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"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。
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【人口増加】
前回紹介した農業の発達により耕作地からの収穫量が倍増、それに伴ってヨーロッパ全体の人口は大幅に増加しました。現在のフランスの人口はおよそ6000万人ですが、西ヨーロッパ全体のこの数字に達したのは1200年頃のことでした。1000年当時には4000万人ほどであったことを考えると200年で1.5倍の伸びです。それからも人口増は止まらず1300年には8000万人にも膨れ上がります。これにより多くの都市建設が活発になり、都市民が増えたことは事実ですが、やはり一番影響を受けたのは人口の9割を占める農民たちでした。(詳しくは中世の人口についてを参照)彼らは土地不足に苦しむようになり、それが中世農業革命の第二波ともいえる大開墾運動を引き起こしました。
【大開墾時代】
フランスでは12世紀頃ピークを迎えた開墾運動は、大きく分けて三つの方法で行われました。すでに村落共同体を形成していた農民たちが、自分たちの村の周囲を少しずつ切り開いて開墾していったもの。シトー会などを中心とする修道会組織が、修練の場を求めて森に入り、そこに築かれた修道院を中心として開拓が行われたもの。または、領主などの有力者が指導力を発揮して、農民に森の中に新たな拠点を作らせて、そこから村を広げていくというものです。開墾運動は西ヨーロッパの内側だけに留まらず、エルベ川の彼方、東ドイツへの植民やイベリア半島への植民も活発に行われました。
【商用作物の生産】
それまでどうにか食っていくので精一杯だった農民に、それまでの数倍の収穫が得られるようになり、その結果しだいに主要作物(小麦やライ麦)以外の生産が増えてきました。葡萄の栽培は特に活発で、一時期にはなんとイングランドにまでも広まりました。ボルドーやブルゴーニュのワインなどは銘柄としての価値を持ち、経済活動と共に発展した交通網によって各地に輸出されました。また、藍色の原料となる大青などの染料作物や、麻などの繊維作物は大消費地である都市に送られ市民の生活を支えました。
【影響】
これらの農業革命によって、それまで外的を内側に縮こまっていた印象のあったヨーロッパ世界は、有り余るエネルギーを外に放出させていくようになります。中東での十字軍、イベリア半島でのレコンキスタなどはその例です。また、農業生産の向上は農民を支配する聖俗領主の経済的な成長を進め、彼らはその財を使って堅固な城を築き、豪華な大聖堂の建設を進めました。高所得者である貴族層の消費は経済の活性化を促し、農民に求められるものもしだいに賦役から貢租、金銭へと変化していきます。11世~13世紀の間に行われたこの農業革命が、中世ヨーロッパの最盛期の根幹を成していたと言えるのではないでしょうか。
中世ヨーロッパの時代三分割の真ん中、中世盛期に農業は飛躍的な発達を迎えます。この発達は技術の発展や人口増加、大規模な開墾運動などが互いに影響しあって、農業革命期とも呼べる時代を作り出しました。さて、これらの要因となった事物をひとつづつ見ていくことにしましょう。
▲フランスの軍船、紋章付きの盾を並べている
文化や生活の多くの部分、でローマやゲルマンの影響を色濃く受けている中世ヨーロッパ世界において、紋章は例外とも言える存在です。紋章は中世の封建制の中で生まれた特異な存在でした。
これまで多くの学者が紋章の起源を、古代ギリシャ・ローマ、ゲルマン文化、あるいは東方などに求めてきましたが、今では中世の紋章は、これらが起源となったのではないと考えられています。
中世の紋章は戦闘の中で甲冑を着込み、兜を被った戦士たちを見分けるために生まれました。一番目につきやすい盾にその人物を表す紋が描かれたのです。紋章の基本形が盾の形をしているのはそのためです。12世紀頃までにその紋は個人を示すものから一族を表すようになり、子孫に受け継がれていきます。
12世紀以前にも盾に模様や図柄が施されていることがありますが、これらは同一人物が規則性のある柄を使っていないことから、装飾性の強いもので、人物の識別や権威の象徴としての意味を持たないため紋章とはみなされません。また、紋章が生まれたのは戦場で識別の必要性があったこと以外に、中世の封建社会という社会の中で、新たに生まれた騎士・貴族という身分を強烈に印象付ける効果も持っていました。
紋章は戦場でその人が誰なのかを瞬時に見分けるためのものですので、形や色が厳格に規定されており、またその目的のために親子、兄弟の間でも同じ紋章を持つことはできませんでした。戦士が持つものだった紋章はいつしか、国家、都市、ギルドなどの諸団体や一般人も持つようになります。しかしやはり大部分の紋章は貴族が使っていました。以下では、貴族の紋章について紹介します。
家紋となった紋章は代々継承されていくものですが、ここで疑問が生じます。親子間で同じ図柄を持てないならばどうやって紋章を継承したのでしょうか。もちろん新たに加わった家門を付け足すことで紋章を変えていくことはできますが、毎回そのようなことをしていたら多すぎる図柄で紋章が複雑になり過ぎてしまいます。
そこで以下のようなことがなされました。イングランドを例にとりますと、百年戦争の黒太子(ブラック・プリンス)として有名な皇太子エドワードの紋章は、父王エドワード3世の紋章に、Eが横になったような図がついています。このマーク「レイブル」は長子を表しています。先代の王が死ぬと、このEがとれて父王の紋章をそのまま継承できるのです。ちなみに兄弟はまた違ったマークが付加され、その紋は王位を継がないかぎり消えないようです。現代でも紋章の残るイギリス王家を例にとると、エリザベス2世の長男チャールズのレイブルは銀一色、次男アンドリューはレイブル中央に碇の図がついており、三男のエドワードのものには薔薇がついています。
今回も前回に引き続き農村についてです。カロリング朝期(8~10世紀)についてです。
<カロリング朝期>
ピピンによりカロリング朝が開かれ、強力な王権が固められた結果、大領主たちはさらに多くの土地を吸収し、領地を広げていきました。また、牧畜も前時代より発達しました。温暖な気候を利用して葡萄栽培も盛んになり、水車の利用によって、いままで人力に頼っていた仕事を軽減することも可能になりました。また、従来の二圃制に代わり、耕地を冬麦の畑・春麦の畑・休閑の三つに分けた三年輪作が生まれたことは、農業生産を増加させることになりました。冬麦とは、小麦や燕麦のことで、春麦とは大麦や燕麦のことです。
しかし、このような農業技術の発達は、ヨーロッパ全ての地域に均一的に見られたものではありませんでした。二圃制は一部の地域では今まで通り続けられました。また、鉄製の農具の普及率や、家畜の数も充分だったわけではなかったようです。そのため、三年輪作が厳密には行われず、休閑期が長くなるようなことも。ざらにあったようです。
▼「メロヴィング朝期とカロリング朝期の比較」
いまだ、強力な王権が固められていなかったため、政治が不安定であったこの時代。個人経営の農民の権利は、とても安全なものとは言えませんでした。そのため、中小自営農民は有力者に庇護を求めて土地をいったん譲渡し、貢租の支払い義務を付加され再授与されることをし始めました。これにより古典荘園制(古典荘園制参照)が生まれます。
この時代の特徴として、農耕と牧畜の融合が発達したことがあげられます。すでにこの時代には、狩猟より牧畜の方が遥かに一般的だったのです。牛や馬を使って耕地を耕し、家畜の糞を肥料とし、牧畜は農耕の発展を助けていくことになりました。しかし、いまだ土地は多くの森林で覆われていたのです。
今回は中世農村の歴史の初回です。都市の発達にまた今度(というより、新しい資料の収集時間がとれませんのでストックで…)です。騎士についても忘れているような…。とにかく、中世の農村は、ローマとゲルマンの文化の融合によってなされました。そのところから紹介を始めます。
<ローマとゲルマン>
ゲルマン民族の大移動以前から、リーメス(都市の誕生 「ローマ都市」<要塞都市>参照)を通して、ローマ世界とゲルマン世界の融合が見られました。この融合が、中世ヨーロッパの農村の原型となりました。
まず、ローマから受けた様式としてはパンとワインの食文化がありました。これはヨーロッパ各地に点在していた修道院組織を中心として受け継がれました。この食文化を維持するためには小麦と葡萄が必要なのは言うまでもありません。また、ローマ時代の農業形態のひとつに、ウィラと呼ばれる農業拠点がありました。これは、ウィラの支配者である富裕者(貴族層)が奴隷労働によって行ったものです。当時の農業は、一年ごとに耕作地を休閑させて農地の地力を高める二圃制というものでした。ウィラには牧畜のための放牧地や葡萄畑が、小麦の耕作地とは別に設けてありました。
ゲルマン世界では、麦などの栽培はそれほど発達しておらず、かわりに牧畜が発達していました。パンやビールをつくってはいましたが、ローマに比べるとその規模ははるかに小さいものでした。また、依然として狩猟採集の生活も重要視され続いていました。ゲルマンの集落は小規模なもので、数世帯の家が寄り集まってできているだけでした。周辺には小規模な耕作地と、広い放牧地、そして森がありました。牛・豚の肉や狩猟した獲物の肉、畜産品であるチーズやバターはゲルマン人の摂取する栄養の大きな部分を占めていたのです。牛は休閑中の耕作地を放牧地とし、豚は森で飼育しました。このように、ゲルマンの様式では、森・耕作・牧畜が一体化した農業を行っていた。
▼「ローマとゲルマンの農業」
次回は、このような農業の融合が、いかにして成されたかを書いていきます。「数日前に試験が近い」と書いたくせに、更新を続けていますが、そろそろ本当に問題になってきました。なので、少しの期間更新をお休みします。