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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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東ゴート族

もうひとつのゴート族は、どのような進路をとるのでしょうか。


<東ゴート族>

突然の進撃によって、一時はフン族に支配された東ゴート族でしたが、453年に王アッティラの死と共にあっけなく崩れたフン族から独立し、ローマ領内に同盟軍「フォエデラーティ」として移住しました。しかし移住地パンノニアはとても豊かとはいえず、必要となった略奪遠征などのため、ローマとは同盟と離反とを繰り返していました。

このような中、部族の王で東ローマ帝国執政官にも任命されたテオドリックが、皇帝よりイタリア進軍を命じられます。476年に西帝国は傭兵隊長オドアケルによって滅亡していました。東の皇帝ゼノンは、イタリアの地を統治下に入れるためにテオドリックを差し向けたのです。489年、テオドリックは東ゴート族や他の部族の軍率いて、オドアケルの王国に侵攻しました。しかし、テオドリックはオドアケルの王国を滅ぼした後も東へは帰らず、493年にその地でラヴェンナを中心とした東ゴート王国を立ち上げました。

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西ゴート族

さて、ふたつに分かれたゴート族。彼らはローマとどのような関係を続けるのでしょうか。


<西ゴート族>

375年に怒涛の勢いで現れたフン族の侵攻により、西ゴート族は帝国の保護を求めてドナウ川を渡りました。皇帝は彼らをにトラキアの地に居住させることを許可しました。しかし、ローマとの協調関係は長くは続かず、帝国との間に軍事衝突が起こります。378年、アドリアノープルの戦いにおいて西ゴート族は大勝利を収め、帝国に対する優位を得ます。

その後、彼らはより恵まれた土地を目指して移動を開始しました。アタナリック、アラリック、アタウルフの三代の王に率いられ、バルカン半島やイタリアを巡り渡った長い移動の末、最終的にはガリア南部のトゥールーズを首都とした西ゴート王国を建設するに到ります。418年に誕生したこの王国は、ローマ領内での初めてのゲルマン人国家となりました。


ゴート族の分裂

 ゲルマン民族の大移動前夜、ゴート族は南下を始めます。

 


 

<ゴート族の分裂>

2世紀後半に、オーデル川、ヴィスワ川流域の土地からゴート族が南方に移動を開始しました。彼らは様々な部族を吸収しながら南下し、2つに分かれていきます。ひとつはアマル家を首領とするアマル系ゴート族で、彼らは黒海の北側の沿岸部に住み、スキタイ人やスラヴ人を取り込みました。これが後の東ゴート族です。もうひとつは、バルト家に率いられたバルト系ゴート族で、彼らはドナウ川下流域に展開しました。こちらは後の西ゴート族となります。


ゲルマン社会の再編

今回は、民族大移動前のローマとゲルマン社会についてです。


<ゲルマン社会の再編>

ゲルマン民族は、4世紀後半に始まった大規模な移動の前から、リーメスを介し、ローマと交流を持っていました。略奪遠征などで、帝国と対立することも多々ありましたが、交易なども行われ、平和的な交流も盛んでした。ゲルマン人は、前6世紀頃からスカンディナビア南部、中央アジア北部に、インド=ヨーロッパ語族のうち、ゲルマン語を話す人間集団として生まれました。

彼らは小規模な部族「ゲンス」を形成していました。この部族は、血縁関係に結ばれたような堅固なものではなく、分裂と融合を繰り返す、極めて流動性の高い集団でした。初期のゲルマン部族は、族長が血統原理によって支配の正当性を主張し、祭司を兼ねる神聖王でした。

しかし、ローマとの交流によって生じた貧富の差の拡大、ローマ製品への強い嗜好は、ゲルマン社会を変化させていきます。族長の性格は、戦闘における軍隊指揮能力に重きを置いた軍隊王へと変わっていきます。こうした社会変化に影響され、ゲルマン人の間ではマルコマンニ戦争が起ます。この戦争により複数の新たな部族が誕生しました。これらの新生部族は、より良い土地を求めて、帝国内へ侵入していったのです。


帝政末期の都市と農村

今回はローマ帝国が衰え行く中での、都市と農村の変化についてです。


<帝政末期の都市と農村>

帝国行政の、末端の単位は都市「キウィタス」でした。キウィタスは、都市とその周辺領域までを含む大きなものでした。キウィタスを支配したのは、都市の参事会員「クリアーレス」たちでした。参事会員になるためには大きな財力が求められました。5世紀に入ると、それまで異民族を帝国外部に止めていたリーメスの維持が困難になり、帝国は対蛮族の防衛政策を転換します。防衛拠点は各都市が担うものとされました。そのため、キウィタスには城壁が築かれ、城壁のコストを下げるため市域は縮小されました。

都市の周囲には大規模な農業拠点「ヴィラ」が設けられていました。ヴィラの所有者はセナトール貴族や都市参事会員でした。さらにその外周には、土着民の経営する農村地域が広がっていました。


帝国統治の担い手とその変容

共和制ローマにおいての、国家運営の担い手の中心は元老院議員「セナトール」でした。帝政ローマが発足し、国家統治における皇帝の権力が増したとはいえ、いまだセナトールは権力の中枢にいました。4世紀前半の皇帝の組織改革によって、従来のセナトールに加え、新しく抜粋された人材がセナトールの肩書きを得、その肩書きは世襲のものとされるようになります。こうしてできた、帝国の新しい指導層はセナトール貴族と呼ばれます。彼らは、高級官僚として、広大な土地の所有者として帝国を支配しました。また、セナトール貴族は互いの婚姻関係により社会的に結ばれた身分を形成していました。

都市部でキリスト教が広まると、セナトール貴族の司教への転進が頻繁に見られるようになります。キリスト教会は、信者の増加と共にその影響力を大きくし、 行政権などの俗界における権利もっていました。そのため、教会の重要ポストである司教の位は、セナトール貴族にとって魅力的な地位でした。また、帝政末期 になると、解体しつつあった帝国の業務を引き継ぐ形となった、キリスト教での要職への転進は、変わりつつある世界のなかで、常に影響力を持ち続けるために は重要なことだったのです。


キリスト教の拡大

現在進行中のHP作成に伴って更新が時間・内容的に不安定になっています。今回は、中世史を流れの中で紹介していこうと思います。まずは、帝政ローマ末期の地中海世界からです。

 


 

<キリスト教の拡大>

中世ヨーロッパという時代の形成において、ローマ帝国という物質的母体と、キリスト教という精神的母体を欠かすことはできません。キリスト教が広まる以前は、ギリシア由来で、さらに征服した土地の土着の神々を融合させた多神教が、帝国の宗教の中心でした。しかし、中近東に興ったキリスト教は、その独自の特徴である慈愛の精神を発揮しながら、帝国各地に広まっていきました。3世紀になると、カルタゴ、アンティオキア、アレクサンドリアなどの大都市で、神学が発達し、キリスト教の教義の母体を形成していきます。そうした状況の中、311年にはガレリウス帝により、キリスト教が初めて公式に認可されます。313年にはコンスタンティヌス帝がミラノ勅令により、キリスト教を完全に公認しました。そして、キリスト教認可から1世紀もたたないうちに、テオドシウス帝の勅令により、キリスト教はローマ唯一の国教に定められ、他の宗教は異教とされるに至りました。


        
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