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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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斎藤勇「カンタベリ物語 中世人の滑稽・卑俗・懺悔」中央公論社(1984)

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カンタベリ物語―中世人の滑稽・卑俗・悔悛 (中公新書 (749))
(amazon)
 
目次
第一章『カンタベリ物語とはどんな作品か』
第二章『カンタベリ物語』「序の歌」をめぐる巡礼たち
第三章『カンタベリ物語』における笑い
第四章『カンタベリ物語』における真面目と冗談
あとがき


 
高校世界史において、中世ヨーロッパの三大文学として、フランスの「ローランの歌」、ドイツの「ニーベルンゲンの歌」に並び立つのは、イギリスの「カンタベリ物語」です。この物語は、偉大な英雄が活躍する叙情詩である前二者と異なって、イングランドの著名な巡礼地であるカンタベリへ向かう巡礼者たちが、旅の慰めに各々自分の知っている話をするというものです。巡礼ですから、上は騎士や高位聖職者、下は農夫や一介の修道士など様々な身分の人々が集まっています。ちなみに、このような形の物語をフレーム・ストーリーといい、古くからの文学作法のひとつです。「千夜一夜物語」(アラビアン・ナイト)やボッカチオの「デカメロン」などはその代表と言っていいでしょう。
 
本書は、カンタベリ物語の著者であるジェフリー・チョーサー(1340頃-1400)その人について、物語に登場する様々な人々の中世における地位や関係、さらに物語全体を覆っている笑いや冗談の意識や、それらの意識と共にあるある種の真面目さ、さらに巡礼や物語における聖と俗の葛藤についてなどがコンパクトにまとめられています。まだ岩波から完訳の「カンタベリ物語」が出版されていない時代に書かれたものですが、完訳版の注を引くだけではわからない物語の全体像が浮き彫りになってくる本です。
 
今回はその中でも、物語の全体を貫いている聖と俗の葛藤について紹介していきます。「巡礼とは宗教的な意図で遠くの聖地を訪れ、そこで超人間的なものの恩恵にあずかろうとする企てである」。したがって、巡礼は元々聖の理論に基づいているわけです。教会も、巡礼を奨励し、罪を償うための行為として認めていました。しかし、巡礼が一般化・日常化すると共に、そういった巡礼の聖の意味は薄れていき、遊びとしての巡礼意識が広がっていきました。長い冬を越えて、春を迎えた人々は、いそいそと巡礼の準備を始めます。解放感に満ちた春の旅には旅の仲間との娯楽がつきものになり、「現代で言えば週末の団体旅行」のようになっていきます。それでも、巡礼は完全に聖の世界から自由になることはありませんでした。「カンタベリ物語」の最後の話は、司祭による七つの大罪と悔い改めについての長い説教でした。巡礼の一同はこの説教を真剣に拝聴するのです。ここには、巡礼における聖の論理が働いているといえます。「カンタベリ物語」を支配している遊びの雰囲気は、現実の世界を中心から支えている聖の要請から遠ざかって、自由を味わおうとする俗の論理から来たものといえます。ここに、中世社会全体における聖と俗の葛藤のひとつの形をみることができるのです。
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佐藤彰一「中世世界とは何か」岩波書店(2008)



久しぶりに「ヨーロッパの中世」というシリーズもの一巻を読み直しました。前読んだはずなのですが、内容をすっかり忘れていまして。しかし、読んでいくうちに思い出してきて、面白い考えだなあと改めて思ったので、最初の部分の内容を紹介します。

ヨーロッパの中世とはなにか。これが難題です。もちろん教科書的にいえば、476年の西ローマ帝国の滅亡から1453年の東ローマ(ビザンティン)帝国の滅亡までの約1000年間のヨーロッパということになります。これに対して、たとえば両ローマ帝国の滅亡は象徴的な出来事にすぎないとか、別の年代を基準にするとか、議論は大きくありますが、筆者はもっと大きな視点から中世を捉えようとしています。

「中世を切り出す」という小見出の通り、筆者は先史時代と呼ばれる文献資料の存在しないはるか昔のヨーロッパから現代までの長い人類史の中で、中世の位置づけを探っていきます。その中で、西洋の歴史家によって考えだされたヨーロッパにおける世界システムなどにも言及しています。無論、ここでいう世界システムとは近代ヨーロッパの拡大による地球全体の経済関係の話ではなく、大きくてもヨーロッパから北アフリカ・中東までを含むユーラシアの西部に限っての話です。この世界システムの考え方では、中世までの世界は、富める中心と未加工品を中心に送る周辺からなるシステムの時代と、地域ごとに小さな共同体が首長を中心に集まって、相互に経済活動をしていた、全体的に見ればまとまりの弱い時代に分けられるそうです。わかりやすいのがローマ帝国の時代で、この時代の中心は地中海世界で、北ヨーロッパなどが周辺にあたります。そして、西ローマ帝国の滅亡後は地中海東部が中心となります。中世ヨーロッパは、ゲルマン民族侵入後に小さな集団に分裂したために、半周縁に置かれていくことになるのです、

また、ヨーロッパの長い歴史は民族侵入の歴史であり、先史時代にはスキタイ、ケルト史料の残る時代にはゲルマン、フン、アヴァール、マジャール、ブルガール、トルコなどの異民族の侵入が常態でした。しかし、オルマン・トルコによるヨーロッパ東部から東地中海への支配は、ヨーロッパ半島に蓋を閉め、以後異民族の大規模な侵入はなくなります。つまり、中世とは先史時代から続く長い長いヨーロッパの歴史の中で、最後の民族移動があった時代なのです。この後には、出入り口をふさがれたヨーロッパ人は西の海から世界へ進出していくことになるのです。

このように、中世を長いヨーロッパの通史の中から切り出して考えることで、新しい見方ができるのだと思います。古代と近世との比較だけにとどまらず、もっと大きな視野をもって中世について学びたいものです。


佐藤賢一「ジャンヌ・ダルクまたはロメ」

 

今回は、佐藤賢一氏による中世ヨーロッパを描いた短編「ジャンヌ・ダルクまたはロメ」を紹介します。そもそも中世史を描いた短編というものはあまり多くはなく、そもそも珍しい作品なのですが、さらにこの作品が珍しいのは、著者の佐藤氏が描くことが多いフランス以外の地域を舞台とした短編が収録されている点です。フランスのもののほかに、スペインを題材にしたものが1話、イタリアを舞台にしたものが3話収録されています。

この中で特に面白いのが、「エッセ・エス」と「技師」です。「エッセ・エス」は統一間近のカスティリャ王国とアラゴン王国の間で大冒険をしたある騎士の回想録というかたちをとっています。古い習慣を重んじる、わかりやすく堅物な騎士が、自分の使える王女イザベルのために、自由奔放な王子に悩まされながらも旅をするというのが本筋なのですが、この王子と王女が婚姻関係を結んだことにより、統一スペインが形成されていくことになるのです。文中にはマキャベリやグーテンベルク、ドンキホーテなども登場し、まさに時代が中世から近世へ移り変わる様が、小気味よく感じられます。

「技師」は、築城術を学んだ技師が、故郷の都市防衛のために大工事をするという話です。なによりも、築城家という特殊な職業を扱っているのが面白いです。「エッセ・エス」と同様に、この作品もヨーロッパの時代の転換を示しており、大砲の発達によって築城技術に大転換が訪れていたことを背景にしています。フィレンツエェやミラノのような大都市国家に比べ描かれることの少ない弱小都市国家の人々が、大国フランスへの恐怖を感じつつも戦う様は、新しい視点を提供してくれると思います。

池上俊一「動物裁判」講談社(1990)

 

 <目次>

プロローグ
 
第一部 動物裁判とは何か
1 被告席の動物たち
2 処刑される家畜たち
3 破門される昆虫と小動物
4 なぜ動物を裁くのか
 
第二部 動物裁判の風景―ヨーロッパ中世の自然と文化
1 自然の征服
2 異教とキリスト教の葛藤
3 自然に対する感受性の変容
4 自然の観念とイメージ
5 合理主義の中世
6 日本に動物裁判はありえたか
 
エピローグ
 



13世紀から17,18世紀にかけて、ヨーロッパでは動物裁判という奇妙な慣行が存在していました。そこでは、弁護人や裁判官も登場するような厳密な裁判が行われた上で、子殺しの雌豚が吊るされ、獣姦の相手となった牛や驢馬が火炙りの刑に処されました。また、農作物を荒らしたり、収穫を台無しにしたりするバッタや毛虫、ネズミたちは、農民の嘆願を受けた聖職者によって聖水を振りかけられ、それでもだめなときには破門されたのです。動物や虫を人のように扱うこのような行いは、現代人からみると、呪術的要素に満ちた中世の蒙昧のなせる技のように思われてしまいます。しかし著者は、この行いは、人間と自然との関係の、革命的な転換を母胎として始まったと考え、キリスト教的人間中心主義と自然との闘い、人々の自然観の変質と合理主義が、このような動物裁判を引き起こしたのだと主張しています。
 
第一部では動物裁判と昆虫や小動物への破門の史料を紹介し、それらの裁判の実態がいかに人間のそれと同じように運用されたかが示されています。動物裁判の主役は、当時まだ野生の猪と大差なかった豚で、猛り狂った豚が人間を食い殺してしまう事件は日常茶飯事だったようです。また、動物たちはただ人間に断罪されるだけではなく、例えば召喚に応じないネズミの弁護人は猫の脅威のために仕方がないのだ、と主張しています。また、動物裁判は、蒙昧な民衆による動物への勝手な私刑ではなく、公権力(領主裁判所や司教代理判事)の介在する正式な裁判であり、当時のエリートたちはこの動物裁判を黙認ないし是認していました。では、いったい動物裁判はどのような視点から捉えられるべきものなのか。それは続く第二部で明らかにされます。
 
第二部では、動物裁判を民衆の迷信や、動物を擬人化する考え方とは区別して、人間の自然観の転換にその要因をみています。11,12世紀、中世の自然を代表する森は、大開墾運動の中で切り開かれ、水車や風車の普及は自然を人間の利用するエネルギーとしてみる目を養いました。さらに、自然への崇拝や畏怖は、三位一体の神を唯一の崇拝対象とするキリスト教によって、一部の聖性をキリスト教的なものへと代替させた他は、破壊され、悪魔への変性を押しつけられました。また、このような動きは、自然をただ畏れるだけの対象から、観察し、愛玩し、感情移入する存在へと変えていきました。絵画や彫刻、文学作品の中での自然の描き方をみていくことでそのことは理解できます。

また、中世に目覚ましく発展した合理主義の観念は、人間の服すべき神の自然法と、宇宙の秩序を維持する普遍法を一体化する結果を生み、そのことは、万物の霊長たる人間が、神の法の下にある人間の法をもって、動物(自然)を裁くことを正当化しました。古来、自然の秩序を傷つけた人間が人身御供にされたのと正反対に、人間による秩序を傷つけた動物が人によって裁かれることになったのが、動物裁判でした。18世紀以降に発達した自然科学は、自然を人間とは独立した固有の論理をもって営まれていることを認識させ、そのことは人間中心主義的な自然支配に疑問をもたらし、動物裁判は終わりを告げます。近代世界を生み出した、人間中心主義の自然観の下に、合理主義の流れが交わって誕生したのが動物裁判だったのです。

ウンベルト・エーコ「バウドリーノ」岩波書店(2010)





ウンベルト・エーコという名前はどこかで聞いたことのある人も多いと思います。エーコは北イタリア出身の記号論学者であり、日本では中世の修道院を舞台にした話題作「薔薇の名前」の著者として特に有名です。今回は、エーコの最新作「バウドリーノ」についてご紹介したいと思います。さて、この本は年老いたバウドリーノが、第四回十字軍により陥落したコンスタンティノープルの高官ニケタスに、自分の生涯を語るという形で進められていきます。バウドリーノは北イタリア出身の農民の子でしたが、自らの才能を使って神聖ローマ皇帝フリードリヒ、通称バルバロッサ(赤髭)の養子となります。そこから、彼の奇想天外な大冒険が始まるのです。
 
半世紀に及ぶバウドリーノとその仲間たちの活躍を、実際の歴史的事実と織り交ぜながら、かつその時代の習慣を踏襲しつつ描いている本書は、読んでいて飽きることがありません。例えば、上巻の中心の舞台となる北イタリア諸都市の軍事同盟であるロンバルディア都市同盟と皇帝バルバロッサとの対立は、度重なる包囲攻撃や平野での開戦などによって直接主人公たちに影響を与えます。また、ビザンティン帝国の住民が、西欧人からはギリシア人と呼ばれるのに対し、自らはローマ人であると述べているなど、当時の人々の認識の違いが鮮明になっています。
 
さらに、バウドリーノを面白い作品に仕上げているのは、下巻を中心に展開する未知の東方世界への旅です。ここでは、前半のリアルさとは対照的に、幻想的で神秘に満ちた東方世界の様子が描かれています。しかし、この空間は単なる著者の空想の産物ではありません。中世に流布した偽造された「司祭ヨハネの手紙」の世界をモデルとしているのです。司祭ヨハネとは、中東のイスラム教国のさらに東にあるとされた伝説的なキリスト教国司祭ヨハネの王国の支配者とされていました。この国の住人はいずれも普通の人間とは異なった特徴を持つ「怪物」ばかりですが、それぞれが生き生きと描かれています。つまり、中世の人々の考えていた理想の、あるいは理念上の東方世界に、エーコは命を吹き込んだのです。
 
神聖ローマ皇帝のイタリア政策と、ロンバルディア都市同盟、マルコ・ポーロも探したプレスター・ジョンの王国など、世界史の教科書にも載っているような有名な歴史や事件、伝説を、ここまで膨らませて書いてあるのは驚きです。フィクションではありますが、皇帝とイタリア関係について知りたいと思っている人への楽しい入門書にもなるのではないかと思います。

菊池良正「神聖ローマ帝国」講談社(2003)




<目次>

序章―神聖ローマ帝国とは何か
第一章―西ローマ帝国の復活
第二章―オットー大帝の即位
第三章―カノッサの屈辱
第四章―バルバロッサ‐真の世界帝国を夢見て
第五章―フリードリヒ二世‐「諸侯の利益のための協定」
第六章―大空位時代
第七章―金印勅書
大八章―カール五世と幻のハプスブルク帝国
第九章―神聖ローマ帝国の死亡診断書
終章―埋葬許可証が出されるまでの百五十年間

あとがき
聖ローマ帝国関連略年表
参考文献



「神聖ローマ帝国ってなんだ?」世界史を学ぶ高校生が、中世の歴史地図をみて最初に抱く、そして結局教科書では解明されない謎がこれなのではないかと思います。空間的には現在のドイツを中心として、イタリア北部やオーストリア、チェコ、スイス、ベネルクス三国などの一部を含むこの国家は、果たしてどんな存在なのか。何が「神聖」で、どこが「ローマ」なのか。本書は、古代の系譜を継ぐ中世初期からの歴史を概観していくことで、この素朴な疑問に答えてくれます。

今回は、本書から「神聖ローマ帝国」の名前の由来に関わる意外な事実について紹介していきたいと思います。高校世界史の教科書ではよく、962年、オットー大帝(912-973)が神聖ローマ帝国の皇帝に即位、と書かれていますが、厳密にいうと、これは正しくありません。戴冠したとき、オットーはただ「皇帝アウグストゥス」を名乗っただけでした。そこには神聖の字も、ローマの影もありません。当時、ドイツと北イタリアを支配していたオットー大帝とその子孫は、カール大帝の復活させた帝国と帝位を継承したという理念を持っていましたが、大帝所縁のフランスを手中にしていない状態では「ローマ帝国」と名乗るのがはばかられたのでしょか。「ローマ帝国」という文字が公式文書に現れるのは、オットー大帝の属すザクセン朝が断絶したのちに開かれた、ザリエリ朝のコンラート2世(990年? - 1039)の時代をまたなければなりませんでした。ブルグンド王国を継承した彼は、カール大帝の帝国には及ばないものの、ローマ帝国を名乗れるくらいの版図は獲得したのです。

さて、時代は進み1155年、シュタウフェン朝のフリードリヒ1世が皇帝に即位します。彼の時代、カノッサの屈辱以降続いていた教皇と皇帝のパワーバランスが変化します。イタリア遠征を繰り返し、ドイツ国内でも諸侯を抑えつけることに成功した彼は、「帝国は教皇の封土」とまでうそぶくローマ教皇ハドリアヌス4世の高慢な態度を許しませんでした。フリードリヒ1世は、新約聖書のルカ伝にある「二振りの剣」を、神から発した教剣と政剣のふたつであるという解釈を用い、前者を持つ教皇と後者を委ねられた皇帝との地位の同等性を主張しました。帝国は、教皇により聖別される必要はない、「帝国は神に直接、聖別されているのである!」(本書p96)。このことを示すべく、1157年のイタリア遠征のための諸侯への召集状には「神聖帝国」という国号が記されました。しかし、世界帝国を目指したフリードリヒ1世の時代には、この「神聖帝国」と「ローマ帝国」が「神聖ローマ帝国」となるにはいたりませんでした。

皮肉なことに「神聖ローマ帝国」という文字は、その名前を求めて奮闘した皇帝たちを輩出した、中世前期ドイツの華であるザクセン、ザリエリ、シュタウフェンの三王朝期には登場せず、大空位時代に初めて使われ始めます。大空位時代の間は戴冠を受ける皇帝が存在せず、多くの者が分裂する諸侯に擁立され、対立王として名をあげていたために、正当な王位なるものが継承されていませんでした。対立王の一人ホラント伯は王の権威もなにもあったものではない現実に不満を覚え、帝国の理念だけでもつくりあげようとしました。「外見が壮大になればやがて実態もついてくるものだ!」(同p131)。そして、彼は1254年の公式文書に史上初めての「神聖ローマ帝国」という国号を用いたのです。対立王もこれを使用するようになり、定着化したこの国号はkなき帝国の正式名称となっていったのです。

本書は、「神聖ローマ帝国」の名前の由来以外にも、理念と現実の間で奮闘した歴代皇帝たちを概観し、さらに帝国が30年戦争後のウェストファリア条約によって事実上解体し、最終的にナポレオンに敗北して名実ともに消滅するまでを簡潔に描いています。中世ドイツの全体像を、軽くではありますが、理解するのに最適な本だと思います。


「刑吏の社会史―中世ヨーロッパの庶民生活」 阿部謹也




「また、フーズムでも貧民のために多額の金を遺して死んだ善良な刑吏の棺をかつぐ者がいなかったために、市参事会では評判のよくない六人の獄丁や捕吏たちにかつがせた。しかるにこの六人が揃って足が悪いうえに身長がはなはだしく違い、しかも身体が弱った老人であったために、まことに《恥さらし》な光景になったという。…その観衆の前を歯を食いしばり、屈辱に耐えていた死者の妻子が歩いたのである。」(本文よりp19-21)

<目次>

はじめに

第一章  中世社会の光と影
1 「影」の世界の真実
2 賤視された刑吏
3 皮剥ぎの差別と特権
4 神聖な儀式から賤民の仕事へ

第二章  刑罰なき時代
1 供犠・呪術としての処刑
2 処刑の諸相
絞首 車裂き 斬首 水没 生き埋め 沼沢に沈める 投石 火刑 突き落し 四つ裂き 釘の樽 内蔵びらき 波間に流すこと

第三章  都市の成立
1 平和観念の変化
2 ブラウンシュヴァイクの刑吏
3 医師としての刑吏
4 ツンフトから排除された賤民
5 キリスト教による供犠の否定

第四章  中・近世都市の処刑と刑吏
1 糾問手続きと拷問の発展
2 刑吏の祝宴と処刑のオルギー
3 近世の刑吏

むすび
あとがき
参考文献


中世から近世にかけて、人々に忌み嫌われると同時に、人々によって必要とされ続けた職業があります。刑吏です。刑吏は裁判で処刑の判決を言い渡された被告を、斬首・絞首・火刑など様々な手段を以て処刑することを生業としていました。中世において、人々は戦う人、祈る人、働く人の三種に分けられているという考えがありましたが、刑吏やその他賤民とされた人々はこの三身分の枠外に置かれていました。この三身分の人々は「名誉ある」人々であり、賤民は「名誉をもたない」人々とされていたのです。この時代の「名誉」とはほぼ「権利」と同義に読むことができます。すなわち、彼ら賤民は社会の中で「自己の権利を守ることができな」かっただけでなく、「常にネガティブな生活を余儀なくされて」(p13)いたのです。

接触したり、会話を交わしたり、ともに食事をするだけで彼らと同じ賤民に落ちると考えられていたため、市民たちの刑吏に対する差別は非常に激しいものでした。どんなに善良な刑吏でも、死んだときに棺を運びに来てくれる者はなく、刑吏の妻の出産にかけつける女房仲間は一人もいませんでした。自力救済が原則の中世社会においては、ギルドやツンフトなどの同業者組合が、組合員同士の互助や協力体制をつくりだしていましたが、ツンフトイの結成が認められない刑吏は、助け合う仲間もなしに、市民たちの差別に耐えていかなければなりませんでした。

刑吏が差別される理由、それはローマ法の導入によってもたらされた古典時代の刑吏への差別意識の復活や、単純に人を殺すことに対して起こる人間の自然な嫌悪感が原因なのではありませんでした。むしろ12、13世紀における中世人の持つ処刑概念の変化が刑吏への蔑視をもたらしたのです。古代ゲルマンの時代にあって、処刑とは犯罪行為によって社会や共同体が受けた傷を、住民全員で修復するための儀式でした。それは古代の神々を沈めるための供犠であり、社会の傷を癒す呪術だったのです。そのため、処刑の執行人は聖職者であり、処刑自体は神聖な儀式だったのです。

この処刑概念を変えたのはキリスト教の普及と平和意識の変容、そして都市社会の発展でした。キリスト教によって供犠や呪術としての性格を否定された処刑に対して、人々は畏怖の念を抱くことはもはやなく、残った感情は怖れでした。さらに、単純な殺人などは支族間の復讐による解決を原則とし、国家や統治者による介入を認めなかった古代ゲルマン社会は、キリスト教の受容と共に私闘なども禁じた、世界の一元的な平和を目指すようになっていきます。そして人口の密集した都市という新たな生活環境は、氏族集団を解体し、個人による犯罪が被害者個人だけではなく多くの市民へも影響を与える環境を提供し、平和維持のために処刑には修復の意味ではなく予防のための威嚇の意味が強くなっていきました。さらに、拷問の導入や国家権力による公開処刑は、刑吏を公権の名のもとに残虐な行為をする自分たちとは異色の者であるという意識を人々に抱かせたのです。

本書はこのような平和・処刑概念の変遷や都市法の整備による刑吏の賤民化がどのようにしてなされたかについてや、中世の刑吏の日常生活、蔑視・差別の実態、皮剥ぎや街路掃除などの副業、刑吏たちの共同体などについて興味深い事実がぎっしり詰まっています。中世のマルジノーに関心のある方だけでなく、中世全般に興味がある方にお勧めの一冊です。


「カペー朝 フランス王朝史1」 佐藤賢一

 


<目次>
 
はじめに フランス王とは誰か
最初のルイは誰か/ヴェルダン条約とメルセン条約/フランク王か、フランス王か
 
1 ユーグ・カペー(987年~996年)
強者ロベール/ロベール家の台頭とカロリング家の凋落/再び王位へ/無政府状態/伯の独立/冴えない始祖
 
2 名ばかりの王たち
ロベール1世(996年~1031年)/身から出た錆/アンリ1世(1031年~1060年)/フィリップ1世(1060年~1108年)/淫婦
 
3 肥満王ルイ6世(1108年~1137年)
不遇の王子/肥満王/足場を固める/家臣団の統制/左右の重臣/ターニング・ポイント
 
4 若王ルイ7世(1137年~1180年)
血気さかん/十字軍/離縁/揺さぶり/好機到来
 
5 尊厳王フィリップ2世(1180年~1223年)
月桂樹のイマージュ/初仕事/宿命の戦い/大荒れの私生活/征服王フィリップ/内政の充実/ブーヴィーヌの戦い/大国フランスの誕生
 
6 獅子王ルイ8世(1223年~1226年)
恵まれた貴公子/欲求不満の日々/獅子奮迅
 
7 聖王ルイ9世(1226年~1270年)
列聖された王/偉大なる母/美しき妻/聖王の十字軍/正義と平和の使者として/ひたすらに神のため
 
8 勇敢王ヒリップ3世(1270年~1285年)
名君の息子/寵臣政治/内政の進化/アラゴン遠征
 
9 美男王フィリップ4世(1285年~1314年)
謎めく美貌/法律顧問/唯我独尊/ローマ教皇との戦い/神殿騎士団事件/晩年に射した影
 
10 あいつぐ不幸
ルイ10世(1314年~1316年)/フィリップ5世(1316年~1322年)/シャルル4世(1322年~1328年)
 
おわりに 天下統一の物語
王たちのデータ/カペー朝の功績/カペー朝の限界
 
主要参考文献
 

 
本書は西洋歴史小説家の佐藤賢一さんが書いたノンフィクション作品です。小説家が書いているだけあって、一気に読破させてしまう面白さを備えています。特に王個人の置かれた状況を、単なる政治的、事件的な視点から見るだけではなく、王が在位した当時の年齢や王妃との関係、幼少期の生活条件などから、王の資質や統治理念を丁寧に描き出していて、時間的にも地理的にも距離を感じずにはいられないフランスの王たちに親近感が湧いてきます。

もちろん、王の性格や人柄など想像を逞しくして書かれている部分もあり、必ずしも学問的とは言い難いのかもしれませんが、それでも根拠のあるテキストの中から、そのように歴史を再構成している文章は、読んでいてとても心が躍ります。過去に起こった出来事を全て知ることができない以上、このような営みもまた歴史のひとつの表現の仕方なのかもしれません。
 
表題のとおり、本書は中世フランス王国で300年以上の長きにわたって王位を継承してきたカペー朝を描いた物語です。フランスの王朝というと革命期のブルボン朝などのほうが有名かもしれませんが、このブルボン朝や、その前のヴァロワ朝、スペインのブルボン朝は全てカペー朝の血筋を引いています。そういった意味で、カペー朝はフランス王国に影響を与え続けていたといえます。カペー朝がどのようにして、王位簒奪者の誹りを免れ、統治を正当化していったのかなどは、カペー朝全体を、見渡す長いスパンを一冊の新書にコンパクトにまとめた本書だからこそ、わかりやすく説明できるのではないかと思います。
 
初代ユーグ・カペーの時代。自身の狭小な王領地でさえも満足に統治できなかった「名ばかりの王」から、戦争や政略結婚を経てフランス王国の大部分を掌握し、さらに神聖ローマ皇帝や教皇に並ぶほどの権威を備え、ヨーロッパ一の強国の主となるに至るカペー朝の奇跡。特に世界史の教科書にも登場する、カペー朝のトップ・スリー、フィリップ2世、ルイ9世、フィリップ4世についても彼らの事績だけでなく、彼らの親の代に築かれてきたものがあったからこそ、彼らの活躍があったのだという歴史の連続性を感じさせられます。カロリング家の断絶に続くカペー朝の開始、そして終焉までの概要を理解したいと思っている方にはおすすめの本です。

「ニーベルンゲンの歌」




古い世の物語には数々のいみじきことが伝えられている。
ほまれ高い英雄や、容易ならぬ戦いの苦労が、
よろこび、饗宴、哀泣、悲嘆、また猛き勇士らのあらそいなど、
あまたのいみじき物語を、これからおん身たちに伝えよう。


相良守峯訳『ニーベルンゲンの歌』前編、第一歌章、一

ニーベルンゲンの歌は13世紀初頭ドイツで生まれた一大英雄叙事詩です。中高ドイツ語で書かれたこの物語は著者がはっきりしておらず、そもそもこれが一人の著者によったものなのか、それとも複数の著者によって作られたかすらはっきりしていませんが、記述の正確さなどから著者は南ドイツからオーストリアにかけての地域に住んでいたと考えられています。全39歌章の韻文で、1節4行の詩節で構成されており、節数は写本によって変動がありますが2379節というのが一般的です。

この物語のモデルとなったのは、北欧神話や6、7世紀発祥の英雄歌謡、さらに中世初期の歴史などでした。ニーベルンゲンの歌は、ゲルマン由来の伝承にキリスト教のエッセンスを加えて再構成したものであり、司教や聖堂などのキリスト教的な事物が登場する一方で、平和よりも武勇や名誉を重んじるゲルマン気風を残した作品でもあります。当時の物語の多くが、聖書にまつわるものや聖人譚で説教・布教の役割を持っていたのに対し、ニーベルンゲンの歌は英雄精神や武力賛美、悲劇的な最後などをが異彩を放っています。そのため、成立から800年以上を経たいまでもその文学作品としての価値を認められており18世紀のある歴史家に「ドイツのイリアス」とまで賞賛されています。

ニーベルンゲンの歌は慣習的に2部構成とされており、前編が英雄ジーフリト(現代ドイツ語読みはジークフリート)の誕生から、クリエムヒルトとの結婚を経て彼の殺害までを描いており、後編では夫を殺されたクリエムヒルトがの復讐劇が中心となります。物語の舞台は、アイスランドからハンガリーまでに及びますが、中心となるのはクリエムヒルトの母国ブルゴント(現ドイツ中西部)と、フン族の国(現ハンガリー)です。前編では、ニーデルラント(現オランダ)の王子ジーフリトが、クリエムヒルトと結婚するためにクリエムヒルトの兄であり国王のグンテルに協力して戦争に参加したり、王の花嫁獲得の手助けをする活躍が見られます。こうしてクリエムヒルトと結婚したジークフリトでしたが、クリエムヒルトと王の新妻プリュンヒルトとのいさかいをきっかけに、王の重臣ハゲネによって殺されてしまいます。

後編では、復讐を決意したクリエムヒルトがエッツェル(モデルはフン族の王アッティラ)と再婚し、ハンガリーのエッツェルの宮廷に故郷ブルゴントの親類を呼び寄せます。彼女はそこで王弟や家臣にブルゴント勢を皆殺しにするように命令しますが、ブルゴントの勇士の強さは尋常ではなく、熾烈な戦闘の中で多くのフン族兵士やエッツェルの家臣たちが命を失います。最終的はグンテルもハゲネもクリエムヒルトによって殺されますが、彼女自身もエッツェルの家臣の一人によって首を刎ねられ、かくして悲劇の物語は幕を閉じるのです。

古典としての雰囲気を出すために古い言葉を使っており、多少の読みにくさはありますが、展開が速く、登場人物たちの心理も台詞を通してわかりやすいので、叙事詩だと力んで読まなくても楽しめる物語でした。また、単純な勧善懲悪というわけでもなく、英雄ジーフリトを殺した一見悪者のハゲネにも考えや立場がありましたし、クリエムヒルトがただの悲劇のヒロインというのも間違いで、彼女の執念が物語の悲劇を招いたとも言えるのです。また、最後の戦いで王への忠義とブルゴンド人への友情との間で苦しむエッツェルの家臣リュエデゲールなどは、現代の目から見ても葛藤の様子がよく伝わってきて共感できました。文学から当時の歴史について想いを馳せることができて、しかも面白い物語なので、とてもおすすめです。

「ヨーロッパとは何か」 増田四郎



ヨーロッパとは何か?単純でありながら難しいこの問に、ヨーロッパ世界の形成から答えを導き出そうとしたのがこの本です。主に扱っている年代は、ローマ帝国の末期から8、9世紀までのフランク王国時代までですが、ローマの帝政初期や12世紀ヨーロッパなどについても適宜触れています。

最初の二章では、現代の日本人やヨーロッパ人がヨーロッパの歴史を学ぶ意味について、またヨーロッパ人の歴史観の変遷についても記されています。続く章では、地理的に分けられるヨーロッパの特性について、さらに古代世界と中世世界という概念へと話は流れていきます。

“ギリシャやローマなどの古典古代の自由な市民社会、文化や芸術は高度なレベルに達している反面、中世では宗教的束縛や領主制の不自由がまかり通っている。我々の時代は古代の文化を復活させ、新しい人間中心の世界を創設するのだ。”これが16世紀に生きたルネサンスの人文主義者の主張でした。彼らにとって、中世とは克服すべき、野蛮な時代、まさに暗黒時代だったのです。

なぜ古典古代より時代の進んだ中世の方が未発達な世界になってしまったのか?あるいは、そもそも中世が古代に劣るというのは真実であろうか?これらの命題についての歴史家たちの論争を概観した上で、筆者は近代資本主義社会を築く土壌が中世に出来たものであるという見方を示し、中世にキリスト教、ゲルマン民族、ローマ帝国のエッセンスを取り入れて作り上げられた社会制度や心性などが、後のヨーロッパへと引き継がれていったのだとしています。

1967年に書かれた本であるため、東西冷戦やEECなど記述の内容には古いものもありますが、今読んでも充分に満足できる内容になっていると思います。特に、中世の中でも注目されにくい初期中世にスポットを当てている本として、ヨーロッパ世界の形成、フランク王国について知りたい方には特におすすめの本です。

        
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