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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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パン屋

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     ▲中世のパン屋

都市に住んでパン職人として店を構えたいとお考えですか?それならば、市民たちから嘘吐き呼ばわりされることを恐れないことが肝心です。

町の人々や市当局は、あなたがパンの目方や麦の種類、品質を誤魔化しているのではないかと疑っています。市民の信頼を勝ち取るためには、堂々と胸を張って当局の審査に挑めるようなパンを作らなければなりません。


目方や麦の誤魔化しは論外ですが、それ以外にも基本的なきまりがあります。例えば、パン屋は原則1枚の銀貨(1デナリウスないし半デナリウス相当)の倍数に値する大きさのパンしか作ってはいけません。それよりも小さい額の貨幣はほとんどないからです。

飢饉のときはどうすればいいかって?そのときは組合ないし当局の決定に準じて、パンの値段ではなく目方を変更します。これは非常に面倒な仕事ですが、麦価格に応じた目方でパンを作れるようにならないとパン屋の仕事は務まりません。


もし、あなたが誘惑に負け法を犯してしまったら、それこそ城壁の維持費捻出に苦心している当局の思う壺です。初犯の罰金は銀貨60枚で済みますが、二度目の場合は120枚で、三度目のときはもはや容赦なく720枚の銀貨を罰金として支払わねばなりません。この額は、パン屋の二週間分の稼ぎよりも高いことをよくよく頭に入れておいて下さい。

また、大きな飢饉の後には、多少理不尽でも罰を負わされることを覚悟しなければなりません。都市の役人たちはいらだった市民をいくぶんか落ち着かせるのに我々を必要としているのですから。


都市行政府は市民が飢餓に苦しまないようにと、計画的に麦を買い入れています。しかし、計画が狂って在庫に余りがでてしまったとき、パン屋はに市が定めた幾分高い値でその麦を購入する義務もあります。先代のパン屋の中には、これに抗議した者たちもいましたが、結局のところ罰金を支払う破目に陥ってしまいました。当局には逆らわないほうが無難でしょう。また、都市のパン屋には、週に何日か町へと出向いてくる農村のパン売りというライバルがいます。特にあなたが低所得者向けのパンを中心に作っているとき、彼らは大きな障害となるでしょう。

嫌な話を聞いてパン屋になる気は失せてしまいましたか。しかし、パン屋はすばらしい仕事です。もう諦めてしまうと言うのはもったいない。パン屋は都市の全ての人々に必要な日々の糧を与える大切な職業です。

町の名士にはふかふかの白パンを、多くの市民たちには褐色の小麦パンを、そして日々の生活で手一杯の貧しい者たちには全粉パンや混合麦のパンを、それぞれ提供するのです。あなたの作るパンがあるからこそ、役人も商人も、職人も日雇い労働者もせっせと働くことができるのです。


さて、パン屋の仕事は粉をふるいにかけることから始まります。このふるい作業、簡単なようでいて実は結構大変なのです。このふるいが上手くいかないと、パンの種類の誤魔化しだと市当局に目を付けられることになります。

ふるって種類別にしたパンを、よく捏ねて、作っておいたパン種と混ぜて丸い形にととのえます。このときの重量を決めるのにも熟練の技が必要です。なぜなら、審査の対象となるパンは焼きあがったパンなので、水分が蒸発する分パン生地の状態から軽くなるのです。これを考慮した上で、パンを窯に入れて焼き上げます。1日に3、4回行うパン焼きで、パンを取り出す時間を決めるのはパン職人の経験と勘です。焼きすぎて硬くなったり、生焼けになったりしないために徒弟の頃によく学ぶ必要がありそうです。


こうしてできたパンは、店から張り出した台を通して売ることができます。普通、客にパンを渡すのは職人の妻か女使用人です。また、もしあなたが職人として成功すれば、市場に売り台を出してもっと多く稼ぐこともできるでしょう。パンは町の居酒屋や旅籠にも売られていきます。町の住民の糧となるのも、居酒屋での憩の時を創るのも、旅人の空腹を満たすのも、あなたの作るパンなのです。ほら、このパンなんか、なかなかいけるでしょ?

フランス、旅人向けの宿屋にて
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日出から日没まで-中世人の時間


▲スイス、ベルンの時計台(16世紀に時計設置)

現代に生きる私たちにとって時間は正確でなければならず、時間が私たちの生活ペースを決定しています。時計の針に追い立てられながら毎日を生きている、という言い方もできるでしょう。中世ヨーロッパの人々はそんな私たちとは違い、時間というものをもっと大雑把に捉えていました。

その一番の理由は、時計が非常に希少な存在だったということです。現在の私たちは、部屋にひとつの時計、外出すれば腕時計、勤務先や学校にも必ず時計がある暮らしをしています。しかし、中世ヨーロッパの人々は、自宅にはただひとつの時計ももっていなかったのです。太陽の動きと、教会や修道院の規則的な生活に合わせて鳴らされた鐘の音、これが大多数の中世人の時計だったのです。


大まかに今の時間と中世の時間を照らし合わせてみましょう。

朝課        A.M 2
讃課        A.M 3
一時課    A.M 6
三時課    A.M 9
六時課    P.M 0
九時課    P.M 3
晩課        P.M 6
終課        P.M 9

修道士たちは夜中、市民や農民など一般の人々は日出とともに起床し、日が沈むとさっさと寝床に入ったようです。なぜなら、夜間の活動に必要な照明が充分手に入らなかったためです。蝋燭は農民にとっては高級品でしたし、そもそも都市のギルドも夜間労働は禁じていたのです。中世の人々は、まさに太陽と同じようなサイクルを生きていたのです。

さて、上記の時間表ですが、中世ヨーロッパ世界は日出から日没までの昼と、日没から日出まで夜をそれぞれ12等分した単位時間としていました。この単位時間は、季節や経度の違いによってかなりの変化の幅をもっていました。このような不定時法の生活から、現在の形に近い定時法への変化は機会時計が普及した中世末期、15世紀以降のことでした。

13世紀頃に誕生し、14世紀以降になヨーロッパ各地の都市に設置されるようになった機械式時計は市民の生活を大きく変化させると同時に、都市の誇りともなりました。これらの時計の多くは都市の中心であった市庁舎に取り付けられましたが、時計のような高級品を備えることは都市にとって非常に名誉なことでした。時計の周囲は彫刻などで飾り立てられ、その都市に因んだ物語が、当時最高の精密機械だった「からくり時計」によって演じられたのです。

守備兵はたったの6人-城の防衛

中世ヨーロッパを舞台にした映画では、ド派手城攻めのシーンがハイライトになることが多いですね。「キングダム・オブ・ヘブン」しかり「ロビン・フッド」しかり。しかし、城はいつも戦争していたわけではないわけで、「普通の」とき、城はどのように守られていたのでしょうか。

中世ヨーロッパでは大きいものから、小さいものまで、無数の城が築かれました。ドイツ語圏だけでも、その数は1万に達したと言われています。これだけの数の城に守備兵を揃えることは簡単なことではないですね。当時はまだ、王権も弱く、大規模な傭兵隊もなければ、近代的な常備軍もありません。戦うことは、貴族の特権となり、古代ギリシア・ローマの市民兵伝統も、ゲルマン人の自由民は皆戦士という伝統も忘れられています。実際には、農民や都市住民が騎士の数倍の歩兵を形成しましたが、少なくとも全ての人が戦うという土壌はできていなかったわけですね。

実際、城にはほんのわずかな駐屯兵しかいませんでした。百年戦争中、フランスのモンタイユー城には32名しか守備兵がいませんでした。戦時なのに、ですよ。また、守備兵の少なさは城が持つ装備品の目録にも現れています。12世紀フランスのパシー・シュル・ユール城には69のクロスボウ、46の兜が備えられていましたが、リトル・イソエ・レヴュック城のクロスボウはたった2つでした。

驚くべきことにもっと小さな守備隊を抱えていた城もあります。例えば中世後期のドイツではバンベルク司教のライフェンベルク城の守備兵は6名でしたし、ニュルンベルクに帰属していたライヘネック城も平時は5名、戦時でも20名の兵士を抱えているに過ぎなかったのです。

このような寡兵でどうやって城を守ったのでしょうか。さて、ここで攻める側に立って守備兵について考えます。まず、攻め手には敵兵の姿が城壁越しに見えるだけで、その総数を知ることはできません。また、城には幾重にも張り巡らされた防衛機構が存在し、兵士の行く手を遮ります。城攻めをする兵士たちは、自分たちより高台にいる城兵に矢を放つか、あるいは柵を越え、堀を埋め立て、さらには梯子をやっとのことでよじ登って初めて守備兵に攻撃を加えることができたのです。

幼年期をシャルル5世の宮廷で過ごし、後に『シャルル5世伝』を著したクリスティーヌ・ドゥ・ピザンは、200名の守備隊がいる拠点を包囲するのに必要な人員及び資材についてもまとめています。曰く、3000人を越える大工や工兵、クロスボウと弓をそれぞれ300、投石機及び射石砲、そして大量のボルト(クロスボウ用の太く短い矢)、矢、石弾、火薬が必要、と。

一般的に、城を直接攻撃で落とすためには、守備兵の3~10倍の兵士が必要だったと言われています。中世の城の守備兵の貧弱さは、逆説的に城の守りの役割を教えてくれています。


農業革命 その2

【人口増加】
前回紹介した農業の発達により耕作地からの収穫量が倍増、それに伴ってヨーロッパ全体の人口は大幅に増加しました。現在のフランスの人口はおよそ6000万人ですが、西ヨーロッパ全体のこの数字に達したのは1200年頃のことでした。1000年当時には4000万人ほどであったことを考えると200年で1.5倍の伸びです。それからも人口増は止まらず1300年には8000万人にも膨れ上がります。これにより多くの都市建設が活発になり、都市民が増えたことは事実ですが、やはり一番影響を受けたのは人口の9割を占める農民たちでした。(詳しくは中世の人口についてを参照)彼らは土地不足に苦しむようになり、それが中世農業革命の第二波ともいえる大開墾運動を引き起こしました。

【大開墾時代】
フランスでは12世紀頃ピークを迎えた開墾運動は、大きく分けて三つの方法で行われました。すでに村落共同体を形成していた農民たちが、自分たちの村の周囲を少しずつ切り開いて開墾していったもの。シトー会などを中心とする修道会組織が、修練の場を求めて森に入り、そこに築かれた修道院を中心として開拓が行われたもの。または、領主などの有力者が指導力を発揮して、農民に森の中に新たな拠点を作らせて、そこから村を広げていくというものです。開墾運動は西ヨーロッパの内側だけに留まらず、エルベ川の彼方、東ドイツへの植民やイベリア半島への植民も活発に行われました。

【商用作物の生産】
それまでどうにか食っていくので精一杯だった農民に、それまでの数倍の収穫が得られるようになり、その結果しだいに主要作物(小麦やライ麦)以外の生産が増えてきました。葡萄の栽培は特に活発で、一時期にはなんとイングランドにまでも広まりました。ボルドーやブルゴーニュのワインなどは銘柄としての価値を持ち、経済活動と共に発展した交通網によって各地に輸出されました。また、藍色の原料となる大青などの染料作物や、麻などの繊維作物は大消費地である都市に送られ市民の生活を支えました。

【影響】
これらの農業革命によって、それまで外的を内側に縮こまっていた印象のあったヨーロッパ世界は、有り余るエネルギーを外に放出させていくようになります。中東での十字軍、イベリア半島でのレコンキスタなどはその例です。また、農業生産の向上は農民を支配する聖俗領主の経済的な成長を進め、彼らはその財を使って堅固な城を築き、豪華な大聖堂の建設を進めました。高所得者である貴族層の消費は経済の活性化を促し、農民に求められるものもしだいに賦役から貢租、金銭へと変化していきます。11世~13世紀の間に行われたこの農業革命が、中世ヨーロッパの最盛期の根幹を成していたと言えるのではないでしょうか。




中世農業革命 その1

中世ヨーロッパの時代三分割の真ん中、中世盛期に農業は飛躍的な発達を迎えます。この発達は技術の発展や人口増加、大規模な開墾運動などが互いに影響しあって、農業革命期とも呼べる時代を作り出しました。さて、これらの要因となった事物をひとつづつ見ていくことにしましょう。



【水車と風車】

以前の記事でも紹介したように水車は中世より遥か昔に生まれていましたが、本格的に使われだしたのは11世紀以降のことでした。風車の普及は少し遅れて12世紀末頃からのことです。これら自然を利用した機械は、それまで人力や畜力に頼っていた農業以外の労働を代わって行うことにより、農民の生活を一変させました。

【鉄製農機具】

ピレネーやライン川流域で10世以来拡大してきた鉄の生産が、村にも鉄器の普及をもたらします。鍛冶屋は、農民に鉄製の斧や鋸、犂を提供しました。その中でも特に重要なのは重量有輪犂です。この犂は名前の通り、それまで使われていた軽量の犂に比べて重く、またふたつの車輪を備えていました。鉄製の犂刃を持つこの重量有輪犂の登場で、土を掘り返し通気や水はけをよくするための畝を作ることができるようになりました。また、12世紀になるとそれまで犂を引いていた牛に代わって馬が使われるようになり、生産性が向上しました。

【三年輪作の普及と三圃制の始まり】

カロリング時代にすでに始まっていた三年輪作システムがさらに普及し、一部ではこれを共同体全体で行う三圃制が始まります。三圃制では各々の農民の耕作地をまずひとまとめにして、それを春畑、冬畑、休閑地の区分にわけて、村全体での共同作業で農作業を行うようにしたものです。農民は各区分に自分の取り分を持っていました。三圃制が始まった理由としては、まず共同作業が行えるほどに集村化が進んだこと、方向転換の難しい重量有輪犂を有効に使うため、そして家畜数頭と高価な重量有輪犂をひとつの家族では所有できなかったことなどが挙げられます。効率的な団体耕作の結果、それまで2倍ほどしかなかった収穫率は3~4倍、最高の例としては10倍にも増えました。

【集村化】

三圃制普及と並列して進むのが集村化です。それまで数戸の家が緩やかに集まっているだけだった散村から、より共同耕作がし易いように農民の住居が一箇所に密集していきます。彼らは教会やそれに付随する墓地、あるいは領主の城砦などを中心にして集まり、共有の森林や放牧地を設けるようになりました。一箇所にまとまったことで防衛上の利益を得ようと村の周囲には防護壁や柵が設けられることもあり、また中心に城がある集落でなくとも、村でほとんどの場合唯一の石造建築であった教会がしばしばその役目を引き受けました。こうして血縁的関係の強かった大家族的な散村は、地縁的に結び付けられた大規模な村落共同体へと変化していったのです。

               ▼干草を刈る農民(13c仏) ▼犂で畝をつくる農民(15c英)
                                  
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久々の更新です。その2では人口増加と大開墾運動について紹介したいと思います。

 


獅子と鷲-中世の紋章

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▲フランスの軍船、紋章付きの盾を並べている

文化や生活の多くの部分、でローマやゲルマンの影響を色濃く受けている中世ヨーロッパ世界において、紋章は例外とも言える存在です。紋章は中世の封建制の中で生まれた特異な存在でした。

これまで多くの学者が紋章の起源を、古代ギリシャ・ローマ、ゲルマン文化、あるいは東方などに求めてきましたが、今では中世の紋章は、これらが起源となったのではないと考えられています。

中世の紋章は戦闘の中で甲冑を着込み、兜を被った戦士たちを見分けるために生まれました。一番目につきやすい盾にその人物を表す紋が描かれたのです。紋章の基本形が盾の形をしているのはそのためです。12世紀頃までにその紋は個人を示すものから一族を表すようになり、子孫に受け継がれていきます。

12世紀以前にも盾に模様や図柄が施されていることがありますが、これらは同一人物が規則性のある柄を使っていないことから、装飾性の強いもので、人物の識別や権威の象徴としての意味を持たないため紋章とはみなされません。また、紋章が生まれたのは戦場で識別の必要性があったこと以外に、中世の封建社会という社会の中で、新たに生まれた騎士・貴族という身分を強烈に印象付ける効果も持っていました。

紋章は戦場でその人が誰なのかを瞬時に見分けるためのものですので、形や色が厳格に規定されており、またその目的のために親子、兄弟の間でも同じ紋章を持つことはできませんでした。戦士が持つものだった紋章はいつしか、国家、都市、ギルドなどの諸団体や一般人も持つようになります。しかしやはり大部分の紋章は貴族が使っていました。以下では、貴族の紋章について紹介します。

家紋となった紋章は代々継承されていくものですが、ここで疑問が生じます。親子間で同じ図柄を持てないならばどうやって紋章を継承したのでしょうか。もちろん新たに加わった家門を付け足すことで紋章を変えていくことはできますが、毎回そのようなことをしていたら多すぎる図柄で紋章が複雑になり過ぎてしまいます。

そこで以下のようなことがなされました。イングランドを例にとりますと、百年戦争の黒太子(ブラック・プリンス)として有名な皇太子エドワードの紋章は、父王エドワード3世の紋章に、Eが横になったような図がついています。このマーク「レイブル」は長子を表しています。先代の王が死ぬと、このEがとれて父王の紋章をそのまま継承できるのです。ちなみに兄弟はまた違ったマークが付加され、その紋は王位を継がないかぎり消えないようです。現代でも紋章の残るイギリス王家を例にとると、エリザベス2世の長男チャールズのレイブルは銀一色、次男アンドリューはレイブル中央に碇の図がついており、三男のエドワードのものには薔薇がついています。


▼当時のイングランド王家の紋章
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▼黒太子エドワード
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▼チャールズ皇太子の紋章        
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農村の歴史 「カロリング朝期」

今回も前回に引き続き農村についてです。カロリング朝期(8~10世紀)についてです。


<カロリング朝期>

ピピンによりカロリング朝が開かれ、強力な王権が固められた結果、大領主たちはさらに多くの土地を吸収し、領地を広げていきました。また、牧畜も前時代より発達しました。温暖な気候を利用して葡萄栽培も盛んになり、水車の利用によって、いままで人力に頼っていた仕事を軽減することも可能になりました。また、従来の二圃制に代わり、耕地を冬麦の畑・春麦の畑・休閑の三つに分けた三年輪作が生まれたことは、農業生産を増加させることになりました。冬麦とは、小麦や燕麦のことで、春麦とは大麦や燕麦のことです。

しかし、このような農業技術の発達は、ヨーロッパ全ての地域に均一的に見られたものではありませんでした。二圃制は一部の地域では今まで通り続けられました。また、鉄製の農具の普及率や、家畜の数も充分だったわけではなかったようです。そのため、三年輪作が厳密には行われず、休閑期が長くなるようなことも。ざらにあったようです。

▼「メロヴィング朝期とカロリング朝期の比較」

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農村の歴史 「メロヴィング朝期」

今回は、農村の続きです。帝国崩壊後のフランク王国前期、ローマとゲルマンの融合は、ガリアの地を中心に発展していくことになります。


5~8世紀中葉まで、メロヴィング朝フランク王国の時代には特に大きな変化は、農村には訪れていませんでした。理由は、丁度この時期が寒冷期になっていたためです。しかし、土地の有力者を指導に、若干の耕地の拡大が行われました。しかし、有力者はその領地のほとんどを、自営農民の土地から吸収することで形成していきました。

いまだ、強力な王権が固められていなかったため、政治が不安定であったこの時代。個人経営の農民の権利は、とても安全なものとは言えませんでした。そのため、中小自営農民は有力者に庇護を求めて土地をいったん譲渡し、貢租の支払い義務を付加され再授与されることをし始めました。これにより古典荘園制(古典荘園制参照)が生まれます。

この時代の特徴として、農耕と牧畜の融合が発達したことがあげられます。すでにこの時代には、狩猟より牧畜の方が遥かに一般的だったのです。牛や馬を使って耕地を耕し、家畜の糞を肥料とし、牧畜は農耕の発展を助けていくことになりました。しかし、いまだ土地は多くの森林で覆われていたのです。

 


農村の歴史 「ローマとゲルマン」

今回は中世農村の歴史の初回です。都市の発達にまた今度(というより、新しい資料の収集時間がとれませんのでストックで…)です。騎士についても忘れているような…。とにかく、中世の農村は、ローマとゲルマンの文化の融合によってなされました。そのところから紹介を始めます。


<ローマとゲルマン>

ゲルマン民族の大移動以前から、リーメス(都市の誕生 「ローマ都市」<要塞都市>参照)を通して、ローマ世界とゲルマン世界の融合が見られました。この融合が、中世ヨーロッパの農村の原型となりました。

まず、ローマから受けた様式としてはパンとワインの食文化がありました。これはヨーロッパ各地に点在していた修道院組織を中心として受け継がれました。この食文化を維持するためには小麦と葡萄が必要なのは言うまでもありません。また、ローマ時代の農業形態のひとつに、ウィラと呼ばれる農業拠点がありました。これは、ウィラの支配者である富裕者(貴族層)が奴隷労働によって行ったものです。当時の農業は、一年ごとに耕作地を休閑させて農地の地力を高める二圃制というものでした。ウィラには牧畜のための放牧地や葡萄畑が、小麦の耕作地とは別に設けてありました。

ゲルマン世界では、麦などの栽培はそれほど発達しておらず、かわりに牧畜が発達していました。パンやビールをつくってはいましたが、ローマに比べるとその規模ははるかに小さいものでした。また、依然として狩猟採集の生活も重要視され続いていました。ゲルマンの集落は小規模なもので、数世帯の家が寄り集まってできているだけでした。周辺には小規模な耕作地と、広い放牧地、そして森がありました。牛・豚の肉や狩猟した獲物の肉、畜産品であるチーズやバターはゲルマン人の摂取する栄養の大きな部分を占めていたのです。牛は休閑中の耕作地を放牧地とし、豚は森で飼育しました。このように、ゲルマンの様式では、森・耕作・牧畜が一体化した農業を行っていた。

▼「ローマとゲルマンの農業」

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次回は、このような農業の融合が、いかにして成されたかを書いていきます。「数日前に試験が近い」と書いたくせに、更新を続けていますが、そろそろ本当に問題になってきました。なので、少しの期間更新をお休みします。


        
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