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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

市壁について〈1〉-ベネーヴォロ「都市の世界史」より

ローマ帝国の滅亡から10世紀以降に都市が新たに誕生してくるまでの期間、ヨーロッパの都市世界において顕著だったのは縮小、消滅の動きでした。人口は外敵の攻撃を受けやすく、不安定な都市から大地から生計を得られる農村へと移ってゆき、社会システムもまたその流れにそう形で、農地=荘園を基盤にした貴族たちによる封建制が発達しました。そのような流れの中でも、ローマ時代に建設された都市の全てが放棄されたわけではありませんでした。都市に残ることを決めた人々は、コンパクトになった都市空間の中で生活していくことになります。円形劇場や競技場などの古代の公共建築は城塞化され、教会などの最重要施設を囲む形で市壁が縮小されました。例えばアルルでは円形闘技場をそのまま城壁代わりにして、その中に住居が建ち並びました。ちなみに、当時は墓地を壁外につくることが多かったために、墓地や聖人の廟に隣接して建てられた教会が市壁の外にあることも一般的でした。後の時代にも言えることですが、この時代の都市はまさしく規則性と不規則性のはざまにあったといえます。古代の規則正しい道路をそのまま使う場合もあれば、自然のかたちに合わせて変えていくこともあったからです。この自然と幾何学の垣根をとりはらった都市のかたちこそ中世都市の特徴と言えるのです。
 
10世紀以降、農業上の発達や、異民族の侵入がほとんどなくなったことからヨーロッパは新たな時代を迎えます。都市の再生です。縮こまったローマ都市の周囲には、教会や修道院などの拠点を中心に新しい都市=ブールが建設され、さらにブールに入りきらなくなった人口は城外市=フォーブールに流れ込みました。都市に不動産を持つ市民たちは、自分たちの活動を支えるために、徴税、行政や立法の権利を領主たちから獲得していきました。税金は、彼らの安全のための都市防衛や市壁建築のための原資となりました。
 
前述の通り、中世の都市は「あらゆる可能な形体を持っており…歴史的、地理的なあらゆる状況に自由に適応して」(p60)いました。そのために、中世都市を一般的にひとつのモデルとしてまとめることは難しいのですが、それでもいくつかの共通項はあります。様々な用途を持つ大小の街路、宗教・経済・政治の中心としての広場などですが、ここでは市壁について詳しくみてみます。市壁は都市防衛の要でしたが、そのコストは莫大なものであったので、市壁は一定の領域をできるだけ短い線で囲めるように不規則な円形をしていることが多かったようです。都市住民の増加に対しては、まず都市を横に広げるよりも縦に長くする方が優先されました。つまり、複数階建の建物を建設し、それでも市域が足りなくなって始めて市壁が建てられたのです。しかし、14世紀に市壁を拡大したいくつかの都市では、その後の人口減少によって市壁内に緑地が残されてしまうような場合もあったようです。

レオナルド・ベネーヴォロ、佐野敬彦・林寛治訳『図説・都市の世界史-2[中世]』相模書房(1983)
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