領地を持つ公や伯などの諸侯や、彼らから複数の村落や荘園を含む支配域を封土としてを受けた城主層たちのものでした。封建制ヒエラルキーでより下位に位置する騎士―ひとつ、ふたつの村や荘園を預けられた平騎士―たちはもっと簡単な造りの領主館(荘館)に住んでいました。英語圏ではマナーハウスと呼ばれる建物がそれです。

マナーハウスは騎士とその家族の住居であると同時に、その騎士が統括する荘園の中心でした。ここは荘園で収穫された作物の集積場であり、また荘園内での揉め事を解決するための裁判所であり、中世の重要建築の御多分にもれず防御施設でもあったのです。しかし、領民の避難や篭城を考慮に入れた、本格的な防衛施設としての城に比べ、簡単な堀や柵などしかもたないマナーハウスは営農的性格が強いものでした。以下は特に中世イギリスにおけるマナーハウスについて書いています。

最初期のマナーハウスはただひとつのホールに過ぎませんでしたが、12世紀頃に別棟で立てられていた領主の私室(ソーラー)が結合してからは、ホールとソーラーの二部屋構造となります。ソーラーはホールより一階分上に作られることもあり、その際にはソーラーの下は倉庫や礼拝堂として使われました。この二部屋は防衛上の理由から二階に設けられることが多く、その場合一階は倉庫・納屋として使われました。一階と二階にはそれぞれ出入口が設けられていましたが、一階と二階は完全に分離されており、内部からは昇降できないようになっていました。これは、物資搬入のために大勢が出入する一階出入口からの、ホールやソーラーへの侵入者を警戒したためです。

マナーハウスは時代の経過と共に居住性を高めていきました。二部屋構造の次にはホールを挟んでソーラーの反対側に台所や食料庫が置かれるようになり、さらに13世紀にはホールのソーラーよりに一段高いスペース(ダイス)が置かれるようになります。台所が近くなったことで、それまで別棟の台所で造っていた料理を二階まで持っていく手間がはぶけ、熱いままの晩餐を食べることが出来るようになりました。またダイスの形成は、古ゲルマン時代からの戦士集団としての団結精神を養っていた主人と家臣が共にとる食事の形式から、封建制の上下関係を明確に表す形式への変化を促しました。領主は、家族やときには賓客と共にダイスの上で上等な椅子に腰掛けながら食事をしたのです。こうして、マナーハウスは領主一家の居住性を追及していく中で、封建制的身分秩序を一本の軸として持つ建物へと進化していったといえます。

14、15世紀に暖炉が普及するまでは、マナーハウスの暖房具は平炉だけでした。しかし、天井の高いホールを完全に暖めることは不可能でしたので、炉はダイスに近くに置かれせめて領主一家が寒さに辟易しないようにされただけでした。また、15世紀以降ガラス窓が多く使われるようになる以前は、騎士の家の窓であろうと農家のそれと変わらずに木製の扉で風雨をしのぎました。しかし、通常の窓とは別に設けられた小窓に油を染み込ませた麻布を張るなど、ガラス窓を使えるようになる前にも採光する努力はなされていました。ガラス窓は教会のステンドグラスなどには見られるものの、中世には高級品で、そのために人々はステイタスシンボルとしてこぞってガラスを求めました。初期のガラス窓は、まだ私たちの知っているような一枚のガラスでできているものではなく、ガラスの小さな破片や、丸型や菱形のガラスを鉛の枠で囲ったものでした。


寝間も広間も煤だらけ-農村の家

居間と寝室は中世におけるもっとも重要な家の要素と言えます。領主館にはこれに防衛施設や家臣用の部屋が、市民の家には店舗ないし仕事場が、そして農家には畜舎が加わりましたが、居間・寝室の二部屋は常にこれらの中心にありました。居間は、家族の普段の生活の場であり、食堂としても台所としても使われ、ここで家族が一緒に食事をとりました。寝室は個室に分けられておらず、これまた家族が一緒になって眠りました。簡素な造りの農家は、この二部屋構造最もよく表していると言えます。

建物は木造の簡単な造りで、壁は漆喰塗りがされていました。窓はありましたが、領主館にもめったにない硝子窓があるはずもなく、風雨の際には木製の雨戸を閉じました。裕福な農家の床は板張りでしたが、多くの農家の床は踏み鳴らされた土間で、藁が敷かれることもありました。地域や時代によって差はありますが、一般的な農家の広さは30平方メートル未満で、大きいものでも40平方メートルは越えなかったようです。家の周囲には穀物倉、家畜小屋、納屋などの農業に関連した施設が置かれていました。

居間の中央には石を積み上げてつくった簡単な炉が置かれました。かまど税が家屋税(今で言う固定資産税)の呼び名として使われていたことは、居間の中心の炉の重要性を物語っています。この炉は、部屋を温めると同時に人々に粥やスープを提供しました。この時代には、まだ暖房用の火と、料理用の火が分化していなかったのです。炉から出る煙を外に出すために屋根には穴が設けられましたが、たいした効果は上がらず炉のせいで「寝間も広間も煤だらけ」(『カンタベリー物語』)でした。暖炉がある農家は中世には稀で、煙突が農村でも普及したのは16世紀以降のことでした。

寝具は質素で、貧しい家では藁の山がそのまま寝台となりました。農家では藁のマットレス、リネンのシーツ、毛織の掛け布団があればもう立派なベッドができました。シーツはただ藁にかけられていることもありましたが、袋状になっていてそこに藁が詰められることもありました。掛け布団には羊毛が使われ、野ウサギやキツネの皮などで裏打ちされていました。中世人口の9割を占める農民は、このような大変質素な家で暮らしていたのです。


間口は狭く、背は高く-都市の住宅

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▲都市住宅の基本形

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▲住宅部分の拡大と中庭採光の減少

中世都市が抱える問題のひとつに、市域が狭隘であることが上げられます。ローマ帝国末期は人口の減少や田園への流出などもあり、市域は縮小する傾向にありましたが、11世紀以降の経済活動の活発化や農業生産の増加により都市集落の発展が見られるようになると、都市に人口が集中するようになっていったのです。市壁の建造は莫大な費用と時間がかかるため、市壁拡大は住民にとって大きな負担でした。そのため、そう何度も増築して市域を拡大することはできません。中世都市の人々にとって限られた空間をいかに広く使うのかというのは大きな問題だったのです。

限られた都市空間をできるだけ有用に使うためには、街路の数や幅を制限する必要があります。この少ない道に面して多くの住宅を建てるために、間口が狭く、奥行きの深い長方形が都市住宅の基本形となります。この長方形は、古代からの伝統を持つ都市の場合にはローマ時代のインスラ(集合住宅)に影響を受けて形成されましたが、ライン川以東のローマの支配が及ばなかった地域にある都市では、街路に面した小さな住宅が人口増により奥に増築された結果として造られるようになりました。後者の場合、元々あった空間が建物によって埋められていくと、採光の面で問題が出てくるために、すぐに長方形になったわけではなく、その過程でL字型やコの字型、ロの字型の住宅を生み出しました。

ローマのインスラの伝統は狭い間口と深い奥行きだけではありません。インスラは中世の住宅とは異なり複数世帯が同じ屋根の下に住むものだったため、通常の出入口の他に二階へ通じる階段に直接繋がっている出入り口がありました。この一宅二口の伝統は、上階に別の家族が住まなくなった中世になっても継承され、一つで事足りる出入口が二つある様式を残しました。また、地階を店舗にしていたインスラの正面玄関には陳列棚が壁に接する形で設けられていましたが、これも中世に鉤型の開口部を残すことになります。

床面積を確保するために住宅は上にも伸びていきます。都市建築では2階建て以上は普通で、5階建てやそれ以上のものもありました。また、屋根を急傾斜にすることで屋根裏まで余さず利用しました。さらに、少しでも利用空間を増すために、2階以上の部分が下の階よりも道側に迫り出す構造も多く見られます。多くの場合、1階は作業所・店舗・倉庫・畜舎(都市でも自宅で家畜が飼われていた)などとして使われました。商人や職人の多く住む都市では1階は仕事の場とされたのです。続く2階は家主一家のための空間でしたが、個人の部屋というものはなく、もっぱら居間と寝室の二部屋構造でした。3階以上や屋根裏部屋は倉庫や使用人の部屋が配されました。

初期の都市住宅は木造が一般的でしたが、都市住民の財力が向上するに従って、石造・煉瓦造りのものへと変化していきます。こうして、柱、梁などの木造骨組をそのまま外部に露出せ、骨組みの間を石や煉瓦で埋めて壁を造るハーフティンバー造りが中世住宅の基本形として定着するようになります。完全に石造にする余裕がない場合は上階を支える地階のみを石造にしました。また、防火のために屋根も藁葺、木製のものからスレート(粘板岩の薄板)葺きのものへと変わっていきます。しかしながら、プライバシーの意識は相変わらず弱いままで、ベッドにカーテンを備えるなどの工夫はなされるものの、農村の住宅と基本的には変わらない居間・寝室の二部屋構造は維持されました。住宅に個室が普及するのは近世以降のことです。




建築材料

最近、中世の食に関する本を読んでいるのですが、非常に面白いです。彼らがどんなスパイスを使い、どれほどの肉や小麦を食べ、それらをどのように調理したかなどは中世人の生活を知るための大きな要素です。



<建築材料>

中世の家は、その家のある地方や家の主の富によって変わりましたが、ほとんどが木材、石材、土で建てられました。家の床は石を敷き詰めたものや、もっと簡単に土を踏みしめただけのものもありました。二階以上の床は木でできていて、これは下の階の天井となっていました。屋根は石の瓦を敷き詰めたり藁で作られたりしました。

窓は小さいことが多く、まだ大多数の家には非常に高価だったため窓硝子はついていませんでした。その代わりに蝋や油をひいた紙や布、木製の枠などが使われました。戸締りするのには木の鎧戸を用いました。