忍者ブログ

チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


クリュニーの改革-祈る修道士

7068cd7e.jpeg
▲クリュニー修道院復元画

910年の9月11日、マコン伯を兼ねるアキテーヌ公ギョームはとある書類に署名しました。中世盛期の修道院改革第一波の中心となる、クリュニー修道院の創立文書です。公は、ブルゴーニュのマコン伯領近くに自らが持つクリュニーの所領を、修道院創設のために寄進したのです。これはブルゴーニュ貴族出身の修道士ベルノーの要望に答えたもので、彼がクリュニー修道院の初代院長となります。

「だれも神の僕(修道士)たちの財産を犯したり、奪ったり、減じたり、交換したり、だれかに封として与えたり」してはならないと創設文書にあるように、この修道院は諸侯などの世俗権力を初めとして、聖界諸侯である司教の権力からも独立したものとして創設されました。諸侯や司教に代わって修道院を支配したのは、西方キリスト教会の総締めとなっていた教皇庁でした。クリュニーは、ただ教皇座のみに直属した機関となったのです。この両者の関係はクリュニー修道院が、教皇座に5年につき10ソリドゥスの灯明料を納めていたことにも示されています。

また、創設文書にはこの寄進は「私の祖先や母の魂のためであり、私とわが妻のため、すなわちわれわれの魂と肉体の救済」のためであると記されています。当時、聖なる教会や修道院への寄付は、自らと家族を霊的に救う贖罪行為になると考えられていました。つまり、土地や財産を寄進した貴族やその家族、先祖のために修道士たちが祈りを捧げたのです。これは代祷ないし「執り成し」と呼ばれるものでした。クリュニー修道院は、カロリング朝分裂後の不安な世界に生きる貴族たちの、精神的安定剤として働いていたのです。

さて、クリュニー修道院の最大の特徴は、上記の執り成しなどを含めた「祈祷」に活動の大部分を費やしていたことです。一日中、神への賛美を詠うのが彼らの主な仕事でした。写本作成や芸術作品の収集なども盛んに行われましたが、これも全て神を称えるための道具として重要視されたからでした。その一方で、それまで修道院が行っていた古典文学の写生や、農作業などの手労働は軽視されるようになっていきます。

クリュニー修道院は、12世紀初頭に最盛期を迎え、およそ1500もの系列修道院を抱えるに到ります。系列修道院は、クリュニー出身の修道士が新たに修道院を創設したり、既存の修道院を改革したりすることで生まれました。戒律上は、修道院長は複数の修道院を支配することはできませんでしたが、遠隔地所領経営のための、分院のような存在であるならば、複数を統制することができました。つまり、新たなクリュニー系修道院は本院の分院と位置づけられ、クリュニー修道院長はヨーロッパにまたがる巨大な組織(ある歴史家はクリュニー帝国とさえ呼ぶ!)を支配したのです。

執り成しを求める貴族の寄進により富を増大させ、ヨーロッパを横断する巨大な中央集権的組織を展開し、自らの糧の生産は修道院の隷属農民に任せるばかり。このような修道院が、清貧と孤独を旨とする初期修道制とはかなり違ったものであることは容易に理解できます。純粋な祈りの場となるべく改革された修道院は、皮肉なことに初期修道制の理想を忘れさせてしまったのです。新たな問題の持ち上がった中世修道制に、新たなる改革をもたらしたのは、「祈り、働け」をモットーとするシトー修道会でした。

PR