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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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カイト・シールド-騎士の凧型盾

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▲金メッキされたブロンズ製小箱(1140年)
http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/MEDkite.htm
 
10世紀初頭、ヴァイキングとしてヨーロッパを荒らしまわったデーン人の一指導者フラルフは、西フランク王シャルル3世との協定の結果、それまでに実質的にヴァイキングの支配下にあったフランス北部地方を獲得しました。912年、洗礼を受けたフラルフはロロとして知られるようになります。ロロと彼に従ってきたデーン人は、世代を経るうちに現地の言語・宗教・慣習・法制度などを受け入れフランク人と同化していきました。このノールマンニ(北方人)の国、すなわちノルマンディーが、ノルマン人たちの故郷となるのです。カイト・シールドは、このノルマン人を発祥とする新しいタイプの盾でした。
 
カイト・シールドは、名前の通り西洋凧(カイト)の形をしている盾です。それまで一般的だった円形の盾に比べて、逆三角を伸ばしたような形のこの盾は肩から脛にかけてという広い範囲を防護することができました。馬の豊富であったノルマンディーでは、ノルマン人たちは先祖たちが船にもっていたのと同じような愛着を馬にも抱くようになり、彼らは騎兵としての技能を高めていきました。カイト・シールドは、そのようなノルマン騎兵たちにとって最適な防具だったといえます。下端は騎乗の際、邪魔にならないよう細くなっていましたが、この細さは剣によって守られていない左側の片足を守るだけなら充分でした。また、盾の裏側には短い革紐(エナーム)が二本縦につけられており、使用者は左腕をこの二本の革紐に通し、その手で手綱を握ることができました。さらに、長い革紐(グイジェ)を肩にかけることで、移動時に盾を背負うこともできました。
 
11世紀、イングランドや南イタリアに進出していったノルマン人の移動に伴って、カイト・シールドもヨーロッパ中へ広まっていきました。この盾は、前述のように騎乗した兵士が使いやすいようにつくられていたため、ヨーロッパの騎士たちの標準装備となっていきます。数世紀に渡る鎧の重装化により盾は小型化していく傾向にありましたが、基本的な形が変わることはありませんでした。その中で生まれた、下端が短くなったカイト・シールドを特にヒーター・シールドと呼ぶこともあります。しかし、15世紀以降、板金鎧(プレート・アーマー)の普及により手足の装甲が強化されると、もはや盾は不要となり、カイト・シールドが騎士を守る時代は終わりました。
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バシネット-多用途兜

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▲11世紀、ミラノのバシネット(19世紀のスケッチより)
 左図の下部に垂れているのがカマイル。

14世紀はじめ、騎士たちの間でバシネット(仏・バシネ)という新しい兜が使われるようになります。バシネットは円錐形の兜で、顔の部分が開けてあるという特徴をもっており、サーブレア(cervelliere)と呼ばれるより単純な構造の鉄兜から生まれました。バシネットは単体で使われることもありましたが、バシネットの上にグレート・ヘルムを被って使われることもありました。その際、最初の騎兵突撃の後の荒々しい白兵戦の間、呼吸と視界の邪魔になるため、グレートヘルムはしばしば捨てられたため、内側のより小回りの利くバシネットは重宝されました。また、首から肩にかけての兜と鎧の隙間を埋めるために、バシネットは下部の縁にカマイルという脱着可能な鎖垂れをつけることもありました。

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▲ドイツ式のバイザー付きバシネット(同上)
 
バシネットにおける大転換は、バイザーがつけられることによって、バシネット単体の防御力が格段に上がったことでした。14世紀中頃までには、ほとんどの騎士の兜が、グレート・ヘルムからバイザー付きのバシネットへと移行しています。バイザーは犬の鼻面ないし嘴のような形をしており、ハウンスカル(独・フンツグーゲル)と呼ばれていました。バイザーは視覚と通気性を犠牲に防御力を高めましたが、可動式のため上に動かすことでバシネット単体の時と同様の視界と通気性を確保でき、さらに取り外しも可能であったため、戦闘時以外にバイザーを外しておくこともできました。バイザーには視界確保のためのサイトの他に、鼻先部分に多くの孔が穿たれており通気性を確保していました。膨らんでいるバイザーの形状からに口の前に空間があったため、グレート・ヘルムよりも楽に呼吸ができたと考えられます。また、バイザーの代わりにT字や逆Y字型の鼻当てが付けられることもあったようです。
 
運用の簡便さと適度な防御を備えたバシネットは、百年戦争期を含む14世紀から15世紀にかけて騎士やメン・アット・アームズ(下馬騎士・重装歩兵)の代表的な兜として普及していきました。14世紀末には首周辺の防御のためにカマイルの代わりにガーガットと呼ばれる金属板でできた頸甲が用いられるようになり、バシネットはさらに強化されます。チェイン・メイルからプレート・アーマーへの移行期で、兜もまた鎧の一部として変化していったのです。15世紀中頃には、バイザーの鼻が丸いビコケ(イタリア語で「小さい城塞」の意)が登場しました。このように、バシネットはさらに多くの金属板を用い、打撃を受け流すために丸みを帯びる方向に進化していき、後の時代に広まるアーメットの原型となりました。

バルビュータ-古代の伝統

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▲Y字型サイトとサイトの縁帯を持つバルビュータ (http://en.wikipedia.org/wiki/Barbute)

イタリアで花開いたルネサンス運動は、古典古代を見直していくことで人間性を再生しようとする潮流を生み出し、絵画や彫刻などの芸術や文芸の領域に留まらず、防具製作にも影響を与えました。この流れは、たんに古代文化の復興に終わらず、これまでにない新しい試みをする気風を生み出しました。ルネサンス時代のイタリアでは、この「再生」の中で、完全に頭部を覆うアーメットや後述のバルビュータのような新しいタイプの防具が誕生します。

バルビュータ(barbuta)ないしバルブータは14世紀に北イタリアで生まれました。英語ではバーバット(barbut)と表記されます。頭頂部が丸みをおびていて、かつ鉢が深くつくられているために頭の大部分を覆う事ができます。バイザー(面頬)はなく、正面にT字ないしY字型に開いたサイト(視孔)を持っており、また鼻や口も露出しているのでこのサイトは呼吸口も兼ねていました。バルビュータは、正面がほとんど露出しているものや、ハート型のサイトを持つもの、額から鼻までの部分に鼻当てが付けられているものなどさまざまな形状のものがありました。また、兜を滑った刃が顔に当たらないようにするために、サイトの縁にストッパーとしての帯が鋲止めされているものもありました。

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▲コリント式兜 (http://thewalters.org/exhibitions/heroes/gallery.html)

バルビュータのモデルは、紀元前8~7世紀、古代ギリシアに普及していたコリント式兜です。基本的な形状は、バルビュータとコリント式兜でほとんど違いはありませんが、コリント式が頭頂部に羽飾りなどを付ける装飾性を持っていたのに対し、バルビュータは実用性に特化しているといえます。バルビュータのような兜は正面のサイト以外の頭部を全て覆っているので、グレート・ヘルムには及ばないものの、かなり防御に適しています。

その反面、耳を覆ってしまっているので指示が聞こえずらい、暑い、重いなどの欠点があります。これらの欠点を改善するために古代ギリシアでは、耳を露出させたり、頬当てを可動式にするなどけの軽量化が図られました。バルビュータは、グレート・ゲルムよりも視界が広く、呼吸が楽であり、ケトル・ハットやノルマン・ヘルムよりも防御域が広い、中間をとったような兜として、活用されたであろうと思われます。

ちなみに、管理人のお気に入り映画の「ロード・オブ・ザ・リング」に登場するゴンドールの兵士の兜はバルビュータがモデルのようです。


ヨーロッパ大戦-ブーヴィーヌの戦い

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▲オラース・ヴェルネ「ブーヴィーヌのフランス王フィリップ2世」

“王国全体のあらゆる所で拍手喝采以外には何も聞こえない。身分、貧富、職業、性別、年齢の区別なく、皆、賛美歌を歌おうとし、皆の口から、王に対して栄光と賞賛と名誉が歌われる”

ギョーム・ル・ブルトン『フィリピデ』第12巻、西村由紀子訳、西洋中世資料集(2000)より

1214年7月27日、フランス、トゥルネー西のブーヴィーヌにおいて、大規模な会戦がおこなわれました。この戦いは、神聖ローマ帝国、イングランド、フランスなど北ヨーロッパの大国の命運を握る非常に重要な戦いでした。一方の陣営は、オーギュストの渾名で知られるフィリップ2世(1180-1223)率いるフランス軍であり、封建契約のために集った諸侯率いる騎士と歩兵から成っていました。それに対する連合軍は、ヴェルフェン家の神聖ローマ皇帝オットー4世(1198-1215)を率いるドイツ諸侯、イングランド陣営としてはソールズベリ伯ウィリアム、ジョン王(1199-1216)の腹違いの兄弟であるウィリアム・ロングソードがおり、フランドル伯フェルディナント、ホラント伯やブラバント公など低地地方の諸侯たちも加わっており、さらにはフランスの反乱貴族であるブーローニュ伯なども馳せ参じている大連合でした。

フランス王に対するこのような大規模な連合軍が成立する背景には、個々の勢力のフランス王に対する敵対関係がありました。オットー4世は皇帝位をめぐり、シュタウフェン家のフリードリヒ(後のフリードリヒ2世)と対立していましたが、フィリップ2世と教皇はフリードリヒを支援していました。また、イングランド王ジョンはアンジュー家の所有していた大陸領土をフィリップとの戦いでほとんど失っていたために、その奪還を狙っていました。そのために、ジョンは低地地方諸侯やブーローニュ伯らに対し貨幣知行を与えて彼らを対仏同盟に繋ぎとめていたのです。貨幣知行とは土地の代わりに貨幣を与えて、その大小として軍役奉仕を求めるものでした。ブーヴィーヌの戦いに先立つ2月、ジョンは自ら南仏はラ・ロシェルに上陸しプワトゥー地方で勢力を拡大させていましたが、フランス王太子ルイの反撃のためにそれ以上の進軍を阻まれました。しかし、この遠征は実は陽動であり本命は北フランスの皇帝率いる連合軍だったのです。

ブーヴィーヌで激突した両軍の兵力がどの程度であったのかについては、よくわかっていません。最大で両軍合わせて8万の軍勢がいたとする記述もありますが、これは多すぎだとする見解もあり、合計1万から4万の兵力と考えられてもいますが、それにしても幅が大きすぎます。騎兵と歩兵の割合に対しても議論があるようですが、ブーヴィーヌに参加したある一軍では騎兵の4倍の歩兵がいたというのが、基準になるかもしれません。また、フランス軍よりも連合軍のほうが、大差ではないにしろ、数で勝っていたようです。

戦闘はトゥルネーを出発しリールに向かう途中であったフランス軍に、連合軍が追いつくというかたちで始まりました。フィリップ2世が戦場を故意に選んだのか、それとも止むに止まれぬ状況を感じて選んだのかは不明ですが、彼は敵を迎え撃つべく、全軍を騎兵と歩兵から成る隊列を3隊編成して横一列に並べました。連合軍も同じような編成を行い、左翼にフランドル伯、中央にオットー4世、右翼にイングランドとブーローニュ伯の軍が配されました。しかし、連合軍は追撃の中で隊列を大きく乱しており、その長さは数kmに及んだと考えられています。このことが連合軍にとって致命傷となります。

最初にフランス軍に追いついたのは左翼のフランドル伯で、ブルゴーニュ公とシャンパーニュ伯に率いられたフランス軍右翼と衝突しましたが、戦いはもっぱらフランス軍優勢に進みました。この戦闘の最中、中央では、歩兵を前面に配置し守りの姿勢をとったフィリップ2世に対し、オットー4世の軍が攻撃を開始します。ドイツ軍は一時フィリップを落馬させるまで攻め込みますが、やがてドイツ軍が衰え始めると、後方に温存してあった騎兵の支援を受けて、フランス軍の巻き返しが起こり、馬を負傷させられたオットー4世は戦場から逃走します。中央とほぼ同時に戦闘に入った連合軍右翼は、当初フランス軍と互角に戦っていましたが、全ての歩兵がまだ戦場に到達しきれておらず、さらに他の戦闘で勝利したフランス軍が増援にやってきたために、ソールズベリ伯やブーローニュ伯といった指揮官を失い敗北します。

連合軍左翼が敗走を始めると戦線は崩壊し、戦いはフランス軍の完全な勝利に終わります。フランドル伯、ブーロニュ伯、ソールズベリ伯ら5人の諸侯が捕虜となり、両軍会わせて百数十名の騎士と数戦の兵士が戦死したと伝えられています。この戦いの結果、フランスは領土拡張を成功させ安定的に国家を維持していきます。一方ドイツでは、諸侯に見放されたオットー4世が戦いの翌年に廃位され、シュタウフェン家のフリードリヒ2世が新たに神聖ローマ皇帝に即位しました。イングランドでも、遠征の失敗が諸侯の失望を招き、マグナ・カルタに繋がる内乱の要因のひとつとなりました。

グレート・ヘルム-樽型兜

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▲グレート・ヘルムを被っている騎士

グレート・ヘルムは、複数の金属板を折り曲げて連結したものを円筒形に接合した兜で、頭部全体を覆うことができました。形状が、樽ないし、ひっくり返したバケツの形状に似ているために、バレル・ヘルム(Barrel:樽)やバケット・ヘルム(bucket:バケツ)、ポット・ヘルム(Pot:鉢)などと呼ばれることもあるようです。上記のような兜を英語でグレート・ヘルムと言いますが、中世においてはヘルムという言葉のみでこの樽型兜のことを意味していました。フランス語ではオーム、ドイツ語ではトップフヘルムと呼ばれます。

グレート・ヘルムは「頭部全てを覆う」ことを目的にして作られていたために、かなり単純な構造をしていました。そのために、いくつかの弱点を持っています。まず、頭頂部がほとんど平らであるために打撃系の攻撃に弱いということが挙げられます。また、兜が顔全体を覆っているために、非常に重く、また前面に開けられた一文字のサイト(のぞき穴)から周囲の状況を確認するしかないために視界が非常に限られていました。そのため、グレート・ヘルムは軽装で敏捷さを求められた下級の歩兵や弓兵には使われず、密集した騎馬軍団での突撃戦法を主とする騎士や、ほとんど動かない防御陣を組んだ重装歩兵重など、兜の重さや視界の悪さが影響しにくい兵士に使用されました。さらに、グレート・ヘルムには口の辺りに換気と呼吸用の穴が開けられていましたが、防御上の理由で穴がかなり小さくならざるをえなかったため、通気性も悪かったようです。また、兜から頭への衝撃を緩和するために、使用者は兜の下側で布製の頭巾を被りました。

12世紀末に生まれたグレート・ヘルムは、十字軍遠征に参加した騎士たちに多様されたこともあって、騎士の防具の象徴となっていきます。また、13世紀末になるとグレート・ヘルムには丸みを帯びさせて頭頂部を尖らせるという改良が加えられました。この改良により、これまで平らな面で直接打撃を受けていたのが、打撃を横に流して力を弱められるようになりました。頭頂部に丸みを帯びたこのグレート・ヘルムは特にシュガーローフと呼ばれることもあります。改良されたグレート・ヘルムは14世紀頃まで使われましたが、バイザーのために良好な視界・通気性を確保することのできたバシネットに、しだいに取って代わられていきます。15世紀において、グレート・ヘルムは騎士のトーナメントにおいてしか使われなくなりますが、それでも代表的な騎士の兜としての座を保っていました。

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▲サイトと通気孔、頭頂部に装飾を施されたグレート・ヘルム

グレート・ヘルムには実用性だけでなく、装飾性も同時に求められていました。例えば、初期の通気孔はただの小さい穴でしたが、後に十字などの模様をかたどったスリットが登場します。また、横軸のサイトにあわせて縦軸の装飾が付け加えられて顔前面に十字を描いたグレート・ヘルムもあります。特にドイツの兜に多かったものとしては、兜の天辺上に王冠や翼、紋章を現す旗やの飾りを取り付けたものがあります。栄誉や名声を求める騎士階級に使われた防具であるからこそ、このような装飾が発展したのでしょう。

サレット-長い“tail”に守られて

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▲様々な形状のサレット(19世紀のスケッチより)

サレットの一番の特徴は、後ろに伸びた「尾(tail)」のような形状のネックガードがついている点です。このネックガードは、首からうなじにかけて広い範囲を防御できるようになっていましたが、兜前面は鼻の高さまでしか覆われていないため、顎当てなどの補助防具とともに使われることもありました。ネックガードは、兜全体が一枚の金属板を打ち出してつくったものではスカル(兜の部位のひとる:頭蓋を囲む部分)と一体になっていましたが、スカルが頭の形に合わせて作られている場合には、複数の金属板を鋲留めして後からスカルに接合されました。また、このネックガードは、時代が下るにつれて長くなる傾向がありました。

サレットの前面には可動式のバイザー(面頬)がつけられているものと、そうでないものがありましたが、どちらにしても目の部分に視界を確保するためのスリットが開けられていました。また、15世紀中頃にイタリアで生まれたサレットは、同時代に使われていたバルビュータとはかなり対照的な形をしていたために、バルビュータにみられる古代ギリシア・ローマからの伝統をほとんど継承していないタイプの兜であると考えられています。

ケトル・ハットと同様、単純なつくりであったサレットは発祥の地イタリアのみならず、ヨーロッパで広く普及しました。特によく使われていたイタリアとドイツでは兜の形状に地域差が生まれ、イタリア式のものはスカルが半球形のものが一般的であり、ドイツ式のものは天辺がいくぶん平らで、額に当たる部分から鶏冠のような飾りないし補助防具がつけられているものもありました。興味深いことに、サレットが隆盛から4世紀以上経過した第一次世界大戦において、ドイツ軍のヘルメットの形状に影響を与えたという見方もあるようです。

ケトル・ハット-戦場の鉄帽子

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▲ケトル・ハット

ケトル・ハット(kettle hat)は中世を通じ、最も普及した兜のひとつといえるでしょう。この兜はフランス語ではシャペル・ド・フェール(chapel de fer)、ドイツ語ではアイゼンフット(Eisenhut)と呼ばれますが、どちらの名前も「鉄の帽子」を意味しています(シャペル・ド・フェールの直訳は「鉄の礼拝堂」)。その名の通り、ケトル・ハットは言ってみればただの鉄製の帽子です。つくりの簡素さから、ヨーロッパ全域で使用されたため、種類も豊富で、各地域によって少しずつ形がことなっています。イタリアのものは帽子の天辺が平らにつくられることが多く、スペインでは天辺がとがった水滴型のものが一般的だったようです。また、フランスでは渦巻き模様を施したシャペル・ド・フェールがあり、ドイツのアイゼンフットは天辺が球形で、鍔部分の境界近くにのぞき穴があるものもありました。

このように多様な形を持つケトル・ハットですが、共通の特徴として防御力を高めるための鍔が付いていたことが挙げられます。この鍔は馬上からの攻撃や弓による攻撃など上部からの攻撃に対して威力を発揮しました。攻城戦など敵が自分より高位置にいる場合にも、同じように有効だったと思われます。さらに、騎士用のグレイト・ヘルム(バケツ型兜)などに比べて良好な視界を確保できたため、弓兵に多用されたようです。その反面、側面攻撃に弱いという欠点を持っていたために、メイル・コイフ(鎖帷子の頭巾)などと併用されることもありました。

11世紀初頭から使用が始まったケトル・ハットは、近世の初期まで使われ続けました。簡単なつくりのため、防具の中でも比較的安価であったケトル・ハットは、被るだけという使い勝手のよさもあいまって、歩兵・弓兵などの下級兵士たちに好まれました。また、このケトル・ハットは時代を超えて近現代の戦争でも使われていました。第一次世界大戦においてイギリス軍は、頭部損傷による戦死者が多数出たために、降ってくる榴弾の破片から頭部を保護する目的で鉄製のヘルメットを使い始めましたが、これは中世のケトル・ハットと大差ない形をしていました。


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▲第二次世界大戦イギリス・マークⅡヘルメット


プレート・アンド・メイル-板金鎧の発達

盛期から後期における中世ヨーロッパにおける鎧の変遷を見ていくと、大きく三段階に分けられます。第一期はおおよそ11世紀頃から14世紀初めまでに鎧の中心であったチェイン・メイル(鎖鎧)の時代。第二期は、14世紀中ごろから15世紀中ごろまでのチェイン・メイルから後期のプレート・アーマーへの過渡期(プレート・アンド・メイル)。第三期が15世紀中期以降、騎士の主な装備がプレート・アーマー(板金鎧)となった時代です。しかしばがら、ここで示した時代枠はあくまでもおおまかなイメージを捉えやすくするためのものであって、実際はその騎士(ないし兵士)がどの社会身分に属し、いかほどの経済力を持っているか、またどの地域に住んでいるかによって状況は大きく異なっていました。

今回は、第二期から第三期にかけて、プレート・アーマーは戦場の主役になっていく過程を見ていきたいと思います。最初期のプレート・アーマーは13世紀はじめに姿を現します。全身を防御していたチェイン・メイルに、補助的防具として独立した膝当てや脛当てを付け始めるましたが、これがプレート・アーマーへの移行の第一段階でした。これらの独立した防具は、しだいに拡張していき、最終的には四肢を全て包み込めるようになっていました。14世紀終わりまでに、板金で造られる防具はほとんど出揃い、これらの防具としては上半身では、頸当て、肩当て、上腕当て、肘当て、前腕のための腕甲、手甲があり、下半身では腿当て、膝当て、脛当て、足のための鉄靴がありました。

14世紀の前半になると、胴体を守るために革や布でできた胴着に金属板を縫いこむ「コート・オブ・プレート」が発明され、さらに1350年頃以降には胴体を守るために独立した金属板からできた胸当てが使われるようになっていきます。15世紀、この胸当ては騎馬する兵士のためにランス・レスト(槍掛)をもつようになります。これは右胸に付けられた突起物で、馬上で兵士が槍を構えるときの支えとして使われました。

鎧の変遷における第二期の騎士たちは、社会的地位や財力や、必要性にあわせて、上述の各々の防具を選んで使っていました。体全体を隈なく保護するためのチェイン・メイルは、個々の防具選択以前の大前提の防具として君臨していたのです。この時代の鎧は、チェイン・メイルとプレート・アーマーを重ね着していたために、プレート・アンド・メイルと呼ばれます。また、14世紀までのプレート・アーマーは磨かれていなかったため「黒い甲冑」が一般的でしたが、15世紀には磨きあげられた「白い甲冑」が普及します。これは、研磨し滑らかにすることで敵の攻撃を逸らす働きと、黒に比べ太陽光線を反射して熱の吸収を抑えるという働きがありました。

第三期、すなわち15世紀中期になると、騎士の標準装備は上述の防具をすべて揃えたものになります。装備の重量は20kg程度のものから、重い物では30kg弱のものまでありました。この時代になるとチェイン・メイルは鎧の主役の座を降りていますが、それでも関節部分など特に動きを要する部分を補強するために使われ続けました。また、この時代に騎士たちは強力な板金で前身が覆われたために、盾をほとんど使わなくなりました。完全なプレート・アーマーの普及と衰退に関しては、別の記事に譲ります。

下馬装甲騎兵に守られて-イングランドの長弓戦術

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▲ポワティエの戦い(1356)におけるロングボウ兵

百年戦争を代表する数々の戦場で名を馳せたロングボウは、ブリテン島西部、ウェールズ地方を発祥としています。ウィリアム1世(1066-1087)がイングランドを占領した際にウェールズとの間に辺境伯領を置いて以来、イングランドはウェールズ人との戦いを続けていました。長弓を用いた遠距離攻撃を得意とし、イングランド軍が近づくと山に逃げ込んでゲリラ戦を展開するウェールズ人にイングランド軍は長い間悩まされていました。彼らとの長年にわたる戦役の中で、イングランド軍に徐々に長弓が採用されていったのです。ヘンリー3世(1216-1272)の時代には自由農民への武装を義務付ける「武装条例」(アサイズ・オブ・アームズ)の中で装備すべき武器として弓と矢が追加されました。さらに、ウェールズを屈服させたエドワード1世(1272-1307)は、長弓兵と騎士・装甲騎兵からなる軍勢で勝利を得ていました。しかし、この時点での長弓兵は、騎馬突撃の前段階で敵戦力を消耗させるために用いられるのが主で、戦場での決定打は装甲騎兵による突撃であることに変わりはありませんでした。

イングランドの長弓兵と装甲騎兵による編成に変化をもたらしたのはスコットランドとの戦役でした。1298年のフォルカークの戦いにおいては有効性を証明した長弓戦術は、1314年のバノックバーンの戦いではイングランド側に決定的な敗北を招くことになります。フォルカークにおいては防衛陣を組むスコットランド槍兵のシルトロン(密集陣形)の上に矢の雨を降らせることで勝負がつきましたが、バノックバーンではシルトロンの突撃に不得手な装甲騎兵が対応し、側面に展開した弓兵は少数のスコットランド騎兵に掃討されてしまいました。装甲騎兵はほとんど何の援助も無いままシルトロンの槍衾に攻撃され敗北します。つまり、長弓兵・装甲騎兵軍は、相手が防衛陣を組んで動かない場合には効果的でしたが、相手が積極的に攻めてくる場合、防御の苦手な騎兵と打たれ弱い軽装弓兵を敵にさらしてしまうという弱点を持っていました。そこで考案されたのが、長弓兵と下馬した装甲騎兵(メン・アット・アームズ)による戦術でした。

エドワード・ベイリオルがイングランドの支援を受けスコットランドの大軍と戦ったダブリン・ムーアの戦い(1032)では初めて長弓兵と下馬装甲騎兵による陣が敷かれました。エドワード率いる軍はほとんどがイングランド人で、500の装甲騎兵と2000の長弓兵から成っていました。エドワードは装甲騎兵の大部分を下馬させて中央に配置、その両脇に長弓兵をやや前面に迫り出した形で並べ、後方には予備の騎兵を残しました。スコットランド軍は数の多さを頼みにイングランド軍中央へ突撃をかけましたが、彼らの頭上には良好な視界を確保した長弓兵からの連射が降り注ぎました。また、中央の下馬装甲騎兵も槍に刺されて暴れまわる軍馬を気にする必要なく、軽装のスコットランド歩兵に対応することができました。この戦いの翌年、エドワード3世(1327-1377)率いるイングランド軍が同じ戦法をより大規模に用いてハリドン・ヒルの戦いでスコットランド軍を破りました。かくして、イングランド十八番の長弓・下馬装甲騎兵布陣が完成します。

この戦術が採用されるためには、長弓兵の確保という前提条件がありました。長弓は単純な武器でしたが、それゆえに直接力を加えて弓を引かねばならないため、かなりの力を要しました。クロスボウなど素人でもすぐに扱えるようになる武器とは異なり、ロングボウの使用には長期の訓練が欠かせなかったのです。この問題に対処したのはヘンリー3世の武装条例やエドワード1世による弓術の推奨であり、これらの政策により潜在的長弓兵戦力が増加・維持されました。この長弓戦術は大陸に持ち込まれ、若干の変化を加えつつも、基本を変化させることなく百年戦争においてイングランドの勝利を支えていくことになります。



ロングソード、ショートソード-中世の剣

剣は、槍と並ぶ代表的な武器であり、中世の戦場の華である騎士たちの主要武器でした。ランス(騎槍)で突撃した後の混戦では、騎士は剣を抜いて戦ったのです。槍や他の長柄武器に比べ、剣を扱うのには長い訓練が必要であり、剣で戦うということ自体が騎士のステータスであったといってもいいでしょう。騎士物語に登場するデュランダルやエクスカリヴァーなどの名剣は今でも多くの人が知っています。

ロングソードとショートソードは、訳してしまえば長い剣と小さい剣であり、両者の区分けは決して明確なものではありませんが、おおよそで分けると次のようになります。すなわち、前者は馬上から扱いやすいように70~80cm、長いものでは90cmほどの剣身をもっていたのに対し、後者は徒歩での戦闘に向く60~70cmほどの長さでした。

ロングソードはその構造が、14世紀の中ごろを境にして大きく変わっています。14世紀中期以前のロングソードは、身幅が3~5cmと幅広で、しかも肉厚でした。当時の剣は、焼入れという技法で強化されていました。焼き入れとは、熱した鉄を水につけて急激な温度変化を与えることで、鉄を強化するものです。しかし、この技法では鉄の表面しか強化されず、使用を繰り返すうちに剣の強化された部分がはがれたり、剣が曲がってしまう恐れがありました。また、この時代の剣の特徴として、幅広に肉厚の剣の重量を少しでも軽くするために、剣身に沿って血溝が設けられていました。

14世紀中ごろ以降の剣が、身幅が2~3cmと細くなり、肉厚も薄くなって軽量化が図られました。また剣の先端部分も鋭く尖らせるようになったために、突く攻撃も頻繁に行われるようになったのです。これらは、鉄の加工技術が発達して、鉄より強度の高い鋼が作られるようになったために可能になった改良でした。この頃の剣にはもはや軽量化のための血溝はなく、剣身の断面図は二辺の長い6角形やひし形になっていきました。

ショートソードは、14世紀以降に下馬した騎士たちの編成する重装歩兵(メン・アット・アームズ)に好んで使われました。鉄加工技術の発展は剣の発達のみならず、鎧の強化にも寄与しており、板金鎧を(いまだ部分的にではありましたが)装備していた兵士に対抗するために、刺突に重点が置かれました。

剣の柄や鍔(つば)には、剣の持ち主の財力にふさわしい装飾がなされ、時には剣身にも格言などが刻まれているものもありました。安全と、剣の常体維持のため剣は鞘に収められました。木製のものが一般的でしたが、もちろんこちらにも金や宝石などで豪華な装飾が施されているものがありましたが、これはどちらかといえば儀礼用であり、実践的なものとしては木製の鞘に革を巻いた程度であったようです。


        
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