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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

模擬戦争から儀式へ-馬上槍試合の変遷

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▲集団試合、トゥルネイ

中世ヨーロッパの騎士にとって、馬上槍試合への参加とても魅力的なことでした。戦いで力を発揮できれば名誉と賞賛を得ることができ、幸運にも貴族の目に留まれば家臣として雇ってもらえる可能性もありました。また、団体試合であるトゥルネイは中世の戦闘に欠かせない密集陣形での騎馬突撃をするための格好の訓練になり、また試合で勝つと賞金が手に入りました。もちろん、通信・交通手段の貧弱な中世においては、騎士同士の友人や知人と親睦を深める機会にもなったことでしょう。

馬上槍試合は、11世紀頃から中世全体を通して盛んに行われていました。試合は大きく団体戦のトゥルネイと、一騎打ちのジョストに分かれていました。我々がイメージする馬上槍試合はジョストということですね。ジョストは当初、大規模なトゥルネイの前座競技でしたが、後の時代にはジョストだけが独立して馬上槍試合を構成することもありました。初期の馬上槍試合は、ほとんど実践と変わらぬ状況で行われる模擬戦争で、武器も実践と同じものがつかわれていました。本当の戦争と違うのは、戦場に中立地点が設定されていることくらいでした。


▲一騎打ち、ジョスト

このような実戦さながらの競技は、当然のことながら多くの死傷者を出しました。1175年にラウジッツ辺境伯の息子は槍傷を受け、1216年にエセックス伯は馬に踏み潰され、それぞれ亡くなっています。このように高位の貴族たちですら、馬上槍試合の中で命を落としたことが年代記作者によって記録されています。もちろん、この他にも年代記に載ることがなく死んでいった、名も無き騎士たちも大勢いることでしょう。頻繁に起こる競技での死傷を少なくするために、馬上槍試合は規則を備え、競技的なものへと変わっていきました。例えば、槍の穂先を丸めて殺傷力を弱めたり、一騎打ちの際に騎士が正面衝突しないための柵を設けたりしました。

馬上槍試合は危険な競技でしたが、それでも騎士たちはこの競技が大好きだったようです。威信や尊敬を勝ち取ることができたこともその一因でしょうが、何より勝てば経済的な利益もありました。賞金を得るほかにも、競技中に捕虜にとった騎士からは、その騎士の身分に応じて定められた額の身代金を取ることができ、また戦いで倒した騎士の鎧と馬は勝者の物になりました。馬上槍試合は、ウィリアム・マーシャルのように下級騎士として生まれながらも試合の勝利によって成り上がり、イングランドの歴代王に仕えるまでの身分になるといったサクセス・ストーリーを生み出す反面、鎧も馬も失い、もっと悪ければ体の自由まで奪われる没落騎士も生み出しました。

しかし、多くの騎士に愛された馬上槍試合は、教会当局からは激しい非難を受けていました。騎士たちの派手な装飾や勝利の栄光を求める心は、キリスト教的に見れば虚栄心や傲慢の罪に当たるものです。馬上槍試合に付きものの豪華な饗宴は大食の罪を招く訳です。また、教会当局は十字軍やレコンキスタなどで異教徒に対して向けられるべき戦闘能力が、キリスト教徒相手に行使され、そこから無為に殺人が犯されることも非難しました。教会はただ非難声明を発するに留まらず、戒めのために馬上槍試合における死者をキリスト教徒として埋葬することを禁じています。また、当時のある説教師は競技のために農民の作物が踏み荒らされ、試合開催のために地域住民に重税がかけられることを理由に馬上槍試合に反対しています。

初期には戦争と大差なかった馬上槍試合は、時が経つにつれて、より儀式的、形式的なものへと変容していきました。騎士の突撃先方が密集歩兵戦法に対抗できなくなっていたという軍事的背景と、騎士道文学のように騎士たちが強さよりも雅なものに傾倒していく傾向が、この変化の背景にあったのだと思われます。もちろん、しつこく続けられた教会の圧力もあったことでしょう。中世末期から近世初期にかけて行われた馬上槍試合は、もはや軍事訓練や賞金稼ぎの意味を弱め、国家や大領主の威信を示すためのショーとなっていきました。 

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