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"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。
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▲犂を使う農民(14世紀)
皮剥ぎ人になりたいだって、あんた正気かい?まあ、どうしてもっていうなら止めないけどよ…。
まともな職についている奴らは、誰もがあんたを避けて、口も利かないだろう。なんてったって、触れただけで穢れが移るんだ。もちろん、教会だって助けちゃくれない。聖餐だって一番後だ。隣人愛なんて糞食らえ!
もし、皮剥ぎ人が死んでも小教区の司祭さまは棺を教会には入れちゃくれないし、埋葬だってよくて墓場の隅っこ、悪けりゃ自殺者と同じ共同墓地に突っ込まれちまう。でもまあ、それでもいいっていうなら、話だけはしてやるよ。
聞いたところによると、一昔前までは皮剥ぎって仕事はなかったらしい。村の家畜が死んだ時は、そのまま野晒しにしておけば鳥や獣が勝手に始末してくれたんだ。そうでないときは、農夫が自分で穴を掘って埋めればそれで済んだ。
でも、都市があちこちで建設されるようになると、市内での死んだ家畜の処理が問題になった。家畜を埋める空間なんて狭苦し市壁内にはないし、もちろんそのまま放っておけば伝染病が広まっちまうから、そんなの言語道断だ。そこで、市内の死んだ家畜を市壁外に運び出して始末する役職が必要になったってわけだ。もちろんこのときに皮を剥ぐのさ。皮は高く売れるからな。
皮剥ぎは嫌われものだが都市になくちゃならない仕事だ。そんなわけで、市当局は皮剥ぎを保護して円滑に仕事ができるように取り計らってくれてる。皮剥ぎはツンフトこそつくれないが、当局から独占営業を認められていて、一定の地域内では他の皮剥ぎは営業することいができない。同業者と縄張り争いをする手間はないわけだ。
そして、もっと重要な特権として地域内の全ての家畜の処理権を持っている。これがまた、市民から皮剥ぎが嫌われる一因なんだ。市民は死んだ馬や牛から、果ては愛玩用の犬までも全て皮剥ぎに引き渡さなければならない。馬や牛の皮の価格が高騰すればするほど、皮剥ぎは儲かり、市民の皮剥ぎへの憎悪は増すってわけだ。
普通の市民は、自分たちが飼っていた家畜を、勝手に埋めたり処分刷ることは7許されない。禁令を破った市民の家の戸には皮剥ぎのナイフが突き刺される。その家の住人は、触れば賤民に落ちるナイフを自分で取り外すわけにもいかず、かといってそのままの不名誉な状況を続けるわけにもいかず、皮剥ぎに賠償金を支払ってナイフを抜いてもらうしかないわけだ。
ああ、言い忘れていたが哀れな自殺者を引き取って埋めるのも皮剥ぎの仕事だ。教会は自殺者を死んだ後も許さない。自殺者は市の境界あたりまで荷車で運んで、適当に土をかけて埋めればそれでいい。
なあ、ひどい仕事だろ。考え直せよ、と言いたいとこだが、もう無理かな。もう俺と一杯やっちまったもんな、兄弟。俺たちみたいな穢れた人間が選べる仕事なんて、そう多くないぜ。じゃあ、新しい皮剥ぎ仲間の門出を祝ってもう一杯といこうか。
ハンブルク、刑吏の酒場にて
中世は何をするにも身分が大きな意味を持つ社会でした。その人の身分によって日々の生活の質が違うのはもちろんのこと、法的な権利や刑法上の罰則までもが異なっていたのです。さて、中世の身分といえばすぐに思い当たるのが「戦う人」「祈る人」「働く人」の三区分ですが、この三区分は中世の期間を通して常に適応され得たわけではありませんでした。
中世初期、すなわちゲルマン部族社会の影響がいまだ色濃く残っていたフランク王国時代のヨーロッパでは、人の身分は基本的に「自由人」と「不自由人」の二つに大別されていました。これに、フランク王国の地方統治や封建制度の発達により明確な存在となっていった貴族が加わります。11世紀後半ドイツで出された、「神の平和」(戦争・私闘の禁止を定めた平和令)の中では、人々の身分を貴族・自由人・不自由人の三つに分類しています。
では、農民身分というものは、どのようにして生まれるにいたったのでしょうか。それには、農民に武装能力があるあどうかということが、大きく関わっていました。そもそも、フランク時代には農民であろうと貴族であろうと、自由人は王の求めがあれば従軍するという、古代ゲルマン部族に由来する原則が適応されていました。しかし、10世紀以降、機動力と破壊力を兼ねそろえた騎馬軍団の需要が高まるにつれて、騎士相当の武装をする能力の無い者の従軍価値は極めて小さいものとなっていきます。
12世紀、神聖ローマ帝国による平和令は農民が剣または槍を携行することを禁止し、同じ頃に農民は私闘権を失っていきました。自力救済が基本の中世社会においては、武装・自衛能力を持つことが自分の権利を主張する上で大きな機能をはたしていました。そのため、農民たちはもはや自分たちの権利を主体的に求めていくというよりは、貧者や聖職者、そして女性などと同じく保護の対象とされるようになりました。
武装能力を持つ領主は、農民を保護することで、農民の権利を代わって行使する権限を持ったのです。こうして、それまでの自由・不自由の区別に代わって、貴族(騎士)・農民の区別が生まれましたが、騎士と農民との間の保護・被保護の関係は完璧だったとは言いがたく、農民は常に戦争・野党の襲来・フェーデなどに怯えながら暮らしていたのです。