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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

御曹司から修道士に-聖フランチェスコ①

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▲インノケンティウス3世に謁見する聖フランチェスコ(ジョット/フランチェスコ大聖堂壁画)

フランチェスコは1182年、イタリアのアッシジで裕福な毛織物商人ピエトロ・ベルナルドーネの子として生まれました。彼は名家の子弟として郊外の聖堂付属学校に学び、父の家業を継ぐべき息子として何不自由ない生活を送っていました。フランチェスコの生まれた時代、イタリアは神聖ローマ皇帝とローマ教皇との対立の影響を色濃く受けており、都市や領主、貴族や平民の間で争いが耐えませんでした。

1198年に即位した教皇インオケンティウス3世は、アッシジを含むウンブリア地方が教皇領であると主張、この動きを受けて、アッシジは皇帝の血筋を引くスポレート公コンラートの支配に対して反乱を起こしました。市民軍は公の不在を突いて城塞を破壊し、皇帝派の支配を逃れて自治と自由を獲得します。当時16歳であったフランチェスコも、アッシジ屈指の富豪の御曹司として、この戦役に参加していた可能性があります。フランチェスコは1202年、都市ペルージャを相手にした戦役にも参加しましたが、そこでは捕虜に捕られるという憂き目にあっています。フランチェスコは、騎士を夢見て戦場に出かけ、故郷の祭りでは主役を演じる、栄達を望み、華やかさを愛する青年でした。

修道制とは程遠いような青年だったフランチェスコが改心し、使徒的生活を率先して行うようになるのは23歳のことでした。その頃から彼は度々神の声を聴くようになっていきました。決定的だったのは、アッシジ郊外のサン・ダミアーノ聖堂で「我が家を修復せよ、それはもう壊れかかっている」という声を聴いたときでした。彼は家に帰ると父の商品である織物を売り払い、その代金をサン・ダミアーノの司祭に、聖堂の修繕費として寄付しようとしたのです。もちろん、父ベルナルドーネはこれを知って怒り狂い、事態は裁判沙汰にまで発展します。この祭、フランチェスコは家族と一切の縁を切り、托鉢生活に入ります。1209年、アッシジ近郊のポルツェウンコラにいた彼は聖堂から聞こえてくる福音書の一説を聞き、清貧のうちに生き、悔い改めを説くという生き方を決めたとされています。「行って、『天国は近づいた』と述べ伝えなさい…あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけない。旅行用の袋も、2枚目の下着も、くつも、杖も持たず行きなさい。」

「神の教会を建設し、人々に福音を広めよ」。フランチェスコは声に従って、説教活動を始めました。彼の主張は、愛と平和、そして清貧を尊ぶということに尽きました。彼は自分が嫌う全ての者、自分を傷つけ、卑しめ、罵倒するような者たちへの愛を勧め、清貧を保つことで財産を守る腕力を必要としなくなった人々による平和が、神の国への道であると説きました。フランチェスコの清貧は物質だけでなく精神にも及びました。修道士には時として傲慢を生み出す豊かな知識は必要ない、と。初期の伝道では、フランチェスコは人々にきちがいと相手にされませんでしたが、説教を身を挺して体現する彼の姿に、いつしか多くの弟子がつき従うようになっていきます。その中には、農民や騎士から、聖堂参事会の顧問などさまざまな階級の人々を含んでいました。

1210年、11名の仲間を連れたフランチェスコはローマに赴き、正式な修道院としての認可を求めました。福音書からとった短い会則と、説教活動の許可をもらうためでした。教皇インノケンティウス3世は初め、みずぼらしい格好の彼らを邪険に扱いましたが、一行が訪ねてきたその晩に、夢の中で倒れ掛かるラテラノ聖堂を支える乞食姿の男を見て、これがフランチェスコであると悟り、彼らに修道院認可の口約を与えたという話が残っています。
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