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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

聖職者の階位と業務-司教と司祭

中世ヨーロッパの世界において、人々はその生業から「祈る人」「戦う人」「働く人」に分けられていました。今回取り上げるのは「祈る人」についてです。キリスト教が世界を満遍なく覆いつくしていた時代にあって、彼ら聖職者は今よりはるかに大きな勢力として存在していました。祈る人はキリスト教の布教と、それに伴う聖職者の増加に伴い、体系化された組織をつくり、聖職者に階位を設けました。

最上の階位は司教で、彼らは初め都市部に多かったキリスト教徒たちの指導者でした。次にくるのが、宗教的職務は司教と同じながら、束ねるべきキリスト教徒が少ない司祭です。司教がローマ時代の属州の中心都市に住み、広大な司教区の信徒を指導したのに対し、司祭はひとつの村や都市をいくつかに分けた街区ごとに置かれ、直接的に信徒と交わるのが仕事でした。司教と司祭の下には、助祭や副助祭、侍祭、祓魔師、読師、守門などの階位がありましたが秘蹟(サクラメント)を行えるのは司祭以上のものに限られたため、彼ら下級階位の祈る人は司祭となるまでの修行過程と見なされ、業務も補助的なものでした。

司教の上には教皇や大司教がありそうなものですが、実際には大司教はただ大きな司教区、権力を持つ「司教」であり、教皇は「都市ローマの司教」でした。しかし、ローマが古の帝国の首都であり、また聖ペテロが初のローマ司教を勤めたことから教皇座は特別なものとされたのです。司教は広大な司教区を支配し、多くの司祭を統括することから行政的役割を持つことになります。免税特権を持ち、また王侯貴族から多くの寄進を受けた彼らは、しばしば聖界にいながら領主として台頭しました。司教は自分の管轄地において封建領主と同じように独自の裁判権を行使し、中心地の都市では司教座大聖堂(カテドラル)を保持しました。もちろん、司教一人で全ての業務をこなすことはできないので、都市には司教の補佐を勤め大聖堂を管理する聖堂参事会が生まれます。司教は新たな司教やそれより下の階位の聖職者への叙任権を持ち、俗界諸侯のように国王たちの顧問になったりもしました。このように当時の支配階級に属していた彼らの出自は(聖職者が少なくとも建前上は世襲がないことから)貴族階級ということが多々ありました。

司祭は上級貴族のような司教と大きく異なり、小教区の庶民たちの宗教上の導き手でした。司祭は信徒からの供物やお布施の何割かを自身の聖職録に当てていましたが、それでも生活ぶりは周りの農民と大差なく、司祭が農耕に従事するのは一般的であったようです。中世初期にはラテン語もままならないような司祭も多かったようですが、グレゴリウス改革などの諸変革を経てそのようなことは減っていったようです。

司祭の職務には毎週日曜のミサや祝日に行われる宗教行事などがありましたが、その他に新生児への洗礼、冠婚葬祭の儀式などがありました。ここからはまさに揺り篭から墓場まで、日常生活の全てに関係していた教会の姿を見ることが出来ます。先日新聞で、小説家の佐藤賢一さんのコラムで聖職者を取り上げていたのですが、それによると聖職者は今の公務員のような存在だったといえるそうです。洗礼は出生手続きであり、終油の秘蹟は死亡手続き、結婚まで教会の管理下にあり、中世で最小の行政区といえば小教区だったので確かにそう言えるかもしれません。
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