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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

レランス亡命修道院-ガリア司教の苗床

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▲レランス修道院

東方を起源にした修道制は、南フランスを経由して西ヨーロッパ世界に伝わってきました。西ヨーロッパにおける初期の修道院として有名なものに聖マルムティエ修道院と、レランス修道院があります。前者の聖マルムティエ修道院は372年、聖マルティヌスによってトゥール近郊の地に創設されました。この修道院は共住修道制と隠修士制をミックスしたようなもので、修道士たちは食事と礼拝の時間を除いて、独居して修行をしていました。聖マルムティエ修道院は西フランス地域の修道制の中心として一定の役割を果たしましたが、戒律と呼べるようなものがあったのかが微妙であり、その後の修道制への影響はあまり大きなものではありませんでした。

後者のレランス修道院は400年頃、エルサレム巡礼から帰還した北東ガリア貴族の聖ホノラトゥスによって、南仏沖合いのレランス島に創設されました。聖ホノラトゥスにはエルサレムを訪れたことで、直接東方の修道制に触れ、それをヨーロッパに持ち帰ってきたのです。レランス修道院では東方由来の戒律が採用されたと考えられていますが、聖ホノラトゥス自身が執筆した戒律が使われていたとする説もあるそうです。その戒律には禁欲や悪徳を免れるための実践的な規則が記されています。

また、レランス修道院の修道士の多くは、ゲルマン民族の侵攻を逃れてきた北部ガリアの貴族層でした。そのためこの修道院は避難所的な修道院として、聖職への転進を図りつつあったセナトール貴族を取り込み、彼らを身分にふさわしい司教として南フランスを中心とした司教座に送り込んでいきました。5世紀頃に活発であったこのような動きは、ある歴史家にレランス修道院を「ガリア司教の苗床」と言わしめるほどでした。その後、レランス修道院は貴族勢力の支援や、司教座との関わりの中で、フランク王国の修道制に大きな影響を与えていくことになります。

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