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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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フランク貴族

トゥール・ポワティエの戦いの後、カール・マルテルの政策で教会・修道院の領地を吸収したのは彼の封臣である騎兵集団でした。では、カールのような一国のボスではない、一領地のボスと彼らの封臣はどのように形成されていったのか、そこを書いていきます。



<フランク貴族>

ゲルマン民族国家を構成する人民は大きく自由民と不自由民に分かれていました。自由民は諸所の権利を持ち、軍役や地域裁判への出席などの義務を課せられました。6世紀までには、多くの土地と隷属民を抱える有力者が出現していました。

しかし、サリカ法典には自由民と不自由民以上の明細な区分けはなされておらず、自由民の中に法律で定められるような特権階級はできあがっていませんでした。また、クローヴィスなどの王によって多数の有力者が殺害された事実からも、6世紀の有力者が貴族とは言い難いものであったことがわかります。しかし、7世紀に入ると史料に貴族出身者という言葉が見つかるようになります。フランク貴族が形成され、彼らは荘園を生産の基盤とし、従士制に基づく戦士集団を封臣として抱えていました。

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封建制

今回はフューダリズム。すなわち封建制についてです。貴族と貴族の間には、どのような関係が成立したのかを紹介していきます。




封建制、という言葉は中世当時には使用されていませんでした。また、封建制とは多義的な言葉ですが、ここでは中世に貴族間の私的契約であったレーエン制について書きます。レーエン制は、ふたりの「戦う者」間で交わされた相互契約の制度です。これは、一方が土地を与える封主となり、もう一方が、封主から土地を受ける封臣となり、封主は封臣への保護義務を負い、封臣は封主に対する助言や資金の援助などの諸義務を果たす、というものです。レーエン制はただの主従関係ではなく、相互契約であるため、封主でも契約を破れば封臣からの援助は受けられませんでした。

封臣の義務の中でも一番大きかったのは軍隊の提供義務でした。これは、有事の際、封臣が一族郎党を率いて、封主の下で共に戦うというというものでした。軍役は基本的に40日間が普通で、これには様々な制限が付きまといました。出征の連続期間や、軍の移動範囲が州境まで、どこの河川まで、封臣の領地内のみ、などが細々と決められていたのです。領地を受け取った貴族は、土地を直轄地と農民の耕作地とに分けて支配し、領民からの税の徴収などを行ないました。

封建制は、その義務の形態から、臣下の臣下を生み出すことになりました。封臣は、自分に仕える郎党が自前の軍を集めるられるように、自分の領地の一部を彼らに分け与えたのです。しかし、基本的にレーエン制は私的契約であるため、封臣の封臣(封主にとっての家臣の家臣、つまり陪臣)は封主にとっての家臣ではありませんでした。しかし、王権の強かったイングランドなどでは、国王に対し下位の封臣も忠誠を誓わせられることもありました。

▼「土地保有者の権力ピラミッド」 画像をクリックすると大きく表示されます。

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裁判領主制またはバン領主制

裁判領主制、別名「バン領主制」とは、その名の通り領主が裁判権を有する領主制のことです。10世紀頃から、領主たちは城を築き、そこを拠点として地域の住民を領域的に支配するようになりました。裁判領主制では、従来の古典領主制での支配と異なり、城を中心とした領域に住む、農民全体に対して支配権が行使されました。村の一部に対する支配の集合体でしかなかった領主の支配権が、これでいっきに拡張したと言えます。領主は、自分の城の周囲に、数個から十数個ほどの村落共同体を抱え込み、彼らの貢租を基本に生計を立てていました。

領主は、貢租の他にも慣習的貢租も受け取り、地域の治安維持や軍事的保護の責任者として裁判権や警察権を行使したのです。慣習的貢租とは、農民個人では所有できないような高級施設であり、かつ当時の農民の生活には欠かせなかったパン焼き窯・粉引き所・葡萄圧搾機などの使用を領民に強制した際の使用料のことです。これらの農村の主要施設は領主の所有物だったのです。また、支配領域の裁判権を持つ者として、共同体内での暴力を独占しました。裁判領主制の浸透度も、古典荘園制と同じく地域差があり、王や皇帝、上級貴族の力が強い地域ではあまり発達しませんでした。

この城を中心にした支配形態ができることには、ノルマン人の侵攻が大きく影響しました。フランク時代の比較的平穏な時代を過ぎた農民たちに、突如として襲い掛かった嵐がヴァイキングの進出だったのです。当時の中央権力は、フランク王国が分裂して間もなくであったため、力が弱まっていました。そこで、地方の貴族たちが台頭し始めたのです。彼らは、ノルマン人と対等に戦える唯一の存在でした。貴族たちは、領民の保護と引き換えに、農民からの貢租や服従を約束させたのです。

裁判領主制発達の他の理由には、集村化があげられます。フランク王国時代には、確固とした村落共同体は少なく、あったとしての、農民の耕地は独立して経営されていました。集村化は、たんに農民の家屋が密集したということだけではなく、耕地の共同保有・運用という側面もありました。要するに、古典荘園制を構成していた、個人の農民保有地が消滅していったのです。これにより、農村は、以前より効率的に耕地を運用し、城主は、その権力を拡大させていったのでした。

また、「古典荘園制」で述べたように、賦役は減少していく傾向にありました。では、領主直営地は誰が耕作するようになったのでしょうか。領主直営地が消失してしまう場合もありましたが、残った場合は労働と引き換えに賃金や食料を提供される、直営地専門の小作人に任されるようになりました。

▼「裁判領主制」 画像をクリックすると大きく表示されます。

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