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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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北フランスの市民兵

成立後間もないフランス王権は、弱体化した王権の前で跋扈する諸侯勢力を抑え、国王の支配を拡大しようと努めました。11世紀頃から始まった都市の自由・自治などを求めるコミューン運動への政策はその一環です。すなわち、王領内のコミューン運動は抑圧し、王権の及ばない諸侯の支配圏内のコミューン運動は援助したのです。地方の都市と結ぶことで、諸侯の領地に楔を打ち込んだわけです。カペー朝5代目のルイ6世、続くルイ7世はすでに出来上がっていたコミューンに特許状を与えることで、コミューンを公的制度へと変化させていきました。

1180年に即位したカペー朝7代目のフィリップ2世尊厳王は、さらに都市との関係を強めていきます。フィリップ2世は既存のコミューンの権利を再確認するとともに、新たに多くの都市にコミューン特許状を与える政策を採りました。王権が都市に自由・自治の諸権利を与え、さらに都市を王の保護下に置くことと引き換えに引き出したのは、兵士供出の義務でした。

つまり、フィリップ2世は都市を封建制のピラミッドに組み込んでいったわけです。都市に与えられた特許状には軍役に求められる兵数や荷馬車の数、期間や場所が明記されていました。兵士の供出は金銭の支払いに置き換えられていく傾向にありましたが、それでも多くの市民が民兵としてフランス王の下に動員されました。この結果、フィリップ2世は総勢7695人もの市民兵、138台の荷馬車、さらに兵役免除金として11,693パリ・リーブルを手に入れたのです。

少数の裕福な市民からなる騎兵の他、大多数の市民兵は歩兵として戦いました。市民歩兵部隊は、騎士部隊による突撃を支援するための盾として効果を発揮し、さらにコルトレイクの戦いに代表されるように対騎兵戦で勝利を収めることもありました。わずかな訓練をしただけの市民兵は、傭兵などの職業戦士に比べ技能は低かったものの、農村地域から召集される民兵たちよりは装備面で充実していました。中世盛期における都市の発達は市民兵の武装を強化していきましたが、大部分の兵士は布製の胴着を着ており、金属製の鎧を装備することはありませんでした。
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