忍者ブログ

チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


中近世インドの農村社会-ワタン体制

india_social_system.png
▲ワタン体制の概念図。同色は同カーストを示しています。

世界史でのインド史の扱いはよいとは言えません。カースト制度こそ細かく扱いますが、それ以外はほぼ王朝の羅列で終わってしまいます。マウリヤ朝、クシャーナ朝、グプタ朝、ヴァルダナ朝、ラージプート時代を経てムガル帝国、植民地支配と、これだけで前近代インド史が終わってしまった、なんて方も多いのではないでしょうか。

インドの社会には、ヨーロッパとはまったく異なる社会体制がありました。今回は特に、インドのマハーラーシュトラ地方における農村の社会関係を紹介します。広いインド一般にこの地域での事象を適応してもよいかはわかりませんが、インドの中近世社会のひとつのかたちとしてまとめていきたいと思います。
 
興味深いのは、この地域の史料の中には、土地所有に関する文書や土地売買文書といったものがほとんど見つかっていないことです。その代わりに、ワタン(vatan)と呼ばれる世襲的権益が、売買や紛争の対象として多く文書に登場してきます。それではワタンとはいったいなんなのでしょうか。
 
ワタンとはマハーラーシュトラ地方では村落共同体(village community)や、村落共同体が50前後集まって構成している地域共同体(local community)における、世襲的役職とそれに付随する取り分(現代でいう給料でしょうか)を意味しました。
 
村落共同体では、村長は村長ワタンを持ち、村人の大部分を占める正規の農民は農民ワタンを持っていました。また、村全体にサービスを提供する大工、鍛冶屋、陶工、占星師、不可触民などのカーストの人々がいて、彼らは大工ワタン、鍛冶屋ワタンといったそれぞれのワタンを持ち、村からバルテー(balute)と呼ばれる報酬を受け取っていたためバルテーダールと呼ばれていました。当時の理念的な村の規模を示す「60人(家族)の農民と12種類のバルテーダール」という言葉がありましたが、実際の村はこれよりも小規模だったようです。
 
村よりも大きな単位である地域共同体においては、デーシュムク(Deshmukh)と呼ばれる首長や書記がいて、それぞれのワタンを持っていました。また、村落共同体で生活する大工や鍛冶屋は、この地域共同体を単位としてカーストの集団を形成していました。このカースト集団の長はメータル(Mhetar)と呼ばれ、このメータル職もワタンでした。面白いことに、同カーストの広がりはひとつの地域共同体にとどまらず、それぞれの地域共同体のカーストは互いにネットワークを巡らせており、理念的にはインドのどこまでもこのカースト的分業社会が広がっているということです。
 
このように、村落共同体とその上位に位置する地域共同体における社会を構成していたのは、各種のワタン所持者(ワタンダール)たちでした。ワタン体制(Vatan System)とも言えるこの社会関係は、地域における社会的分業の体制であり、かつ上下関係を持つ階級的な関係でもあったのです。

この体制が形成され始めたのは10世紀前後で、14世紀にはおおかたのかたちができあがっていたと考えられています。また、土地ではなくワタンだ重要だった背景には、当時のインドでは人口に比べて相対的に余っており、労働力の伴わない土地にはほとんど価値がなかったためであるそうです。土地が重要な財産であった、ヨーロッパや日本の社会とはかなり違っていて、興味深いですね。

▼マハーラーシュトラ州
PR