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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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皮剥ぎ、あるいは死体処理人


▲犂を使う農民(14世紀)

皮剥ぎ人になりたいだって、あんた正気かい?まあ、どうしてもっていうなら止めないけどよ…。

まともな職についている奴らは、誰もがあんたを避けて、口も利かないだろう。なんてったって、触れただけで穢れが移るんだ。もちろん、教会だって助けちゃくれない。聖餐だって一番後だ。隣人愛なんて糞食らえ!

もし、皮剥ぎ人が死んでも小教区の司祭さまは棺を教会には入れちゃくれないし、埋葬だってよくて墓場の隅っこ、悪けりゃ自殺者と同じ共同墓地に突っ込まれちまう。でもまあ、それでもいいっていうなら、話だけはしてやるよ。

聞いたところによると、一昔前までは皮剥ぎって仕事はなかったらしい。村の家畜が死んだ時は、そのまま野晒しにしておけば鳥や獣が勝手に始末してくれたんだ。そうでないときは、農夫が自分で穴を掘って埋めればそれで済んだ。

でも、都市があちこちで建設されるようになると、市内での死んだ家畜の処理が問題になった。家畜を埋める空間なんて狭苦し市壁内にはないし、もちろんそのまま放っておけば伝染病が広まっちまうから、そんなの言語道断だ。そこで、市内の死んだ家畜を市壁外に運び出して始末する役職が必要になったってわけだ。もちろんこのときに皮を剥ぐのさ。皮は高く売れるからな。

皮剥ぎは嫌われものだが都市になくちゃならない仕事だ。そんなわけで、市当局は皮剥ぎを保護して円滑に仕事ができるように取り計らってくれてる。皮剥ぎはツンフトこそつくれないが、当局から独占営業を認められていて、一定の地域内では他の皮剥ぎは営業することいができない。同業者と縄張り争いをする手間はないわけだ。

そして、もっと重要な特権として地域内の全ての家畜の処理権を持っている。これがまた、市民から皮剥ぎが嫌われる一因なんだ。市民は死んだ馬や牛から、果ては愛玩用の犬までも全て皮剥ぎに引き渡さなければならない。馬や牛の皮の価格が高騰すればするほど、皮剥ぎは儲かり、市民の皮剥ぎへの憎悪は増すってわけだ。

普通の市民は、自分たちが飼っていた家畜を、勝手に埋めたり処分刷ることは7許されない。禁令を破った市民の家の戸には皮剥ぎのナイフが突き刺される。その家の住人は、触れば賤民に落ちるナイフを自分で取り外すわけにもいかず、かといってそのままの不名誉な状況を続けるわけにもいかず、皮剥ぎに賠償金を支払ってナイフを抜いてもらうしかないわけだ。

ああ、言い忘れていたが哀れな自殺者を引き取って埋めるのも皮剥ぎの仕事だ。教会は自殺者を死んだ後も許さない。自殺者は市の境界あたりまで荷車で運んで、適当に土をかけて埋めればそれでいい。

なあ、ひどい仕事だろ。考え直せよ、と言いたいとこだが、もう無理かな。もう俺と一杯やっちまったもんな、兄弟。俺たちみたいな穢れた人間が選べる仕事なんて、そう多くないぜ。じゃあ、新しい皮剥ぎ仲間の門出を祝ってもう一杯といこうか。

ハンブルク、刑吏の酒場にて

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服の色から考える修道士の表象

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▲鎌で麦を刈る修道士(シトー会)1109年
茶色の頭巾付きローブを着て、腰を縄で締めている。

質問に答えるかたちで…

Q:年代、場所はどこだか分かりませんが、中世ヨーロッパの修道院で、茶色の衣服で腰周りに紐かベルトか何かを結ぶスタイルで、その茶色の下に更に白い衣服を重ね着していたところはどこかありますでしょうか?インターネット上で探した限りは、修道士の衣服は黒、白、茶のいずれかを基本色としている印象で、茶色の下に白を着ている図というのは今のところ自力では見つかっていません。もしご存知でしたらいつ頃のどの教会(または宗派?)というのを教えて頂けますと幸いです。



A:ヨーロッパにおける修道制の主流となったベネディクト会(9世紀~)の修道士は黒い修道服を採用したために「黒い修道士・黒僧」と呼ばれました。クリュニーの修道院もこれに含まれます。一方、修道院改革の中で生まれたシトー会(12世紀~)の修道士は黒い袖なしの下に白い衣服を着用していたために「白い修道士・白僧」として知られています。また13世紀に出来た托鉢修道会であるフランチェスコ会士は、同じように衣服の色から「灰色の修道士・灰僧」と呼ばれました。

このように中世の修道士は衣服の色と関連付けられた名を持っていましたが、衣服の色によって修道士を区別するというのは実際には困難で、この区別は観念的なものでした。というのも、これらの色は染色や脱色によってつくられたというより、粗末な未染色の羊毛をそのまま織った結果として生まれたものであるからです。そのため、修道服の色は同修道会内でも黒、白から灰色、褐色を含むものまで様々だったのです。極端に言うと、灰色服のベネディクト会士も、黒服のフランチェスコ会士も珍しくなかったであろうということです。未染色の衣服を着ることは、赤や青などの派手な染色が好まれた中世にあって、修道士の清貧さや質素さの象徴でした。

ベルトないし腰紐についてですが、中世人の一般的な服装であったローブや丈の長いチュニックを着る際によく使われていたようです。フラチェスコ会士はローブを縄(コルド)によって締めていたためにコルドリエという名で呼ばれることもあるそうです。あえて質素な縄を使うのは物欲を排す修道の理念にかなっていたわけです。また、下に着ている衣服についてですが、こちらも中世人一般が白い(未染色)リンネル製の肌着を用いていました。ただ、夏の間はローブやチュニックを地肌にそのまま着ることもあったようです。

答えをまとめますと茶色の衣服を着た修道士が、どこの修道会に属すのかは明確には判別できないと思われます。ベネディクト会の「黒僧」やシトー会の「白僧」のようにどこかの修道院の衣服として茶色が定められていたという可能性はないとも言い切れませんが、今のところ聞いたことはありません。また、ベルトは中世人一般に使われており、肌着と思われる白い衣服は丈の長い衣服に隠されてしまっているのではないかと思われます。

緋色の教皇顧問-枢機卿の制度と職務

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▲教皇と枢機卿

世界史にも登場する枢機卿といえばフランス国王で宰相を務めたリシュリューとマザランがいますね。また、ローマ法王(テレビではこちらの表現が多いですね、教皇と同じ意味です)の選出にコンクラーベを行うというイメージもあるかもしれまんせん。ここからは、中世に生まれた枢機卿の制度についてみていきます。

中世におけるキリスト教会の勢力は、宗教的、権威的なものに留まらず、政治的、社会的なものでもありました。教皇庁は、軍事力こそ王侯に敵わなかったものの、財政や教皇勅書による圧力を通じて世俗世界に大きく干渉していました。このような実力ある教会が形成されたのは、11世紀から12世紀に隆盛した教会改革の時代でした。この時代の教会は聖職者の妻帯、聖職売買、俗人の叙任などの風紀の乱れにより俗権の干渉を受けやすい状況にありました。教会はこの状況を打破し、教皇庁を至上の権威とするローマ教会という、キリスト教的な秩序の理念を実現し、教会の俗権からの開放を達成しようとしていました。

教会組織の幹部である枢機卿が制度として形成されたのはこの教会改革の時代のこと。元々、枢機卿とはローマの教会堂に交代制で勤務する、ローマ近郊の聖職者たちのことを指す名称でした。主聖堂であるラテラノ聖堂に週番で勤めたのは司教枢機卿であり、市内の4つの聖堂で同じく週番制で典礼を行っていたのが司祭枢機卿です。ラテラノ聖堂やローマの街区を管轄として仕事をする聖職者たちは助祭枢機卿と呼ばれました。司教枢機卿7人、司祭枢機卿28人、助祭枢機卿18人の計53人で枢機卿は始まったわけですが、定員が満たされることは少なかったようです。

11世紀頃から、枢機卿は単なるローマの週番聖職者から、教会を引導する幹部的な立場に変化していきます。教会改革に際し、司教枢機卿の活躍があり、彼らは教皇の助言者としての地位を固め、ついには教皇選出権を握るまでになりました。1059年には、教皇ニコラウス2世によって教皇選出規定が出され、司教枢機卿による教皇選出が一般化します。さらに、叙任権闘争により教皇と皇帝側の対立教皇が並立している裏側で、司教枢機卿を優先する教皇選出規定に反発する司祭枢機卿や助祭枢機卿を味方に取り込もうとする両陣営の動きにより、司祭枢機卿や助祭枢機卿の地位も上昇し、1100年頃までには司教も司祭もない、一元化された枢機卿団が生まれます。この枢機卿団が現代まで教皇の選出権を持つことになるのです。ちなみに13世紀には緋色の服が枢機卿の装束とされるようになります。リシュリューもマザランも肖像画では赤帽子をかぶり、赤い服を着ていますね。

枢機卿の仕事は前述した教皇選出のほかにも、教皇の補佐役として教会の重要問題に対処したり、教皇特使としてヨーロッパ各地で教皇庁の外交官として活躍しました。教皇選出については1179年、第三回ラテラノ公会議により教皇選出には枢機卿団の3分の2の賛成が必要である旨が決められ、枢機卿団内の党派争いによって教皇が選出できないという事態を防ぎました。また、12世紀以降の教皇勅書には補佐役として、枢機卿の署名が添えられるようになっていきました。枢機卿団は教皇に破門、列聖、司教選任、教義などの教会の重要事項への助言を行い、教会裁判権の最高裁としての教皇の補佐のために司法の仕事も行っていました。

枢機卿はまた、教皇庁の政策を継続させるという役割も担っていました。教皇には高齢になってから就任する者が多いために在位期間が短く、十数年から数十年に渡って君臨する世俗の君主のように政策を一貫させることが難しかったんですね。そんな中、教皇が枢機卿団というひとつの集団から選出されたことは、教皇庁の意思の連続を可能にしたのです。また、教皇位の空位期間でも教皇庁は枢機卿団を中心としてまとまることが出来ました。枢機卿団によるこの集団指導体制は、トップの存在である教皇が頻繁に変わるという特質を持つ教皇庁において、重要な意味を持っていたのです。

 ▼リシュリュー     ▼マザラン

模擬戦争から儀式へ-馬上槍試合の変遷

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▲集団試合、トゥルネイ

中世ヨーロッパの騎士にとって、馬上槍試合への参加とても魅力的なことでした。戦いで力を発揮できれば名誉と賞賛を得ることができ、幸運にも貴族の目に留まれば家臣として雇ってもらえる可能性もありました。また、団体試合であるトゥルネイは中世の戦闘に欠かせない密集陣形での騎馬突撃をするための格好の訓練になり、また試合で勝つと賞金が手に入りました。もちろん、通信・交通手段の貧弱な中世においては、騎士同士の友人や知人と親睦を深める機会にもなったことでしょう。

馬上槍試合は、11世紀頃から中世全体を通して盛んに行われていました。試合は大きく団体戦のトゥルネイと、一騎打ちのジョストに分かれていました。我々がイメージする馬上槍試合はジョストということですね。ジョストは当初、大規模なトゥルネイの前座競技でしたが、後の時代にはジョストだけが独立して馬上槍試合を構成することもありました。初期の馬上槍試合は、ほとんど実践と変わらぬ状況で行われる模擬戦争で、武器も実践と同じものがつかわれていました。本当の戦争と違うのは、戦場に中立地点が設定されていることくらいでした。


▲一騎打ち、ジョスト

このような実戦さながらの競技は、当然のことながら多くの死傷者を出しました。1175年にラウジッツ辺境伯の息子は槍傷を受け、1216年にエセックス伯は馬に踏み潰され、それぞれ亡くなっています。このように高位の貴族たちですら、馬上槍試合の中で命を落としたことが年代記作者によって記録されています。もちろん、この他にも年代記に載ることがなく死んでいった、名も無き騎士たちも大勢いることでしょう。頻繁に起こる競技での死傷を少なくするために、馬上槍試合は規則を備え、競技的なものへと変わっていきました。例えば、槍の穂先を丸めて殺傷力を弱めたり、一騎打ちの際に騎士が正面衝突しないための柵を設けたりしました。

馬上槍試合は危険な競技でしたが、それでも騎士たちはこの競技が大好きだったようです。威信や尊敬を勝ち取ることができたこともその一因でしょうが、何より勝てば経済的な利益もありました。賞金を得るほかにも、競技中に捕虜にとった騎士からは、その騎士の身分に応じて定められた額の身代金を取ることができ、また戦いで倒した騎士の鎧と馬は勝者の物になりました。馬上槍試合は、ウィリアム・マーシャルのように下級騎士として生まれながらも試合の勝利によって成り上がり、イングランドの歴代王に仕えるまでの身分になるといったサクセス・ストーリーを生み出す反面、鎧も馬も失い、もっと悪ければ体の自由まで奪われる没落騎士も生み出しました。

しかし、多くの騎士に愛された馬上槍試合は、教会当局からは激しい非難を受けていました。騎士たちの派手な装飾や勝利の栄光を求める心は、キリスト教的に見れば虚栄心や傲慢の罪に当たるものです。馬上槍試合に付きものの豪華な饗宴は大食の罪を招く訳です。また、教会当局は十字軍やレコンキスタなどで異教徒に対して向けられるべき戦闘能力が、キリスト教徒相手に行使され、そこから無為に殺人が犯されることも非難しました。教会はただ非難声明を発するに留まらず、戒めのために馬上槍試合における死者をキリスト教徒として埋葬することを禁じています。また、当時のある説教師は競技のために農民の作物が踏み荒らされ、試合開催のために地域住民に重税がかけられることを理由に馬上槍試合に反対しています。

初期には戦争と大差なかった馬上槍試合は、時が経つにつれて、より儀式的、形式的なものへと変容していきました。騎士の突撃先方が密集歩兵戦法に対抗できなくなっていたという軍事的背景と、騎士道文学のように騎士たちが強さよりも雅なものに傾倒していく傾向が、この変化の背景にあったのだと思われます。もちろん、しつこく続けられた教会の圧力もあったことでしょう。中世末期から近世初期にかけて行われた馬上槍試合は、もはや軍事訓練や賞金稼ぎの意味を弱め、国家や大領主の威信を示すためのショーとなっていきました。 


ドゥームズデイ・ブック-なんのために書かれたのか

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▲ドゥームズデイ・ブック

1085年、グロスターで開かれたクリスマス会議の席。征服王ウィリアム1世は全国の土地とその保有者についての台帳を編纂するように指示しました。王国は七つの巡回区に分けられ、各巡回区が土地保有の情報を収集し、翌年 1086年の8月1日までには調査は終了しました。同日、ソールズベリでウィリアム1世はイングランド全土の領主からの臣従礼を受けます。遅くとも 1087年の王の死までには、二巻からなるドゥームズデイ・ブック(Domesday Book)が書物の形で完成したと言われています。

ドゥームズデイ・ブック編纂のための情報は、土地保有者と州の下位単位である郡(ハンドレッド)からの報告によって集められました。しかし、これらの情報は、用語や単位の面で一貫性のないものでした。農地の大きさはエーカーで書かれたり、犂隊の数で示されたり。森林の広さは飼育できる豚で表したり、実際の長さで測ったり。ハイドという租税徴収の単位となる面積も、土地によって広さがまちまち、といった状況です。

ドゥームズデイ・ブックは課税のための土地台帳(租税台帳)というのが通説ですが、これはどうやら間違いのようです。理由は三つあります。ひとつは、形式が租税査定に不向きな書き方をされていること。上述したように、地域ごとにバラバラな方法で記述されており、租税負担の総額を出しやすいような書き方になっていません。

ふたつめは、ドゥームズデイ・ブックの情報収集期間中、並行して別の租税調査を行っていたことです。ドゥームズデイ・ブックが基本的に州の範囲内で、土地保有者ごとの表記になっているのに対し、租税調査は郡ごとに記述されていたというように両者はまったくの別物です。そのため、ドゥームズデイ・ブックが租税台帳だとすると、これは二度手間ということになってしまいます。

最後の理由は、編纂のための調査に土地保有者の協力があったことです。編纂のための調査は1055年の12月から1056年の8月までの7ヶ月間という短期間で行われました。この限られた期間内で調査を完了するには、土地保有者の自発的な情報提供が不可欠です。土地保有者が普通は徴税に協力的でないのは現代でも変わりませんね。

ちなみに、全国調査に7ヶ月を要するというのは、現在の感覚からすると遅いようにも思われますが、交通・交信手段が未熟であった当時は会議の召集のみにさえ2ヶ月間の猶予を設けるのが普通であり、また調査の時期は北国イングランドの冬に当たっていたことを踏まえると、この期間は相当に短いものです。

租税台帳という説の他には、封建的奉仕のための台帳であったとする説もあります。つまり、国王がどれだけの奉仕を土地保有者に義務付けるかを把握するためのものであったという説です。これは保有者ごとの記述を行ったために正しいように思われますが、ドゥームズデイ・ブックにはこの目的を達するための情報よりはるかに多くのことが記載されており、どちらかというと土地の経済的資産(水車、粉挽き所、牧草地など)を総括したものでした。また、租税台帳でないとする第三の理由も、この説に反します。奉公とはいいつつも、好んで封主のために尽くす領主は例外的です。

ではドゥームズデイ・ブックはいったい何のために書かれたのでしょうか。まずドゥームズデイ・ブックは、誰がどれほどの土地・財産を持っているかを明らかにしているので、土地所有に関する訴訟が起きた際に参照することで、紛争を解決する手助けとなりました。また、ノルマン・コンクエストの後、イングランドで土地を獲得したノルマン貴族は、この新たに加わった土地の所有権が王権によって保障されることを望んでいました。このことは、調査の完了の際、ソールズベリで国王が臣従礼を受けたことに関わってきます。このように、土地保有者にはドゥームズデイ・ブック編纂による利益があり、このことが彼らの協力を引き出したのです。つまり、ドゥームズデイ・ブックは①土地にまつわる紛争の解決手段であり、かつ②土地所有者への土地授与(安堵)の証明書であったと考えられるのです。


小屋住農から豪農まで-様々な農民身分

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▲13cに描かれた鋤を使う農民

中世ヨーロッパを通じて、人口の9割が住んでいたのは農村地帯でした。この村に住んでいる人々は、概ね同じ社会的地位や財力を持った農奴で構成されている、というのが大雑把な農村像です。しかし実際には、大きな土地を所有する裕福な農民から、ほとんど自分の土地を持たずに小作人として働く小屋住農まで、様々な立場の農民が同じ村で暮らしていたのです。

農民たちの生活を左右したのは、歴史的・地理的背景、法的関係、そして経済力でした。歴史的・地理的背景には、土地の肥沃さや戦争の勃発などが関係しています。当時、同面積の耕地内での飛躍的な生産の増大はほとんど見込めなかったので、肥沃な土地に村があることは、それだけで農村全体の生活を向上させる要因となりました。フランスの北と南で、常に同じ種類や量の作物が作られたわけではないのはもちろんのことです。また、フェーデや国家間戦争の勃発は、軍隊の略奪・放火により、それだけで農村地帯に甚大な影響をもたらし、数年に渡って村が衰退するということもあったのです。

法律もまた、農民の地位を規定していました。例えば、イングランド王ウィリアム1世の命により編纂されたドゥームズデイ・ブックには臣民の階位が5段階で示してあります。一番上に来るのは自由民であり、以下、準自由民(ソークマン)、農奴、小屋住農(コターズ)、奴隷と続きます。この1世紀後には法的地位としての奴隷は消滅しましたが、これは彼らが農奴などのより上層の階級に組み込まれていったことによるものです。

このような位置づけはありましたが、自由民と農奴とを分けるラインが、常に明白だったわけではありません。土地に縛り付けられ、移住の自由のない農奴でも、何がしかの財産を持っていて、それを相続することができた点で奴隷とは区別されます。また、農奴によってはより多くの自由な特権を得ている場合があり、一概に不自由民とみなすことはできません。しかし、農奴の方が自由民よりも不利な条件を多く持っていたということは言えるようです。

農民の経済的地位は頻繁に流動したと考えられますが、法的地位よりは違いがわかりやすいものでした。例えば、イングランドでは農奴たちは一般に1ヴァーゲート(ないし半ヴァーゲート)と呼ばれる広さの土地を所有していました。1ヴァーゲートは現代の単位では約12haに相当します。半ヴァーゲートは普通の農奴一家が食べていくことができるおおよその最低限の土地面積でした。そのため、これより小さな土地しか持たない小屋住農は、後述の豪農の保有地や、領主の直営地での賃労働によって日々の糧を得ていました。土地の購入によって力を蓄えていった有力農民(豪農)は、当然のことながら全ての土地を自分の家族だけで耕作することはできないので、土地の一部を小作人に貸し出して運営していました。このように、農村には法的身分も経済力も大きくことなる人々が、様々な関係の中で暮らしていたのです。


医学と薬学の分化-中世の薬剤師

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▲ガリア人が薬草としていた植物。左から、イワヒバ、ヤドリギ。

古代の薬剤師たちは、調剤師であると同時に、薬草の採集人であり、医者であり、そして薬品の販売者でもありました。そのため、彼らは調剤医師と呼ばれることもあります。

有名な古代の調剤医師には、紀元前5世紀のギリシア人、ヒポクラテスや、『薬物学』を表したディオスコリデス、薬学の父とまで呼ばれるガレヌスなどがいます。彼らの時代に、多忙な調剤医師は薬品原料の収集を担わなくなり、調剤作業に時間をとられないようにするために、助手に薬の調合を任せるようになっていきます。しかし、医師と薬剤師との完全な分化が達せられるのには、中世盛期(11~13世紀)を待たねばなりません。


古代の薬学が中世に継承されていったのは、政治家でありキリスト教著述家でもあったカッシオドルス(490頃-583)の功績に大きくよっています。彼は、著作の中で修道士たちにヒポクラテス、ディオスコリデス、ガレヌスらの著作を翻訳し、複写し、学習することを奨励しました。これによって、古代の医学書から多くをまなんだ修道院は、中世初期の医学、薬学をほぼ独占しました。しかし、薬剤師としての商業的性格を強く持ちすぎた結果として、教皇による禁止令が出されたこともありました。

また、イスラーム世界も中世の薬学に大きな影響を与えました。イスラーム世界の薬学は、広大な支配地地域からの文化を吸収し、またギリシアの古典の知識を取り入れて、遂げていました。この発展がヨーロッパにもたらされたことは確かに重要でしたが、イスラーム薬学の導入の一番の成果は薬学と医学を分離させたことです。この分離は、薬学と医学それぞれの学問領域が急速に拡大したことにより、ふたつを同時に習得することが非常に難しくなったことにより発生しました。イスラム文化を敏感にキャッチしていたサレルノ大学では11世紀後半、フランスでは12世紀末に両者の分離が確認されています。

薬学と医学が分離し、調剤が俗界の人々にも扱われるようになると、彼らは商人と同じく同業者組合(ギルド)を結成するようになりました。12~14世紀にかけて活発に作られた薬剤師ギルドは、他のギルドと同様に品質保持や価格維持、そして相互扶助のための団体として存在していました。パリの薬剤師は王権により、薬の調剤以外の作業への従事、劣化した薬品をの使用や薬品の分量の誤魔化し、そして処方箋がない場合の毒薬や下剤の調合などが禁じられていました。

また、薬剤師ギルドは、多くの場合構成員に香辛料商を含んでいました。これは意外なもののように見えますが、実はそれほど突飛なものではありません。なぜなら、外国由来の貴重な植物を扱うという点では、両者は似たもの同士だったためです。しかし、このことは両者の間の垣根がまったくなかったということを意味するわけではなく、薬剤師と香辛料商は時たま各々の職域をめぐっては、闘争を繰り広げていたようです。

中世ドイツの兵農分離-農民身分の成立

中世は何をするにも身分が大きな意味を持つ社会でした。その人の身分によって日々の生活の質が違うのはもちろんのこと、法的な権利や刑法上の罰則までもが異なっていたのです。さて、中世の身分といえばすぐに思い当たるのが「戦う人」「祈る人」「働く人」の三区分ですが、この三区分は中世の期間を通して常に適応され得たわけではありませんでした。

中世初期、すなわちゲルマン部族社会の影響がいまだ色濃く残っていたフランク王国時代のヨーロッパでは、人の身分は基本的に「自由人」と「不自由人」の二つに大別されていました。これに、フランク王国の地方統治や封建制度の発達により明確な存在となっていった貴族が加わります。11世紀後半ドイツで出された、「神の平和」(戦争・私闘の禁止を定めた平和令)の中では、人々の身分を貴族・自由人・不自由人の三つに分類しています。

では、農民身分というものは、どのようにして生まれるにいたったのでしょうか。それには、農民に武装能力があるあどうかということが、大きく関わっていました。そもそも、フランク時代には農民であろうと貴族であろうと、自由人は王の求めがあれば従軍するという、古代ゲルマン部族に由来する原則が適応されていました。しかし、10世紀以降、機動力と破壊力を兼ねそろえた騎馬軍団の需要が高まるにつれて、騎士相当の武装をする能力の無い者の従軍価値は極めて小さいものとなっていきます。

12世紀、神聖ローマ帝国による平和令は農民が剣または槍を携行することを禁止し、同じ頃に農民は私闘権を失っていきました。自力救済が基本の中世社会においては、武装・自衛能力を持つことが自分の権利を主張する上で大きな機能をはたしていました。そのため、農民たちはもはや自分たちの権利を主体的に求めていくというよりは、貧者や聖職者、そして女性などと同じく保護の対象とされるようになりました。

武装能力を持つ領主は、農民を保護することで、農民の権利を代わって行使する権限を持ったのです。こうして、それまでの自由・不自由の区別に代わって、貴族(騎士)・農民の区別が生まれましたが、騎士と農民との間の保護・被保護の関係は完璧だったとは言いがたく、農民は常に戦争・野党の襲来・フェーデなどに怯えながら暮らしていたのです。
 


石工


▲中世の石工

世界中をあちこち旅して廻り、歴史に残る偉業を残したいとは思わないかね?そうは思っても、一昔前の遍歴の騎士よろしく、戦いの日々に身を投じるのはちとごめんときた。石工は、そんな君にぴったりの仕事だよ。

なんといっても、石工の作品は永遠に残るんだ。都市を守る堅固な城壁がいらなくなるわけないし、この世にキリスト教徒が住んでいる限り、世界には教会が必要だ。


城壁や教会堂のほかにも、建てるべきものはたくさんある。信仰に身を捧げる修道士のための、静かな祈りの場所である修道院や、高貴な方々のための新しい城砦なんかだ。でも、修道院や城砦がいくつも並んで建てられることなどそうないし、ひとつの都市が連続して2つも3つも大聖堂を建立することもない。そんな余裕はどんな都市にもないからね。だから、石工は仕事がありそうな場所に、自分から赴いていく必要がある。だからいろんなところを旅するのさ。もっとも、安定した生活を望むのなら、都市の名士のために邸宅やギルド会館などの建築を担う、都市の石工として生活するという道もあるんだがね。

だが、自分の技術を最大限に駆使して、万民のために仕事をしたいと思うなら、目指すべきは大聖堂の建設だ。もちろん、建築を計画を立てるのはお偉いさんだ。名士たちをはじめとする都市住民の寄付が、莫大な費用負担の多くを占めるし、大聖堂の設計を施すのは建築家だ。

でも、集まった資金と設計を基にして、無骨な石の塊を、洗練された聖堂へと生まれ変わらせるのは、なんといっても俺たち石工なんだ。天まで届くかのような尖塔や、ステンドガラス。いくつもの柱に囲まれた大伽藍を見た人々は、神への信仰心を新たにすると同時に、これを建てた俺たちへの尊敬の念を胸に抱くに違いない。


君が徒弟期間を終えて、晴れて職人として遍歴に出る際には兄弟団(中世における相互扶助団体。構成員はしばしば同業者組合に同じ)から君独自のマークを与えられる。このマークを、自分が削った石に掘り込むことで、君の仕事量は一目瞭然になるわけだ。仕事量は給金支払いのための大切な指標になるし、石材の品質保証にもなる。そうそう、給金といえば親方は職人の倍の給金が出るのが普通だから、せっかく石工になるのなら親方を目指したいものだね。

最後に、石工になるにあたっては注意することがある。石工の仕事には危険がつきものだ。水と小麦しか扱わないパン屋と違って、石工は鋭い工具を扱うし、建築の時には高い位置で仕事をしなければならないこともあるから、転落の危険だってある。利腕を負ったりしてしまえばそれまで、石工としてはもう役立たずだ。

そんなとき頼りになるのは兄弟団。だから、職人なら誰でもそうだが、特に石工になるんだったら、兄弟団の仲間たちとの関係を良くしておくように忠告しておくよ。特に
俺とは仲良くしておいた方がいいと思うね。

ドイツ、遍歴石工の集まる宿屋にて

粉挽き屋、あるいは水車小屋管理人


▲中世の風車

粉挽き人になりたいだって?止めておいたほうがいいと思うよ。なんていったって、粉挽きは村皆の憎まれ役なんだから。粉挽きは村から離れて、一人っきりで水車小屋を管理している。だから周囲の目のないところで農民から集めた小麦の目方をごまかしているに違いないと思われているのさ。

もっとも、領主のバナリテ(水車小屋、パン焼き竈など公共施設の使用強制)があるから、使用量を払って粉を挽いてもらうより、自宅の石臼を使いたいと思っている農民たちは、君が目方をごまかそうが、ごまかすまいが、粉引きの存在を憎々しく感じているんだけどね。


それでもいいと言うのなら、水車の管理権を委託してもらうために、まずは水車を所有する領主と契約を結ぶ必要がある。水車小屋を建て直したり、堰(水車の効率を高めるためにつくるんだ)を修繕したりする場合、ほとんどの費用を領主が払ってくれる。でも、粉を挽くための石臼やその運搬にかかる費用は、領主だけでなく粉挽きも負わなければならないよ。それから、水車や装置を動かす大小の歯車などは、粉引きが自前で修理、購入しなければいけないんだ。

人に憎まれて、なおかつ維持費のかかるだけの仕事なんて誰もやりたがらない。もちろん、この仕事には旨味がある。まず、粉挽きは村の共同体に属していないから、村長による下級裁判権の支配を受けない。農民たちの理不尽な訴えにも法的に悩まされることはないわけだ。

さらに、水車小屋の管理には水車用地の経営というおまけもついてくる。いや、おまけというには大きすぎるかな。この用地にはいくらかの耕作地や菜園、牧草地の他に、水車を回す河川の使用権も入っているんだ。粉挽きは川で魚を獲ることもできるのさ。領主権のひとつである河川利用権に守られた川で農民たちが釣りをしようものなら、たちまち罰金を課されてしまうのに比べ、すごい待遇だろ?


これだけの経済的優位にある粉引きは、当然ながら領主への貢納も大きい。でも、それを差し引いても粉挽きは農民たちとは比べられないほどに裕福だ。もし、君がそれほど野心家でなくて、出来るだけ人にも憎まれたくないのなら、都市の粉引き屋をお勧めするよ。都市内では当局の監視が厳しくて、粉挽きは下級役人のような位置づけになる。そもそも、穀物の売買や、家禽の飼育(穀物が飼料となる)が禁止されるから、たとえ目方をごまかしてもあまり利点はないんだ。

都市の粉挽きでは不満かい?まったく君は野心家なんだね。それならクレルヴォー修道院で水車小屋に空きがあると聞いたよ。受付係りの修道士ヨハネスを訪ねてみるといい。

フランス、シャンパーニュの修道院にて、1206年

        
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