忍者ブログ

チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


中世末期のフランス軍-勅令隊と国民弓兵隊

1453年、シャルル7世勝利王の御世、英仏戦争は100年に渡る戦争を終結します。それ以前に、シャルル7世は王国軍の改革に当たりました。終戦前の1435年、フランスはそれまで対立していたブルゴーニュ公を和平を結びました。アラスの和として知られるこの講和とそれにつづくトゥール休戦協定は、無職に陥った傭兵たちの野党化を引き起こしました。

盗賊に成り果てた傭兵たちの問題を解決するために、シャルルはロレーヌ公の要請を受けロレーヌへ遠征します。シャルルはこの地で無用になった傭兵を切り捨てると同時に、その中の一部を常備軍として再編成しました。勅令隊の誕生、1445年のことでした。この勅令隊は100個の槍組「ランス」で成る部隊15個で編成されました。装甲騎兵、剣持ち、騎士習い、小姓、弓兵2名の合計6人でひとつの槍組が構成されていたので、勅令隊全体では9000人がいたことになります。

また、1448年の勅令によってもうひとつ部隊-国民弓兵隊が編成されました。これは国民軍のようなもので、各教区につき1人の平民が徴用されたもので、規模は8000人未満であったようです。彼らには一定の訓練と検査が義務付けられましたが、平時は自宅にとどまっていました。軍務についている間は人頭税を免除され、なおかつ給金も出されました。装備は自前のものを使いましたが、あまりにも装備が貧弱な場合は教区教会から支給されることもありました。

いまや、フランス軍の華であった封建騎士部隊は予備役として登録されるようになり、軍の主力は国王に仕える常備軍と傭兵に変わりつつありました。百年戦争時代、フランス軍は封建騎士部隊、勅令隊や国民弓兵隊、都市の民兵、外国人を含む傭兵隊など様々な身分、出自の混合体になっており、ここに終わり行く「騎士の時代」の一端が窺えるような気がします。
PR

伯と公-中世の爵位

ご存知の通り明治時代以降使われていた日本の爵位は公候伯子男の5つです。この爵位はそれ以前に男爵やら伯爵がいなかったことからもわかるようにヨーロッパから輸入したものです。ではそのヨーロッパ、中世の爵位はどのようなものだったのかというと基本的には伯爵と公爵しかありませんでした。もちろん言語も違えば歴史も違うヨーロッパ各国で個別に使われた爵位もありますが、基本的な爵位はこの2つでした。さて、それぞれの出自を簡単に見ていきましょう。

中世の時代の爵位は階級制度のようなものではなく、あくまで持っている領地に付随している名前に過ぎない(譲渡・継承が可能な資産のようなもの)ので「爵」を付けないようにしたほうが良いという話もあるようですが、どうせ訳語だ!ということで付けて書きました。そのほうが書きやすかったからなんですが…。



伯爵というのはフランク時代、そもそも貴族身分の生成期であった時代に生まれました。伯爵は王による地方支配を代わって行う代官であり、ローマ時代より受け継がれてきた都市管区(周辺地域を含む主要都市キウィタスを中心にした行政区)を統治しました。伯爵には都市管区内での司法・行政・軍事における権力が与えられました。また、イングランドにおいても各地方の太守として伯が生まれました。

ちなみに辺境伯はフランク時代、王国の周辺部に置かれ、外的に対する防衛の責務から、通常の伯爵より強力な権力を持っていたようです。辺境伯は公と伯の中間の権力を持つものとして、訳語には侯爵などが当てられることもあります。

大公とも表記される公爵ですが、これらの伯爵たちへの上級命令権を持っており、複数の管区を支配し中心的な都市で伯爵を兼任しました。公爵にはゲルマン的部族的な特徴を持ち、フランク王国の拡大政策によって取り込まれた旧ゲルマン部族を束ねる存在として強力な力を持っていました。

こうして最初は行政区の長官として生まれた伯爵や公爵はしだいにその役人的な性格を失っていきます。名目上は王の代官であっても、実質的には管区内に勢力を持つ豪族が伯爵となったことからもわかるように、伯爵や公爵は隙あらば爵位の世襲や管区の自立を狙っていました。そして、その隙は実際に訪れます。ヴェルダン、メルセンの両条約によってフランク王国が解体し分裂した王権が弱まると、各地の伯爵、公爵、そして各地の中小領主までもが王権からの自立を強め、勝手な分離融合を繰り返します。

その結果、フランス王国初代国王のユーグ・カペーの支配は実質、パリを中心としたイル・ド・フランスに限られることとなってしまいました。ドイツでも情況は同じで東フランクの王となったコンラート1世は、ザクセン公の分離独立を防ぐために止むを得ずザクセン公ハインリヒ1世に王位を譲るという遺言を残したのです。中世の諸侯たちは、王と並ぶ権力を持ち合わせていたのです。

諸侯による割拠はイングランドやフランスなど比較的王権が安定した国では中世末に終わりを迎えますが、ドイツの場合は王朝の度重なる移動の結果、その後の分裂を抑えることが出来ず、統一が果たされるのは近世に入ってからのことでした。



ちなみに侯爵ですが公の変わりに候を訳語として使うこともあります(堀越孝一さんの著作など)。また子爵ですが、これはヨーロッパの副伯に相当するもので、副伯は伯の補佐として置かれた役人でした。また男爵は、以上のような官職を持たない小領主一般のことを指すようです。

修道士カドフェル…いまだに読破せず。何をやっているのだか。「ジハード」というライトノベル(?)と「黒十字の騎士」を読んでいます。黒十字の方はやたらグロいです。ちょっと「大聖堂」に似ているような感じもしました。

08.1.1加筆修正

首都なき王国-ドイツ

中世を通して神聖ローマ帝国の中核たるドイツ王国は首都を持ちませんでした。この伝統はフランク王国から引き継いだ、広すぎる領地を確実に支配するための知恵でした。交通・通信手段が未発達であった中世の時代、諸侯が割拠するドイツ全体をひとつところから座して統治することはとうてい不可能でした。

そのため、歴代のドイツ王は王国に点在していた王宮を持つ都市を巡回しては、行政・裁判などに当たっていたのです。王宮を持つ都市には御領地管理役人がする大小の王領地が付属していました、様々な特許や寄進と引き換えに各地の教会に宮廷が逗留する際の給養を義務付け、司教座都市や修道院に滞在しながら政務を執ることもありました。国王の支配は、こうした各地の拠点を繋ぐ網の形で行われたのです。

宮廷は数百人ほどの集団を構成して王とともに各地を巡回しました。宮廷メンバーには厩役や内膳役など宮廷の警備や教養などの宮内職を担う王直属の家臣、さらに実際に行政に携わる文官としての聖職者たちがいました。さらに諸侯も王の相談役として宮廷に参加し、王妃も侍女を引き連れて共に移動しました。



今回は未分化モノ(?)です。中世の王都。フランスはパリ、イングランドはロンドン、ドイツは…となってしまうのはこうゆう理由だったんですね。国家・民族意識が生まれるのが遅かったドイツらしいといえば、ドイツらしいです。

両シチリア王国小史は両シチリア王国「誕生」小史になりました。こうやって各国の誕生を並べてみるのもいいなあ、と…要するには国政史はやっぱりあんまり好きじゃなかったんです。いや、面白いんですが、なんとも。このシリーズ(本当にやるのなら)ノルマン・コンクエスト→イングランドやらフランク王国→ドイツ・フランス(もうやってますね)やら第一回十字軍→十字軍国家やら美味しい所が扱えるんです。

Ⅳ-シチリア王ルッジェーロ2世

シチリア伯ルッジェーロ1世が没した後、息子のルッジェーロ2世が伯位を継承します。アプーリア公ロベルト・ギスカルドからその息子ルッジェーロ・ボルサへの継承は諸侯の反乱と公国の衰退をもたらしましたが、ルッジェーロ2世は父の残した統治機構の力で円滑に領地を踏襲することに成功しました。

父の代からあったアプーリア公への援助と引き換えの領地割譲は続いており、ルッジェーロ・ボルサが没しその子グリエルモが公位を次ぐとその影響力はますます強くなり、ついにひとつの契約を結ぶに至ります。グリエルモに後継者ができなかった場合、アプーリア公位はルッジェーロ2世に継承されるというものです。目論見どおり、数年後にグリエルモは死にルッジェーロ2世はいまや南イタリアのほとんど全ての領地とシチリア島全土を支配する大領主となりました。

この勢いは止まらず、当時対立教皇の存在により軍事援助を欲していた教皇アナクレトゥス2世を援助する換わりに、ルッジェーロ2世は教皇からの王位授与を求めました。(当時は教皇に許された人のみが王を名乗ることが許されていました)この計画は実現し、1130年、ルッジェーロ2世は初代シチリア王として戴冠されます。ノルマン人最初の拠点がアヴェルサに出来てから100年後のことです。両シチリア王国の誕生です。

ルッジェーロ2世は戴冠後に起こった諸侯の大反乱を10年かけて鎮圧した後、拡大政策も行いアフリアのチュニジアやビザンティン帝国領だったギリシャの島嶼もいくつか獲得します。彼の代に、南イタリアは統一され、公や候などの上級爵位は王家が独占し、都市は軍その事力を削られていきました。されに反乱に加わった諸侯の多くは処刑あるいは追放されたため、揺れ動いていた王国はやっと平安を手にしました。

▼ノルマン人と関わりの深い都市
aaa.jpg



ヨーロッパの人名は国によって表記が違います。今回の両シチリア王国小史では舞台が南イタリアということで基本的に名前はイタリア語表記にしてあります。しかし、この国の歴史は多文化の流れの真ん中になり、なおかつノルマン人の故郷ノルマンディーはフランスの一部なのでロベルト・ギスカルドやルッジェーロ1世の父親タンクレードはフランス語表記にしました。以下にいままで出てきた人名の対応表を記しておきます。

イタリア フランス ラテン
ロベルト ロベール ロベルトゥス
ルッジェーロ ロジェ ロゲリウス
タンクレーディ タンクレード タンクレドゥス
グリエルモ ギョーム ウィレルムス


Ⅲ-シチリア伯ルッジェーロ1世

今回はロベルト・ギスカルドの公国から視点をずらし、タンクレードの末っ子ルッジェーロがシチリア伯となるまでの経過を追っていきます。ルッジェーロは他の兄たちを追って南イタリアへ向かい、六つ上の兄でアプーリア公だったロベルト・ギスカルドに仕えます。1058年、紆余曲折の後に彼はカラブリアの村ミレートを獲得します。その後、ルッジェーロの視線は西にある目と鼻の先の島、シチリアへと注がれることになります。

当時シチリア島はイスラム教徒の支配下にありましたが、一枚岩ではなく3人の将軍がそれぞれの領土を治めている状態にありました。それまで均衡を保っていたシチリアのパワーバランスが崩れ、将軍の1人がルッジェーロに支援を求めて来たとき、ルッジェーロのシチリア島征服が始まりました。彼は兄の本土での戦争に協力しつつ島での領土を拡大していき、1072年には最大の主要都市パレルモを陥落させます。このとき、ルッジェーロは兄ロベルト・ギスカルドからアプーリア公を宗主としたシチリア伯の称号を受けます。シチリア伯ルッジェーロ2世の誕生です。その後も征服活動は続き、1091年までに彼の伯領はシチリア全土を支配下に組み込むことに成功しました。

アプーリア公ロベルト・ギスカルドが遠征中に死亡すると、跡を継いだ息子がいたにも関わらず、ルッジェーロはほとんど独立した君主のように振舞いました。アプーリアの新しい主となったロベルトの息子ルッジェーロ・ボルサは、異母兄との対立や諸侯の相次ぐ反乱の中で勢力を急速に衰えさせており、ロベルトの建設した公国は小領主や都市の単位にまで分裂してしまいました。彼は叔父であり臣下(であるはず)のシチリア伯ルッジェーロに、公位の踏襲を認め、援軍を送ってもらうためにカラブリアの大部分を割譲しなければなりませんでした。こうして、ルッジェーロはシチリアとカラブリアを支配する南イタリア最強の国家となったのです。

中世の都市人口

中世の都市は基本的に壁で囲われていましたので、できるだけ壁の建造コストを抑えるために市域は狭いのが常でした。そんな状況でしたので、一部の大都市を除き中世都市の人口はほとんどが数千人規模の小さい者でした。普通、人口1万人以上の都市を大都市、2000~1万人のを中都市、500~2000人のを小都市と分類します。注意しなければならないのは現在知られている中世都市の人口は、都市の徴税・軍役のための各種台帳や食料消費量などから逆算した、おおよその数であるということです。では各地域の都市人口を見ていくことにしましょう。



イタリアには13世紀、人口2万を越す都市が20以上あり、一大都市圏を形成していました。研究者や国によってかなり数字にばらつきがあるようなので、ここで示す数字は大体の人口です。中世後期の海上交易の中心、ジェノヴァとヴェネツィアがそれぞれ10万程度でイタリア、というより全ヨーロッパの中でも指折りの大都市でした。ミラノとフィレンツェもこれとほぼ同数でした。学芸で栄えたパドヴァとボローニャはそれぞれ3万人と4万人。ルッカ、ピサ、シエナなどの都市では人口はおよそ2万人でした。南イタリアに目を向けるとナポリは5万、両シチリア王国の中心地だったシチリアのパレルモは人口4万を越えていました。永遠の都ローマはどうだったかといいますと、過去の栄光は影を潜め少なく見積もると人口は2万に満たなかったようです。

ドイツにおける最大都市はケルンでその人口は最盛期には4万人にも及びました。14世紀のドイツにはフランクフルト、ミュンヘン(共に一万)などの大きな都市もありましたが、これらのように人口一万人以上を抱える都市は、15ほどしかありませんでした。人口が2千~1万の都市は約25で、あとの100を越える都市は、人口が千人から2千人の小都市でした。そしてもっと小さい都市も存在したのです。フランスやイギリスでもその状況にほとんど変わりはありませんでした。

北フランスには200ほどの都市がありましたが、そのほとんどは中小都市で大都市は10を数えるに過ぎませんでした。例えば14世紀アミアンの人口は3万、ランスは1万4千ほどでした。フランス王国の首都にして最大の都市であるパリの人口は、20万を超えるという説もありますが、周囲の都市との人口があまりにも違いすぎることからもわかるように、この数字は誤りで人口は8万ほどであったとする考えもあるようです。

北フランスやドイツに隣接するフランドル地方も、北イタリアと同じく一大都市圏を成していました。ヘントには5万人、ブルッヘには4万人、ブリュッセルは3万でアントウェルペンには2万人が住んでいました。ロンドンの人口は4万人ほどでしたが、他のイングランドの都市はほとんどが中小都市だったようです。



このように中世都市の人口は、かなり地域差の激しいものだったことがわかります。また、数えるほどの有名な大都市は中世都市のほんの一部に過ぎず、中世都市文化を形成したのはこれらの大都市の影響もさることながら、大多数の中小都市のネットワークにあるのかもしれません。…って何かの本にあったような(爆)。どちらにしろ、都市に住んでいたのは人口の1割(後期にはもっと増えることもあったようですが)に過ぎず、いまだ人口の大多数は農村に居住していたという事実も忘れてはいけません。

Ⅱ-アプーリア公ロベルト・ギルカルド

戦士を欲していた南イタリアに、当時土地不足によって相続を得られず、故郷にあぶれていたノルマン人たちが引き寄せられます。この需要と供給を結びつけたのは、イタリアを経由して旅していたノルマン人巡礼者たちでした。南イタリアの諸侯はこぞってノルマン人傭兵を集めます。その中でナポリ公と契約したライヌルフスという男は戦功によりアヴェルサの町を与えられ、ここに南イタリアにおける初のノルマン人伯領が生まれました。アヴェルサ伯は分散していた同郷者を集めて、自分の下で戦うように勧め、この町をノルマン人の拠点とします。

この町に引き寄せられたノルマン人の中に、タンクレードの息子たちがいました。タンクレードはノルマンディーの小領主でしたが、彼らの息子たちは小さな領地を分割相続する気にならなかったのか、次々と南イタリアへと旅立っていきました。息子たちは南イタリアでそれぞれ活躍しましたが、特筆すべきは二番目の妻との間の長子ロベルトでした。ロベルト・ギスカルド(強者)と呼ばれるこの男は、始めはアヴェルサ伯の元から独立しアプーリア公となっていた兄に付き従っていましたが、後に公位を踏襲します。

アヴェルサ伯・アプーリア公両ノルマン系勢力は周辺の小国を吸収しながら拡大し、南イタリアを分割する二大勢力となっていきます。1080年までにロベルト・ギスカルドは各地の反乱を鎮圧し、教皇と組んだアヴェルサ伯をも倒し、南イタリア全土を支配するに至りました。その後、叙任権闘争により皇帝ハインリヒ4世と争っており、軍事的な援助を求めていた教皇グレゴリウス7世と和解を果たし、一部地域を除いた領地に対し教皇の封臣となりました。こうしてロベルトは圧倒的な勝利と、教皇の承認によって統治をゆるぎないものにしたのです。



BOOKOFFって偉大ですね、いろいろ買ってしまいました。これで冬篭りの用意はバッチリです!
両シチリア王国の歴史は狭い地域でのことですが、なんとなく西欧の中世史の縮小版のような感じがします。各地に跋扈していた小領主による支配から、強化された王権の集権的支配への移行。その中で起こるのは対外戦争や内乱…と。そんな視点で見てみるのも面白いかもしれないなぁ、と考える師走の夜。ああ、忙しい忙しい…

 


Ⅰ-南イタリア情勢

南イタリアに覇を唱えた両シチリア王国。この国の誕生について簡単にまとめました。南イタリアの当時の情勢と、建国に深く関わった3人のノルマン人を中心とした4部構成となっております。(07.12.29 加筆修正)



両シチリア王国は11世紀、ノルマン人冒険者のひとりタンクレードの息子、ルッジェーロが南イタリアの一部とシチリア島を平定して築き上げた強力な伯領が起源です。今回は、ノルマン人が進入してくる以前の南イタリアの情勢について紹介したいと思います。

ローマ帝国滅亡後の5世紀末、東ゴート族がイタリア半島を支配した後、東の帝国はユスティニアヌス帝のもと国土の再征服(6世紀初期)に乗り出しました。しかし、イタリアを回復したのも束の間、今度はランゴバルド族の侵攻に遭い、東帝国は長靴型の半島のわずか爪先と踵の部分、すなわちアプーリア地方とカラブリア地方にのみ影響力を持ち、半島中部カンパニア地方に点在するナポリ、アマルフィ、ガエータの都市とそれらに付随する若干の周辺領域に対しては名目上の宗主権を持つのみになってしまいました。その他の南イタリアは、568年にランゴバルド王国が成立したのと同時期に興ったスポレート、ベネヴェントのランゴバルド系両候国が占めていましたが、その後スポレート候国が王国に吸収され、ベネヴェント候国が分裂した結果、ベネヴェント、カープア、サレルノの町を中心にした三つの候国いずれかの支配下に組み込まれていきます。

また、シチリア島はイスラム教の発生以来西進を続けていたムスリムの将軍たちが支配していました。このように、当時の南イタリアにはラテン・カトリック文化、ギリシャ(ビザンツ)・オーソドックス(東方教会)文化、アラブ・イスラム文化という地中海を取り巻く三つの大きな文化圏が互いにせめぎあっていました。そして、諸侯国や帝国領、各都市はこの地の覇権争いに勝てるような強力な軍隊を必要としていたのです。南イタリアのこのような情勢が傭兵としてのノルマン人を呼び寄せたのです。

▼南イタリアの主要都市と地方名

2ed1f8edjpeg



いきなりですが、通史です。両シチリア王国の歴史を軽く紹介していく予定です。他の国の通史も軽くやってみたいな、と思いつつもドイツとかフランス軽くなんて書けないなぁ、とも思っていたり…。できれば君主で時代を区切って書いてみたいと思います。

農業革命 その2

【人口増加】
前回紹介した農業の発達により耕作地からの収穫量が倍増、それに伴ってヨーロッパ全体の人口は大幅に増加しました。現在のフランスの人口はおよそ6000万人ですが、西ヨーロッパ全体のこの数字に達したのは1200年頃のことでした。1000年当時には4000万人ほどであったことを考えると200年で1.5倍の伸びです。それからも人口増は止まらず1300年には8000万人にも膨れ上がります。これにより多くの都市建設が活発になり、都市民が増えたことは事実ですが、やはり一番影響を受けたのは人口の9割を占める農民たちでした。(詳しくは中世の人口についてを参照)彼らは土地不足に苦しむようになり、それが中世農業革命の第二波ともいえる大開墾運動を引き起こしました。

【大開墾時代】
フランスでは12世紀頃ピークを迎えた開墾運動は、大きく分けて三つの方法で行われました。すでに村落共同体を形成していた農民たちが、自分たちの村の周囲を少しずつ切り開いて開墾していったもの。シトー会などを中心とする修道会組織が、修練の場を求めて森に入り、そこに築かれた修道院を中心として開拓が行われたもの。または、領主などの有力者が指導力を発揮して、農民に森の中に新たな拠点を作らせて、そこから村を広げていくというものです。開墾運動は西ヨーロッパの内側だけに留まらず、エルベ川の彼方、東ドイツへの植民やイベリア半島への植民も活発に行われました。

【商用作物の生産】
それまでどうにか食っていくので精一杯だった農民に、それまでの数倍の収穫が得られるようになり、その結果しだいに主要作物(小麦やライ麦)以外の生産が増えてきました。葡萄の栽培は特に活発で、一時期にはなんとイングランドにまでも広まりました。ボルドーやブルゴーニュのワインなどは銘柄としての価値を持ち、経済活動と共に発展した交通網によって各地に輸出されました。また、藍色の原料となる大青などの染料作物や、麻などの繊維作物は大消費地である都市に送られ市民の生活を支えました。

【影響】
これらの農業革命によって、それまで外的を内側に縮こまっていた印象のあったヨーロッパ世界は、有り余るエネルギーを外に放出させていくようになります。中東での十字軍、イベリア半島でのレコンキスタなどはその例です。また、農業生産の向上は農民を支配する聖俗領主の経済的な成長を進め、彼らはその財を使って堅固な城を築き、豪華な大聖堂の建設を進めました。高所得者である貴族層の消費は経済の活性化を促し、農民に求められるものもしだいに賦役から貢租、金銭へと変化していきます。11世~13世紀の間に行われたこの農業革命が、中世ヨーロッパの最盛期の根幹を成していたと言えるのではないでしょうか。




中世農業革命 その1

中世ヨーロッパの時代三分割の真ん中、中世盛期に農業は飛躍的な発達を迎えます。この発達は技術の発展や人口増加、大規模な開墾運動などが互いに影響しあって、農業革命期とも呼べる時代を作り出しました。さて、これらの要因となった事物をひとつづつ見ていくことにしましょう。



【水車と風車】

以前の記事でも紹介したように水車は中世より遥か昔に生まれていましたが、本格的に使われだしたのは11世紀以降のことでした。風車の普及は少し遅れて12世紀末頃からのことです。これら自然を利用した機械は、それまで人力や畜力に頼っていた農業以外の労働を代わって行うことにより、農民の生活を一変させました。

【鉄製農機具】

ピレネーやライン川流域で10世以来拡大してきた鉄の生産が、村にも鉄器の普及をもたらします。鍛冶屋は、農民に鉄製の斧や鋸、犂を提供しました。その中でも特に重要なのは重量有輪犂です。この犂は名前の通り、それまで使われていた軽量の犂に比べて重く、またふたつの車輪を備えていました。鉄製の犂刃を持つこの重量有輪犂の登場で、土を掘り返し通気や水はけをよくするための畝を作ることができるようになりました。また、12世紀になるとそれまで犂を引いていた牛に代わって馬が使われるようになり、生産性が向上しました。

【三年輪作の普及と三圃制の始まり】

カロリング時代にすでに始まっていた三年輪作システムがさらに普及し、一部ではこれを共同体全体で行う三圃制が始まります。三圃制では各々の農民の耕作地をまずひとまとめにして、それを春畑、冬畑、休閑地の区分にわけて、村全体での共同作業で農作業を行うようにしたものです。農民は各区分に自分の取り分を持っていました。三圃制が始まった理由としては、まず共同作業が行えるほどに集村化が進んだこと、方向転換の難しい重量有輪犂を有効に使うため、そして家畜数頭と高価な重量有輪犂をひとつの家族では所有できなかったことなどが挙げられます。効率的な団体耕作の結果、それまで2倍ほどしかなかった収穫率は3~4倍、最高の例としては10倍にも増えました。

【集村化】

三圃制普及と並列して進むのが集村化です。それまで数戸の家が緩やかに集まっているだけだった散村から、より共同耕作がし易いように農民の住居が一箇所に密集していきます。彼らは教会やそれに付随する墓地、あるいは領主の城砦などを中心にして集まり、共有の森林や放牧地を設けるようになりました。一箇所にまとまったことで防衛上の利益を得ようと村の周囲には防護壁や柵が設けられることもあり、また中心に城がある集落でなくとも、村でほとんどの場合唯一の石造建築であった教会がしばしばその役目を引き受けました。こうして血縁的関係の強かった大家族的な散村は、地縁的に結び付けられた大規模な村落共同体へと変化していったのです。

               ▼干草を刈る農民(13c仏) ▼犂で畝をつくる農民(15c英)
                                  
                   6d0d5c26jpeg     69ce4456jpeg


久々の更新です。その2では人口増加と大開墾運動について紹介したいと思います。