忍者ブログ

チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

医学と薬学の分化-中世の薬剤師

e0e0ebef.jpeg62075046.jpeg
▲ガリア人が薬草としていた植物。左から、イワヒバ、ヤドリギ。

古代の薬剤師たちは、調剤師であると同時に、薬草の採集人であり、医者であり、そして薬品の販売者でもありました。そのため、彼らは調剤医師と呼ばれることもあります。

有名な古代の調剤医師には、紀元前5世紀のギリシア人、ヒポクラテスや、『薬物学』を表したディオスコリデス、薬学の父とまで呼ばれるガレヌスなどがいます。彼らの時代に、多忙な調剤医師は薬品原料の収集を担わなくなり、調剤作業に時間をとられないようにするために、助手に薬の調合を任せるようになっていきます。しかし、医師と薬剤師との完全な分化が達せられるのには、中世盛期(11~13世紀)を待たねばなりません。


古代の薬学が中世に継承されていったのは、政治家でありキリスト教著述家でもあったカッシオドルス(490頃-583)の功績に大きくよっています。彼は、著作の中で修道士たちにヒポクラテス、ディオスコリデス、ガレヌスらの著作を翻訳し、複写し、学習することを奨励しました。これによって、古代の医学書から多くをまなんだ修道院は、中世初期の医学、薬学をほぼ独占しました。しかし、薬剤師としての商業的性格を強く持ちすぎた結果として、教皇による禁止令が出されたこともありました。

また、イスラーム世界も中世の薬学に大きな影響を与えました。イスラーム世界の薬学は、広大な支配地地域からの文化を吸収し、またギリシアの古典の知識を取り入れて、遂げていました。この発展がヨーロッパにもたらされたことは確かに重要でしたが、イスラーム薬学の導入の一番の成果は薬学と医学を分離させたことです。この分離は、薬学と医学それぞれの学問領域が急速に拡大したことにより、ふたつを同時に習得することが非常に難しくなったことにより発生しました。イスラム文化を敏感にキャッチしていたサレルノ大学では11世紀後半、フランスでは12世紀末に両者の分離が確認されています。

薬学と医学が分離し、調剤が俗界の人々にも扱われるようになると、彼らは商人と同じく同業者組合(ギルド)を結成するようになりました。12~14世紀にかけて活発に作られた薬剤師ギルドは、他のギルドと同様に品質保持や価格維持、そして相互扶助のための団体として存在していました。パリの薬剤師は王権により、薬の調剤以外の作業への従事、劣化した薬品をの使用や薬品の分量の誤魔化し、そして処方箋がない場合の毒薬や下剤の調合などが禁じられていました。

また、薬剤師ギルドは、多くの場合構成員に香辛料商を含んでいました。これは意外なもののように見えますが、実はそれほど突飛なものではありません。なぜなら、外国由来の貴重な植物を扱うという点では、両者は似たもの同士だったためです。しかし、このことは両者の間の垣根がまったくなかったということを意味するわけではなく、薬剤師と香辛料商は時たま各々の職域をめぐっては、闘争を繰り広げていたようです。
PR