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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

あるべき姿を求めて―マグナ・カルタの成立背景

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▲マグナ・カルタ(1225年版)

愛国心に満ち溢れた諸侯たちが暴君ジョン(1199-1216)の圧制に対抗して国民を守り、なおかつ近代的議会制と人権宣言の基礎としてマグナ・カルタ(Magna Carta)を勝ち取ったとする説は、今日ではほとんど否定されています。もちろん、マグナ・カルタが後代に与えた影響が大きかったのは事実ですが、当時の人々はそれまでの現状を改善することを第一の目的としてマグナ・カルタをつくりあげていったのです。現在の通説では、マグナ・カルタは王権に対抗した諸侯たちが、封建制のあるべき正常な姿を王に認めさせた封建文書であとされています。

マグナ・カルタ成立を推進した諸侯たちは、現状の封建制に不満を持っていました。不満の原因はいくつかありますが、大きなものとしてジョン王個人の問題と、ジョンを含む歴代国王による重い財政負担があげられます。ひとつめの問題についてはアンジュー家の大陸領土喪失が大きく関係しています。ジョンの即位時、アンジュー家はイングランドに加え、実にフランスの西半分を支配下においていました。ところが、フランス国王フィリップ2世(1180-1223)が、領土拡大政策をとりだすと大陸諸侯の離反が相次ぎ、1206年までにアンジュー家の大陸領土はアキテーヌの一部を残すだけとなります。1214年、ジョンは大陸領土奪還のためポワトゥーへ遠征を行いましたが失敗します。大陸領土損失はジョンの軍事手腕の欠如を露呈し、本質的に武人である諸侯たちの間に不評を生みました。また、諸侯の子弟を人質にとったり、諸侯に対し誠実義務を確認する誓約書をわざわざ提出させるなどしており、ジョンは諸侯を信用することができず、両者の間には信頼関係が築けていなかったという問題もあります。

次に貴族たちに課せられた財政負担について見ていきます。ジョンに先立つリチャード1世(1189-1199)は、十字軍遠征、対フランス戦争のための軍資金、さらに皇帝ハインリヒ6世により虜囚にとられたための身代金捻出のためと、多額の出費を諸侯に課してきました。ジョンの時代にも、引き続き対フランス戦争が行われ、大陸領土喪失後もその奪還戦のために戦費を必要としていました。これらの戦争には大陸の傭兵が多数動員されたために、戦費は莫大なものとなりました。そのためジョンは封臣の封建的付帯義務を存分に活用して資金を集めました。封建的付帯義務とは封臣の封土相続に伴う相続料、封建的軍役の代替となる軍役代納金支払いの義務や、封臣の遺児の後見権、封臣の寡婦や娘の結婚許可権を王の権利とするものでした。封臣は高額の相続料を支払い、また王による恣意的な後見や結婚を回避するために、これらの権利を買い取らねばなりませんでした。しかも、相続料や権利の価格は定額が無かったため、失地回復遠征を準備していた1213年頃には特に苛斂誅求が激しくなりました。

1214年、ブーヴィーヌの戦いにおけるフランス側の勝利によって、ジョンの大陸領土奪還の道は完全に閉ざされました。そして、この遠征の失敗以降、諸侯たちは公然とジョンと対立するようになっていきます。それまでも散発的な抵抗はありましたが、ブーヴィーヌの戦い以降、不満を溜め込んでいた諸侯は横のつながりをもって共同でジョンに対し、自分たちの権利確立のために交渉を行うようになりました。両者は会合を重ねましたが意見の一致は果たせず、また諸侯はジョンと同盟関係にあった教皇による仲介書簡を認めなかったため、とうとう1215年5月5日、一部の諸侯たちは王に対する誠実破棄を宣言します。これに対しジョンは諸侯の所領差し押さえを州長官に命じ、王国は内乱に突入しましたが、諸侯も王も決定的な対立を避ける状態が続きました。同月17日にロンドンが諸侯の手に落ちたことで、両者のパワーバランスが崩れ中立を保っていた諸侯の多くが反対派となるに及び、6月15日、ロンドン近郊のラニーミードにおいてマグナ・カルタが王によって認められました。(マグナ・カルタの内容については別の記事に譲ります。)

かくして、成立したマグナ・カルタでしたが、厳密な意味で1215年のマグナ・カルタが機能したのはほんの数週間だけでした。王と諸侯の内容解釈の違いや、憲章内容遂行の遅れにより両者は再び内乱状態へと陥っていきます。1216年、ジョンが内乱の中で没した後に幾度かの修正を経て、最終的に1225年、マグナ・カルタは独立した御領林憲章と併せて国法となりました。マグナ・カルタは王の恣意に対抗する根拠として、その後の封建社会において多きな影響力を持ち続けていきます。
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