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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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ねじれ式と平衡錘式-投石機

防衛側に、大量の備蓄食料があり、兵士の士気も高く降伏が望めない場合。あるいは、何らかの理由で短期決戦の必要があるとき。攻撃側は多数の攻城兵器を動員しました。決戦前にも、威嚇や汚物投下のために投石機などは使用しましたが、最後の総力戦に至ると様々な種類の攻城兵器が運用されました。 



<投石機>

攻城戦で使用される投擲機は、そのほとんどが石などを飛ばして攻撃することから、投石機と呼ばれます。投石機には二種類ありました。ねじれ式投石機と平衡錘投石機です。

前者は、古代から使われているもので、以下のように投擲を行いました。動物の毛や腱、植物製の紐などで作った弾力性の高い太綱に、腕木を装着し、それを強引に地面まで引いてからはなしました。この形の投石機の短所は、射程を長くしようとしても、ねじれを利用していることから大型化するのが難しいこと。そして、威力を高めさせると綱の寿命が縮むことでした。

平衡錘投石機は、中世になってから発明されたもので、てこの原理を利用したものであったため、錘を重くしたり、腕木の長さを変えれば簡単に威力を増したり射程をコントロールすることができました。しかし、ある程度大型で取り扱いが面倒であったため、しばしばねじれ式投石機と併用されました。

 

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坑道作戦

城砦の弱い一部分を崩壊させることが出来たなら、攻め手にとってこれほど好都合なことはありません。これを実現させたのは、専門家集団による坑道掘りでした。城の攻めては、城の弱点を見分けられる技術者と工兵の一団を高額で雇い入れました。彼らは、破壊の目標地点の下に坑道を掘り、穴が崩れないように材木の支柱を設置します。そして、掘られた坑道の中に可燃性の強い藁や豚の油などを詰め込みました。そこに火をつけると坑道は潰れ、その上にあった城壁は崩壊しました。坑道を通って部隊を城内に投入し、戦闘を開始することもなくはなかったようですが、稀な作戦だったようです。

 

篭城側は、地面に水を張った鍋を並べることで、敵の坑道を発見することができました。坑道に対抗するためには突撃部隊を送り出して坑道を埋めるか、防衛側から敵の坑道とぶつかるように坑道が掘ったりしました。坑道を探し当てるのは困難でしたが、もし探し当てられれば、防衛側には大きな助力になりました。坑道を掘るのには多くの費用と時間を要したからです。


封鎖の中で

防衛側の篭城が始まっても、すぐさま石弾が飛び交う戦闘状態に入るのではなく、攻撃側は城を兵糧攻めにすることを第一目標としました。兵糧攻めは、攻撃側の補給が万全で、且つ城の封鎖が完璧に行われると成功しました。しかし、兵糧攻めが長引くと、攻撃側の陣営も疲労してしまいましたし、士気が下がることで脱走兵も出し始めます。そして、通常防衛側より多人数の攻め手に供給する食料が常に万全にしておくのは非常に困難でした。また、攻め手の側に伝染病が蔓延することも稀ではなく、酷いときには攻撃側の軍勢の敗走を招きました。そして、篭城側が冬まで持ちこたえると、ほとんどの場合攻め手は陣を解かなければならなくなりました。冬の攻城戦は、安定した居住空間を持たない彼らにとってに明らかに不利だったのです。

また、攻撃側はただ城が飢えるのを待つだけでなく、さまざまな行動をとって降伏を早めさせようとしました。攻撃側が行った篭城側への行動として大きかったのは、水の補給の断絶でした。城内に井戸があり、それが正常に機能していると兵糧攻めには時間がかかりましたが、水を絶たれれば城は長くは持ちません。攻め手は、家畜の死骸や排泄物を投石器で城内に放り込んで、篭城側が使っている井戸や水槽などの水を腐らせ使い物にならなくしました。また、これにより伝染病を引き起こすことも狙いのひとつでした。また、城が外部から水を水道管などで引き込んでいる場合は、これ幸いと破壊したのです。

 


攻城準備-篭城準備

ヨーロッパの年代記は、中世を通して数多の戦争があったことを今に伝えています。クレシー・ポワティエ・アザンクールなどの非常に有名な戦闘は、そのほとんどが多くの兵力を平野でぶつけ合った会戦です。しかし、当時の戦闘の主役は小貴族や騎士たちの間で、あるいは国際戦争のさなかに繰り広げられた攻城戦でした。地域の中心である城を手中にすることは、その地域までも手に入れることに等しかったのです。

 


<戦闘までに>

敵の降伏勧告を突っぱねた都市や城が、攻城戦に際してまずしなければならなかったことは、食料の確保でした。篭城を控えた城には、保存の利く穀物や塩漬けの肉類が大量に運び込まれました。また、水も篭城に欠かすことのできないものでした。事実、水源が絶たれると、城は一週間と持たなかったのです。井戸や水槽が何かの理由で使えなくなったときのために、葡萄酒なども大量に運び込まれました。

食料や水の備蓄と共に重要だったのは、木材や鉄、油などの物資の備蓄でした。木材や鉄は、簡単な矢や、槍の作成、城の補完工事などに使用され、油は熱して敵に浴びせかけるために貯められました。そして、もちろん守備兵も城に入れなければなりませんでしたが、これは多ければ多いほどよいというものではありませんでした。攻城戦において、圧倒的な優位にあった守備側は、上手くすれば攻め手の10分の1の兵力でも城を守りきることが可能であり、何より貴重な食料を減らさせないために、大人数の篭城は危険だったのです。そのため、篭城に際して、老人や女子供など戦闘能力の無い弱者はしばしば城外に追い払われました。

城や都市の攻略に先立ち、攻撃側はまず包囲予定の城の門番や守備兵、時には総司令官の買収を狙いました。これが成功して、攻城戦に入る前に攻防の決着がついてしまうこともありました。相手が簡単には買収されないときは、策略を使って城を奪うこともありました。数人の城の人間を捕らえ、彼らの服を着た潜入部隊を組織し、敵が防御体勢に入る前に城を乗っ取ってしまうこともあったのです。これらの策略が成功しなかったときには、攻撃側は長い時間と大変な労力をかけて城を包囲しなければなりませんでした。


城の果たした役割

度重なるゲルマン民族の侵入とそれに続いた混乱により、西ローマ帝国は紀元476年に滅亡しました。世界帝国であっ たローマの崩壊は、ヨーロッパ全土を後に暗黒時代と呼ばれる時代に突入させる要因となります。暗黒時代の混乱を恐れたヨーロッパ各地の領主たちは、地盤を 固めるため、自分たちの居館の防御を固めていきました。これがヨーロッパで誕生した最初の城です。フランク王国時代には、城はヴァイキングやマジャール人 などの異民族の侵攻を受けることの多かった地域や、当時のフランク王国の辺境であったドイツ東部や、ピレネー周辺、ブルターニュの付根などに多く造られま した。

城は領主の家という機能意外にも様々な役割を果たしました。領主の城は、常時は領主の私兵を収容し、周辺住民の監視 や搾取の拠点となりました。そのため、城は搾取した産物の集計地であり、流通の基点としても機能しました。城が商業的な重要性をより増加させ、城下に領民 が住み着き、城市の形をとることもありました。城は領主の領域支配の象徴だったのです。城を中心とした領域支配の体制は裁判領主制(またはバン領主制)と 呼ばれます。有事の際、城は主に防衛面で絶大な威力を発揮しました。また、戦略的機能も持ち合わせており、遠征の際などには補給や駐屯のための基地として 利用されました。


城の構造 「塔・堀」

<塔>

城は主塔以外にも多くの塔を備えて防衛力を強化していましら。それらの塔は城の防衛上の要所に、城壁などの他の建造物に付随して設けられることが多くありました。城壁の角の部分には側塔・隅塔が設けられ、一定間隔を置いて城壁塔も設けられました。また高台に城があったり、城壁の内側が最後の中庭の場合など、内側からの攻撃を考慮しない際、あるいは、費用の節約の必要がある場合、外殻塔という内側へ開いている塔が設置されました。


<堀>

切り立った崖や、半島部の先端のような、天然の要害となる恵まれなかった城は、堀を周囲に巡らすことで城の防衛力を高めました。堀にはいくつかの種類があります。門前堀は門の前のみを横断する堀で最小限の大きさの堀はこの形であした。環状堀は城を全てを囲んでしまう形の堀です。この形の堀には付近を流れる河川などから水を引いてきて水堀になるものが多くありました。また城の内部を区分する遮断堀も、城の前衛部に侵入した敵から、主塔など城の中心部を守るために設けられました。

▼「外郭塔・狭間・狭間窓」 画像をクリックすると大きく表示されます。

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▼「門前堀・環状堀・遮断堀」

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城の構造 「城門」

今回は城門です。これも、城壁や塔と並び、城の基本的防衛施設のひとつです。


<城門>

城壁で主意を囲んだ城の、外部との数少ない連絡口が城門です。人間の出入りがあることから、門は城の弱点であったため、他の施設に増して堅固に造られました。門前掘、あるいは環状堀を備えた城の城門には跳ね橋が掛けられました。これは城門の中に取り付けられた錘で跳ね橋を作動させるものでした。跳ね橋の隣に小型の橋が掛けられていて、来訪のあるたびに大型の橋をいちいち動かさなくともよいようにしたものもあります。

また、城門には出窓が設置されることもありました。この出窓には三つの働きがあります。第一に来訪があったとき、門番が門を開かずに相手と連絡を取るため。第二は門に火が放たれたときに水をそこから撒いて消火するため。第三に敵が城門に迫った際に、熱く滾った油や焼いた石を、敵の上に降らすためです。この出窓は城壁や塔にも備えられていることもありました。

門を特別強固にして守る必要のある場合には、門の両脇に門塔が設けられたり、狭間や狭間窓が大量に設置されました。落とし格子が取り付けられている門もありましたが、このような門は稀だったようです。この落とし格子は敵襲を受けた際に素早く門を閉じることができ、格子が溝に落ちて固定されると簡単には門は突破されませんでした。また、門の落とし格子が二重に設けられていることもありました。これは、ふたつの格子の中に敵兵を誘い込み、閉じ込めてから、頭上に攻撃を仕掛けるためのものでした。

▼「側塔・城門・出窓・跳ね橋・堀」 画像をクリックすると大きく表示されます。

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城の構造 「城壁・回廊」

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▲回廊・張り出し陣

防御用の壁は、城がまだ木と土だけでできた砦だった頃から存在する城砦の最も基本的な施設です。材料は時が経つに連れて木から石へと変化していきました。城壁の規模は地域や時代によって多様でしたが、厚さ2~3メートル、高さ3~4メートル程が一般的でしたが、もっと低いものや高いものもありました。断崖絶壁の上の城壁であれば、高さはそれほど必要とされなかったので1メートルたらずのものまでありました。また、都市の壁ですが、コンスタンティノープルの内壁は厚さ約5メートル、高さが約17メートルもある巨大なものでした。

城壁の内側には通路として回廊が設けられました。回廊により、城内の人々は、いちいち地面に降りることなく、城の施設間 を移動することができました。これらの回廊は平時には連絡橋として、戦時には防衛設備のひとつとして利用されました。

城壁には、ほとんどの場合に守備兵がそこでの戦闘を有利に進められるように仕掛けが施されています。その中でも代表的なものが凹凸の形を持つ狭間でしょう。これにより、守備兵の射手は狭間の陰に隠れながら敵兵への攻撃が与えられるようになります。また、より安全な射撃用防御の仕掛けとして狭間窓(射眼とも呼ばれます)がありました。これにより射手は相当安全な状態での攻撃が可能になったのです。これは一本の細い垂直の裂け目で、射程範囲を広げるために、その裂け目の一部分が横に広げられていることもありました。

また、回廊には出窓のような張り出しを設けることもありまし た。張り出し陣と呼ばれるこの仕組みのおかげで、城兵は城壁の真下にいる敵を攻撃することが可能となりました。

08.2.2加筆修正


城の構造 「居館・井戸・礼拝堂・倉庫」

<居館>

城主やその家族が暮らす住居建築は居館と呼ばれます。初期の「城壁と塔」の城では、主塔が居館を兼ねました。しかし、城壁の防衛力が高くなり、城の敷地が広くなるに連れて、主塔とは独立した領主の館が造られるようになったのです。居館の規模はその城の城主の地位や財力によって異なり、それが王侯などであった場合は、居館は宮廷の中心となり、その建物は大規模なものになりました。居館は、居間や寝室などの個室、炊事場などからなり、これも城主の力の大きさによって豪華にも質素にもなりえました。

 


 

<井戸>

現在の生活と同じように、中世の生活でも水は欠かせない大切なものでした。特に、篭城をしているときなどは井戸の有無によってその城の運命が定まることさえありえたのです。普通井戸は、その重要性から主塔の付近や内部に設けられました。当時は井戸の工事には莫大な費用と労力がかかりました。井戸を掘るためだけにかかった費用が、城のその他の部分全体の建築に要した費用に匹敵するとことさえあったと言われます。そのため、井戸を掘るのが経済的に困難な城には水槽が設けられました。これは雨水を貯めるためのもので、井戸を掘るよりも、はるかに簡単で安価な水源を城にもたらしました。

 


 

<礼拝堂>

城には小型大型に関わらず礼拝堂が設けられ、城の精神的な柱となりました。大きな城には専属の僧侶が存在し、城住民の宗教上の世話を担当しました。小さな城には礼拝堂の代わりに簡単な祭壇などが設けられることもありました。

 


 

<倉庫>

倉庫は、城での生活に欠かせない施設でした。城に住む人々の食事を初めとした大量の貯蓄物の数々は、倉庫にしまわれるのでした。葡萄酒や樽に詰めた水なども、貴重な貯蓄物でした。また、篭城に備えての大量の矢や武器甲冑も、倉庫に置かれました。


城の構造 「主塔」

主塔は城砦の中心的存在です。主塔は城主一家の生活空間であり、宝庫であり、最強の防衛施設でもありました。大塔・天守・主閣と呼ばれることもあります。この塔は石造(初期の頃は木造)で、城の他のども部分よりも堅固に造られていました。普通は高さ20メートルくらい、直径は10メートル程度の塔でしたが、大きいものでは高さ30メートル幅20メートルになるのものまでありました。

ほとんどの主塔は矩形から、円形かそれに近い多角形に変化していきました。これは攻撃を受けた際に角の部分が破壊されやすいことへの対処でした。また、他の塔にもいえることでしたが、塔の最上部は少し出っ張った形になっており、塔の真下に迫った敵兵に煮えたタールや熱した石を落とすなどして、身を乗り出して攻撃するより遥かに簡単に敵を撃退できるようになっていました。

この塔は、平時は見張り台の役目を果たし、戦時となればその高さを利用して城の守備兵は有利に戦いを進める助けをしました。また、城門が破られ敵兵が城内に侵入しても主塔は簡単に攻略されないため、この塔は守備兵の最後の砦となることも多くありました。

この塔は城壁から離れたところに建てられることも、城壁やその他の建物と合体して立てられていることもありました。離れて建てられているものの場合、それらの塔の入り口が回廊や他の建造物に接していることはもありましたが、そうでない場合も多くありました。そのような塔の入り口は、地上から数メートル上がったところにあることが普通で、梯子で行き来をしました。この構造では直接塔内部に侵入できないため、主塔の防衛力が格段に上がったのです。

主塔の内部では、外への直接の出入口を持たない1階部分は捕虜を入れておくための牢獄か、金や貴重品、武器などを保管しておく倉庫として使われるか、あるいは篭城の際に最も重要となる井戸を設けていました。塔の上層部は数階の構造になっており、2階が居間、3階が城主とその家族の私室、4階は居候騎士の部屋などといったように分けられていました。そして、最上階は見張りの番兵の詰め所などが置かれました。塔内部の階段は人一人が通れるくらいの狭い螺旋階段で、攻め手が一斉に突入できないようになっていました。また、数メートルもあった厚い壁を利用してL字型の空間を設け、個室のようにして使う場合もありました。

火災の危険を避けるために、台所は別棟に設けられるのが普通でした。台所で作られた料理は、狭い階段を通って離れたホールまで運ばれましたので、城主一家はなかなか熱々の晩餐にはありつけなかったかもしれません。このように、主塔は城主一家の生活空間という面を持ちつつも、多分に防衛が優先されていたために、主塔での生活はあまり快適なものではなかったことでしょう。そのため、平時の城主の館として居館が別に建てられるようになっていきます。


        
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