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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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レコンキスタの英雄-エル・シッド

88056b74jpeg<エル・シッドの騎馬像、スペイン-ブルゴス

エル・シッドという渾名こそはロドリゴ・ディアスその人の生きた時代を端的に表していると言えます。エルというのはスペイン語の定冠詞、シッドはアラビア語のサイード、つまり主を意味します。彼はスペインの全キリスト教徒の、そして一部ではありますがイスラム教徒の守護者でもあったのです。レコンキスタの真っ只中に生きた彼の人生を追ってみることとしましょう。

ロドリゴ・ディアスは1043年、イベリア半島中北部、ブルゴスはビバル村の下級貴族の家に生まれました。15歳で父と死別した彼は、当時レオンとカスティリャ両国を支配していたフェルデナント1世の長男サンチョに仕えることとなりました。レオン・カスティリャといえば、後ウマイヤ朝の滅亡後統一が成されず小国分離状態にあったイスラム諸国から、貢租を受けていたようなイベリア半島随一の強国です。一騎打ちの決闘での功績を称えられカンパゾール(勇者の意)と称えられた彼の前には、サンチョ2世として即位した主人の寵臣として、順風満帆の未来が約束されているかに思えました。しかし、運命は彼に甘くありませんでした。

1072年、サンチョ2世は反対派の手で殺されました。王位は弟のアルフォンソ6世に転がり込みます。初めのうちエル・シッドはアルフォンソの姪ヒメナを嫁に貰うなど上手く立ち回っていましたが、政敵の讒言によって追放の憂き目に遭います。アルフォンソはエル・シッドに「サンチョ暗殺に関わっていない」という旨の宣誓をさせられたことを根に持ち、彼を追放したという話がありますが、どうやら史実に即していないようです。

ともかくエル・シッドはサラゴサのイスラム君主に仕えることとなりました。一見変なように思えますが、この時代のレコンキスタはまだ宗教色が弱かったためキリスト教徒とイスラム教徒が入り乱れて戦っていたのです。さてアルフォンソはといいますと、彼は着々と支配権を広げて行きましたが、窮地に陥ったイスラム諸国がアフリカのイスラム系王朝ムラービト朝に援軍を頼んでからは旗色が悪くなっていきます。ザグラハスの戦いで大敗を喫した王はエル・シッドを赦免し彼を頼ることにします。しかし、敗戦の記憶が薄れるやいなや王はまたしてもエル・シッドを追放します。

エル・シッドは二度目の追放を受ける前に支配していたレバンテ(イベリア半島東部の沿岸地帯)を平定し、1094年には長い包囲の後、バレンシアを占領します。アルフォンソの名の下の占領でしたが、実質的には彼が全てを支配していました。1092年に二度目の赦免を受けていたエル・シッドはまたも頼ってきたアルフォンソのところへ一人息子に手勢を付けて派遣しますが、その息子はコンスエグラの戦いで戦死しいてしまいます。その後もムラービト朝と戦い続けていたエル・シッドですが、ついに1099年その波乱の一生を終えます。英雄無き今、もはやキリスト教徒たちはムラービト朝の攻勢に耐え切れず、1102年、バレンシアから撤退します。この町がキリスト教徒の手に戻るまでは、実に130年以上もの時間を要しました。
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