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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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「社会背景」

アングロ・サクソンの軍隊。背景についての第二段です。どのような階級の中で、軍隊が形成されていったかを紹介します。


<社会背景>

王国での社会の頂点には、王家とその血族である王族「エセリング」がいました。彼らに臣従したのが、太守「エアルドマン」と呼ばれた貴族たちでした。彼らは元は小国の国王たちでした。エアルドマンという言葉は11世紀の頭に伯「アール」に置き換えられました。これはデーンの貴族の意である「ヤール」に影響されたものであると考えられています。王の世襲は一般的でしたが、完全に認められているのではなく、エセリング、エアルドマン、高位聖職者などで構成される指導者会議「ウィタン」が、後継者選出の権利を持っていました。

これら貴族階級の下には、貴族の護衛や小領主としてのセインがおり、さらにその下には自由民であるチェオルルがいました。社会の最下層に位置していたのは、奴隷や農奴たちでした。

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「時代背景」

ローマがブリタニアより撤退した5世紀から、11世紀のノルマン・コンクエストまでの約600年。ブリテン島を支配したのは、アングロ族、サクソン族、ジュート族などのゲルマン民族でした。アングロ・サクソンの総称で呼ばれる彼らは、北ドイツやユトランド半島から、船に乗ってブリテンに移住してきました。彼らはそこで、ゲルマン由来の従士制を元に、土地に根ざした社会を作り上げていきました。

七王国と呼ばれるアングロ・サクソン系王国が割拠する中、各国の王の中心的存在となった王が存在していました。このような大権を持つ王は、いくつかの王国で交代していましたが、9世紀初頭から、ウェセックスの国王が、デーン人による一時の支配を除き、アングロ・サクソンの連合王国を支配しました。


ハウスカール

今回も、アングロ・サクソンについてです。AoEやAoMのプレイヤーなら聞いたことのある兵士だと思います。


<ハウスカール>

半傭兵の戦士であるハウスカールは、彼らは王や伯に仕える私兵となり、報酬には主に金銭を受け取っていました。彼らはプロの戦士であるため練度は高く重装備だったので、小規模な部隊であっても強力な軍事力になりえました。

ノルマン・コンエスト(1066)直前の王家のハウスカールは3000人ほどだったと考えられています。また、同時代の伯の保有ハウスカールは、250~300ほどだったであろうと推測されています。


セイン

王族や上級貴族である伯の護衛兵のことをセインといいます。彼らは貴族に仕える報酬として、金品にを受け取ったり土地を与えられて小領主になったりしました。セインは貴族に私兵として、徴集のいらない常備軍として仕えました。珍しいことではありましたが、セインは伯にまで上り詰めることも可能でした。セインは選抜された民兵や傭兵らと共に戦い、アングロ・サクソン諸王国の軍隊の主力となりました。

フュルド

今回は…いきなり軍隊についてです。10世紀以降の農村については改めて書いていきます。




アングロ・サクソン人は、農地面積を基準にしたを基本とした徴募兵制度を持っており、チェオルルと呼ばれる自由農民に兵役の義務がありました。アングロ・サクソンの社会では、一家族が食べていけるのに充分な農地面積を1ハイドとして、5つのハイドが協力してひとりのフュルドと呼ばれる兵士を送るものとされていました。

当時のブリテンの小領主であるセインの保有地は最低で5ハイド程であったので、こうして徴集されたフュルドはある程度の練度と重装備が与えられていました。5つのハイドは、セインが保有する領地の一部であったり、個人あるいは複数のチェオルルのものであったりしました。彼らは、その徴集形態から特に選抜フュルドと呼ばれ後述する大フュルドとは別に組織されました。選抜フュルドは、通常軍務60日の間に、必要に応じていつでも召集されました。

大フュルドとは、健康な全自由民に対して課せられていた義務であり、領土防衛のために緊急に徴集されるものでした。彼らは選抜フュルドに比べ、練度でも装備でも劣っており、故郷から半日以上遠くへ行軍する義務を持たなかったため、その使用は限定的なものでした。