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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

中世都市のふたつのモデル-北欧都市と南欧都市

中世盛期の時代、ヨーロッパ各地には新しい形の集落が無数に勃興し始めました。これらの集落は、それまで支配的だった農業生産のための集落とは異なり、商業・手工業の中心地、すなわち都市でした。これらの都市は、ローマの伝統を受け継ぐ古代の都市から、あるいは地域の中心地となるべき性格を備えた施設を核として誕生、発展していきました。ところで、都市の成立はヨーロッパ全域で起こった現象でしたが、その中でも特にイタリア半島北部とフランドルを中心とする南ネーデルラント周辺では、他の地域より大規模な都市が数多く築かれており、私たちの中世都市観にひとつのモデルを提供しています。今回は、中世都市の代表といえる、この両地域周辺の二つの都市圏について比較していきます。

ひとつめの都市圏は北イタリア・南フランスを含む南欧都市圏です。なかんずく北イタリアは、肥沃なロンバルディアの平原を含み、中世農業革命によって鉄製の農具を先進的に取り入れていた地域でした。また、ローマ帝国の中枢部であったために、古代からの伝統を色濃く残すキヴィタスが帝国の滅亡とその後の混乱を生き抜いて残っていました。さらに、古代末期の騒乱によって縮小されてはいましたが、奢侈品を扱う地中海遠隔地商業も、ヴェネツィア-オリエント間の通商が開かれてから活発になっていました。この地域では、都市の形成にかかせない農業生産増大による非農業人口の増加や、商業の発達が進んでいたのです。

これらの地域では、司教の支配するキヴィタスないしは、封建領主の城塞の内側に商人たちが定住することで都市が形成されていきました(ミラノやパヴィアなど)。都市の拡大に伴って周辺の中小貴族の所領を都市内に吸収していく際には、強制的に、あるいは自発的に、貴族たちは都市内に住居を構えて生活するようになっていきます。彼ら都市内の封建貴族は、遠隔地商業で成功を収め都市で指導的役割を果たしていた豪商の家門と結びつくことで、都市貴族(パトリチアート)と呼ばれる階層を形成していきました。貴族というと、戦う人を想像しますが、南欧都市の貴族は商売をすることにさほどの抵抗はなかったようです。こうして、南欧都市は封建制ヒエラルキーが都市内部に持ち込んでおり、農村との境が曖昧であった南欧都市は領主対市民という構図が生まれにくかったために、よく言われるような「外界の封建制社会とのコントラストを示す市民的平等社会を実現した都市」を形作るにはほど遠かったのです。

ふたつめの都市圏は南ネーデルラントを中心とする北欧都市圏です。この場合、北欧というのはいわゆるスウェーデンやノルウェーといったスカンディナヴィアのことではなく、ロワール川、エルベ川、アルプス山脈に囲まれた北フランス、ドイツ、低地地方を含む地域のことです。

これらの地域の都市は、地誌的二元構造と呼ばれる特徴を備えています。キヴィタスないし領主の城館に商人が集まって都市が形成された南欧と異なり、北欧都市は領主の城館に隣接した商業集落(ヴィク、ポルトゥス)として生まれました。ケルンやヴェルダンは司教座(キヴィタス)の周壁に隣接して、ブルッヘとヘントはフランドル伯の居城の外部に、それぞれ商業集落が出来たことで都市が形成されていきました。この中でヘントやヴェルダンは、都市の核と新市外が川で隔てられています。この地域で、なぜ城塞と集落が分けられていたのかという明確な理由は明らかになってはいませんが、領主が商人の関税収入くらいしか興味がなかったこと、商人からしてみれば領主の干渉を出来るだけ避けたかったこと、集落が城塞の立地地点よりさらに河川に近く、水上貿易に有利な場所を求めたことなどが理由として挙げられています。

これらの商業集落は後に荘園や村抱えだった手工業者を吸収し、住民による誓約団体(コムーネ)を結成して都市領主(司教、伯)に対し平和と自治を求めるていくようになります。領主側の妥協や王権の介入により自治権を得た北欧都市は、都市内でのある程度の法律上の市民的平等を実現しました。「都市の空気は自由にする」ということわざは、商業集落が半ば独立していたために領主対市民という図式を形成し易かった北欧都市ならではのものであったのです。

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