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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

略奪と殺戮と-盗賊騎士

私たちが考える中世の騎士のイメージはどんなものでしょうか。神を敬うキリストの戦士、文学に見られるような悪さをする竜を退治する英雄、そして主君のために命がけで仕える忠義の者。様々な騎士像がありますが、中世の騎士の中にはこのようなイメージとはかけ離れた姿の騎士が大勢いました。今回のテーマは盗賊騎士です。盗賊と騎士、イメージ上では相反するような存在の二者ですが、中世ヨーロッパにはこの二つの性格を備えた盗賊騎士が一般人の平穏な暮らしを脅かしていたのです。

「戦う人」として中世の身分秩序の中に位置づけられた騎士たちには戦いの権利が認められていました。この戦いとは、フェーデを行う権利、つまり自分が相手によって名誉を傷つけられたときや、実際に不利益を被った場合などに、武力によって自力救済を行う権利を持っていたということです。このフェーデの目的は相手の殲滅にあるのではなく、あくまで相手の譲歩と補償を引き出すための手段でした。

しかし、このような曖昧な理由による武力行使の正当化は、中央権力不在のヨーロッパ世界に中世を野蛮と呼ばしめる騒乱を生じさせました。それが本当に自力救済のためのフェーデなのか、それとも略奪目当ての強盗なのかわからないのです。「本来、暴力の鎮圧を任務とするものたちが狼のように荒れ狂い、鳥のように飛びまわった」とある年代記製作者が嘆くように、盗賊騎士は私利私欲のために、その戦闘能力を発揮しました。騎士たちが国の軍事の中心を成していた当時において、彼らの暴走を止めるのは簡単な事ではありませんでした。

それがフェーデであろうとなかろうと、深刻な被害を第一に被ったのは一般の民衆でした。彼らは、ほとんど無防備な状態で騎士たちの襲撃を受けたのです。家は焼かれ、食料や財貨は奪われ、多くの村人が殺されました。商人たちも彼らから逃れられませんでした。都市にいるときに襲撃を受けることは少なかったにせよ、各地を移動する行商人たちは強盗騎士たちの格好の餌食でした。悪名高い盗賊騎士の城を避けるために、フランスの古ローマ街道がすたれ、修道院を通る別のルートが生まれることさえあったのです。

教会や皇帝による平和令の乱発は、そうした法令がほとんど意味を成さなかったことの証明となっています。実際、強盗騎士を取り締まるには武力を持ってするしかなかったようです。13世紀、皇帝ルドルフは百人以上の盗賊を処刑し、彼らの城を破壊しました。都市は基本的に防衛に力を注ぎましたが、驚くべきことに策略を用いて盗賊騎士の城を陥落させた都市もあったようです。
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