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チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】

"chiritsumo” 管理人チリが、中世ヨーロッパにまつわる情報を紹介していきます。

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クロスボウ-中世の石弓

クロスボウはヨーロッパでは10世紀頃から使われ始めた武器で、引金を持つ台座に弓を水平に取り付けた武器です。長さ0.6~1mの大きさで、日本では石弓ないし弩と呼ばれます。クロスボウは一度弓を引いて固定することができたので、安定した状態で矢を放つことができ、そのためにたいした訓練なしに扱えました。射程としてはロングボウと大差ありませんでしたが、戦術としてはロングボウのように斜めに射ることで弾幕を張ることはせず、直線の弾道を利用した狙い撃ちが主だったようです。

クロスボウはかなりの破壊力があり、また兵士の養成も楽な優れた武器でしたが、ひとつ大きな欠点がありました。装填時間の長さです。長弓のように弓を引く筋力を求めない代わり、クロスボウは様々な器具を使うことによって弓を引きました。台座の先端の鐙は脚を引っ掛けて弓を引くためのもので、梃子の原理や歯車を利用したクロスボウもありました。しかし、どの方法をもってしても装填時間が飛躍的に速くなることは無く、大体1分間に1本くらいの矢しか撃てませんでした。

クロスボウ部隊は百年戦争前半のハイライト、クレシーの戦いで長弓兵部隊に惨敗します。フランス軍はイングランドの長弓兵に対抗する形でジェノヴァのクロスボウ兵を雇っていたのですが、この戦いではクロスボウとロングボウの射撃速度の違いが戦いの流れを左右したのです。しかし、訓練要らずのクロスボウ兵はこの後もヨーロッパで活躍し続け、例えば15世紀中ごろのスイス傭兵、チューリヒ市の分遣隊には20%のクロスボウ兵が含まれていました。クロスボウはパイクと並んで中世後期から近世初期にかけて使用されましたが、小銃の普及、改良とともに衰退していきました。
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ショートボウ、ロングボウ-中世の弓

ショートボウ、すなわち短弓は弓の長さが1mを越えない大きさの弓です。射程は100mほどです。古代から弓は身分の低いものが扱うものでした。理由は、最前線で敵とぶつかり合うわけではないので防具がほとんどいらなかったからです。中世の戦場にいた弓兵たちの鎧は身軽さを追求したために、革製や布製のものがほとんどでした。

ロングボウは百年戦争中、イングランド軍が使った武器として有名ですが、もともとはウェールズで使用されていたものでした。イングランドは13~14世紀にかけて、ウェールズとの戦争から少しずつ長弓戦術を吸収していき、さらにスコットランドとの戦いにおいて多くの長弓兵の動員を行い、この戦術を完全なものへと変化させていったのです。そしてイングランド長弓兵の大舞台、百年戦争の中ではこの完成した戦術をもって、フランス軍騎士軍を徹底的に打ち破ったのです。

長弓の特徴は1.6~2メートルにも及ぶ弓の長さと、この長さによって生じる200m(最長は300~350mとも)にも及ぶ射程と、ただの大きな弓であるという単純さから連射が可能なことでした。熟練者であれば1分間に10本以上もの矢を放つことができたようです。この射程と連射によって矢の弾幕を張り、敵を自陣に近づける前に消耗させるというのが長弓による基本戦術です。弱点としては、防御に適した戦術であるため攻撃にはあまり向かない点。弓を引くのにかなりの力が必要で、そのためには日々の訓練が欠かせないので、兵を養成するのに時間がかかる点です。

スピア、パイク、ランス-中世の槍

槍という武器は古代から近世初期にかけてもっとも普及した武器でした。その理由としては製作・修理が簡単なこと、剣を扱うような訓練がいらないこと、そして安価だということが挙げられます。この槍という武器は、他の様々な形の武器と同じく時代や地域によってその特徴を変化させていきました。中世ヨーロッパで主に使われたのはスピア、パイク、そしてランスです。



スピアはこの中で最も一般的なもので、長さ2~3m、重さ1.5~3.5㎏ほどのものを指しますが、この値は細かく定めてあるわけではなく、後述するパイクより短い槍は基本的に全てスピアです。スピアの穂先は用途によって様々なものがあります。深く返しがついているものは刺さった槍を抜けにくくするために、木の葉型の穂先は傷を広げるために、反対に穂先が細く鋭いものはプレート・アーマーなどの頑丈な鎧も貫けるようにするために用いられました。

パイクは15世紀以降、中世後期から使われ始めました。この槍の特徴はとにかく長いことです。5~7m、重いものでは5㎏にも及ぶこの長大な槍は、集団行動をとる密集陣形の中で始めて効果を発揮しました。防御用のパイク兵の陣形では一人目が膝をついて、二人目が腰を落としながら槍を構え、さらに三人目と四人目はそれぞれ腰、肩の高さで槍を構え、戦場に槍衾を作り出しました。スイス傭兵やランツクネヒト(南ドイツ傭兵)の密集陣形の戦術は、すでに時代遅れと成っていた騎兵による突撃戦術の終わりを告げます。パイクは近世初期の戦争では主役を務めていましたが、小銃の改良や、銃剣の登場によって活躍の機会が減っていき、17世紀頃から徐々に見られなくなっていきました。

ランスは中世ヨーロッパを代表する槍です。騎槍と訳されるこの槍は、重装騎兵が突撃を行う際に用いられました。4~5mもの長さを持つこの槍は、刀剣とは比べ物にならないほど重かったため、不安定な馬上で扱うのには相当の訓練が必要でした。敵に向かって突撃している騎馬から突き下ろされるランスの威力は、その貫通力もさることながら敵兵にかなりの威圧感を与えたことでしょう。ランスは混戦に入るとその長さゆえに邪魔になったので、騎兵は普通、剣やメイスなどの武器も併せて装備していました。

生産の場としての森

中世の人々にとって、森は現代とは比べ物にならないほど畏怖された存在でしたが、同時に生活に密着したものでもありました。中世の文明は森の資源を活用し、また森を切り開いて成長していったのです。森では、主に建築材料として、あるいは燃料として、多くの樹木切り倒されました。ドングリを代表とする木の実は家畜の餌となり、栗などは農民たちの食事にも添えられました。高貴な人々にとっては、森は狩猟の場であり、鹿や猪などの獣は食卓に加えられることもありましたし、またビーバーやリスなどは毛皮をとるために森で捕まえられました。

中世都市の建築というと石造のものを想像しがちですが、実際には多くがが木造でした。そのため、木材供給源としての森はかなりの重要度を持っており、都市の周辺の森はまっさきに伐採されました。また、寒いヨーロッパで暮らすための暖房として、あるいは食事のために煮炊きを行うのにも大量の薪が使われました。

さらに、裕福な商人の石造家屋や鍛冶工房、大聖堂も森無くしては存在し得なかったといってもいいでしょう。どんな石造建築にも、木材の足場は不可欠でしたし、煉瓦職人もガラス職人も鍛冶屋も、そろって燃料の薪を必要としていたからです。また、彼らが使ったもう一つの燃料、木炭を供給するために炭焼き人は森に入って作業所を構えたのでした。

貴族たちにとって、森での狩猟はスポーツとしてのみ意味を持っていたのではありません。野生動物は珍しい食材として喜ばれましたが、これはつまり野生動物の食卓に占める割合はほんの僅かだったということです。「戦う人」として育てられてきた彼らに、狩猟による乗馬などの訓練の場を与えたのも森だったのです。他にも森は、砂糖の貴重だった時代に代用の甘味料として蜂蜜を、照明として使われる蝋燭を提供していたのです。
 

略奪と殺戮と-盗賊騎士

私たちが考える中世の騎士のイメージはどんなものでしょうか。神を敬うキリストの戦士、文学に見られるような悪さをする竜を退治する英雄、そして主君のために命がけで仕える忠義の者。様々な騎士像がありますが、中世の騎士の中にはこのようなイメージとはかけ離れた姿の騎士が大勢いました。今回のテーマは盗賊騎士です。盗賊と騎士、イメージ上では相反するような存在の二者ですが、中世ヨーロッパにはこの二つの性格を備えた盗賊騎士が一般人の平穏な暮らしを脅かしていたのです。

「戦う人」として中世の身分秩序の中に位置づけられた騎士たちには戦いの権利が認められていました。この戦いとは、フェーデを行う権利、つまり自分が相手によって名誉を傷つけられたときや、実際に不利益を被った場合などに、武力によって自力救済を行う権利を持っていたということです。このフェーデの目的は相手の殲滅にあるのではなく、あくまで相手の譲歩と補償を引き出すための手段でした。

しかし、このような曖昧な理由による武力行使の正当化は、中央権力不在のヨーロッパ世界に中世を野蛮と呼ばしめる騒乱を生じさせました。それが本当に自力救済のためのフェーデなのか、それとも略奪目当ての強盗なのかわからないのです。「本来、暴力の鎮圧を任務とするものたちが狼のように荒れ狂い、鳥のように飛びまわった」とある年代記製作者が嘆くように、盗賊騎士は私利私欲のために、その戦闘能力を発揮しました。騎士たちが国の軍事の中心を成していた当時において、彼らの暴走を止めるのは簡単な事ではありませんでした。

それがフェーデであろうとなかろうと、深刻な被害を第一に被ったのは一般の民衆でした。彼らは、ほとんど無防備な状態で騎士たちの襲撃を受けたのです。家は焼かれ、食料や財貨は奪われ、多くの村人が殺されました。商人たちも彼らから逃れられませんでした。都市にいるときに襲撃を受けることは少なかったにせよ、各地を移動する行商人たちは強盗騎士たちの格好の餌食でした。悪名高い盗賊騎士の城を避けるために、フランスの古ローマ街道がすたれ、修道院を通る別のルートが生まれることさえあったのです。

教会や皇帝による平和令の乱発は、そうした法令がほとんど意味を成さなかったことの証明となっています。実際、強盗騎士を取り締まるには武力を持ってするしかなかったようです。13世紀、皇帝ルドルフは百人以上の盗賊を処刑し、彼らの城を破壊しました。都市は基本的に防衛に力を注ぎましたが、驚くべきことに策略を用いて盗賊騎士の城を陥落させた都市もあったようです。

隘路、坂道、バービカン-城までの道

城の防衛-守備兵数と装備品目録」で紹介したように、中世の城を守っていたのは、本当にわずかな数の兵士たちでした。守備兵の少なさを補い、防衛の利点を最大級に引き出すために、城は数々の防衛施設を持っています。主塔や強固な門、堀などがその代表ですが、そこに至る前の城に通じる道さえも立派な防衛機能を果たしていました。

例えば、城に通じる小道は大変狭く馬が一騎ようやく通れる幅しかないものがあり、攻め手が一気に総軍を城に到達させることを不可能にしていました。このような小道は、その狭さゆえに少ない手勢で多くの兵士と渡りあうことを可能にした、至極単純な防衛施設でした。このような小道を三周もしないと、城門にたどり着けない城さえありました。

そして可能であれば、城に至る道は時計周りになるように設計されました。こうすることで、攻め手は盾を構えていない右側面を城の射手に曝すことになるのです。このように城までの道の狭さを利用するところもあれば、逆に山城などでは周囲の樹木を全て伐採し、敵に隠れる場所を与えないようにしたものもありました。山城であれば、自然と城への道は勾配を持ち、攻め手は必死になって坂道を上りきって、やっと城に到達することができたのです。

また、要塞化された道として防衛区「バービカン:英」が設けられることもありました。これは、壁や塔で周囲を強化した通路で、この道を通らなければ門に到達できないように設計されました。

▼バービカン(通路と中庭以外の場所は堀になっています)

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守備兵はたったの6人-城の防衛

中世ヨーロッパを舞台にした映画では、ド派手城攻めのシーンがハイライトになることが多いですね。「キングダム・オブ・ヘブン」しかり「ロビン・フッド」しかり。しかし、城はいつも戦争していたわけではないわけで、「普通の」とき、城はどのように守られていたのでしょうか。

中世ヨーロッパでは大きいものから、小さいものまで、無数の城が築かれました。ドイツ語圏だけでも、その数は1万に達したと言われています。これだけの数の城に守備兵を揃えることは簡単なことではないですね。当時はまだ、王権も弱く、大規模な傭兵隊もなければ、近代的な常備軍もありません。戦うことは、貴族の特権となり、古代ギリシア・ローマの市民兵伝統も、ゲルマン人の自由民は皆戦士という伝統も忘れられています。実際には、農民や都市住民が騎士の数倍の歩兵を形成しましたが、少なくとも全ての人が戦うという土壌はできていなかったわけですね。

実際、城にはほんのわずかな駐屯兵しかいませんでした。百年戦争中、フランスのモンタイユー城には32名しか守備兵がいませんでした。戦時なのに、ですよ。また、守備兵の少なさは城が持つ装備品の目録にも現れています。12世紀フランスのパシー・シュル・ユール城には69のクロスボウ、46の兜が備えられていましたが、リトル・イソエ・レヴュック城のクロスボウはたった2つでした。

驚くべきことにもっと小さな守備隊を抱えていた城もあります。例えば中世後期のドイツではバンベルク司教のライフェンベルク城の守備兵は6名でしたし、ニュルンベルクに帰属していたライヘネック城も平時は5名、戦時でも20名の兵士を抱えているに過ぎなかったのです。

このような寡兵でどうやって城を守ったのでしょうか。さて、ここで攻める側に立って守備兵について考えます。まず、攻め手には敵兵の姿が城壁越しに見えるだけで、その総数を知ることはできません。また、城には幾重にも張り巡らされた防衛機構が存在し、兵士の行く手を遮ります。城攻めをする兵士たちは、自分たちより高台にいる城兵に矢を放つか、あるいは柵を越え、堀を埋め立て、さらには梯子をやっとのことでよじ登って初めて守備兵に攻撃を加えることができたのです。

幼年期をシャルル5世の宮廷で過ごし、後に『シャルル5世伝』を著したクリスティーヌ・ドゥ・ピザンは、200名の守備隊がいる拠点を包囲するのに必要な人員及び資材についてもまとめています。曰く、3000人を越える大工や工兵、クロスボウと弓をそれぞれ300、投石機及び射石砲、そして大量のボルト(クロスボウ用の太く短い矢)、矢、石弾、火薬が必要、と。

一般的に、城を直接攻撃で落とすためには、守備兵の3~10倍の兵士が必要だったと言われています。中世の城の守備兵の貧弱さは、逆説的に城の守りの役割を教えてくれています。


傭兵騎士-金のために戦う人

1000年の長きに渡って展開される中世。この時代を代表する騎士は、その姿を変えながら中世の様々な様相を私たちに見せてくれます。今回は騎士の様々な形を追って行きたいと思います。

騎士は「戦う人」として中世を通じエリート意識を持ち続けましたが、この「戦い」は何も封建的軍役だけではありませんでした。騎士は、それが自らの家臣を抱える貴族であれ、主君の家で給養を受ける勤め人であれ、封建制のピラミッドに組み込まれ、戦時には封主によって召集されましたが、封建制がただの契約である以上、彼らは好き好んで主君とともに戦場に立ったわけではありませんでした。40日の軍役を過ぎても騎士を働かせようとすれば、何らかの対価が必要になったのです。さらに、封建的軍役は金銭の支払いに代わっていく傾向にありました。

騎士たちはというと、彼らは金儲けのためにその戦闘能力を大いに売り出し始めます。軍役免除金によって懐に余裕の出来た主君たちは、扱いにくい封建騎士軍よりも、金さえ払えば動く傭兵騎士に期待を寄せます。こうして、「金のために戦う人」傭兵騎士が生まれます。中世盛期の貨幣流通の増大や諸都市の繁栄による、ヨーロッパ世界の経済成長や、中世後期における農村地帯の荒廃=地主層である騎士階級の経済的没落はこの流れを加速させていきます。

僅かな所領しか持たない下級騎士だけでなく、家臣を引き連れた小君主たちも傭兵騎士となって戦場を駆け巡りました。イタリアの諸都市、あるいは領主や皇帝との間で起こった戦争にはイタリアの小君主たちが傭兵隊長として活躍しています。貴族が傭兵隊長を勤めるという流れは、中世末期から近世初期にかけて登場するランツクネヒトたちにも継承され、連隊長や中隊長の位は貴族が独占していました。

北フランスの市民兵

成立後間もないフランス王権は、弱体化した王権の前で跋扈する諸侯勢力を抑え、国王の支配を拡大しようと努めました。11世紀頃から始まった都市の自由・自治などを求めるコミューン運動への政策はその一環です。すなわち、王領内のコミューン運動は抑圧し、王権の及ばない諸侯の支配圏内のコミューン運動は援助したのです。地方の都市と結ぶことで、諸侯の領地に楔を打ち込んだわけです。カペー朝5代目のルイ6世、続くルイ7世はすでに出来上がっていたコミューンに特許状を与えることで、コミューンを公的制度へと変化させていきました。

1180年に即位したカペー朝7代目のフィリップ2世尊厳王は、さらに都市との関係を強めていきます。フィリップ2世は既存のコミューンの権利を再確認するとともに、新たに多くの都市にコミューン特許状を与える政策を採りました。王権が都市に自由・自治の諸権利を与え、さらに都市を王の保護下に置くことと引き換えに引き出したのは、兵士供出の義務でした。

つまり、フィリップ2世は都市を封建制のピラミッドに組み込んでいったわけです。都市に与えられた特許状には軍役に求められる兵数や荷馬車の数、期間や場所が明記されていました。兵士の供出は金銭の支払いに置き換えられていく傾向にありましたが、それでも多くの市民が民兵としてフランス王の下に動員されました。この結果、フィリップ2世は総勢7695人もの市民兵、138台の荷馬車、さらに兵役免除金として11,693パリ・リーブルを手に入れたのです。

少数の裕福な市民からなる騎兵の他、大多数の市民兵は歩兵として戦いました。市民歩兵部隊は、騎士部隊による突撃を支援するための盾として効果を発揮し、さらにコルトレイクの戦いに代表されるように対騎兵戦で勝利を収めることもありました。わずかな訓練をしただけの市民兵は、傭兵などの職業戦士に比べ技能は低かったものの、農村地域から召集される民兵たちよりは装備面で充実していました。中世盛期における都市の発達は市民兵の武装を強化していきましたが、大部分の兵士は布製の胴着を着ており、金属製の鎧を装備することはありませんでした。

ダンジュー?ダキテーヌ?-フランスの貴族

フランス貴族は普通、個人名と支配する領地から名前がつけられています。例えばシャルル・ドゥ・ブロワだとブロワ伯シャルルを意味するわけです。(ドゥは「~の」意)そこであるとき私は疑問に思ったのです。ルイ9世の弟シャルル・ダンジューや、リチャード獅子心王の母親アリエノール・ダキテーヌなどの名前はどこから来たのか…。これはフランスの人名を日本語で捉えていたために起こったのですが、つまりシャルル・ダンジューはシャルル・ドゥ・アンジューの短縮(というか音を重ねる)だったわけです。アリエノール・ドゥ・アキテーヌはドゥ・アキテーヌを通して詠むとダキテーヌになるというわけです。ドゥの後に母音が付く領地は他にもこうなるようで、例えば「オルレアンの」というのはドルレアンとなります。



無茶苦茶簡単な事なのですが、紗瑠々は半年ほど前にやっと理解しました。実はここまで初歩的なことはあまり本にも書かれていない?と思い、恥を曝しつつ書いてみました。あれ?みなさん、もうとっくに知ってましたか?

年末だから、なのかはわかりませんがやたらと書籍を購入。長い間欲しかった「ランツクネヒトの文化史」や「西ゴート王国の遺産」を手に入れてホクホクな気分です。イタリアとドイツの傭兵の本が揃ったので、スイス傭兵の本が欲しくなってきてしまいました。困ったものです。後々、参照して新しい記事も書いてゆこうと思います。なんだか雑文の方が長いですね…。ついでに書きますとプロフィールの写真を変えました。シャルル5世賢明王です。

え~遅れましたが新年のご挨拶を、ってもう夜なんですが。

あけましておめでとうございます。
今年も紗瑠々の資料室をよろしくお願いいたします。
新しい一年が幸多き年となりますように。