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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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傭兵隊長ジョン・ホークウッド



1363年、トスカーナの平原に大軍団が姿を現しました。後に百年戦争として知られることになる英仏戦争の前半戦を締めくくったブレティニーの和を受けて失業した傭兵たちが結成した「白の軍団」コンパニア・ビアンカが戦争を求めてイタリアへやってきたのです。後にフィレンツェから国葬をもって遇されることになるジョン・ホークウッドは、当時は軍団内の一隊長に過ぎませんでした。

軍団は最初、フィレンツェの仇敵であるピサと契約を結びましたが、ピサ当局が満足する成果を上げられないでいました。ホークウッドが一隊長からコンパニア・ビアンカ全軍を率いる立場になったのはこの時のことです。彼は、対フィレンツェ戦で決定的な敗北を喫するも、その後のピサの政変に深く関わり、新たに生まれたピサ領主との間に緊密な関係を結びました。

彼はその後、ピサ領主と同盟関係にあったミラノの領主、ヴィスコンティ家と結んだ後、教皇庁に雇われます。教皇庁との契約中、ホークウッドは枢機卿の名の下、チェゼナの町での大虐殺に参加して悪名を轟かせます。チェゼナの虐殺は、教皇との契約による最後の仕事となり、次に彼を雇ったのはフィレンツェとヴィスコンティ家でした。しかし、ヴィスコンティ家の頭がすげ変わったことを受けて、今度はパドヴァの依頼でヴィスコンティ家と戦ったりもしています。

彼が、どの陣営に属している際でも標的にされた都市がシエナでした。シエナは、ホークウッドの軍が都市近郊を通過する度に、彼の軍団をおとなしくさせておくための代金を支払わなければなりませんでした。支払いを拒めば、ホークウッドの軍はシエナ領内で掠奪をはたらき、たとえ支払いを認めたとしてもホークウッドたちの暴走を止める手立てはありませんでした。アレッツォもピストイアも、トスカーナの雄フィレンツェも、この手の支払いを免れることはできませんでした。

ホークウッドの行動を追っていくと、中世イタリアの傭兵隊長たちの姿が浮かび上がってきます。金を払っても言うことを聞かない傭兵隊長は、都市にとって時に偉大な守護者であり、またある時はやっかいな掠奪者でもありました。彼らは、半分盗賊のような荒々しい兵士たちを束ねる親分であり、稼ぎを一銭でも多くしようと狙っている冷徹な企業家でもあり、婚姻や契約を通じて群小の都市と領主との間を渡り歩く政治家でもあったのです。

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▲ジョン・ホークウッド
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傭兵騎士-金のために戦う人

1000年の長きに渡って展開される中世。この時代を代表する騎士は、その姿を変えながら中世の様々な様相を私たちに見せてくれます。今回は騎士の様々な形を追って行きたいと思います。

騎士は「戦う人」として中世を通じエリート意識を持ち続けましたが、この「戦い」は何も封建的軍役だけではありませんでした。騎士は、それが自らの家臣を抱える貴族であれ、主君の家で給養を受ける勤め人であれ、封建制のピラミッドに組み込まれ、戦時には封主によって召集されましたが、封建制がただの契約である以上、彼らは好き好んで主君とともに戦場に立ったわけではありませんでした。40日の軍役を過ぎても騎士を働かせようとすれば、何らかの対価が必要になったのです。さらに、封建的軍役は金銭の支払いに代わっていく傾向にありました。

騎士たちはというと、彼らは金儲けのためにその戦闘能力を大いに売り出し始めます。軍役免除金によって懐に余裕の出来た主君たちは、扱いにくい封建騎士軍よりも、金さえ払えば動く傭兵騎士に期待を寄せます。こうして、「金のために戦う人」傭兵騎士が生まれます。中世盛期の貨幣流通の増大や諸都市の繁栄による、ヨーロッパ世界の経済成長や、中世後期における農村地帯の荒廃=地主層である騎士階級の経済的没落はこの流れを加速させていきます。

僅かな所領しか持たない下級騎士だけでなく、家臣を引き連れた小君主たちも傭兵騎士となって戦場を駆け巡りました。イタリアの諸都市、あるいは領主や皇帝との間で起こった戦争にはイタリアの小君主たちが傭兵隊長として活躍しています。貴族が傭兵隊長を勤めるという流れは、中世末期から近世初期にかけて登場するランツクネヒトたちにも継承され、連隊長や中隊長の位は貴族が独占していました。

イタリアの外国人傭兵

イタリアでの戦役に参加した傭兵たちは、外国人が大きな部分を占めていました。例えば1270年代にフィレンツェは約100人のイングランド兵を雇っていたし、同じ頃ミラノで起こった政争で都市を二分する戦いがあったとき、実際に戦ったのはカスティリヤ人とドイツ人でした。また1432年にパドヴァは対ヴェローナ戦役のためにドイツ人とボヘミア人の連合部隊を雇っていました。また、ブラバントやスイスなどの伝統的な傭兵輩出国からも、多数の傭兵がイタリアの各コムーネに雇われていました。その他にも、フランス、ハンガリー、スペイン、コルシカ、プロヴァンスなど要するにキリスト教世界全域から傭兵は集まってきていました。

イタリアの傭兵-雇用

傭兵隊の存在はコムーネやイタリアの小領主などの雇用者に大きな支出を強いました。傭兵隊に対する支出は、通常の基本給の他も様々なものがありました。まず、雇用者は傭兵隊長に給金の一部をまとめて前払いする必要がありました。また、戦闘によって失われた馬や、兵士の身代金などの損害補償も雇用者の義務でした。また、大規模な戦闘の前には、傭兵たちにいくらかの金や、それに代わる現物などを用意して、傭兵たちの士気をあげる必要もありました。

金食い虫の傭兵隊への支出は、コムーネの財政の大きな負担となりました。コムーネでは、これらの資金をまかなうために、市民に臨時の税をいくつも課し、また国債を強制的に買わせたりしました。それでも、前金などのまとまった資金が不足するときは、民間の金貸しから金を借りることになりました。

イタリアの傭兵-被雇用

コムーネと雇用契約を結んだ傭兵たちには、通常の戦闘行為のほかにも任務がありました。傭兵たちは、都市の公安を司る警察的な役割を果たすことが求められました。また、雇用契約が長期化する中で、常に戦闘をしている状態でなくなった傭兵たちには、通常とは違った待機契約が取られることもありました。

待機契約は、普通の給金よりも給金(待機料)が少なくなる代わりに、傭兵たちに平時には暇を出すというものでした。これにより、いくらかの領地を持つ小貴族が傭兵隊長の部隊は、戦闘がないときには、領地の経営をすることができました。

イタリアの傭兵-組織

中世盛期、北イタリアで活躍した傭兵たちは、主に傭兵隊「コンパニー」を組んで活動していました。ならず者の集団でもあった傭兵隊は、強力な傭兵隊長の下にひとつの単位と成りました。傭兵隊長は、その大多数が下級貴族の子弟から成っていました。これは、中世盛期の人口増加により、土地や財産の大部分が長男に相続される中で、貴族の次男三男が取る一般的な道が兵士になることであったことに関係します。

また、傭兵たちは戦略単位としてより小さい組をつくりました。ドイツ人傭兵は騎士1名、従者1名で成る兜組「バルブータ」を最小の単位としました。これはドイツ騎士の多くがバルブータ(目と鼻以外を覆う兜)を装備していたことに由来します。またイングランド人傭兵は2名の騎士と1名の従者で成る槍組「ランチャ」を単位としていました。

 


イタリアの傭兵-小史

12世紀以降、中央権力不在のままに成長していた北イタリアでは戦争は恒常的なものでした。各自治都市「コムーネ」は周辺領域「コンタード」を巻き込んで、利権や富、領土をめぐって、コムーネ同士、または領主の都市や城と戦闘を繰り返していました。

当時の北イタリア諸都市には、ある程度には市民兵が組織されていましたが、実際に戦闘になったとき、頼りになるのはプロの兵士でしかありえません。このプロの兵士の役目を担ったのが傭兵たちでした。彼らは、様々な国家の、様々な身分から出た兵士たちでした。

初期の傭兵たちは、個人や数人から成る小単位で雇われていましたが、後には数百の騎兵や歩兵を動員できる軍団ごと雇用されることが多くなっていきます。また、その雇用形態も数ヶ月が一般的でしたが、時代を経るにつれ半永久的な雇用契約が結ばれるようになり、彼らは常備軍化していきます。