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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

ウィリブロードとボニファティウス-アングロ・サクソン修道士の活躍

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▲これまで記事で紹介した修道院

聖コロンバヌスがフランク王国で修道制改革を行っていたのと同じ頃、ローマではセナトール貴族出身で修道院に学んだ一人の人物が司教に任ぜられていました。後の教皇グレゴリウス1世(540頃~604)です。就任後、彼はアウグスティヌスを長とする一団をイングランドに送り込みます。アウグスティヌスはケントのカンタベリー近くに修道院を開き、自ら最初のカンタベリー大司教として、イングランドでローマ系キリスト教の布教を進めて行きました。

なぜ、教皇座ローマがわざわざ聖職者を送り出さねばならなかったのか、と今の私たちは考えてしまいますが、当時のローマ教会は、周囲を異端の宗派(アリウス派)のランゴバルド王国に囲まれ、近隣の司教への影響力さえほとんどなかったという事情があったのです。ですから、その一方でアイルランド系教会もブリテン島へ進出しており、アイルランド系教会とローマ系教会の修道士たちは互いに競ってイングランドでの地歩を固めようとしていたのです。

両教会のバランスが一方的になったのは664年のウィトビー教会会議でのことでした。この会議では復活祭の日取りを決定するための復活祭論争が行われ、この論争の結果、ローマ系方式が正式に認められたのです。以後、イングランドでのアイルランド系教会の勢力は弱体化していきます。7,8世紀になるとローマ系教会のイングランド人修道士たちが、フランク王国やその外側の地域へ進出し、キリスト教の布教に努めていくことになります。

イングランド人修道士の一人でリポン修道院出身のウィリブロード(658~739)は7世紀末にフリジア(フリーセン)の地へと足を踏み入れました。フリジアは彼が布教を開始する少し前にフランク王国に併合されたばかりでした。ルクセンブルクにエヒテルナッハ修道院を建ててフリジア人の教化を進めたウィリブロードは、布教が大成功に終わったとは言えなかったものの、教皇からフリジア大司教に任ぜられました。

また、こちらもイングランド出身のボニファティウス(680~754)は8世紀初頭にフリジアに赴き、その後はライン以東の地、すなわちゲルマニアでの布教を進めました。フルダ修道院を創設した彼は、後にマインツの大司教となりました。ボニファティスはベネディクト戒律の厳守を訴え、さらに747年の教会会議でローマ司教(教皇)を頂点とする西方教会のモデルを提示するということも成し遂げました。この後、ローマ教会が751年のカロリング家の王位奪取公認、754年のピピンの寄進、そして800年のカールの戴冠を経てフランク王国を自らの後見とし、西ヨーロッパのキリスト教会を支配することになるのご承知の通りです。

このようにグレゴリウスが蒔いた種は、イングランドで芽を出し、フランク王国で花開くことになるのです。西ヨーロッパの修道制は、ローマ教会、フランク王国宮廷と密接な関わりを持ちながら発展していくのです。

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