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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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ヌルシアのベネディクトゥス-修道制の父

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▲ヌルシアのベネディクトゥス (フラ・アンジェリコ)

ヨーロッパ修道制における最重要人物に聖ベネディクトゥス(480~550頃)がいます。彼はイタリア中部のヌルシアの名門に生まれました。彼は学業のためにローマへ赴きましたが、そこで多くの学生たちが悪徳に染まっていくさまに反感を持ち、その後はローマを離れ、隠修士として山中で修道生活を始めました。ベネディクトゥスの周りには、彼を慕う弟子たちが集うようになります。529年、ベネディクトゥスは弟子たちのためにカシノ山に修道院を創設しました。世に名高い、モンテ・カッシノ修道院の誕生です。

もちろん、彼の偉大な業績はイタリアに一修道院を創設することだけでは終わりません。聖ベネディクトゥスの名を、ヨーロッパ中に知らしめているのは、彼がモンテ・カッシノ修道院を建てた翌年に著した「ベネディクトゥス戒律」です。この戒律は序文と73の章から成り、修道士に求められる清貧、服従、謙遜について、修道院での典礼から食事までに渡る日常生活について、さらに修道院への受入などについて規定したものです。

この戒律は、最終章に「最小にまとめたこの入門用の戒律」とあるように、東方の修道制が、時に厳し過ぎるくらいの苦行を課していたのに対し、普通の人でも受容できるような配慮がなされているのが大きな特徴でした。この特徴は、ベネディクトゥス戒律がその後、西ヨーロッパ全域の修道院に採用されていく要因になりました。

しかし、聖ベネディクトゥスが修道院を創設し、独自の戒律を定めた6世紀は、修道院制度の緩みが加速していった時代でもありました。貴族出身者が多くを占める修道院は労働を厭う気風を醸し出し、またフランク王国では王族の子女が修道院に入ることが多くなり、このことは修道院自体の退廃をもたらし、修道院と俗権との関係を深めていきました。このように修道院が東方の厳格な禁欲修行と隔たっていく中で、西ヨーロッパの修道制に改革をもたらしたのは、アイルランドからの風でした。

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レランス亡命修道院-ガリア司教の苗床

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▲レランス修道院

東方を起源にした修道制は、南フランスを経由して西ヨーロッパ世界に伝わってきました。西ヨーロッパにおける初期の修道院として有名なものに聖マルムティエ修道院と、レランス修道院があります。前者の聖マルムティエ修道院は372年、聖マルティヌスによってトゥール近郊の地に創設されました。この修道院は共住修道制と隠修士制をミックスしたようなもので、修道士たちは食事と礼拝の時間を除いて、独居して修行をしていました。聖マルムティエ修道院は西フランス地域の修道制の中心として一定の役割を果たしましたが、戒律と呼べるようなものがあったのかが微妙であり、その後の修道制への影響はあまり大きなものではありませんでした。

後者のレランス修道院は400年頃、エルサレム巡礼から帰還した北東ガリア貴族の聖ホノラトゥスによって、南仏沖合いのレランス島に創設されました。聖ホノラトゥスにはエルサレムを訪れたことで、直接東方の修道制に触れ、それをヨーロッパに持ち帰ってきたのです。レランス修道院では東方由来の戒律が採用されたと考えられていますが、聖ホノラトゥス自身が執筆した戒律が使われていたとする説もあるそうです。その戒律には禁欲や悪徳を免れるための実践的な規則が記されています。

また、レランス修道院の修道士の多くは、ゲルマン民族の侵攻を逃れてきた北部ガリアの貴族層でした。そのためこの修道院は避難所的な修道院として、聖職への転進を図りつつあったセナトール貴族を取り込み、彼らを身分にふさわしい司教として南フランスを中心とした司教座に送り込んでいきました。5世紀頃に活発であったこのような動きは、ある歴史家にレランス修道院を「ガリア司教の苗床」と言わしめるほどでした。その後、レランス修道院は貴族勢力の支援や、司教座との関わりの中で、フランク王国の修道制に大きな影響を与えていくことになります。


アントニウスとパコミオス-禁欲の潮流と実践

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▲「聖アントニウスの誘惑」 (ヒエロニムス・ボッス

修道院の活動は煩悩渦巻く俗世から抜け出し、肉欲、食欲その他の欲求を退けて、使徒的な生活を送ることで、神との一体感を得ることを目的としています。この禁欲思想はキリスト教の広まりを受けて大きな潮流となりましたが、キリスト教が伝来する以前にも禁欲を尊ぶ思想は地中海世界に存在していました。

古代ギリシアやローマにおいて、性行為は人間の体からプネウマ(生命活動の源泉)や熱を奪ってしまうと考えられていたので、過度の行為は肉体の疲労、ひいては精神の自由を害してしまうと考えられていたのです。このような古代から受け継がれてきた思想に、救世主の清貧な生き方を模倣するキリスト教の思想が覆いかぶさる形で、初期修道院創設に不可欠な禁欲思想の下地が作られていったのです。

3、4世紀に萌芽した初期の修道制には大きく二種類のものがありました。ひとつは独居生活の中で禁欲に勤しむ隠修士制と、私たちがよく知る共同体内において一定の戒律の下で共に生活する共住修道制です。後者が一般的な修道制として西ヨーロッパ世界に伝わりました。これらの修道制はいずれも、エジプト、シリア、パレスティナ、アナトリアなどの東地中海世界で生まれました。

最初の修道士とも呼ばれる、隠修士の代表格が聖アントニウス(251~356)です。彼はエジプトのとある村の裕福な家の子でしたが、20代のあるとき、全ての財産を投げ捨て、親兄弟との絆を断ち切って、禁欲生活を実践し始めました。彼の活動は、たんに一人の男が隠修士になったという事実を生じさせただけに留まらず、彼についての伝記「聖アントニウス伝」によって隠修士としての生活のモデルを提供し、多くの人々を修道生活へ誘う役割を果たしました。

これに対し、共住修道制を始めた修道士の代表格はパコミオス(290頃~346)です。彼はキリスト教への改宗後、隠修士として数年を過ごした後に修行を行う同志たちを集めて、厳格な戒律に基づいた生活を送る共同体を創設しました。彼は、それまでの隠修士が究極には自己の救済のみを求めていたのに対し、禁欲の辛さに耐えられないような修道士たちを助けるために、友愛的な共同体として修道院をつくりました。パコミオスの共住修道制は、後に西ヨーロッパの修道制のモデルとなり、さまざまな改革を通して中世の社会構造の中に組み込まれていったのです。


私有修道院

修道院というと、貴族権力から独立した、教会組織に属したものであると思いがちです。しかし、ほとんどの修道院が教皇の指導下に置かれるようになるのは、意外にも遅く11世紀になってからのことです。西ヨーロッパに初期の修道院が建てられてから実に500年の間、教皇権の及ばない修道院があったのです。これらの修道院は、王や貴族の支配の下で建立されました。今回は、特に9世紀頃に活発だったとされるの貴族の私有修道院、自家修道院とも呼ばれるものについて紹介します。

自家修道院は、貴族が自らの領地内に創設した修道院で、これらの修道院では創設者やその祖先のために祈祷が行われ、創設者一家は私有修道院に埋葬されました。しかしながら、もちろん貴族たちは、死後の安寧だけのために、私費を投じて修道院を建てたわけではありません。

まず、修道院は創設者の子息を受け入れる養育の場となりました。これにより、兄弟間の遺産分割による領地の分散がいくらか食い止められました。また、女子修道院を創設し、結婚の予定のない娘をそこの院長として入れるということも行われました。驚くべきことに、たった12歳の少女が女子修道院の院長となることさえあったようです。

家族の一員が住む場所となるほかに、修道院は領地支配のためにも重要な役割を果たしていました。まず、修道院には創設者の宿泊を受け入れる義務がありました。自家修道院は、領地巡回の必要がある貴族の外泊施設の役割も持っていたのです。また、修道院は往々にして領主が投じた費用よりも多額の寄付を集め、創設者は自由にこの寄付金を利用することができました。また、文字の読めない領主も多かった時代に、読み書きのできる修道士を文書管理人や使者として使役できるのも、私有修道院から得られる利点でした。貴族はこのように、聖と俗、両面の利益のために、修道院を創設したのです。


聖職者の階位と業務-司教と司祭

中世ヨーロッパの世界において、人々はその生業から「祈る人」「戦う人」「働く人」に分けられていました。今回取り上げるのは「祈る人」についてです。キリスト教が世界を満遍なく覆いつくしていた時代にあって、彼ら聖職者は今よりはるかに大きな勢力として存在していました。祈る人はキリスト教の布教と、それに伴う聖職者の増加に伴い、体系化された組織をつくり、聖職者に階位を設けました。

最上の階位は司教で、彼らは初め都市部に多かったキリスト教徒たちの指導者でした。次にくるのが、宗教的職務は司教と同じながら、束ねるべきキリスト教徒が少ない司祭です。司教がローマ時代の属州の中心都市に住み、広大な司教区の信徒を指導したのに対し、司祭はひとつの村や都市をいくつかに分けた街区ごとに置かれ、直接的に信徒と交わるのが仕事でした。司教と司祭の下には、助祭や副助祭、侍祭、祓魔師、読師、守門などの階位がありましたが秘蹟(サクラメント)を行えるのは司祭以上のものに限られたため、彼ら下級階位の祈る人は司祭となるまでの修行過程と見なされ、業務も補助的なものでした。

司教の上には教皇や大司教がありそうなものですが、実際には大司教はただ大きな司教区、権力を持つ「司教」であり、教皇は「都市ローマの司教」でした。しかし、ローマが古の帝国の首都であり、また聖ペテロが初のローマ司教を勤めたことから教皇座は特別なものとされたのです。司教は広大な司教区を支配し、多くの司祭を統括することから行政的役割を持つことになります。免税特権を持ち、また王侯貴族から多くの寄進を受けた彼らは、しばしば聖界にいながら領主として台頭しました。司教は自分の管轄地において封建領主と同じように独自の裁判権を行使し、中心地の都市では司教座大聖堂(カテドラル)を保持しました。もちろん、司教一人で全ての業務をこなすことはできないので、都市には司教の補佐を勤め大聖堂を管理する聖堂参事会が生まれます。司教は新たな司教やそれより下の階位の聖職者への叙任権を持ち、俗界諸侯のように国王たちの顧問になったりもしました。このように当時の支配階級に属していた彼らの出自は(聖職者が少なくとも建前上は世襲がないことから)貴族階級ということが多々ありました。

司祭は上級貴族のような司教と大きく異なり、小教区の庶民たちの宗教上の導き手でした。司祭は信徒からの供物やお布施の何割かを自身の聖職録に当てていましたが、それでも生活ぶりは周りの農民と大差なく、司祭が農耕に従事するのは一般的であったようです。中世初期にはラテン語もままならないような司祭も多かったようですが、グレゴリウス改革などの諸変革を経てそのようなことは減っていったようです。

司祭の職務には毎週日曜のミサや祝日に行われる宗教行事などがありましたが、その他に新生児への洗礼、冠婚葬祭の儀式などがありました。ここからはまさに揺り篭から墓場まで、日常生活の全てに関係していた教会の姿を見ることが出来ます。先日新聞で、小説家の佐藤賢一さんのコラムで聖職者を取り上げていたのですが、それによると聖職者は今の公務員のような存在だったといえるそうです。洗礼は出生手続きであり、終油の秘蹟は死亡手続き、結婚まで教会の管理下にあり、中世で最小の行政区といえば小教区だったので確かにそう言えるかもしれません。

        
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